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  • 仏陀の智について・如実智と如量智のあり方

    元来、煩悩障と、所知障、つまり、無明の習気をも断じてある仏陀は、離戯論のみをご覧になられてあります(戯論寂滅)。要は、空性の現量了解となります。この際における世俗のありようは、もちろん縁起的あり方としてそのままなのではあるが、ただ、仏陀の如実智としては、空性の面のみが智に映えられてあるのであります。まさに虚空のような空性のみしか仏智には映えておられないのであり、この時、世俗のありよう、世俗の顕現の一切は仏陀においては完全に消滅しています。この悟りによる仏智の空性の認識状態における世俗の顕現の一切の消滅してあるありようを、私たちが勘違いして、世俗も空性であるから悟りだとするのが、煩悩即菩提とか、生死即涅槃という誤った概念となってしまっているのであります。そもそもこの言葉自体が間違っているのであります。誤解を...仏陀の智について・如実智と如量智のあり方

  • 「極楽浄土と自然の浄土について」3・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・10

    「極楽浄土と自然の浄土について」3では、更に「極楽浄土」と、「自然の浄土」あるいは「一如宝海」との歴然とした差異とは何であるのかということでありますが、突き詰めれば、端的には、「業論」の枠内にあるのか、「業論」の枠外となるのか、ということになります。浄土真宗教学と通仏教との徹底的な乖離は、最終的にこの点に集約されるところになるのであります。そのため、浄土真宗における往生先は、悟りへと向けて、業を浄らかに調えていくための他宗派において重視される見仏と授記のための往生・引導とは全く異なった先としての「自然の浄土」あるいは「一如宝海」となるのであります。そして、成仏へと至る理論ももちろん全く異なることになります。その全ての根拠は、当然に阿弥陀如来の「本願(力の真実功徳)」となります。その本願に与るための信心決定...「極楽浄土と自然の浄土について」3・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・10

  • 「極楽浄土と自然の浄土について」2・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・9

    「極楽浄土と自然の浄土について」2お念仏で極楽浄土へ行くものだと思っていました、との方が、門徒さんでも意外に多い。それは教学的には間違いになりますが、ただ、方便的に用いる場合はあるでしょう。昨日にも述べたように、極楽浄土は、自力聖道門の行者の往生先の一つであり、往生の目的は、阿弥陀如来との見仏、授記になります。しかし、通仏教的には如来の報身仏との見仏、授記は、菩薩の第八地以上の境地が必要となります。第八地に至っていない行者でも極楽浄土に往生できるかどうかは、ある程度の功徳行を前提として、阿弥陀如来の本願力を頂くことにより可となる可能性はあると言えますが、それより極楽浄土でも阿弥陀如来の化身化土上に赴ける可能性の方が極めて高く、そちらで仏道修行を進めることになり、更に境地を上げることで、やがて報身仏との見仏...「極楽浄土と自然の浄土について」2・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・9

  • 浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2

    浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2浄土真宗本願寺派勧学・司教有志の会より声明1が出されました。https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明(一)このたび御正忌報恩講におけるご門主さまの「ご消息」のなかで、「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下「新しい領解文」)が発布された。従来の「領解文」(大谷派では「改悔文」)は、真宗法義の模範的領解を言語化したものとして、本願寺派、大谷派において、ながらく門信徒の指針となってきたが、時代の変化に応じて平易な言葉を用いた現代版の領解文として、新しく発布されたものである。しかし、これについては...浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2

  • 「極楽浄土と自然の浄土について」・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・8

    「極楽浄土と自然の浄土について」「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのため...「極楽浄土と自然の浄土について」・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・8

  • 親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・7

    親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のは...親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・7

  • 西田幾多郎哲学・鈴木大拙哲学・アドヴァイタ哲学についての警鐘

    久しぶりにアドヴァイタのお話を出しましたが、コメントで「日本の思想家、哲学家の方が、西洋哲学は二元論だ(本当にそうかはおいておいて)と批判しがちで、そのながれで一如という世界観を用いることがあるように思います」と頂いていた同様の流れの系統が、鈴木大拙、西田幾多郎などの哲学・思想への礼賛傾向でもあります。両者の著書の本は、それぞれ結構それなりに読み込みましたが、正直、つまるところはアドヴァイタの親類みたいなもので、結局は神秘主義的であり、一見、フレーズ等から凄いと思わせるのではありますが、もちろん私見ではあるものの、ためになるような中身はやはり全く無いのですよね・・仏教的には、禅=鈴木大拙というのは、かなりマズイのですが、西洋ではその方が受け入れられているのが現実なのですよね・・・・西田哲学、京都学派は戦争...西田幾多郎哲学・鈴木大拙哲学・アドヴァイタ哲学についての警鐘

  • アドヴァイタ・非二元・不二一元について

    新しい領解文を考える会のグループへと、はじめて投稿させて頂きましたが、新しい領解文を草稿されたとする方の思想は、空や縁起と仏教用語を間違って解釈しているのは明らかながら、少し著書の内容を先日に見せて頂きましたが、アドヴァイタ系の思想の影響が相当にあるのが顕著に見られました。非二元、不二一元、ヒンドゥー起源ですが、仏教では極端論として当然に釈尊により否定されています。中観として後に龍樹大師以降、議論がより深まって参ります。では、いまだに仏教でもこのように非二元や不二一元が、なぜ盛んに出てくるのか?あるがまま、それでいい、そのまんま、まるっと、流しなさい、考えなさんな、、など、相当に根強いわけなのですが、要は、信者を思考停止に陥らせるための思想として、狙いはもちろん思考停止させることによるお金の吸い上げです。...アドヴァイタ・非二元・不二一元について

  • 浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

    浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ新しい「領解文」を考える会・岡本法治先生より一人ひとりの領解を改めて問うための阿弥陀さんからの有り難いご縁として、西本願寺の皆さんはもとより、これまで浄土真宗にご縁のなかった方、他宗の方、一般の方にもこの問題を広く考えて頂けるように問題提起して、議論に参加して頂ければ有り難いとのことでした。非公開グループですが、参加は自由になりますので、お気軽にご参加下さいませ。新しい「領解文」を考える会https://www.facebook.com/groups/754460852681528/?ref=share・・雑行雑修、雑善を敢行奨励するのが、なぜダメなのかがわかりませんと頂いた、、確かに新しい領解文にあるような普通...浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

  • 大智度論の指月喩の親鸞聖人の解釈について

    親鸞聖人は、大智度論の指月喩から、「名号」(指)は、阿弥陀如来の(本願)真実功徳(法性法身)(月の光)に照らされてあることを私たちに分からせてくれる阿弥陀如来の(本願)真実功徳(月)のはたらき(救い)そのものである(方便法身)とするのである。また、阿弥陀如来の(本願)真実功徳(法性法身)(月の光)に照らされてあってこそ分かることができる「名号」(指)(方便法身のはたらき)の有り難さを強調するのである。そして、大智度論において法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性が明示されてあるところとも繋がるのである。大智度論巻第九の「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種...大智度論の指月喩の親鸞聖人の解釈について

  • 親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・6

    釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんな...親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・6

  • 親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・5

    釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところ...親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・5

  • 親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・4

    では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?「風」を衆生と解釈する場合もあるが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であり、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々は、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけ...親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・4

  • 親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・3

    もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、...親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・3

  • 親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・2

    親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるな...親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・2

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