日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
大学の劇団の4年上の方にSさんと言う人がいる。この方は、早稲田学院高校でも演劇部だったそうで、ある日クラブの部長のKさんという方が稽古を見に来られるというので、大騒ぎになったそうだ。部長の先生が、クラブの稽古を見るに来ることなんてなかったからだ。そして、終わった後、K先生はこう言われたそうだ。「君たち、プロの役者に芝居を見てもらった方がいいなあ、例えば民芸のような・・・」生徒は、この人は、なにを言っているのだと思った。だが、先生は、文学部のドイツ哲学の樫山欣四郎先生で、娘はすぐに樫山文枝として、女優デビューし、NHKの朝のドラマの主演にもなったので、皆驚いたそうだ。樫山文枝は、吉永小百合と共通したところがあり、まったく不潔さがなく、それゆえに多くの年配の女性にも好まれることだ。それが、女優として良いかどう...『ローズのジレンマ』
1969年3月の日活作品、「無頼シリーズ」の最終作とのこと。朝、早く目が覚めたので、CSをつけると「無頼」をやっているので、見る。最後の40分くらいを見たが、舞台は川崎市で、例によってヤクザが対立していて、裏切りに次ぐ裏切りのようだ。最悪の親分は、須賀不二夫であり、これが良いが、次が睦五郎で、これも悪役顔が良い。善人は、江原真二郎で、妻は野添ひとみで、この時期五社のしばりはなくなっていたのだろうと思う。野添の妹は松原千枝子で、当然にも渡哲也の恋人役。右往左往する裏切り者が近藤宏で、彼が殺される前を横切っていく路面電車は、川崎の市電であり、動いている映像は非常に貴重だと思う。停車しているのでは、大島渚の『愛と希望の町』でも出てくるが。最後、須賀と睦が彼らの店のキャバレーに来ると、フラワーズが演奏していて、睦...『無頼・殺せ』
1962年、東映東京の作品で、これが後に「やくざ映画」の始まりとなる。だが、東映京都撮影所の「ヤクザ映画」とかなり感じは違う。東京撮影所のリアリズムになっているのだ。監督は、東映京都の沢島忠で、いろいろと上手くいかないことがあり、東京に呼ばれてこの作品を撮ることになったのだそうだ。当時、鶴田浩二も東映に来たがヒット作はなく、佐久間良子もお嬢さん役ばかりでくさっていたようだが、ここでは二人の男と関係してしまう酌婦を体当たりで演じていて非常に良い。そして、一番素晴らしいのが吉良常の月形龍之介で、この人の背広姿は珍しいが、本当のヤクザという感じがする。宮川の高倉健も、以後の男らしい男ではなく、腰の軽いアンちゃんを演じていてこれも良い。鶴田浩二と月形龍之介の重厚さと高倉と佐久間良子の若さの対比もみごと。この話は、...『人生劇場・飛車角』
松竹映画の指導者だった城戸四郎は、映画のシナリオが大好きで、自分でも書いた他、他人が書いたものを読むのも好きだった。だから、松竹で作られる映画のシナリオは、必ず彼が読んだ。その時、ライターに言う言葉が、「このシナリオはなんだ、一言で言え」だった。「一言で言えない話など、大したことない、メロドラマか、アクションか、復讐劇か、時代劇か」等一言で言え、なのだそうだ。毎日、ユーチューブを見ていると、コマーシャルが入ってくる。仕方ないとは思うが、中には非常に長いのがあり、3分以上のものもある。一言で、宣伝できないのなど、無意味だと思ってしまう。せいぜい30秒が限界だと私は思うのだ。「一言で言え」
一昨日は、市役所の先輩のMさんも来てくれたので、セミナーの後、野毛で飲む。前は、通町にあった「あんから」のオーナーが野毛に「ガーリック・パワー」を8月末に出したのだ。場所がなかなか分からなかったが、意外にも桜木町に近い2階のお店だった。オーナーは、生まれは岡崎市だが、横浜国大教育学部に入学し、中退後、関内の様々な店を経験した方で、料理の腕はすごいのある。そこで、Mさんといろいろな話になったが、やはり彼も大反対が、JR東海のリニア新幹線で、「いったい誰が乗るのでしょうかね、いまどきわれわれ老人は、急いで行くことはない。ビジネスマンも、名古屋、大阪へは新幹線で十分で、さらにリモートワークが企業からすれば、もっと増えるのだろうから」2年後の「大阪万博」の問題点については、よくご存じなかったので、詳細を教えてあげ...Mさんも、リニア新幹線には反対
私が横浜市役所にいるときから、いろんな企画の会議に出て、多く議論の対象になるのが、この「横浜らしさ」なるくだらないものだった。昨日、情報文化センターでのセミナーに出て、久しぶりに日本大通りに行った。そこの旧商工奨励館は、戦前に横浜商工会議所のビルとして作られたものだった。隣の三井倉庫の物産ビルも名建築で、さらに次の大蔵省の横浜財務事務所も由緒を感じる建物である。反対側には、横浜地方裁判所もあり、ここは極めて日本の中でも第一の西欧的な雰囲気の通りになっていると思う。事実、この物産ビル等をバックに、小津安二郎監督は、1933年に田中絹代がギャング岡譲二の情婦を演じるという、まさにアメリカ映画そのものの『非常線の女』を撮っている。そこには、東京の溜池にあったジャズの殿堂・ダンスホールのフロリダの実景も出てきて、...「横浜らしさ」は、昭和初期の横浜である
昨日、情報文化センターで行われたセミナー『テレビで見る80年代』は大したことなかったが、ここは結構いろんなセミナーをやっているので驚く。というのは、ここには新聞博物館も入っていて、さまざまな活動が期待されていたのだが、私の知る限り活発な活動は行われていないように思う。近年、マスコミの活動への批判が大きいが、新聞よりはまだテレビの方が活発だということなのだろうか。新聞博物館では、以前関東大震災時の新聞を調べたのだが、結局横浜市中央図書館の所蔵のマイクロフィルムの方が良いものがあって、新聞博物館ってこんなものなのかと思ったことがあったのだ。セミナーは大したことなかったが
昨日は、「1980年代テレビメモリーズ」を情報文化センターの放送ライブラリーに見に行く。藤井青銅、内村宏幸、さらだたまこの3人の放送作家の話だが、結論から言えば、大したことなかった。独自性はゼロ、ただの昔ばなしだった。中で気になったのは、正月の箱根駅伝のテレビ中継のこと。この日の3人は、あれを日本テレビの看板番組のように見なしていたが、これを最初に放送したのは、実は、当時は「番外局」と言われていた東京12チャンネルなのである。ある年の12月末、横浜市役所を出て東京に帰ろうとすると、12チャンネル運動部デイレクターの若松さんがいた。「なんですか」と聞くと「正月の箱根駅伝の中継基地を市役所の屋上に作るための交渉に来たんです」とのこと。このように、箱根駅伝を最初のテレビ中継したのは、当時「番外局」と言われていた...大したことなし
たぶん、1991年の秋のことだと思うが、私は横浜市国際室にいて、中国上海市との翌年の交流事業の概要を協議するために、係長の茂木三四郎さんなどの、上海に行っていた。この年は、私が国際室の課長としての最後の年になるのだが、これは事前協議で、3か月後の本格協議では、助役の馬場貞夫さんを代表とする協議団でも中国に行ったので、合計2回行ったのだが、これが私の中国行きの最後になっている。さて、事前協議の項目が無事終了した日の夕方、我々(茂木さん、職員の日比野さん、そして横浜市国際交流協会の工藤さんの4人)は、上海の北停車場から列車で杭州へ向かった。まず、停車場の周辺に屯している人の多さには驚くのだが、当時は特に地方から大都市に出稼ぎに出てくる人が多かったので、その人だろうと思ったが、なんとなく駅に屯している人も多いの...杭州への道
昨日の夕方、バス停に立っていると、腕を蚊に食われた。蚊は、28度くらいが活動域だそうで、少し寒くなったので、活発になったのだ。吉野町は、蒔田公園も近く、道路に植栽もあるので、蚊の住処になっているのだろう。蚊は、100メーターくらい飛ぶことができ、上空へも4階分くらいは飛べるそうだ。最近では、エレベーターでさらに上に行くことも学習しているようで、8階の部屋にも十分に飛んでくるので、蚊取り線香をたく。私は、お香が好きなので、来そうもないときでも、ときどきは香を炊くのだ。蚊に食われる
MHKの『関東大震災』を見る。『キャメラを持った男たち』でも試みられた映像からの現場の再現が行われ、大変に興味深い都市・東京の姿が浮かびあがる。それは、当時の東京は、当然にも江戸の延長線上だったことである。明治維新からまだ、60年も経っていなかったのだ、文明開化が押し広げられても、そこはほとんど文明開化、つまり西洋化以前の江戸が色濃く残っていたのだ。それを抹消し、西欧的な大都市に改造させる切っ掛けが、大震災と帝都復興事業だったのだ。そのことがよく分かるのが、燃える警視庁の庁舎で、検証によってそこは有楽町であることが分かる。映像の中心にあって燃えているのが警視庁だが、その周囲はまるで普通の民家、仕舞屋なのだ。そうした江戸時代の町の中にポツンと西欧的な庁舎があったのだろうことが分かる。要は、住居、事務所、工場...関東大震災のもたらしたもの
中島貞夫で、もう1本非常に面白かったものを上げる。以前、池袋の新文芸坐で見た時のものだ。『セックスドキュメント・性倒錯の世界』『エロスの女王』2014年11月16日 映画ドキュメントと言っても真面目な記録映画ではない。ナレーターが西村晃と金子信夫でまじめに語っているが、見世物の羅列である。だが、メリエスから『世界残酷物語』まで、見世物は映画の本質の一つである。1971年10月と1973年2月に公開されている。中では、銀座ローズという日本で最初に性転換して男から女性になったというダンサーの話がすごい。彼は、ダンサーとしてキャバレーで踊っているが、彼には妹がいて、旭川に住んでいるが、なんと彼女は女性と同居しているのである。彼らの父は中国にいて、戦後引き上げてきて旭川で死んだとのことで、ローズは夫の車で旭川に行...中島貞夫でもう一つ面白かった作品
東映の監督中島貞夫に最初に注目したのは、たぶん早稲田大学映画研究会4年だった梶間俊一さんだと思う。1966年、私が大学に合格し、憧れの早稲田の映研に入ったとき、最高のイデオローグで、事実、この年の11月には、「戦後映画の再検討」というようなタイトルの映画会を大隈講堂でやった。一部は、小川徹の講演で、内容は増村保造の『兵隊やくざ』のことで、ここでの田村高広と勝新太郎の、頭と肉体の二元論だったと記憶している。その後、大島渚の『飼育』、吉田喜重の『秋津温泉』、深作欣二の『誇り高き挑戦』と並んで、中島貞夫の『893愚連隊』を上映し、これが一番好評だったのだ。大島の『飼育』も、ほとんど上映されない作品で、深作の『誇り高き挑戦』も結構面白かったが、なにせ主人公が鶴田浩二だったので、多くの若い学生には受けていなかったと...中島貞夫監督
東映の監督だった中島貞夫が、時代劇再興(彼はチャンバラと言っているが)を目指して若手俳優を使って作った『多十郎殉愛記』を作るメイキングである。「時代劇再興」は、ヤクザ映画に移行して以来何度も言われてきたことだが、一つも成功したことがない。まあ、中村錦之助の『祇園祭』くらいだろうか、一応の成功と言えるのは。その理由は、明快である。そもそも「時代劇が、日本映画の伝統」のように思っていることの間違いだ。「時代劇」という言葉を作ったのは、伊藤大輔先生であり、当時の歌舞伎劇とチャンバラ劇しかなかった日本映画に、より実際に近い劇として時代劇と命名したのだ。だが、それは、当時の「傾向映画」への権力の弾圧への言い訳でもあった。「これは、現在のことではなく、江戸時代のことです」で、だから時代劇の悪徳役人は、現実の警察のこと...『遊撃・中島貞夫』
22年前の9月といえば、9・11だが、このとき私は脳梗塞で病院に入院して2か月だった。病院の時間になれていて9時過ぎには寝ていたので、事件はまったく知らず、翌朝起きると大騒ぎになっていた。「ほんとうに映画みたいだ」と思い、また1983年にあのビルの20階で、ランチをしたことも思いだした。大変に脆弱な構造のビルで、レストランまで地下の地下鉄の振動が伝わってくるのだ。また、建築の専門家に聞くと、あのストンと落ちて崩壊したのは、全体がぎりぎりに作られていて、また完全に均衡を保たれていたからとのことだそうだ。さて、この9月に起きたのは、古今亭志ん朝の急死と新宿歌舞伎町のキャバレーの火災だった。私は、当時落語への興味を失っていたが、志ん朝の死には本当に驚いた。あとで、関連する本を読むと、晩年はかなり異常な行動があっ...「22年前の9月に起きた三つの事件」
全50作の1作目、1966年11月17日、蓮沼のヒカリ座で見た。併映は、日活の野村孝監督の『やくざ非情史・長崎の顔』で、これは大体見たが、もう1本の東映の中川信夫監督の『お勝兇状旅』だったのだが、これほとんどは見ていない。この日は、左翼過激派の「佐藤栄作訪米阻止闘争」が、蒲田から羽田空港周辺で行われたときで、彼らから蒲田の町を防衛する「蒲田自警団」が前日夜に町を警備をして、そのまま映画館で夜を過ごして寝ていた。そうしたときに見た映画なので、日本共産党の「歌声民青」の山田洋治にもともと良い感じを持っていなかった私としては、あまり愉快いな感じでは見られなかったのだ。約70年近く経って見てみると、渥美清が元気で太っているのに驚く。「丈夫で長持ち」が彼のキャッチフレーズだったのだから、この頃は叩いても死なないとい...『男はつらいよ』
夜、適当にチャンネルを廻していると、『悲愁物語』をBS松竹東急でやっている。昔から、松竹は映画配給もやっていて、サイレント時代には洋画配給では、主力館を持っていて、活弁には黒澤明の兄の須田貞明もいて、トーキー移行の際には争議委員長にもなっている。だが、組合と会社の板挟み、さらに愛人との問題から彼は、自殺してしまう。兄の家に居候していた黒澤明は、仕方なく東宝の先行企業であるPCLの助監督試験を受けることになる。戦後も、松竹は洋画配給のチェーンを持っていて、松竹洋画チェーン・SYチェーンを維持していた。今は、伊勢佐木町の横浜シネマリンとなっている館は、横浜のSYチェーンだった。1977年、突然に松竹で公開された『悲愁物語』は、当時最盛期だった梶原一騎先生の三協映画の制作で、元日活の鈴木清順の10年ぶりの映画だ...『悲愁物語』
夜、市内某所で、阪神・横浜戦を見ると、2台のテレビの内、1台はBS、もう一つはCSで、見比べるとBSの方が早いのだ。0.5秒くらいずれるのだ。だから、全部をまとめると、地上波が一番早く、次にBS、そしてCSとなるのだ。どうして、このようになるのか分からないが、要は宇宙にある衛星を介してくるので、その分時間がかかるのだろうと思う。ゲームは、もう阪神は優勝が決まっているのだから、巨人が昼間勝っているので、横浜に勝たせてやれ、と思うと最後はその通りになって良かった。CSは、BSよりも遅れる
JFEスチールが、扇島の高炉の稼働を停止するそうだ。1970年代、日本の新日本製鉄と日本鋼管は、この2社で、世界を分割し営業することを決めていたと聞いた。パシフィコ横浜に来ていた、日本鋼管の方からだった。それは、「まるで大航海時代のスペインとポルトガルによる世界分割みたいだなあ」と思ったものだ。実際に扇島工場に行ったのは、日本鋼管からの職員の出向を「来年もどうぞよろしく」とお願いに行った、パシフィコ横浜の総務部長時代のことだった。なんで日本鋼管かと思うかもしれないが、当時の中曽根内閣の「民活」事業では、日本鋼管などの重工業会社からなる日本プロジェクト産業協議会が、大きな役割を果たしていたからだ。民活会社への出資、職員派遣等を彼らが担っていたのである。広大な敷地に立っている事務所棟に入ると、3階建ての内、当...地球を2社で分割していたのだが
かつて日本映画界には、「柳の下には泥鰌は3匹いる」と言われていた。一つがヒットすれば、続編や第三の、新新なんとかまではできるというのだ。それに倣ったのか、阿川泰子のヒットの続いて、秋本奈緒美や真梨邑ケイ、さらにベテランの域に近かったアンリ菅野までが、美人歌手として再発された。これもバブル時代だったのか。これは、聞いた話だが、私の知り合いが、ある「美人歌手」のライブに行った。すると冒頭で、撮影の時間と角度を指定されたとのことで、それだけでシラケたそうだ。今や、これらの美人ドジョウはどうしたのだろうかね。「柳の下にドジョウは・・・」
1923年9月1日の関東大震災のとき、その記録フィルムは、いろいろあった。ただ、タイトルが不明だったり、コピーと思われるものがあったりだった。撮影したのは、ほぼ分かっていて、岩岡商会の岩岡巽、日活向島撮影所の高坂利光、そして東京シネマ商会の白井久の3人だった。彼らは、震災と火事の現場で、「こんな時になにを撮っているんだ」との批難の声の中で、カメラを回し続けた。当時の映画撮影のカメラは、手回しのもので、左手でカメラを支え、右手でクランクを廻して、撮影した。その現場、撮影者を明らかにして行くが、意外に近い距離で撮影していることに改めて驚く。この辺の証明は、NHKが放送した物の方が精密だが、ここでも必要な程度は明かされている。この中で興味深いのは、白井久の撮影した部分で、劫火に逃げ惑う人々を冷静に捉えている。そ...『キャメラを持った男たち』
期待通り、阪神が優勝したので、彼の大学時代のことを思い出した。それは、日米大学選手権の試合で、神宮球場で、当時東海大の3年生の原が4番、岡田は、一つ上の早稲田の4年で、打順は原の次の5番だったと思う。それは、実はお見合いの時で、高輪のホテルであった後、行くところもないので、神宮に行ったのだ。この時の感想としては、ホームランは原の方が打つだろうが、総合的に打者としては岡田の方が上だろうと思った。彼が監督としてすごいのでは、と思ったのは、2019年のことだ。Jスポーツで阪神キャンプの中継をやっていて、岡田彰布元監督が解説していた。マルテのホームランは喜ばしいいが、「小野が3-1からストレートを投げたのには驚いた、日本では3-1からも変化球を投げると教えてあげるのが彼への本当の教育だ」と言っていた。小野は、ひど...「阪神、優勝」
先日、ピケ解除での「カラヤン事件」を書いたが、同じスト解除で相撲部に押し出された事件もあった。どこのピケット解除だが、忘れたが、やはりある学部のスト解除のとき、大学側が相撲部の連中を動員したことがあった。学生側は、50人くらいてスクラムを組んでいたそうだ。そこに相撲部の連中が来て、「おい、どけよ!」と腕で押した。すると、学生10人くらいがどどっと倒れたそうだ。大学とは言え、やはり相撲部で日々鍛えている連中に押される「テッポウ」の威力はすごかっただろうと思うのだ。素人と玄人とは、さすがに差があったのだ。「おい、どけよ!」
われながらもの好きだと思うのだが、阿川泰子のコンサートに行ったことがある。ただ、もちろんというのも変だが、自分から希望したのではなく、友人の下川博に誘われたので、見に行ったのだ。紅葉ヶ丘の神奈川県立音楽堂で、浜音かどこかの主催だったと思う。バックには、きちんとバンドが付いていたと思う。出てきて、1曲目聞いて、下川と異口同音に「下手だなあ」と言い合った。それから、聞くたびに下手だと思った。ただ、さすがに元文学座で、テレビ映画に出ていて、萬屋錦之助の『破れ傘刀春』に、村娘役で出ていたときの話は面白かった。「やめてぇ・・・」と言う芝居で、すると錦之助が、「てえめたちは人間じゃねえ・・・」と錦之助の真似は非常に上手くてびっくりした。よく考えると、江戸時代の日本に「人間」という言葉があったか疑問があるが。ともかく、...阿川泰子コンサート
ユーチューブで、『ブルームーン』を唄っている女性歌手がいい女だなと思うと、シビル・シェパードで、ああそうかと思う。彼女が歌手でもあると知ったのは、渋谷のスミヤで、ここではよくドキュメンタリーのLPを買ったのだ。中で良いのは、ドナルド・レーガンのLPだった。元大統領のレーガンは、元俳優とされているが、本当はラジオのアナウンサー、今の言葉でいえば、スポーツキャスターだった。ラジオのどこの局か忘れたが、『コルゲート・アワー』という全国のスポーツを放送する番組のキャスターだったのだ。それで、アナウンスが上手いというので、俳優になったのであるが、俳優とはいってもギャングスターで、悪役だったのだ。だから、レーガンは、1942年に映画『カサブランカ』の主人公のリックに配役されたのだ。だが、その時、軍隊に徴兵されたので、...「ドナルド・レーガンについて」
1955年の今井正監督作品、製作の伊藤武郎が金に困って作ったメロドラマ。原作は菊田一夫で、『君の名は』のようなヒットを狙ったものらしいが、メロドラマとしては中途半端。製作は、もう一人映画『ひろしま』の小林聖がいるので、『ひろしま』は儲かったのだろう。冒頭、奥入瀬川に入っていく女性・津島恵子がセーラー服姿で、ずんずんと川の中を進んでいき、もう少しで死ぬ、というときに、松葉杖が飛んできて、自殺は阻止される。杖の主は、宇野重吉で、足が不自由だが、彼女を救って旅館で、彼女の身の上話を聞く。津島は、不幸の塊のような女性で、死んだ叔父の家に居候していて、義理の叔母の村瀬幸子に虐められている。松竹得意の継子苛めであるが、一応女学校に通っている。そこは、上流の女学校で、津島は、友達で学校を辞めた子が、「相談したいことがあ...『由起子』
中野翠の回想は、大学時代を素通りして、仕事を始めた頃に飛んでいる。大学時代のことは、まだいろいろと差しさわりがあるのだろうか。私は、実際に経験はしていないが、1965年12月から始まった「学費・学館闘争」事件では、いろんなことがあったようだ。1年上に、村上さんという人がいた。広島出身で、地元の放送劇団にいたらしく、いかにも役者らしい、面白い方だった。同期には、後に井上遙となる漆川由美もいたのだが、彼女は155センチくらいの小柄な女性だったので、「東京の学生劇団はすごい、子役もいるのかと思ったよ」と笑わせてくれた。12月から、全学ストになり、各号館はバリケード封鎖されてしまい、大学側は締め出されてしまう。1966年1月になり、大学は入学試験をやらなければならないので、順にバリケード解除を始めた。ある学部、教...「カラヤン事件」
1941年に、日米の険悪な関係を危惧して始められた「日米交渉」は、実は民間レベルで始まったもので、当初から先行きが危ぶまれていた。正式な政府レベルの交渉となり、日本代表とされたのが、野村吉三郎大将で、彼は在米勤務の実績はあったが、その英語力はかなり問題があったようだ。そして、さらに特派されたのが、来栖三郎で、彼は英語には堪能だったが、なにせ前年に、日独伊三国同盟を調印した日本側代表であり、米側や特に国務省のハルが最も嫌うドイツよりの人間で、これでは交渉はまとまるものではなかった。この間、日米の間にあって、最も正確な日本分析をおこなっていたのが、米国大使のジョセフ・グルーだった。彼は、1941年秋に、米国に報告している。日本が、生産力や資源力で大きく米国に劣るから、対米戦争はしないはずだとの合理的判断をする...野村吉三郎とジョセフ・グルー
朝日新聞に中野翠の回想が出ているが、以前私は次のように書いた。『あの頃の早稲田で』中野翠彼女は、1964年に早稲田大学の政経学部に入り、左翼になるべく、社研に入るが、驚くことに私は、社研は、特定のセクトのものではなかったと初めて知った。私は、早稲田の社研、社会科学研究会は、社青同解放派のものだと思っていたからだ。また、学生会館の彼らの部屋は、文学研究会と共同で使っていて、そこに新崎智(呉智英)がいて、知合いになったとのこと。新崎君は、当時はかなりの有名な人で、早稲田の「学費・学館闘争」の時、最後に12人の学生が処分されたが、11人は解放派などセクトの人間だった。だが、新崎さんだけは当時はセクトに属していなかったが、彼は声が大きくて目立ったので処分されたのではないかという噂だった。読んでいるといろいろと面白...中野翠について
夕方は、朝日カルチャーセンターのオンライン講座で、山田朗先生の『近衛文麿とゾルゲ事件』を見る。戦前、防諜を担当する機関は、憲兵隊、外事警察と特高警察等があったが、1936年、陸軍は防諜機関を強化するために、陸軍省の組織を改革し、兵務局と兵務課を新設し、憲兵隊を担当させる。これは、2・26事件を察知していたが、防止できなかったことからだった。そして、対外用に、陸軍登戸研究所を作り、さらに人材養成機関として、後に陸軍中野学校もできる。登戸研究所では、電波関係の機器の開発、携帯無線機材の開発を進めた。また、秘密インクの研究・開発も行ったとのこと。こうした中で、中国でのソ連赤軍のスパイ活動を経て、ゾルゲは、1933年6月に来日し、日本での諜報活動に従事し、中国で親交のあった評論家尾崎秀実と再会し、無線通信技師等も...『近衛文麿とゾルゲ事件』
テレビで、ジャニーズ問題の記者会見を見ていて、3時半になり、オンライン講座になったので、朝日カルチャーの『真珠湾への道』を見て、テレビを付けると、まだ中継をやっている。見ていて、思うのは、小林一三の偉さである。宝塚を作り、東宝も作った阪急の小林は、宝塚歌劇団を芸能人を作っているのではなく、教育事業だとしていた。だから、宝塚歌劇団の養成所というべき音楽学校は、正規の学校で、「清く、正しく、美しい」女性を作る学校だとしていることだ。だから、歌劇団でもスターは、「生徒」とよび、芸能人ではないのだ。こうして、内外から厳しい規制を敷いていることが、100年以上も続いている所以だと思う。その点、ジャニーズは、まったくの外部からの目が入っていない同族経営で日本的閉鎖性で、すべてをやっていたのだろうと思う。今後は、同族経...小林一三は、偉かった。
本牧ジャズ祭の石橋さんに『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』をお送りしたところ、『YOKOHAMA本牧ジャズ祭』をいただいた。これは、1981年から1995年まで、15年間続いた横浜の野外音楽フェステイバルの記録で、大変に面白かった。編集は、横浜のダディの渡辺光次さんで、さすがだと思った。この祭りの言い出しっぺは、横浜市中区役所市民課にいた小林康彦さんで、そこから石橋さんらに広がり、当時区役所で自由に使えた200万円を原資にはじめられたのだ。私が、参加したのは、記憶では3回くらいしかないが、この祭りは、パシフィコ横浜で後にやることになる『ウォーマッド横浜』にたいして、大きなヒントになったのである。もちろん、実際に1989年にイギリスの東海岸のサン・オーステルでやっている『ウォーマッド...『YOKOHAMA本牧ジャズ祭』をいただく
阪神、中日戦を見ていたら、小笠原慎之介投手の次に、松山晋也という育成から今や中日の押さえで活躍している投手が出てきて、なんと松山晋也で、音楽評論家の方とまったくの同姓同名なのだ。もうとっくに退職されたが、横浜市衛生局の幹部に、吉田拓郎と言う人がいた。一度飲んだことがあるが、毎年何度かは、間違い電話があるとのことだった。いずれ、このお二人にも間違い電話が掛かってくるようになるのだろうか。同姓同名の方松山晋也
歌舞伎によく出てくる畜生道、愛し合った男女が、実は兄妹などで、愛し合えない禁忌に気づくのが畜生道で、江戸時代には、大変に避けられていたことだった。私は、これは一種の「不条理劇」だと思ってきた。つまり、絶対に愛し合えない、愛の不条理だと。だが、日本の古代では、畜生道という考えななく、むしろ双生児で、しかも男女の双生児は、生の多産の象徴として喜ばれていたことを知った。それは、朝日カルチャーセンターの元専修大学教授の荒木敏夫先生の『平安時代を考える』だった。平安中期の、嵯峨天皇と橘嘉知子との間に、双生児の男女が生まれたそうで、それは正良親王と正子内親王だそうだ。ただ、この正子内親王は、宮中では養育されず、女官の家で育てられた。一応、別々に養育されたわけだ。そして、この正子は、嵯峨天皇の父親桓武天皇と藤原旅子との...「日本の古代に畜生道はなかった」
六角精児の『呑み鉄本線・日本旅』で、よくかかる曲に『ディーゼル』というのがある。いい曲だなあと思っていると、作詞は、劇作家の中島敦彦だった。文学座等でも、作、演出をしていた人だが、2019年に亡くなられている。でも、曲や劇作は残っているのだ。中島敦彦だった
先日、『たからぶね』を国立映画アーカイブに見に行くと、受付で、フィルムの切れ端をくれる。国から物をもらうなど、ないことなのでもらう。見ると、4コマで、男同志で接吻しているが、中身はよく見えない。昔、新東宝で『明治天皇と日露大戦争』を撮った人に、渡辺邦男がいた。助監督だった石井輝男によれば、先生は編集の名人で、しかも編集機など使わずに裸眼で、フィルムを見て、手でフィルムを切っては、つなげたとのこと。先生が、見たのは、ネガのはずで、ポジフィルムよりももっと見にくいので、先生は、本当にすごい眼力だと思った。先生は、右翼のように思われているが、早稲田大学時代は、左翼の建設者同盟だったそうで、なかなか面白い人だったようだ。渡辺邦男先生は
徳川夢声、曰く「隣町で朝鮮人とただいま交戦中、以上報告終わり!」なんて、東京の町のあちこちでやっていましたよ。「本当に、朝鮮人が東京中で暴動を起こしている」という噂が流れていたんです。どの番組か忘れたが、1960年代のテレビ番組での、徳川夢声の体験談である。それは、1923年9月1日の関東大震災のときのことであった。勿論、「交戦中」ということはなかったが、未曾有の大災害、しかもテレビも何もなく、新聞も発行されない状況で、流言飛語は被災地を駆け巡り、また意図的にデマを流した者もいたようだ。地震直後の東京や横浜で、「朝鮮人が暴動を起こし、また井戸に毒を入れた」との噂が流れ、それに対し、日本人自警団が暴行を加え、中には死傷者も出た。劇団俳優座の指導者で演出家千田是也は、このとき千駄ヶ谷で自警団に詰問された。彼は...関東大震災では『福田村事件』
1960年代以後の日本映画界で、最大の事件は、ピンク映画から日活ロマンポルノの興隆だった。このピンク映画は、普通、1962年の新東宝の倒産からと言われている。だが、それは、半分で、後はニュース映画、文化映画等の、テレビの普及による消滅も大きな原因の一つで、監督の山本晋也も岩波映画からの転職だった。若松孝二は、テレビ映画からの転身だったのだが。また、この時期、弱小の新劇団がテレビの普及によって整理され、多くの俳優がピンクの役者となったのであり、野上正義は、その典型である。この映画の元の監督の渡辺護も新劇の世界にいたが、ピンクの監督となった一人で、この映画はピンク映画50年記念として製作が開始されたが、渡辺がガンになったので、井川耕一郎が、脚本・監督を務めることになった。話は、新婚夫婦と彼の叔父夫婦との間で起...『色道四十八手・たからぶね』
もう、どこにも出ないよ 『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスティバル』
土曜の朝は、虚しいのだが、新聞の書評欄を見る。もちろん、出ているはずもないのだが、もしかしたらと探してしまう。拙著の『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』である。遺書みたいなものだから、出すことに意味があり、それがどうのように評価されようとのどうでも良いのだが。やはり、次になにをしようかと思うとき、あれは気になるのである。もう、どこにも出ないよ『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスティバル』
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して、太平洋戦争は終わった。そして、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサーが、厚木飛行場にやってきた。当初、アメリカは、太平洋の島々で「特攻攻撃」をやってきた日本人は、占領すれば大変な反発を受けるとして米軍20万人を日本に上陸させた。だが、日本では、占領軍との衝突はほとんどなかった。その理由は、日本人は、天皇の命令によって戦争を始め、最後天皇の命令によって戦争を止めたからだ。日本占領で、第一にすべきことは、日本の非軍事化で、陸海軍は解体された。そして、最大の問題は、天皇への対処で、オーストラリア、そしてアメリカにも、何らかの形での天皇の処罰をすべきとの声があった。だが、戦前に日本大使を10年務めた、ジョセフ・グルーはマッアカーサーにも進言した。「天皇は、特に何...『GHQの6年8か月マッカーサーの野望と挫折』
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日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳