日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ
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日本映画が、アカデミー賞で2本受賞したのは、喜ばしいが、どちらも技術的である。日本映画の黒澤明、小林正樹、小津安二郎、溝口健二らも結局は職人的仕事の見事さに成立していたと思う。だから、映画『オッペンハイマー』のような作品は出てこない。日本にも興味深い人間はいた。陸軍の石原莞爾など、最高ではないか。満州事変を起こし、満州国を作ったが、東條英樹によって陸軍を追われる。この数奇な運命を、幼い小澤征爾の目から描けば、と思うのだが。職人芸の日本映画
夜、確定申告を終える。去年は、3月15日に出したので、今年は非常に早いことになる。今日の午前中に横浜南税務署に出しに行く。確定申告、終了
「3月は、31日ではなく、50日までありますから・・・」と聞いたのは、1989年12月末に、パシフィコ横浜から横浜市総務局国際室に異動した時だった。1989年度の国際室の調査事業で、2本も委託業者も決まっていないものがあり、「指田課長、すぐに業者を決めて事業を始めてください!」と言われ、驚いて、担当の荒木田百合さんに聞くと、「各年度事業は、3月31日ではなく、5月31日までにできれば良いんです」と平然と返された。その度胸には、大変に驚いたものだ。正月になってから、2社の委託業者を決めて、いろいろバタバタと調査をやり、最後は、業者が持ってきた下手な作文を、ほとんど私が改作して5月上旬に無事「報告書」を作って終わった。当時は、「出納閉鎖期間」というものがあり、各年度の事業は5月末に終了すればよいとなっていたの...3月は、31日では終わらないんです・・・
石原裕次郎、浅丘ルリ子の映画でベストと思われるのが、舛田利雄監督の『赤いハンカチ』である。このラストシーン、裕次郎とルリ子が別れるシーンは、墓場のようなところだ。昨日の『第三の男』を見て、これのラストシーンに類似しているなあと思った。私は、こういうことを否定しているわけではなく、肯定している。大衆文化では、引用はよくあることで、日本でいえば「本歌どり」であるのだから。『赤いハンカチ』のラストシーン
映画『第三の男』の舞台は、オーストリアのウィーンで、ここは第二次世界大戦後は、複雑な状況にあった。戦時中は、ドイツだったオーストリアは、東から侵攻してきたソ連軍によって占領されたが、イギリス、アメリカ、フランスによってウィーンは、分割統治されていた。その中で起きたのが、この映画の物語なのだ。1990年、翌年に開催される「国連ピースメッセンジャー都市会議」への参加誘致に、日本のウィーン市代表部の方に聞いたことがあった。ソ連占領後は、複雑な経緯があったようだが、最後は中立国になった。そこについては、「飲ませる、抱かせる、掴ませる」などの手を使ってのオーストリアの外交手法があったとのことだ。さすがハプスブルグ家の伝統だと思った。ウィーンは、今ももう一度行ってみたい都市である。ウィーンについて
『カサブランカ』のリメイクが日活の『夜霧よ今夜も有難う』なのは有名だが、『第三の男』もリイメイクされている。赤木圭一郎主演の『霧笛が俺を呼んでいる』で、共演は芦川いづみで、赤木が横浜に探しに来る旧友で、実は悪になっている男は、葉山良二なのだ。また、赤木の妹として吉永小百合が出ていることも貴重である。舞台は、いうまでもなく横浜と横浜港であり、芦川は、港のキャバレーの歌手で、歌を唄うのだが、ここではなぜか吹替えになっている。主題歌はもちろん赤木が歌うがこれが実に下手で参る。監督は山崎徳次郎で、この人は言わば職人的な監督だが、かなり良い作品を作っているが、最後は笹川財団の金で捕鯨の映画を撮って失敗したようだ。意外なのは、脚本が熊井敬であり、私はこの人は、新藤兼人と同様、脚本はすごいが、監督はどうかなあと思われる...『第三の男』のリメイクは
桜の映画と言えば、鈴木清順の名作『けんかえれじい』で高橋英樹が、浅野順子と見に行く夜桜も大変に美しい。浅野順子は、可愛いかった割に映画に出ていないと思っていたら、実は結構出ている。それも大映京都の時代劇である。浅野寿々子1957.07.30十七才の抵抗日活...可奈子の幼少時代1958.11.15赤胴鈴之助黒雲谷の雷人大映京都...しのぶ1958.12.21赤胴鈴之助どくろ団退治大映京都...しのぶ1959.11.22薄桜記大映京都市川雷蔵の代表作で、森一生の映画『薄桜記』で、堀部安兵衛の勝新太郎と婚姻を結ぶ少女が、浅野順子なのである。当時は、まだ十代のはずだが、かわいかったので、わざわざ大映京都までよばれて演じたのだ。本当に大橋巨泉に見込まれて結婚引退してまったのは、実に残念なことだったが。桜の映画と言えば
近年、桜の花が咲くのが早くなっているが、地球温暖化の性なのか。花見が出てくる映画もいろいろあるが、私が一番好きなのは、川島雄三監督の『花影』である。この映画の最後の方で、複数の男との関係を経てきた銀座のクラブの女給池内淳子は、最初の男である池辺良と夜桜を見に行く。そこは、青山墓地で、夜桜が美しいが、岡崎宏三と美術スタッフが作った人工の桜だったはずだ。ここのシーンに来ると、一生に一度、こんなにきれいな女と夜桜を見たいなと思うのである。美しい花見の映画
今日、3月8日は、私の誕生日で、76歳になった。今朝、低気圧の影響で雪が降ったが、5歳ごろのときも、東京池上だったが、大雪が降って家の前の電線が切れて停電になっり、お誕生日の祝いができるか、本当に心配したこともあった。さて、1947、1948、1950年生まれは、250万人もいたそうだが、去年の出生者数は、75万人だそうで、30%であり、人口減少社会である。人口は、そのエリアの力の元で、明治維新で薩摩や長州が徳川幕府を倒したのも、幕末は農業等の改良で西日本の人口が増加していたとの説もある。だが、人口に頼っていた社会はもう古いと思う。人口等による経済成長のみに頼っている社会ではなく、経済的停滞でも豊かな生活をおくれる社会を目指すべきだと思うのである。誕生日に思う
五百旗頭真先生の死亡は、急性「大動脈乖離」で、これは石原裕次郎もやったことがあった。実は、私も「動脈乖離」で倒れたのだが、心臓につながる大動脈乖離ではなく、右脳の大動脈乖離で、これは非常に珍しいものだそうだ。もちろん、脳内で動脈乖離が起き、その結果右脳の一部で梗塞が起きたので、脳梗塞となったのである。そのとき、「これは稀な症例とのことで、遺伝子等を調べるから」と血液を採取されて、研究に使用する許可を求められて、もちろん承諾したことがあった。その結果、どのように医学的研究が進んだかは、知らないが。唯一、私が医学の進歩に「貢献した」例である。同じ動脈乖離だが・・・
まるで、大島渚の映画『青春残酷物語』みたいだと思う。映画では、桑野みゆきは高校生で、川津祐介は大学生だったのだが。この映画では、桑野と川津の方が死んでしまうのだが。川津祐介も、桑野みゆきの姉久我美子の元恋人で医者の渡辺文雄もとっくに死んでいて、監督の大島渚も、撮影の川又昂も、音楽の真鍋理一郎も亡くなられている。その後、結婚して引退した桑野みゆきは、ご健在なのだろうか。MSN.COMSNSで美人局、大学生を転落死させた疑い中学生3人を逮捕・通告SNSで知り合った20代の男性から金を奪おうとし、逃げようとした男性をビル4階から転落させ、死亡させたとして、大阪府警は7日、大阪市中央区の中学2年の少女(14)と堺市北区の中学3年の少年(15)を強盗致死の疑いで逮.....まるで映画『青春残酷物語』みたいだ
東証の株価が4万円を越えて、40年前の水準を越えたと大騒ぎである。懐かしのバブル時代だが、私もパシフィコ横浜の営業部にいたとき、1回だけ「贅沢三昧」があった。それは、何かの医学界で本郷の東大医学部に営業に行った後のこと。パシフィコ横浜の上司の課長の他、JTBの担当の方もいて、5人くらいで行き、そのまま上野のカラオケ店に行った。そこでずっと飲んで歌ったのだが、すぐに時はすぎて、「帰ろう」となった。店のマスターが、9時ごろからずっと電話をしていて、11時ごろにタクシーが捕まったので、皆タクシーで帰った。私も会社発行のタクシー券で、横浜まで帰ったのだ。この程度のことだったが、今考えれば信じがたいことだった。40年前の「贅沢三昧」
この本は、この数年に読んだ本で一番面白かった。朝妻一郎と言えば、1960年代以降、日本のポピュラー音楽のLPを見ると必ず解説を書いていた方で、非常に年上の方だと思い込んでいた。だが、この本を読んで、私より5歳上の方だと分かり驚いた。朝妻さんは、高校時代にポール・アンカが好きになり、彼の後援会の代表になる。その時、経済観念の鋭かったポール・アンカは、自分で権利を管理する会社を作り、レコード会社も変えてしまい、日本の発売元も代わった。そこで、日本のレコード会社に頼れなくなったことから、渋谷のヤマハの紹介で、朝妻少年は、ニッポン放送の高崎一郎氏に紹介されて、アルバイトで助手をすることになる。そして、歌曲の権利管理会社のフジパシフィック・ミュージックの社員となり、日本のポピュラーの音楽の発展に多大な貢献をされるよ...『高鳴る心の歌』朝妻一郎
大谷将平の結婚話で、マスコミのすべてが占領されているが、実は大谷選手のご両親は、横浜にいたのだ。彼の父親は三菱重工横浜の野球部にいて、レギュラーの選手だったが、そこでバドミントンをやっていた女性と知り合って結婚して生まれたのが、大谷翔平君なのだ。彼は、非常にまじめで親の生き方をよく見ていると思うので、結婚相手は、彼の母親のような方ではないかと私は推測する。こんなことは、本来関係者だけの問題で、大谷ではないが、「皆さんがうるさい」ことに他ならないのだ。大谷の両親は横浜にいた
これも笑いはなしで、あろ日、佐藤栄作首相が聞いたそうだ。「なかそね、みき君はどうしているかね」秘書は言った、「中曾根康弘氏と三木武夫氏は・・・」「違うよ、仲宗根美樹君のことだよ」後に沖縄返還に尽力された佐藤栄作氏の言葉のようだ。佐藤栄作が言った「なかそね、みき君はどうしているかね」
歌手の中曽根美樹が亡くなったそうだが、結構映画にも出ている。また、吉永小百合、浜田光夫の映画『愛と死を見つめて』では、この二人が仲宗根の『川は流れる』を唄っている。この映画では、今テレビの朝ドラの主人公の笠置シズ子が、吉永と病院の同室の患者の叔母さんとして出ている。この頃、笠置は歌手をやめていたのである。仲宗根美樹1963年(キングレコードの広告)映画[編集]うるさい妹たち(1961年大映)東海一の若親分(1961年東映)海猫が飛んで(1962年松竹)しのび逢い(1962年松竹)太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962年大蔵映画)川は流れる(1962年松竹)その結婚異議あり(1963年大映)独立美人隊(1963年松竹)魚河岸の旋風娘(1963年松竹)BACKSTAGE/バックステージ(2001年日活)仲宗根美樹、死去、79歳
昨日は、106年前に2・26事件がおきたときで、この時期になると「新資料」が出て来たものだが、この数年はない。さすがに100年も経つと関係者はもとより、遺族ももういなくなったからだろう。さて、この事件は、戦前の最大の事件の一つであり、日本の近代史の問題点の集中である。それは、日本は大日本帝国憲法で、一応立憲君主制を定めたが、思想的には前近代的な「君民一体」思想を持っていたからだ。日本は、天皇を祖とする大きな家族であるという神話で、個々の日本人と天皇は、もとをただせば同じと言う馬鹿げた考えである。人口学によれば、縄文時代に日本には、すでに30万人の住民がいたそうで、「君民一体」などありえないのだ。天皇制的神話が、一番嫌いだったのは、実は昭和天皇であり、だから2月26日に事件がおきた時、すぐに「反乱軍」を制圧...もう出てこないだろう2・26事件資料
昨日の朝日新聞に、元首相の宮沢喜一氏の日録があり、遺族から委託されて御厨貴先生らが編纂されているとの記事があった。いずれ、公開されるらしいが、ぜひ見てみたいものだ。日本の首相の中で、宮沢喜一氏は、もともとエリートで、高級官僚だった人の典型であり、その最後の方だったと思う。この人は、自分で言っているが、政策は得意だったが、人の動向を見るのは苦手で、1993年に自民党の小沢一郎らが反乱を起こして、宮沢内閣不信任案が可決されたとき、まったくその動きを知らなかったのだそうだ。おそらく「そんなことはあるまい」と思っていたのだろう。このときの感想はぜひ読んでみたいと思っている。同じ東大卒の高級官僚でも、人事にたけていたのは、佐藤栄作で、彼は、常に『国会便覧』を読み、さまざまな人事情報を頭に入れていたそうだ。だから、佐...『宮沢喜一日録』の存在
映画『ZK』、頭脳警察を見て、食わず嫌いだったことを悔いた。彼は、赤軍などの左翼過激派との関係が言われたが、その本質は、抒情的なメロディメーカーであることが分かった。それは、彼(パンタ)は、埼玉の所沢に生まれ育ったことで、アメリカ軍基地の文化を浴びたからだったと思う。それは、レゲエのボブ・マーリーにも類似していると思う。ボブは、他のレゲエ歌手とは異なるクールさがあるが、彼はイギリス人の父親とジャマイカ人の母との間に生まれたことが、その理由だと私は思うのである。横浜シネマベティ『ZK』を見て
女優の山本陽子が死んだそうだが、81とは女性では若死にと言うべきか。彼女の出演歴は以下のとおりで、数は多いが、まあ端役である。目立ったのは、裕次郎・浅丘ルリ子の名作『赤いハンカチ』で、二谷英明の裏切りで殺人犯にされ、ルリ子と二谷が結婚した豪邸の女中役で、私も最初に気づいた映画だった。後は、『猟人日記』でも、仲谷昇の餌食にされる女の一人にすぎなかったと思う。いずれにしても、日活時代は大した役はなかったが、1974年の東宝の『華麗なる一族』での万俵家の長男田宮二郎の妻が適役だったと思う。ゴシップ的に言えば、この頃から田宮二郎との関係はあったのかと思うが。テレビで成功した俳優であることは間違いなく、元日活でいえば、男では杉良太郎、女優では山本陽子が第一だと思う。杉良太郎など、沖雅也や藤竜也の遥か下だったのだから...山本陽子、死去、81歳
今日の新聞に、公明党の議員が、全国で12人も落ちたと出ていて、前代未聞だとある。だが、私が記憶しているところでは、1974年の選挙の時に、旭区で山本議員が、2011年の時に、金沢区で木村議員が落選している。たしかに、公明党は、票割ができる党で、私が今いる南区では、一時だが、公明党議員が2人いたことがある。男性の3期目のE議員と1期のK議員で、次の時から定数が減となるので、K議員を下して、E議員だけにしたのだ。この時、大久保英太郎議長は、Kさんを下した経緯を説明してくれた。Kさんは、実は女性だったので、この人の方が優秀だったが、議員を辞めても主婦に戻ればよいので、このKさんを下してE議員を残したのだそうだ。逆にすると、Eさんの生活の面倒を公明党が見なくてはいけないからだとのこと。さて、二度の公明党議員が落選...横浜市議選挙でも、公明党議員が落ちたことがある
『バナバ・ボート』で有名な歌手のべラフォンテが亡くなったが、音楽評論家の中村とうようさんが、最初にレコードの解説を書いたのが、このべラフォンテのライブアルバムだったそうだ。「神棚に上げておかなくてはいけないんだ」とも言っていた。そして、彼が来日したとき、その司会をしたが、彼は「公演の収益を、日本で民族音楽を研究している団体に寄付したい」というので、東洋音楽学会に行き、寄付した。当時、東洋音楽学会の会長は、『茶っ切り節』の作詞者の町田嘉章さんで、昔からの民謡ではなくて、これは静岡電鉄のCMソングなのである。町田さんは、全国各地を携帯録音機を担いで歩き、民謡を録音したのだそうだ。携帯録音機とは、今の携帯電話機のように小さなものではなく、大変に大きなもので、肩から下げて担いで使ったものである。写真のは、テープレ...ハリー・べラフォンテ死去、96歳
日曜日の劇研同窓会で、長谷部朝子さんに、大島渚の『日本の夜と霧』のことについてお話を聞く。この時は、準備から撮影まで、約1か月くらい、大船に通ったとのこと。そのことは、大島の本にも、「劇研の人から意見を聞いた」と書かれている。この大島らと劇研の間を結んだのは、横堀幸司さんで、彼はその後、松竹の助監督になられた。彼は、大島ではなく「木下恵介、命」なのだが、渋谷実監督の助監督もやったそうだ。いずれお話を聞きたいと思っている。「1か月くらいかかった」そうだ『日本の夜と霧』
今日の神奈川新聞に本とトークイベントのことが掲載される。また、先日、朝日新聞に出た広告についても言われる。「何百万もしたんでしょうね」そんなものではないのだが、意外にも朝日新聞は、読者が多いのだなと思う。いずれにしても、4月29日のパシフィコ横浜でのトークイベントには、多くの方にお見えいただきたい。「残すのが役目」というのは、2011年に中村とうようさん、2014年に田村光男と、ウォーマッド横浜日本委員会顧問・中村と、製作会社・田村光男の二人が亡くなられていて、生きているのは私一人だからである。神奈川新聞に掲載
民藝の女優、奈良岡朋子追悼の特別号が来た。別に大したことではなく、「民藝の仲間の会」に入っているからなのだ。かって、日本の劇団で、一番の後援会を持っていたのは、俳優座だった。ところが、市原悦子さんの夫の塩見哲の暴挙によって、それは俳優座制作センターにされてしまい、実質的に解消したようだ。実にバカバカしいことだが、長年塩見哲に大きな芝居の演出をやらせなかった千田是也への「復讐」だったようだ。だが、その千田の塩見への見方は正しかった。千田の死後、塩見は、市原悦子の主演で、2004年に石川淳原作の『狂風記』を脚本・演出したが、世にもひどい、30年遅れのアングラ劇で、私も唖然としたものだ。以後、市原悦子は、自分の音楽劇以外の演出を塩見にはさせなかったのは、彼女の愛情だろう。実に賢明な判断だったと言えるだろう。対し...奈良岡朋子、死去
昨日の昼は、高田馬場に行き、「早大劇研同窓の集い」に出る。23人で、なんと私が一番下で、最高学年の羽根井明夫さんは、昭和28年入学であり、その次が、元NHKアナウンサーで、副会長にもなられた永井多恵子さん。彼女は、世田谷パブリックシアター館長も辞められて、国際演劇協会の日本代表をされているとのこと。各自の話が披露されるが、「あの公演のとき、誰かがどうして、俺はこうした」と言った話が多く、そもそもその公演を見ていない我々には想像もしようがない。日頃、懐旧談ができないのだろうなあ、皆さんにブログをすることをお勧めしたいと思った。演目は、『蟹工船』『るつぼ』『秩父困民党』『風浪』などと、やや左翼的なものが多いので、「やはり共産党的だったのですか?」とある方に聞くと、即座に「自由舞台のような共産党劇団じゃないんだ...「われわれは、自由舞台のような共産党劇団ではないのだ」
昨日の午後は、中日・阪神で、阪神の村上投手の投球を見る。驚くほど速い球ではないが、非常にコントロールがよく、変化球もよく決まっている。やはり、投手はコントロールだと思った。これで、連敗は2で止まる。村上と才気の二人で、今年の阪神はなんとかなると思える。いよいよ岡田の言う「あれ」になるだろう。村上の投球を見る
先日は、日本史の荒久保先生について書いたが、もう一人好きだったのが、物理の永見先生だった。この方は、元は戦闘機に乗っていたという人で、片肺がなくて、いつも咳き込んでいたが、話は非常に面白かった。得意の分野は、戦争の戦法で、アレキサンダー大王から、ナポレオン、さらにノモンハン戦と古代から近代に至る戦争のやり方の説明と批評なのだ。一番は、日本軍とソ連軍のノモンハンでの空中戦のことで、戦闘機は回転半径小ささと速度で決まるのだそうで、上空でぐるぐると旋回していたら、半径が小さくて速度が速い方が、いつか必ず相手の後ろに入ってしまうもので、ソ連木は、日本軍の97式戦闘機の敵ではなかった。そこで、ソ連は戦法を変え、97式とはあまり戦わず、なるべき上空で待機して、来たら戦うが、すぐに逃げるという「一撃離脱法」を編み出して...小山台高校、永見先生
私が出した「ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェスバル』を読んでくれたある人から、「これは遺書なのではないか・・・」と感じたと言われた。もちろん、まだ死ぬ気はないので、あれは遺書ではない。まあ、若い人への「遺言」の意味は少々あったのではあったが。日本の音楽業界への名刺代わりだと言えばよいだろうか。そんなものである。遺書ではありません
一昨日、国立映画アーカイブで『太陽の墓場』を見ているとき、前の席で口論が二回あった。要は、見ながら眠っていて、いびきが煩いと若い男が、隣の年上の男に言っていて、言われた方も反論していた。だが、私は、一番悪いのは、映画『太陽の墓場』だと思ったのだ。監督の大島渚は、あるBSの番組で、師匠の大庭秀雄監督の言に触れていた。それは、大島の先輩助監督が、監督に昇進するときのことで、大島は「彼は良い監督になるでしょうかね」と聞いたのだ。すると、大庭監督は、こう言った。「そんなことはない。彼は、家に来ても、玄関先の挨拶すらできない男なんだから」そして、大島は、映画作りも、玄関先の挨拶と同じで、まず全体を説明する、そして導入から展開へと導き、ドラマを盛り上げる。こうしたことは、その人間の生き方と同じなのだとのこと。その点で...一昨日の口論
映画『憎いあんちくしょう』の最後、熊本の無医村に、石原裕次郎と浅丘ルリ子が、芦川いづみが持つジープを運んで、そこにいる小池朝雄と2年ぶりに会う。芦川は、テレビ局員長門裕之の手配したヘリコプターで降りてくる。西日本空輸だった。これは、現在のANAになったのかと調べると、合併してはいず、今ではドクターヘリ等の会社として存続しているそうだ。ANAにはなっていないのだ
今日は、「四川料理の日」なのだそうで、四川料理と言えば、一番有名なのは麻婆豆腐だろう。私が、最初に食べたのは、大学2年のときで、有楽町の広告代理店に勤務していた島村さんの会社でアルバイトをしていたときだった。昼休みに、錦江飯店で食べたのが、麻婆豆腐で、一皿に麻婆と御飯が盛られたもので、800円だったと思う。当時としては、非常に高いものだったが、アルバイトの気楽さで食べていたと思う。先輩の手島さんもいたのだが、彼も、もういない。その際には、東宝ツインタワービルで、黒澤明を見かけたこともあった。映画『トラ、トラ、トラ』のシナリオを書いている時期で、まだ意気軒高とした姿で、両脇に男をまるで、家来のように従えて歩いていた。「やあ、背が高いなあ」と思ったものだ。この年の12月末に、黒澤は、20世紀フォックスから監督...最初に食べた麻婆豆腐など
普通、論争的に思われる大島渚だが、意外にも表現は抒情的である。この映画を映画館で見るのは、高校時代に池袋の人生座で見て以来で、20年くらい前にビデオで見て、この1960年の大阪市は、ほとんどアジアだなあと感じた。その彼の抒情性が良く出ているのが、この映画で、その延長線上に『日本春歌考』もある。ここでは、大阪西成地区釜ヶ崎の、若いヤクザたちの「青春」を描いていて、津川雅彦、川津祐介らの組に、佐々木功と友人の中原が入ってきて起こすドラマである。もう一つあるのが、釜ヶ崎の最底辺の連中で、彼らから血を取って、商売しているのが若い娘の炎加代子と元衛生兵の浜村純で、伴淳三郎の土地のバラックに住むバタヤたちで、左朴善、渡辺文雄、永井一郎、藤原釜足、田中邦衛、北林谷栄らで、そこに佐藤慶らが絡んでいるさらに、小沢栄太郎の扮...『太陽の墓場』
どこかの本で読んだが、石原裕次郎は、福永武彦などが好きな文学青年だったらしい。兄・石原慎太郎が、小説家なのだから頷ける話だ。『憎いあンちくしょう』は、私は大好きな映画で、たぶん5回くらい見ている。今回、午前中は何もすることがなかったので見るが、やはり面白く、裕次郎が文学青年的であることがよく分かった。テレビやラジオの人気タレントの裕次郎の北大作と、マネージャー榊田典子の浅丘ルリ子の話である。自分たちを恋人同士と思っている典子は、ある日、大作に聞く、「今日は何の日・・・」「昨日の続きさ」これは、明らかにこの映画が、当時ラジオ関東で人気の番組だった『昨日の続き』をヒントにしていることをあらわしていて、北大作のモデルは、なんと永六輔なのだ。永六輔は、マス・コミの人気者だったが、当時日活の撮影所にもよく出入りして...文学青年としての石原裕次郎『憎いあンちくしょう』
今回出した『ウォーマッド横浜・歴史から消えたビッグ・フェステイバル』で、書けなかったことの一つが、「なぜパシフィコ横浜を株式会社として作ったのか」だった。これは、当時担当課長だった宇野さんにお聞きしようと思っていたのだが、ご都合がつかずに駄目で、その後に亡くなられてしまった。宇野さんの下にいた戸塚係長とも連絡が取れずに上手く行かなった。そこで、本の中では、会社の問題は触れずにおいた。先日、当時のみなとみらいの国際会議場担当にいた白井君に聞くことにした。彼は、1986年に唯一の横浜市職員で「国際会議場担当」に発令された人なのだ。ある日、白井さんらのところに、新たに管理職として岡本部長、宇野課長が人事異動で来た。そして、白井さんたちは、国際会議場の組織体について、報告した。公設民営など、多くのケースを報告する...やはり岡本坦さんだった
12日の対巨人戦で、阪神の投手村上が7回まで完全に巨人を押さえていたのに、8回から交代させたことが議論になっている。「村上に最後まで投げさせて、完全試合をやらせるべきだった」と。だが、私は、このような選手を思いやる「温情」が阪神をだめにしてきたと思うのだ。以前、真弓監督の2010年10月にも、にもこんなことがあった。BSで、阪神、横浜戦を見ていた。投手の久保が良い出来で横浜を1点で抑え、3-1でリードして9回を迎えた。藤川が出て来ると、解説の鈴木啓次が,「藤川が抑えて2死になれば、矢野が出てきて受けるだろう」などと言っていた。なんてつまらないことを言うのか、と思っていると、その性か、藤川がストライクが入らなくなり、連続4球になる。「これは、矢野の引退を飾ろうとする気持ちが逆になっている」と言っている。甲子...岡田監督の判断は正しいと思う
日本の音楽フェスの先駆けとして一九九一〜九六年に横浜市であった「WOMAD(ウォーマッド)横浜」を知ってもらおうと、企画立案をした元市職員の指田文夫さん(75)が、著書「WOMAD横浜歴史から消えた日本のビッグ・フェスティバル」を出版した。二十九日には市内で、当時の出演者も招いた出版記念イベントを開く。「WorldofMusic,ArtsandDance」を意味するWOMADはイギリス発祥で、世界各地で今も行われているイベント。ウォーマッド横浜は九一年、みなとみらい地区にできたパシフィコ横浜のオープン記念の一環で、隣接する野外の臨港パークなどで第一回が開かれた。海外からのアーティストのほか、先月亡くなった坂本龍一さんらも参加した。指田さんはオープン前にパシフィコ横浜の運営会社に市から出向しており、社内で企...東京新聞首都圏版で紹介される
1994年の松竹映画、監督は深作欣二、主演は佐藤浩市、高岡早紀、荻野目慶子、津川雅彦など。赤穂藩の浪人の民谷伊右衛門は、湯屋で、湯女の高岡に惚れて一緒に破れ長屋に住む。高岡の巨乳がすごくて、すでにぶらぶらだが『四谷怪談』史上最高の巨乳だと思う。私は、1980年代にスパイラルホールで、内田裕也のイベントが行われたとき、出てきた高岡を見ている。当時は高校生くらいで、その体の大きさには驚いたが、レオタード姿だったので、巨乳とは分からなかった。琵琶弾きの佐藤は、まるで火野正平らと組んで「ロックミュージシャン」のように門付けで生きている。和田薫の音楽は良い。この『四谷怪談』は、実は『忠臣蔵』の外伝で、私は高校生の時から知っていたが、それは日本史の荒久保先生の教えによるものだった。「武蔵小山には、荒久保犬がいる」と言...『忠臣蔵外伝四谷怪談』
加山雄三のアクション映画が3本放映された。『狙撃』『弾痕』『ジャガーは走った』監督は堀川弘通、森谷司郎、西村潔であり、東宝のエース級の監督である。できとしては、最後の『白昼の襲撃』が一番良くて、それは単純にアクションだけにしているからだ。『狙撃』では、ニューギニアの太陽が、『弾痕』では、ペルーの石像がそれぞれ、都会で非人間的な仕事に従事している主人公へのアンチテーゼとされるが、これは非常にシラケる。注目される人物では、『狙撃』の冒頭のベッドシーンの相手は、黒テントの新井純である。『弾痕』の最後に出てくる作家のような男は、演出家の早野寿郎で、この頃もう糖尿病からくる脱疽で、両足に杖を突いて歩いている。ただ、この作品の音楽は武満徹で非常に素晴らしい。『ジャガーは走った』は、加山雄三と田宮二郎のカッコ良さ合戦で...加山雄三3本
水曜日は、横浜稲門会のカラオケクラブで、関内のカラオケ館に行く。ここは、3階までは、元はパチンコ屋で、その上は、もともとは横浜信用金庫の本店だった。以前、横浜コンベンションビューローにいた時、横信から来ていた職員に教えてもらった。「うちの本店は、パチンコ屋の上にあったんですよ」昔、銀行については規制が厳しく、各店舗は自社ビルであることが必須で、貸しビル等への入居は禁じられいたが、信用金庫は例外だったのだろうか。今では、国の規制もゆるみ、銀行も自社ビルではなくて、貸しビルへの入居もOKになっているようだ。そして、以前のシダックスからカラオケ館になり、映像が少しづつ変わっていた。というのも、シダックスには、日活の取締役が天下りしていたので、日活のスターの歌は、もとの映像がついていた。石原裕次郎や小林旭、渡哲也...映像が少し変わっていた関内カラオケ館