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大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」 https://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です。多くのジャンルをさ

大衆文化評論家指田文夫の「さすらい日乗」
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2014/09/26

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  • 渋谷TSUTAYAの場所は

    渋谷TSUTAYAが、休店するそうだ。レンタルが減っているからで、店舗は必要なくなったからだろう。この場所の地下には、渋谷宝塚という東宝系の名画座があったと思う。東宝の新作は、もちろん道玄坂の渋谷東宝でやっていて、ここは戦時中に文学座の『女の一生』の初演も行われた大劇場だった。これに対して渋谷宝塚は、東宝系の邦画の名画座で、ここで黒澤明の『隠し砦の三悪人』を見た記憶がある。2本立てだったはずで、もう1本が何だったかは思い出せないが、『天国と地獄』だったような気がするが。大岡昇平によれば、大都市で変化が少ないのは公共が所有しているところで、民間が所有していた場所は、どんどん変化するものだそうで、ここもその一つなのだろう。渋谷TSUTAYAの場所は

  • 『人間の条件』の俳優の多彩さ

    映画『人間の条件』を全部見て、感じるのは、俳優の多彩さである。その点では、日本とソ連の戦闘となる「4部」は、つまらなくて、ここには最後の避難民の群衆以外に女優は出ていないと思う。ここの主役は、戦車なのだから。5部、6部となると、女優も含めて多彩な俳優が出てきて面白くなる。5部・6部では、娼婦の岸田今日子、さらに少女の中村珠緒、さらに避難民の中では中村美代子、北原文枝、老教師役で御橋公、石炭屋の上田吉二郎、雑貨屋で坊屋三郎なども出ている。金子信夫、二本柳寛、石黒達也、内藤武敏や山内明らも軍隊の中の穏健派(赤と言われる)らもいるが、笠智衆と高峰秀子が出てくるのは、さすがに松竹映画である。ソ連の収容所で通訳をする丸山など、非常に個性的な顔で、他でも見た気がするが、どこの人なのだろうか。この時期、新劇も盛んだった...『人間の条件』の俳優の多彩さ

  • 神殿を作ればよい

    東京の渋谷で、ハロウィーンでの若者の集合、騒ぎが問題となっている。バカバカしいと言えば、それまでだが、それは、この渋谷に神殿がないことによると私は思う。正月各地の初詣では、どこでも数万人が集合しているが、どこでもこのような騒擾は起きていない。それは、そこには神殿があり、参拝して帰るからだ。だから渋谷区も、どこかに神殿を作ればよいと思う。そうすれば、浄財も得られて財政的にも潤うことになる。渋谷公会堂に、ハロウィーン神殿を仮設すれば良いのではないだろうかと思うのだ。そうすれば、渋谷駅からパルコの前を登り、公会堂の神殿でお祈りして、三々五々散れば良いだろうと思う。渋谷区のご賢察を期待したいと思う。神殿を作ればよい

  • 東宝の『人間の条件』

    「東宝の『人間の条件』」というと、「東宝に『人間の条件』なんてないだろう」とくるだろう。その通りで、映画ではなく、演劇で、日比谷の芸術座で公演されたのだ。1957年で、主演は平田明彦、その妻三千子は司葉子、脚本は小幡欣治、演出菊田一夫・久保昭三郎、音楽芥川也寸志で、9月から12月まで行われた。平田明彦と司葉子なので、映画の大スぺクタル作品とは異なり、たぶん純愛ものだったと思うが、これの方が原作に近いと思う。さて、この久保昭三郎は誰かと思われるだろうが、当時新劇団の一つだった葦の方で、脚本の小幡欣治も、実は葦からの委託で脚本化をすすめていた人なのだ。この頃、小幡さんは、原作者五味川純平氏にお会いしていているが極貧で、奥さんがミシンの仕事で生活を支えていたそうだ。小説がヒットしたので、東宝、そして菊田一夫が劇...東宝の『人間の条件』

  • 『黒い妖婦・M』 横浜の野音の塀が見えた

    1976年、東映の池玲子が日活に招かれて作られた作品だが、「10分に1回のポルノシーン」の原則に反し、肝心の池玲子のセック・スシーンはない。これで良かったのだろうかと思ってしまう。横浜にヤクザの親分の成田三樹夫の暗殺の命令を受けて池玲子が横浜駅に来る。当時なので、西口で、すぐに元町あたりらしい成田のビルに近づき、彼と幹部の今井健二の会話を遠いビルの屋上から、読舌術で読み取ってしまう。だが、彼女は普通の裸眼なので、数百メートル離れたビルの屋上から会話を読むのは超能力である。今井との対立、子分の木島一郎の暗躍などもあるが、要は、いかにして池玲子が、成田三樹夫に近づいて遣るかになる。成田と妻の森秋子の間には女の子がいて。その子を池玲子が助けたことから、森秋子がやっている喫茶店の二階に潜むようになる。もちろん、最...『黒い妖婦・M』横浜の野音の塀が見えた

  • 「日本人は儀式好き」 相鉄・東横締結式

    横浜経済新聞のユーチューブ版を見て、最高だったのは、7月に行われた相鉄と東横線の新横浜地下で行われた締結式の映像だった。まず、議員等50人以上でレールの締結が行われる。次が、点検確認で、現場技術者の長のような人が、線路上に降りて、歩きながらレールを器具で叩いて点検して、「異常なし」そして、本当の現場の長による清めで、レールに酒をかけ、くす玉割りになり、最初のモーターカーが進んで終了だった。おそらくは、この次に新横浜プリンスホテルで宴会だったろうと思う。私も、横浜市会議長の公的秘書を4年間務めたときに、さんざ出た儀式で、日本人は儀式が好きだなあと思う。だが、日本人以上に儀式好きなのは、中国で、どこへ行っても、まずは挨拶の交換、贈り物の交換になる。まさに、日本の古代の、遣隋使などもこうだったのだろうと思ったも...「日本人は儀式好き」相鉄・東横締結式

  • 町田市は、もともと東京都ではなかった

    昨日の朝日新聞に、ちびまる子ちゃんの中で、「東京に行くと言ったら、そこは町田で、東京とは思えなかった」との挿話が出ていた。だが、これは問題が逆で、もともと町田は、東京ではなく神奈川県だったのだ。明治初期、全国で自由民権運動が盛んだったことはよく知られているだろうが、とくに横浜市と町田等の多摩エリアは、大変にその運動の盛んな地域だった。しかも、この二つの地域は、絹、生糸の生産と海外への輸出を通じて深く結びあっていて、貨物鉄道の横浜線が関係者によって作られるくらいだ。そこで、明治政府は考えて、この二つの地域を分割することにした。町田市は、神奈川県から切り離して、東京に入れて三多摩の一部としたのだ。逆に、後に神奈川県に編入された地域もあり、それは小田原県だった。明治維新の廃藩置県のとき、小田原は、小田原県となっ...町田市は、もともと東京都ではなかった

  • 国際交流の本質は、国際誤解の始まり

    昨日、池袋の東京芸術劇場で見たフランスの太陽劇団の公演は、「彼らの日本理解は、この程度なの」というものだった。もちろん、歌舞伎、文楽、お能等を理解し、稽古して自己の作品に取り入れようとするのは、よいことで、素晴らしいとは思う。だが、少し違うのではないかと思う表現もある。いちいち言ったら切りがないが、まあこんなものとは言えるだろう。昔、1960年代にジャズのアートブレイキーが『UGETSU』という曲を作り、演奏したことがあった。もちろん、溝口健二の名作『雨月物語』から作ったものだが、彼らがどの程度、溝口健二の映画を理解したのか、と高校生ながら思ったものだ。今では、きちんと理解していなくて、国際誤解でも良いではないかと思うようになっているが。国際交流の本質は、国際誤解の始まり

  • 太陽劇団『金夢島』

    伝説のフランスの劇団の22年ぶりの日本公演だそうだが、感想は、「この程度なの・・・」というものだ。最後、「アイル・ビー・ミート・アゲイン・サムデイ」に合わせ、能面のようなメークをした演者が扇を振りながら、ゆっくりと舞う。「これは、東宝歌舞伎・長谷川一夫の公演『春夏秋冬』と同じだ」と思った。見た人は、もういないだろうが、東宝歌舞伎では、一部は長谷川主演の劇で、多くは時代劇だった。二部は、、共演の女優たちの踊りではじまるが、これがジャズ、タンゴやルンバなどの洋楽なのだ。洋楽で日本舞踊を踊るのである。彼女たちがひと踊りした後、セリから長谷川一夫が上がってきて、さらに踊りを続ける。これは、完全な日本的なものと西欧的なものとの混合なのだ。簡単に言えば、松平健の『マツケン・サンバ』の先駆けである。ついでに言えば、歌舞...太陽劇団『金夢島』

  • 悪役と女優 『人間の条件・第三部』

    『人間の条件・第三部』を見る。本来、徴兵免除だったはずの梶の仲代達矢が陸軍に入隊しての虐待劇。いきなり、植村謙二郎上等兵の新兵たちへのビンタ攻撃で始まる。最大の被害者は、優柔不断な男の田中邦衛で、あまりの暴虐に耐えかねて、ついには便所で自殺してしまう。上等兵の悪役には、植村の他、南道郎と内田良平。南は、この映画の悪役で有名になり、他の戦争映画では必ず悪い上等兵となる。自衛隊友の会員でもあり、選挙に出たが落ちた。この悪役3人に殺されてしまった田中邦衛の妻は、倉田マユミで、きつい感じが大変にぴったり。底なし沼にはまり込んで死んでしまう南道郎に対し、助かった仲代が陸軍病院で知り合う看護婦が岩崎加根子で、やはり大変に美人。この二人の仲を憎悪するのが、婦長の原泉で、大変に怖い。だが、この人は、日本における女性モデル...悪役と女優『人間の条件・第三部』

  • 「ウドーの前身は」

    今朝の新聞に、ウドーの有働誠次郎氏の逝去の報が出ていた、93歳とのこと。ウドーと言えば、外国からのタレントの招へい・音楽の興行事務所と思われているだろう。だが、それは、後半生であり、もともとは横浜や東京の米軍基地等に、さまざまなタレントを入れる会社だった。それは、アメリカの歌手等もあったが、実は日本のさまざまな歌手、芸人等を基地等に入れる仕事が始めだったのである。だが、そうした基地等に入れる業務は1970年代以後、ベトナム戦争の終焉以後、次第に減っていったので、日本人向けの業務に代わっていったのだ。横浜の根岸の米軍基地での公演の写真については、横浜のダディの渡辺光次さんが、『フェンスの中のアメリカ』として出版されている。そこには、基地内の米軍家族の姿と同時に、日本人芸人の公演も沢山載っていた。それは、きわ...「ウドーの前身は」

  • 映画『人間の条件』の間違いを見つけた

    映画『人間の条件』を見ていて、非常に細かいことだが、ある間違いを見つけた。それは、鉱山会社の労務担当の仲代達矢と山村聰が、宮口清二、南原伸二、殿村泰治ら中国人捕虜の幹部と話し合う中華料理の店のテーブルの上の円形の台である。ほんの少ししか動かなかったが、テーブルの上に丸い台があり、それが回転するように見えた。この回転台は、日本の目黒雅叙園が始めたものであり、戦時中の中国にはありえないものだからだ。中国では、宴会のときは、迎える側が、箸で料理を賓客に取ってあげるのが普通の習慣で、今はどうか知らないが、昔はなかったものなのである。細かいことだが、気になった。映画『人間の条件』の間違いを見つけた

  • 『人間の条件・第一部・第二部』

    何回か見ているが、今夜は野球もないので見るが、ともかく面白い。筋がどんどん展開していることもあるが、役者が最高。中では、鉱山の所長の三島雅夫が最高である。軍から特殊工人の捕虜を受けることになり、彼らのサボタージュに手をやく仲代達矢の梶に言う、「女だよ、女だよ」一般の日本人抗夫のために置いている慰安所の女を鉄条網で囲んでいる中国人特殊工人、それは八路軍のようだが、に与えると、歓声を上げて喜ぶ。「人間は、男と女市かいなんだ」の三島の言の通りである。さらに、憲兵の阿部徹の憎々しさと凶暴性、また仲代の味方をしてくれる物事を理解してくれる山村聰の友情も良い。だが、冷静に考えると、この大作ができたのは、やはり松竹の力だと思う。特殊工人らエキストラの多さ、助監督の一人は、大船から膨大な衣装、美術を国鉄の貨物のチッキで送...『人間の条件・第一部・第二部』

  • 「日本ニュース177号」

    昨日は、1943年10月21日に、かの「学徒出陣式」が神宮外苑競技場で行われた日である。あの有名な「日本ニュース177号」は、後半であって、実は前半がある。それは、5月に行われて大敗戦を喫したミッドウェー海戦の模様なのだ。アメリカの空母ホーネットに乗っていたカメラマンが撮影したフィルムで、そのカメラが水中に落ちて、日本海軍に拾われて、日本映画社に提供されていたものなのだ。日本映画社の人たちは、多くが戦場に出ていて、太平洋戦争の実情を知っていたので、どこかで惨状を見せようと考えていた。そして、悲惨の一語に尽きる「学徒動員式」のフィルムに合わせたのだ。実際の学徒出陣の撮影も、林田重男以下の幹部カメラマン総動員で撮ったのだそうで、非常に優れたカットの連続になっている。この177号は、ユーチューブにあるので、是非...「日本ニュース177号」

  • 「国連の中の反ナチズム組織」

    世界中には、国連が認定したピースメッセンジャー都市があり、日本では、広島、長崎と並び、東京と横浜市である。そして、1991年のパシフィコ横浜のオープニングのときは、横浜市は、この国連ピースメッセンジャー都市会議を開催した。その前年、私は、会議への参加を誘致するため、当時ハンブルグの横浜市事務所におられた新井成一さんと一緒に、欧州のローマ、フィレンチェ、ウィーン、マドリッドそしてリスボン市に行った。そこで、私が初めて分かったのは、この運動は、欧米での「反ナチズム運動だ」ということだった。だから、各都市から代表が来るが、それは市役所等からは金は出ず、その地域の反ナチス組織、つまりユダヤ人グループから寄付金が出て派遣されるのだ。まことに、世界のユダヤ人組織はすごいというしかない。また、1948年後、イスラエルは...「国連の中の反ナチズム組織」

  • 澤田監督との宴会で

    澤田監督とは、次のように話したことがある。日曜日の沢田幸弘監督との懇親会で、驚いたのは、監督が会場シネマノヴェチエントのすぐ近くの生まれで、西前小学校の卒業だったこと。当時、藤棚町は、三菱重工等の労働者の町で賑わっていて、「富士館と言う映画館もあり、大映や東映の映画を見た」とのことだった。菊池仁の本でも、映画館の他、貸本屋もあったとのことで、今とは比較にならない繁華街だった。沢田監督は、Y校を出て、家の事情から一時銀行に勤めた後、中央大学に入り、演劇をしようと劇団東童に入った。そこは児童劇団で、牟田悌三、戸塚睦夫らがいて、かつては小林旭もいたという児童劇団の老舗だった。全国の学校等を廻り、3年目に「劇団員にするよ」と言われたが、その時もらったのが1、000円で、「これはひどい」と思い、丁度試験があったので...澤田監督との宴会で

  • 『わが映画人生・沢田幸弘』

    監督協会が作っている、監督に聞くシリーズで、2009年元日活の斎藤信幸が聞き役。沢田の作品は、以下のとおりで、見てないものも多いなあと思う。1968.04.28大幹部無頼日活...助監督1968.11.02無頼人斬り五郎日活...助監督1968.12.28無頼黒匕首日活...助監督1969.03.15無頼殺せ日活...助監督1970.03.07斬り込み日活1970.07.22反逆のメロディー日活1970.12.15女子学園ヤバイ卒業アカデミー・プロ=日活1971.04.24関東幹部会日活1972.11.29セックス・ハンター濡れた標的日活1973.02.17反逆の報酬東宝=石原プロ1973.06.23濡れた荒野を走れ日活1974.07.24ともだち日活児童映画室1974.11.22あばよダチ公日活1976...『わが映画人生・沢田幸弘』

  • 東久邇首相案も9月の御前会議見直しも、東條英樹が発案

    朝日カルチャーセンター横浜の「東京裁判資料から読み解く日米交渉と海軍の態度」の最後、6回目をオンラインで聞く。講師は、中央大学の佐藤元英先生。この先生は、非常にまじめで面白いのだが、資料に拘ることが多く、どこが重要なのか、初めに言わない。松竹映画では、城戸四郎からは、絶対にダメとされて、1本も映画化されない助監で終わるだろう。今日も、最後に重大なことを言われる。それは、1941年10月の近衛内閣の重大局面で、近衛首相等と東條陸相が対立し、日米交渉はもう無理とする陸軍側となんとか交渉を続けようとする近衛首相、海軍、外務省との対立が続いていた。そして、10月14日深夜に鈴木貞一企画院総裁が近衛文麿のところに来た。そして、その前に東條英樹と話してきたが、彼は、「もうこうなったら、東久邇殿下に首相をお願いするしか...東久邇首相案も9月の御前会議見直しも、東條英樹が発案

  • 田宮二郎について

    衛星劇場で、『黒の挑戦者』を見ていて、学生時代に東京12チャンネルで、『田宮二郎ショー』の美術のアルバイトをしていたときのことを思い出した。1967年の春休み中で、スポーツ新聞では日活が多摩川撮影所を売却する記事が出ていた。「あの日活がスタジオを売るの?」と驚いたものだ。当時の12チャンネルで、唯一のスタジオ制作の番組が、『田宮二郎ショー』で、彼を主人公に毎回内容が異なるバラティ・ショーだった。美術部の棟梁は、元は東宝の美術にいた方で、芝居の美術にも詳しく、「伊藤喜朔さんなんかは、すごかったねえ・・・」と二言目には言っていた。そこの美術は、東宝から来た方がほとんどで、言わば現場の職人レベルでも、映画からテレビ界へと人員の移動が起きていたのだ。彼ら、職人は大変に技術は上手くて、学生劇団の素人の私には到底かな...田宮二郎について

  • 「東京12チャンネル最初のプロ野球中継」

    1966年7月、大学1年の私のところに、12チャンネル運動部ディレクターの若松さんから電話があり、「今度、局で初めてプロ野球中継を神宮球場から中継放送するので、そのアルバイトに来てくれ」と言われ、東京タワー下のテレビ局に行った。若松さんは、私の兄の中学時代の同級生で、野球部の仲間の一人で、よく知っている方だった。行くと、サブに連れて行かれ、モニターの前に座らされて、画面を見ながら、投手のS、B、O、つまりすちりストライク、ボール、アウト(現在は、ボールとストライクの順序が逆だが)の表示を釦を押す仕事だった。あの画面に出る表示は、自動的に出るものではなく、アルバイト等の担当がモニターを見て出しているものなのだ。だから、甲子園の高校野球では、多数の担当者を使用するためか、押すのが間違ったり、遅かったりすること...「東京12チャンネル最初のプロ野球中継」

  • 歴代局長に話す

    昨日の夜は、横浜市港湾局のOB会のはまどり会の宴会に行く。場所は、山下町のホフブロウであり、この店は、元はシルクホテルの後ろにあったレストランだった。午後は、大黒ふ頭のスカイウォーク等を見学したらしいが、私は用があったので、夜だけ行く。30人弱で、歴代二人の局長といろいと話すが、彼らは、結論しか知らないことの途中の話をする。それは、今はみなとみらい中央地区のワールドポーターズのあたりに存在した異常な形状のふ頭の「一文字ふ頭」のことである。ここは、異常な形状で、横に突き出た小さなふ頭で、多数の倉庫が立っていて、道路が非常に狭いのだった。そして、ここの土地の所有者には、港湾とまったく無関係な業者もいるという実に変な港湾施設だった。これが、できた経緯を聞いたのは、1954年の港湾法施行以前から横浜港にいて、その...歴代局長に話す

  • イスラエルのガザ地区攻撃は、東京大空襲と同じ

    イスラエルが、ガザ地区を攻撃し、ハマスを殲滅すると言っているが、これは第二次大戦中に日本が受けた米軍の空襲の理屈とまったく同じだ。かの第二次大戦中、アメリカ軍は当初は日本に対して「戦略爆撃」で、三菱重工や中島飛行機の工場等を爆撃していた。ところが、猛爆撃の割には、日本の航空機生産は、減らなかった。その原因は、日本はアメリカとは異なり、大規模工場で一貫して飛行機を作るのではなく、零細な町工場で航空機の部品を作り、それを大工場で組み立てて生産する方式ということが分かり、それなら「都市全体を爆撃しないとダメだ」となり、東京をはじめ大都市の無差別爆撃になった。この理屈は、「ハマスは、ガザのすべての地区に潜んでいるので、地区全部を殲滅する」という今のイスラエルと同じ論理だ。では、なぜ欧米は、このイスラエルのナチスド...イスラエルのガザ地区攻撃は、東京大空襲と同じ

  • 広島の藤井には注意しよう

    今シーズン、各氏の予想では、広島の評価は低かったようだが、私は、かなりやるのではと思っていた。その理由は、広島から鈴木誠也がいなくなり、彼のホームラン頼みがなくなり、全員が単打でつなぐという広島本来の野球に戻りつつあった上に、ヘッドコーチに藤井が来たからだ。以前から、阪神を見ていて、一番優れた、悪くいえば「少々ずるい」捕手は、藤井だったからだ。この予想通り、広島の連勝になった。セ・リーグの個人タイトルの選手が一番多い、横浜が連敗したのは、首脳陣に問題があるというべきだろう。さて、藤井だが、近大を出て、ドラフト2位で近鉄に入ったが、オリックスとの合併の分配ドラフトで、新球団の楽天に移籍となる。楽天では、野村克則らと争った中で、監督の野村克也からは、そう高い評価を得ていなかったのは意外だが、野村は、ヤクルトで...広島の藤井には注意しよう

  • 関内は、多くの人出だった

    昨日の午後は、ある企画の打ち合わせで、関内に行くが、祭りで多くの人出だった。元『浜っ子』『ハマ野毛』の編集長だった渡辺光次さんを入れて、いろいろと話す。中で出たのが、元本牧の米軍基地に合った劇場のビル・チッカリングシアターのことだ。本牧再開発のT課長は、大変優秀な方で、将来を期待された方だった。彼などは、本牧を更地にすることが当然だったが、「あの劇場とPXぐらいは残しておいても良かったのではないか」と思っていたそうだ。その通りで、近年の再開発では、旧跡を残して再開発する手法が取られているが、本牧でもそうであった方がよかったと今にして私も思った。後に、マイカルの中に、アポロシアターができたが、これはすぐにダメになった。だが、渡辺さん曰く、「基地などという負の遺産は、すべて失くしてしまえ」が当時から、つい最近...関内は、多くの人出だった

  • ナイアガラ・ファースト・ツアーから、布谷文夫ライブなど

    ユーチューブで、1977年の渋谷公会堂でのファースト・ナイアガラ・ツアーを見ていると、いろいろと発見があった。最後のアミーゴ布谷の『ナイアガラ音頭』(ここでは、ナイヤガラと表記)に、前のブログで「シリア・ポールが出てこなかった」と書いたが、浴衣女性の2番目は、彼女であることが分かった。また、この映像の撮影は、井出情児であることも。彼は、最初は、状況劇場の役者で、そこを辞めた後は、東宝映画で『白昼の襲撃』『昭和元禄日本X年』などに出ていた。さらに、2012年に亡くなった布谷文夫さんだが、その頃のライブ映像もあり、なんと元住吉のライブハウスのものなのだ。元住吉は、私とは16歳も離れた長女が結婚して住んでいたところなので、よく知っている。あんなところにライブハウスがあったのか、それにしても布谷さんの姿は、相当に...ナイアガラ・ファースト・ツアーから、布谷文夫ライブなど

  • 『徹子の部屋・池内淳子・山岡久乃・乙羽信子』

    黒柳徹子の『徹子の部屋』で、三人の「お母さん女優」で、池内淳子、山岡久乃、乙羽信子が特集された。どれも面白かったが、彼女たちが母親を演じたのは、テレビで、映画ではない。この三人の内、池内淳子と山岡久乃は、川島雄三監督の映画『花影』で、銀座のバーの女給とオーナーの役で出ていて、大変に二人とも好演している。私は、この映画が大好きなのだ。川島というと、『幕末太陽伝』と来るが、あれは日活の俳優、さらに助監督の今村昌平はじめ優秀なスタッフの力の所産であり、川島一人のものではない。その点、『花影』は、東京映画という小スタジオで作られたもので、そこには川島雄三以下、カメラの丘崎宏三らの職人芸が結集したもので、大いに評価されるものだと私は思うのだ。さて、乙羽信子だが、夫である新藤兼人との関係で語られることが多いが、私は新...『徹子の部屋・池内淳子・山岡久乃・乙羽信子』

  • 小学校の運動会で

    外では、小学校の運動会が行われている。私は、小学校の運動会では、苦い思い出がある。6年生のとき、運動会のアナウンスの担当に指名された。半分嬉しかったが、半分は嫌だった。というのは、担当のA先生は、明らかに問題のある人だったからだ。親友で、非常に可愛かった田辺史彦君は、「先生の膝の上にのせられて、おチンポコを触られた」というのだ。まさにジャニー喜多川なみで、こういう人は実際にどこでもいるのである。ただ、先生は、普段はとても良い先生で、教え方もうまい人との評判だった。だから、ジャニー喜多川をすぐれた人として評価することもわかるのだ。だが、そうした人が、問題の趣向をもっていて、明らかに犯罪なのである。幸い私は、先生の被害には会わなかったが。その意味で、今回のジャニー喜多川の問題で、被害にあった方の気持ちはよく分...小学校の運動会で

  • 北沢方邦氏、死去 93歳

    今朝の朝刊に、人類学者の北沢氏が、亡くなったと出ていた。構造主義派で、私も1冊くらいは読んだことがあるはずだが、中身は憶えていない。ただ、この人が作・演出した芝居『ホピの書』というのを見たことがある。1975年4月で、なんでもアメリカの先住民の伝承を基にしたものらしかったが、少しも面白くなかった。ただ、それが上演された場所は、よく憶えている。赤坂国際芸術家センターという廃ビルのような建物で、当時はTBSの裏を登っていたあたりにあった。普段は、劇等の上演ではなく、稽古場として使われていたところのようだった。唯一、映像で残っているのは、フォーリーブスの映画『急げ、若者』で、阿佐ヶ谷のラピュタで、多くの少女と一緒に満員の館で見た時、「これは、赤坂の国際芸術家センターだ」と思ったものだ。その場所は、その後のTBS...北沢方邦氏、死去93歳

  • 「自分の記憶は、いい加減だな」と思う

    ユーチューブで、ロジャーニコルズから、大滝詠一の『日本ポップス伝』、さらに『アメリカ・ポップス伝』を見て、最後に、1977年6月に渋谷公会堂で行われた『ファースト・ナイアガラ・ツアー』のラストのフィルムを見た。このツアーのフィルムの全体のもあるのだが、これには冒頭の語り、「月曜8時は紅白歌のベストテンではなく・・・」と言って始まったことを憶えていて、ここはそこにはない。大滝の名を知ったのは、まだ芝居をやっているときで、効果をやってくれたMさんという人が、さすがにこの辺の音楽に詳しく、聞いて驚いたのだ。「こんな音楽があるのか」と。最初の『ナイアガラ・トライアングル』が出た頃で、ラジオ関東の『ゴーゴー・ナイアガラ』も聞いていたと思う。さて、このコンサート・ツアーの目玉は、ナイアガラ・レーベル最初の女性歌手シリ...「自分の記憶は、いい加減だな」と思う

  • 中東問題は、宗教戦争ではない

    アラブとイスラエルの紛争、戦争の元は、宗教ではなく、水である。この地域は、紀元前から水があり、死海、ガリラヤ湖など、水に恵まれた地域だった。だから、『聖書』にも「ランド・オブ・ミルクアンド・ハニー」、つまり酪農ができ、農業もできる豊かな地域だったのだ。レバノンには、大森林があり、レバノン杉として有名だった。また、ユダヤ国の滅亡後、多くのユダヤ人は、欧州に行ったが、中東にいた者も多く、彼らとアラブ人は、平和に共存して現地に住んでいた。そして、近代に入り、欧州でユダヤ人迫害が起きると、これに対応して「シオニズム」がおき、ユダヤ国家を作る運動が起きる。ただ、そのユダヤ国家の場所の案はいりいりとあり、アフリカや南米、さらに日本では満州国にユダヤ人を誘致しようとする陸軍の秘密工作もあり、「河豚計画」と言った。だが、...中東問題は、宗教戦争ではない

  • 宝塚以外の歌劇団

    私が、一番芝居を見ていた1970年代、宝塚歌劇団の他、松竹歌劇団や日劇ダンシングチームがあった。大阪のOSKは、さすがに見ることはできなかった。たまに来て、浅草国際劇場で公演することもあったようだが、残念ながら見ていない。というのも、SKDは、お上りさんと親父が客層で、劇がないからだった。ラインダンス目的の男ばかりだったわけだ。最近になって、衛星劇場で昔のSKDの公演を見ると、公演の演出と撮影は、松竹大船の助監督がやっていて、SKDでは演劇性は問題にされていなかったようだ。吉本隆明説では、「ドラマは物語性の上に成立する」のであり、演劇性のないSKDには、感動性が薄いのだった。残るは、踊りだけになり、その結果、親父の嫌らしい目だけとしかなくなるのだ。それは、日劇も同じで、ここはコメディアンやアクロバット・シ...宝塚以外の歌劇団

  • 『復讐するは我にあり』

    今村昇平は、戦後の監督で一番だと私は思う。もちろん、増村保造も大好きだが、晩年はかなりひどくて、『この子の七つのお祝いに』や『エデンの園』はひどかったので、その分は割引して、やはり今村昇平にしたい。これは、1963年から64年に、全国で5人を殺害した西口浩の事件を基にした佐木隆三のノンフィクション小説の映画化である。西口事件については、小山台高校の同級生に、西口君がいて、彼は東大法学部に現役で合格し、後に創価学会が作った学生組織の新学生同盟の初代委員長になったが、この時は、みんなで「西口、西口」とからかったものだ。話は、原作とほぼ同じだが、ここで今村昇平が描こうとしているのは、日本の下層社会の不思議な実態だろうと思う。西口(ここでは榎津巌)が、凶悪な殺人犯であることが分かってくるが、浜松の連れ込み旅館の女...『復讐するは我にあり』

  • 『黒い画集・あるサラリーマンの証言』

    1960年、東宝映画、言うまでもなく松本清張原作で、もっとも映画化に成功した作品だろう。準大手繊維会社の管財課長という堅い、さえない40歳の男が小林桂樹で、実は課内の女事務員・原知佐子を新大久保のアパートに囲っているというか、関係を持っていて、妻の中北千枝子には勿論内緒。原と熱いひと時を過ごした帰り、道の角で近所の男の織田政雄に会い、つい会釈してしまう。これが、保険外交員の織田が、その客の向島にいる女(役者は不明)が殺害されて、その犯人にされてしまう。刑事が西村晃で、実に鋭い演技をする。織田は、新大久保で小林に会ったアリバイを申し立てるが、原との関係がばれてはこまる小林は、警察でも検察でも否認し、渋谷で映画を見ていたという。そのために、原は古本屋で『キネマ旬報』を買って、筋書きを小林に暗記させるが、この店...『黒い画集・あるサラリーマンの証言』

  • 『黒い樹海』

    1960年、大映作品、後の「黒のシリーズ」に先行する松本清張原作のサスペンス映画。主人公は、叶順子で、これが良い。私が早稲田の映研に入った時、部員の中で一番人気があったのが、彼女だった。地方に旅行すると出かけた姉が、山梨で事故死したと聞き、現場に行くが、彼女の死を不審に思って、新聞記者の藤巻潤と一緒に犯人を捜す。雑誌の編集者だった姉には、いろんな知り合いがいて、そうした上流の連中の腐敗した生活が暴かれる。見ていておかしいのは、彼らが「パーティ」を「パーテエ」と発音していることで、菅義偉前首相らと同じ英語の発音レベルである。成形外科医と奇妙な外国帰りの「文化人」の根上淳が、怪しいが、なんと二人は、表面上は嫌いあっているが、本当は組んで3人の殺人事件をやっている。根上が、女言葉で台詞を言うのが非常におかしいが...『黒い樹海』

  • 全国にあった少女歌劇団

    『ブギウギ』では、主人公が某歌劇団に入団できたところで、今週は終わった。大正末から昭和初期、宝塚歌劇団の成功を見て、全国に様々な少女歌劇団ができた。横浜にも鶴見の花月園に花月園歌劇団があり、1994年に85歳で亡くなった私の母も見に行ったことがあると言っていた。蜷川幸雄と清水邦夫が、1982年に再会を果たした劇『雨の夏、30人のジュリッットが還ってきた』も、富山にあった少女歌劇団のことを基にしている。このように、全国の大都市や行楽地には、こうした少女歌劇団があったのだ。松竹の女優、田中絹代も、大阪にあった琵琶歌劇団(琵琶の伴奏で歌劇を行う)にいて、その人気スターから、映画にスカウトされたのである。全国にあった少女歌劇団

  • ジョーさんの方が偉いね ジャニー喜多川問題で

    マスコミで報道されるジャニー喜多川の性加害は、ほんとうに呆れる。350人以上の少年に性加害を加えたというのだから、まさに性犯罪以外のなにものでもない。思い出すのは、3年前に亡くなられた日活の大スターのエースのジョーこと、宍戸錠さんである。彼は、1,300人以上の女性と関係してたと豪語していた。数字に誇張はあり、また金銭のやり取りがあったか否かは別として、基本的には相手とは合意の上であるだろう。やはり、エースのジョーは、正義の味方であり、ジャニー喜多川のような卑怯な人間ではないね。ジョーさんの方が偉いねジャニー喜多川問題で

  • 1億円の重さ

    猪瀬直樹が、昨年の都知事選挙の際に、徳州会から5,000万円を貰ったことが問題になっているが、実は私は、今からちょうど40年前のことだが、現金約1億円を運んだことがある。横浜市に入り最初の職場は、市会事務局庶務課だった。一番若い下っ端の職員だったので、みなさんの使い走りだったが、その一つに、毎月支給される議員、職員の現金の運搬があった。当時は、現在のように銀行振り込みではなく、すべて現金で支給していたので、横浜銀行が持ってくる市長側庁舎の会議室から、市会事務局の部屋まで一応男の私が運ぶのである。給与の計算、現金の袋詰めはすべて手作業で、2人の女性が分かれて担当していたが、現金の運搬は男の私が担当し、最後の袋詰めは庶務課の職員が5人くらいで手分けしてやっていた。だが、1円でも違うことは困る上、午前中には終わ...1億円の重さ

  • うなぎ屋でジャズを

    いずれ出てくるだろうが、服部良一さんの最初の音楽の職場は、大阪の出雲屋というウナギ屋だった。ウナギであり、泥鰌すくいではない。たしかに、ウナギは注文を受けてから焼き、出来上がるんで時間がかかる。テレビも有線放送もない当時、時間繋ぎになにかの「余興」は必要だったろう。そこで、ジャズバンドがおかれたようだ。また、物珍しさもあり、高島屋や三越などのデパートにも少年音楽隊があり、店内をパレードしていたようだ。その中から出たジャズ・ミュージシャンには、南里文雄などがいた。さて、当時の日本でジャズが、大阪等の関西で盛んになっていた理由は、言うまでもなく関東大震災があり、壊滅した東京から、音楽や映画、文学者等が大挙して関西に移住したことがあった。谷崎潤一郎も、その一人であり、そのことが後に名作『細雪』に至る小説を生んだ...うなぎ屋でジャズを

  • 原辰徳、監督辞任

    原辰徳が巨人の監督を辞めるそうだが、当然である。私は、二つの点で、原はひどいと思ってきた。一つは、大城の他、山崎、中川等の東海大の選手をやたらに使うことで、サラリーマン社会なら「可愛い後輩」を使うのは良いが、実力主義のスポーツで、学閥優先はまことによろしくない。横浜DeNAの監督をやった中畑清も、駒沢大学出の選手ばかり使いまことに、バカじゃなかろうかと思ったものだ。もう一つは、例の「都市伝説」と言われる、「菅野・息子説」である。私は、菅野は原の息子だと思う。例の現金1億円を払って買い戻したと言われる女の日記での、原と彼女が付き合っていたとされる日々の次の年に菅野が生まれていること。もう一つは、菅野の登板の時の態度で、彼はすごい投手で、その力は大したものだと思う。だが、勝っても、特に完封したときでも、少しも...原辰徳、監督辞任

  • 「文化映画」について

    今は、死語になった言葉に、文化映画がある。これは、記録映画、ニュース映画、PR映画等を含む言葉で、1942年の映画法の成立によって、日本中の映画館では、これらの上映が義務ずけられたのだ。同時に、当時200社あったと言われていた文化映画社は、最終的には4社に統合された。このとき、劇映画では、約20社あったというのを、情報局は、東宝と松竹の2社に統合しようとした。この情報局案に異論をとなえたのが、当時は新興キネマ京都撮影所長だった永田雅一で、彼は一番古い歴史ある日活を潰すのはけしからとして、新興キネマを中心に第3の会社大映を作ってしまうのだ。永田は、もともとは日活の宣伝部にいたので、日活への思いがあったのだ。このとき、これに異をとなえたのは、当時日活の社長だった堀久作である。彼の意見は、これまた興味深いもので...「文化映画」について

  • 映画『愛と死をみつめて』の意義

    映画『愛と死をみつめて』は、1964年9月、東京オリンピックの最中に公開され、4億円のヒットになった。監督西河克己によれば、メロドラマの背景には戦争や革命などの大事件が必要で、『風と共に去りぬ』も『君の名は』もそうで、平和の時代には、難病ものしかありえないそうだ。まさに、これは難病に冒された大島みちこさんと、その友河野実氏との往復書簡を基にしたベストセラー本のドラマ化で、最初はテレビの『東芝日曜劇場』での大空真弓と山本学の主演作だった。それが、日活の青春スターの吉永小百合と浜田光夫の共演で映画化されたが、監督が小林旭の「渡り鳥シリーズ」の斎藤武市ときき当時私は非常に驚いた。だが、斎藤は、もとは松竹の小津安二郎の助監督で、女優の田中絹代が日活で監督をするので、その補佐役として行かされたので、本来メロドラマ的...映画『愛と死をみつめて』の意義

  • 「パチンコ屋も大変らしい」

    シネマベティで『国葬の日』を見た後、日ノ出町に行くと、駅前にあったパチンコ屋がなくなっていた。前に閉めているときがあったので、どうしたのかと思っていたが、閉店で薬局チェーンに変わっていた。かつて25兆円産業と言われたパチンコ業界だが、近年は大変のようだ。パチンコから薬局とは、やはり健康志向なのだろうか。「パチンコ屋も大変らしい」

  • 『国葬の日』

    昭和以後、一般人で国葬になったのは、1943年の山本五十六と1967年の吉田茂だけで、吉田の時は、私も知っている。ニュースフィルムで見ると、山本の時は、全国民総て悲しむとされていたが、吉田の時はそうでもなかったように記憶しているが、一部のテレビが中継していた。今回、反統一教会の青年によって銃撃されて死んだとき、ニュースが「新興宗教の・・・」と言っていたので、「創価学会の信者がやるはずもないのに・・・」と非常に不思議に思った。国葬は、閣議で決めたそうだが、反対が60%だったそうで、思ったほど盛り上がらなかったように思う。これで得したのは、自民党で、もしこの銃撃死がなければ、日本維新の会は、もっと議席を増やしたと思う。こういう事件が起きた時は、安易な方に流れるもので、日本人は変化を嫌うのである。この大島新の映...『国葬の日』

  • 『ブギウギ』と笠置シズ子

    今日から、歌手笠置シズ子をモデルにした朝ドラの『ブギウギ』が始まった。いずれ出てくると思うが、彼女は大阪の松竹楽劇団(OSK)に入る。このOSKは、今はOSK日本歌劇団となっていて、正統なOSKは、浅草のSKDも含めてなくなり、少女歌劇団で残っているのは宝塚歌劇団のみで、宝塚の「一人勝ち」になっている。だが、戦中まで、宝塚よりもOSKの方が、評価が高かったのだ。宝塚少女歌劇団は、関西のいいとこのお嬢さんの「お嬢さん芸」だというのが一般の評価だった。だから、その歌劇団出のスターも、笠置シズ子の他、京マチ子など、みな大阪のOSK出身で、宝塚からでは月丘夢路くらいだった。それが変わったのは、戦後宝塚が、八千草薫、有馬稲子、乙羽信子、新珠三千代などの映画女優となるスターを出してからだと私は思うのだ。また、舞台女優...『ブギウギ』と笠置シズ子

  • 『ローズのジレンマ』で思ったこと

    先日見た『ローズのジレンマ』では、主人公のローズ(樫山文枝)に5年間に亡くなった夫のウォルシュ(篠田三郎)が出てくる。私のことで恐縮だが、母親は、ある日突然黄疸で目が黄色くなり、子供たちはびっくりして池上に行くと、本当にまっ黄色で、その原因は胆のうがんで、半年で亡くなってしまった。85歳の高齢で、手術は不可能とのことで、胆のうを管で出すだけで、ベッドに寝ている状態になった。その間、次第に衰えて、最後は痴呆的状態になった。その頃、言動がひどくなったが、言うのは自分の実家の人間たちのことで、夫とのことは一度も言わなかったようだ。もっとも、夫、つまり私の父は、亡くなつてから30年以上もたっていたのだから仕方のないことかもしれないが。母は、鶴見の矢向の農家の長女で、下に弟や妹が何人もいたので、彼女が言うのは、そう...『ローズのジレンマ』で思ったこと

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