昨夜と比べると身体も楽になった。丸一日ぶりにまともな食事を口にして、身体の芯から温まった感じだ。三木社長の甲斐甲斐しいお世話のおかげで熱も下がったんじゃないかと思うくらい。「本当に美味しかったです。生き返った感じです」感染の危険をものともせずにやって来て世話をしてくれる彼には脱帽だ。「そう?冷蔵庫に残りを入れておくよ。好きな時に食べてね」「ありがとうございました」食べ終えると「はい、はい。薬を飲...
頭はボンヤリとしたままだが節々の痛みは軽減した。熱は37度7、8分から38度1,2分の間を上がったり下がったりしている。いつになったら平熱まで下がるのか。子どもは熱が下がるのが早いと片岡先生がおっしゃっていたが、30代になると薬の効きも遅いのか。「ああ、辛い・・・もう、勘弁してよ」ぼやいても熱は下がらず、体調は良くならない。ただ寝るだけか・・・。すでに陽は高くなっていて、もうすぐ正午。朝はフルー...
看護師さんが薬と水のペットボトルを持って駆け付け、僕はその場で薬を飲んだ。「特効薬を飲めば治るが、1日、2日は熱が下がらないかもしれない」それを聞き、橋本専務が腕組みした。「となると、休みは明日から一週間くらいですか?」「そうなるな」「一週間!」一週間、と聞き思わず聞き返した。そんなに休んではいられない。「長過ぎます」だが橋本専務は「いいなあ~!」と羨ましそうだ。さっきまで「移したら一生恨む」と...
いきなり現れた橋本専務は珍しくマスクをしていた。鼻から下を白いマスクで覆っていたが、それでも彼は美しい。玄関の鍵を開けると、彼はいきなりこう言った。「早退して正解だっただろう?」「はい。ご配慮くださりありがとうございます」「熱、何度あるの?」「それが・・・38度を超えておりまして」「そう。じゃあ、行くよ」「はい?」「片岡先生が連れて来いってさ」「しかし」橋本専務は「お邪魔します」と言うと靴を脱ぎ...
海鮮あんかけ焼きそばを食べ終えた僕は、橋本専務に背中を押され「さようなら」と会社から追い出されてしまった。37度2分の熱ごときで早退してなるものかと頑張ったが、橋本専務は「俺に移したら一生恨む」の一点張り。山下常務からも電話を頂き、とうとう早退が決まってしまった。 《銀香》のドアを開けて「お先に失礼します」と言うと、カウンターから服部くんが心配そうに「大丈夫ですか?」と言った。サンドウィッチを食...
「クシュッ」「あれ?稲村くん、風邪?」「申し訳ございません、今朝からクシャミが」「大丈夫?病院に行ってきなよ」橋本専務はご自分のポケットから車のキーを取り出して、「はい!」と放り投げた。絶妙なコントロールで手元に落ちてきたキーケースを受け取った僕は、「ありがとうございます」と言うしかない。今日は山下常務が休みで、僕が病院へ行く暇などないのだ。午前中は《シェーナ》へ行き、店舗の一部改修の打ち合わせ。...
3杯目のワインは味がわからなくなっていた。ワインに詳しいわけではないが、仕事上必要な知識でもあるから手元の赤ワインが値段が手頃な量産品という事はわかる。フルーティーで飲み易いワインだったが、今はそれすらもわからなくなっている。注文した料理も粗方無くなり、空のグラスを持ったままで僕はボーッとしている。「稲村さん、帰りましょうか?」「はい」頬が赤くなって熱い。眠いわけではないが、頭がボーッとしている...
手元のワインが無くなり、僕たちは2杯目を注文した。服部くんは僕が知らない清家先生の情報を知っている。例えば誕生日が7月20日だとか、好きな服のブランドとか。高校時代に全国2位になったというテニスはとうの昔にやめてしまっていて、囲碁も全くやっていない。あれらはホームページ上の『清家宗隆』を飾るアクセサリーのようなものなのだ。先生はその理由を、「燃え尽き症候群かな?」と言っておられたそうだ。厳しかっ...
服部くんのいうカフェは駅前の一番目立つ場所にあった。いかにも
清家先生が連れて行ってくださったフレンチで食事をして、マンションまで送って頂いた。車を降りる時に自然と「では、また」と言えたのは自分でも進歩したと思う。「おやすみなさい」「おやすみなさい」僕の「では、また」に対する返事は「おやすみなさい」でしかなかったが、先生の様子はいつもと変わりなかった。 数回一緒に食事をして、先生の予定は大体掴めていた。明日は大阪で一泊。その後は雑誌の取材やテレビ出演などで...
あれから2週間が経った。その後、清家先生とは6回食事を共にした。もちろん橋本専務がおっしゃるような
「実はアイデアが全く浮かばなくて、気分転換したくて稲村さんを誘ったんだ」なんだよ。その探るような目。助けを求めてきても、僕にはどうしようもないんだけど。ラーメン屋のカウンターの隣に座った先生の顔を見て、どう答えればいいのか迷う。「そんな時もあるでしょうね」無難な答えだ。「誘ったの迷惑だった?」「・・・ええ」本音を言うと先生の目が曇った。もう少しオブラートで包んだ物の言い方してくださいよ、ってか?「...
黒川店長が帰り、静かな午後が戻ってきた。季節は秋から冬へと駆け足で移ろう。昼までは晴天だったが、窓から見える雲がどんよりとした色に変わっている。雲の色は晴れない僕の心の色のようだ。もうすぐ雨に変わるのだ。 考えてみれば、これ程熱心に僕に声を掛けてくれた人が今までいただろうか。男同士が出会いを求めて集まるようなバーにも行ったことはある。声は掛けられるが、いざとなると僕はいつも怖くなって逃げ出してい...
会社に帰り着くまで20分掛かった。時間的には余裕だったのでブラブラと歩き、先生は時々足を止めてスマホを取り出して写真を撮る。そしてメモ代わりなのだろう、思い付いた文章や感想を録音している。感想は目に入った家についてだったり、花や犬や猫だったり。すれ違った老人、空を飛ぶ小鳥、はるか上空を飛ぶ飛行機、そして雲。『S-five』のビルが見えてくると、先生は心境のようなものを語りはじめた。「隣を歩く彼は俺の...
先生は僕を引っ張って足早に商店街を突き進んでいく。小走り、とまでは言わないがかなりの速さだ。昼間の商店街は、それ程混み合ってはいない。ベビーカーを押した若い母親や主婦、高齢者を中心に昼食を求めてやって来たサラリーマンたちがちらりほらり。それらを追い越し、すり抜けて、すれ違う。何かから逃れるかのように周囲の人や店などには見向きもせずに真っ直ぐに前を向いて突き進んでいく先生に、僕は声を掛けられずにい...
僕はどうしてこう忘れっぽいのだろう。大事な事を忘れていた。ここは山下常務から紹介された店で、橋本専務もお気に入りだ。飲み過ぎた翌日は、必ずここまで歩いてきて蕎麦を食べている。僕が飲み過ぎたのを山下常務はもちろんご存じで、僕がどこで何を食べるかなどは彼にはお見通しだって事。失念していた。 山下常務は「それでは、私はここで」と挨拶して戻って行かれる。先生と僕へ向けておられる美しい笑みが恨めしくて堪ら...
瞼が重くて堪らずにちょっとだけ目を瞑っただけだったのに・・・。椅子に座ったまま寝てしまうなんて、大失態だ。これが仲の良い同僚とか友人ならまだしも、知り合ったばかりの人の家。 清家先生に平謝りに謝って、逃げるようにタクシーに乗って帰宅したのは午前3時過ぎだった。「どうしよう・・・」酔いなんか一瞬で冷めてしまった。それどころか目が冴えてしまって眠れなくなってしまった。「うわーーーっ」自分の許容量もわ...
「母も姉も俺も、常に最上である事が求められていたんだ」それが適わなかった時の母親の絶望的な表情を、先生は今でも忘れられないと言う。「姉が高校受験に失敗したんだ。その高校には親父も通っていた。母はそれをずっとなじられ続けた。父の姉への期待は薄れて俺へと向いた。元々長男の俺への期待は大きかったんだけどね。それは今でも続いている」先生の話を聞きながら、僕はボーッとしている。自分が的確な対応が出来ているか...
甘えびの塩辛をツマミに宴会が始まってしまった。清家先生は2本目のビールもあっという間に空にしてしまった。僕もつられて2本目の半分を飲んでいる。2本目を飲み始めた辺りから、頬が熱くなってきた。だが《SUZAKU》にいた時よりは酔いも浅い。今の方がしっかりしていると思う。「あの・・・」「なんですか?」「写真の件ですが、もしかして気を遣ってくださった、という事でしょうか?」「どういう意味で気を遣ったと...
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