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プロフィール
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御坊哲さんのプロフィール

住所
港南区
出身
御坊市

私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。

ブログタイトル
禅的哲学
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/gorian21
ブログ紹介文
禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。
更新頻度(1年)

89回 / 365日(平均1.7回/週)

ブログ村参加:2013/12/07

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ハンドル名
御坊哲さん
ブログタイトル
禅的哲学
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89回 / 365日(平均1.7回/週)
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禅的哲学

御坊哲さんの新着記事

1件〜30件

  • 言葉の意味を知っているということ

    前回記事の最後で、私は次のように述べた。「未来は既に決定している。」と言葉では簡単に言えるが、私達はその言葉がどういう場合に真実であるかを知らないのである。つまり、その言葉の意味を理解しているとは言えないのである。端的に言ってその言葉は空疎である。たぶん、私の言葉に少々違和感を持たれた人もいるのではなかろうか、と推察している。言葉は理解しているから言えるのであって、理解していないことを言えるはずがない、と漠然と思っている人が多いのではないだろうか。今回は、私達が自分が何を言っているか分からないまま、言葉を発していることがあるのではないかということについて述べてみたい。言葉の意味とは何かということはとても難しい。それについて専門家が論じている内容はとても難しくて、私のようなアマチュア哲学者にはとても理解できない。...言葉の意味を知っているということ

  • 自由意志はあるか?

    前回記事で実存的視点と客観的視点(科学的視点)というものをとり上げた。この二つの視点から見るわれわれの世界というものには相当なずれがある。生活上の安全や利便性という点から見ると、客観的視点から見た世界観というものが「正しい」ということになるのかもしれない。しかし、我々が実際に生きているのは実存的視点から見た世界の中であることを忘れてはいけない、ということを前回記事では言いたかったのである。知識というものが一切なければ、本来のわれわれは実存的視点しか持ちえないのである。人々の世界を見つめる視点として、客観的視点が実存的視点よりはっきり優勢になったのは、ニュートンの万有引力の法則辺りからではなかろうかと思われる。ニュートンの法則はきわめて正確かつ精密に物体の運動を予測する。おそらくこの頃から、世界のあらゆる現象は自...自由意志はあるか?

  • 脳が考えるのではない。私が考えているのだ。

    近年の大脳生理学の進歩により脳のはたらきというものがかなりよく分かってきたと言われている。それは結構なことなのだが、何もかもが脳という物質の働きであるというような考え方には何か引っかかるものがある。確かに脳という器官が私の精神作用に関係しているということは分かる。私が最近物忘れがひどくなっているのも、おそらく脳の老化現象ということで説明がつく。しかし、よくよく考えて欲しいのだが、世界中に脳は何十億と存在するが、この私は私だけである。御坊哲はまた何を馬鹿なことを言っているのだと思われるかもしれない。実に当たり前なことを言っているだけである。しかし、私にはこの当たり前のことが実に不思議なのである。なぜ私はよりによってこの私なのか?このことは科学がどれだけ進歩しても解明されることはないだろう。科学の埒外のことである。...脳が考えるのではない。私が考えているのだ。

  • 世の中は不条理に満ちている

    一昨日(7/19)からテレビドラマの「半沢直樹」が始まった。7年前の前回シリーズの最終回には42%という高視聴率をたたき出した人気番組である。このドラマに人気があるのは、多くの人々が組織の中で閉塞感を感じている、そういう現実があるからだろう。熱血サラリーマンである半沢が強大な敵に立ち向かい、その知恵と勇気で悪を白日の下にさらしだす。そこに人々はカタルシスを感じるのであろう。私自身銀行の子会社に就職し銀行内部で働いた経験もあるが、ドラマの内容はそれほど現実離れしたものとは感じなかった。多少の誇張はあるが、人事による人間の序列化と支配の様相というものはそのままである。ドラマを見ていると誰もが半沢の側に立つのであるが、現実はそうではない。人はいとも簡単に組織の秩序に組み敷かれ、力のある方になびいてしまうのである。森友...世の中は不条理に満ちている

  • 老いには逆らえない‥‥

    誰でもそうかも知れないのだけれど、私は自分が老人であるという自覚がなかなか持てない。すでに70歳になっているのたから、客観的には老人以外のなにものでもないのだが、学校を卒業して社会人となったのがつい最近のように思えるのである。幸いにして体は割と頑丈にできていて、まだまだ公共交通のシルバーシートには座る気にはなれない。週に3回程度は一時間以上のジョギングもやっている。しかし、老化は頭の方からやってくるみたいで、とにかく物忘れがひどくなってきた。なにかを調べようとしてPCに向かっても、コンピューターが立ち上がるまでの間に、自分が何を調べようとしていたのかを忘れることが2回のうち一回ある。ドラマを見ても、俳優の名前が出てこない。私は仲間由紀恵をとてもひいきにしていて、彼女が出ているドラマはなるべく見逃さないようにして...老いには逆らえない‥‥

  • 宇宙は有限か無限か?

    「100分de名著カント”純粋理性批判”(3)」の録画しておいたものを視た。今回は、4つのアンチノミーがテーマである。アンチノミーというのは、私達の経験が到達できないものについて考える場合に、全く正反対の結論を導き出し得ることを言う。カントは次のような4つを例示している。宇宙は時間と空間に関して有限か無限か?物質は分割不可能な原子からできているか、際限なく分割できるか?自由意志は存在するか、それともすべては自然法則による因果関係なのか?必然的な存在者(神)の実在するのかしないのか?例えば、第一アンチノミーの宇宙の始まりについて考えてみよう。一般にはなんでも始まりというものがあるのである。始まりがあって経過がある。もし始まりというものがなければ、われわれのいる今現在に至るまで無限の時間が経過していることになる。し...宇宙は有限か無限か?

  • 文学は死を簡単に描きすぎなのではないだろうか?

    私は幼い頃、水の中でおぼれかけたことがあって、それが今でも大きなトラウマとなって残ってしまった。それで、ドラマや小説で入水シーンがでてくるとどうしても平静ではいられなくなる。水中で苦し紛れに呼吸してしまう連想におそわれて恐怖を感じてしまうのである。平家物語は日本文学における古典中の古典とも言うべき名作であるが、私に言わせれば、人の死を平坦に描きすぎているように思える。「人間はそんなに簡単には死ねない」と私は考えてしまうのである。現実の人間の往生際がそんなによいとはどうしても思えない。逆に言えば、滅びの美学というのは人々の往生際の良さへのあこがれではなかろうかとも考えられる。「壇ノ浦」では優柔不断な平宗盛に比べて、「見るべきほどのことは見つ。」と述べて悠然と入水する平知盛を賛美するかのように記されている。幼い安徳...文学は死を簡単に描きすぎなのではないだろうか?

  • 確率と人生と理性(つづき)

    もう少し、大森の言葉を引いておこう。≪人生にかけるということは単に予測するだけのことではない。文字通り自分の生活をかけることなのである。単に未来を傍観者風に予測するのではなく、そのように予測された未来に立ち向かう心構えをすることなのである。その予測に付された確率はその構えの姿勢の表現であり覚悟のほどの表現なのである。九分通りこういくだろうと構えて手術をする外科医と、五分五分だと思いながらの外科医はその構えが違うのである。そしてその手術の結果がよい時にせよ悪い時にせよ、この二人の外科医は異なる安堵や異なる弁明をするだろう。賭けた人は否応なく賭けの結果を追う以外にはない。≫しかし、大森は確率の数値は参照された過去の指針の示す値であって、その人の賭けの心構えそれ自身の測定値ではないとも言う。それはそうだろう。成功率が...確率と人生と理性(つづき)

  • 確率と人生と理性

    大森荘蔵はわが国を代表する哲学者の一人であるが、「確率と人生」というエッセーの中で次のように述べている。≪要するに、一回きりの事件では、前もってその確率を云々しても、その予言の当たりはずれを言うことは意味をなさないのである。確率いくらいくらということが正しかったか誤っていたかを定める方法がないからである。だがわれわれの日常生活で確立を問題にしたいのは大抵は一回きりの事件の確率なのである。明日の天気、来月の株価、‥‥(省略)‥‥、といった一回きりの事件の確率がわれわれの生活での緊急時なのである。ところがこのような一回きりの事件の確率が当たった外れたということが意味をなさないようなものならば、一体われわれはなにをしているのだろうか。≫事後に確率の当たりはずれを云々することは意味をなさない。まったくその通りである。賽...確率と人生と理性

  • 歴史の審判を畏れない人々

    政治ネタをとり上げると読者が逃げて行きそうな気もするのだが、これだけはどうしても言っておかねばならないような気がする。日本はどんどん品位のない国に成り下がりつつあるからだ。特に安倍政権になって以来その傾向が著しい。国民の多くは、日本は他国に比べて誠実でお人よしの国だ、ぐらいに思っているのではないだろうか。しかし、そのようなイメージには何の根拠もないのである。世界報道自由度ランキング(<=クリック)によれば、2020年度の日本は66位である。いわゆる先進国で日本より下位の国は一つもない。10年前の2010年には11位までなった日本が、今や同じ東アジアの韓国(42位)、台湾(43位)に大きく後れを取っている。「男女平等ランキング2020」に至っては、なんと日本は121位である。もし、「公務員の忖度度ランキング」とい...歴史の審判を畏れない人々

  • 本当の出口はまだまだ先である

    新型コロナも高温多湿の環境では活性度がかなり失われるらしいということで、日本の梅雨と夏にかなり希望を託しているのだが、安心するのはまだ早すぎる。新型コロナは全く新しいウィルスなので、ワクチンを接種しない限り、いずれみんな感染するのである。時間の問題で、私もあなたもワクチンを接種するか感染するかのどちらかなのである。今やっている緊急事態における自粛はコロナを終息させるためのものではなく、ひとえに医療崩壊を防ぐためであるという認識が必要である。逆に言えば、医療崩壊を招かない自信があれば休校や企業の営業自粛はやるべきではない、という考えも成り立つ。実際にスウェーデンがそれをやった、あえて集団免疫を獲得するという方針を立てたのである。5月7日時点で3000人(スウェーデンの人口は約1000万人)を超す死者が出て、さすが...本当の出口はまだまだ先である

  • この国の政治家の無能と無責任

    加藤勝信厚生労働大臣によると、「相談・受診の目安」としてきた「風邪の症状や37.5℃以上の発熱が4日以上続いている」、「強いだるさ(倦怠感)や息苦しさ(呼吸困難)がある」というのは、あくまで目安であって「相談や診療を受ける側の基準ではない」ということらしい。それがPCR検査を受けるための基準であるというのは「誤解」であったというのである。いまさらなにを言っているのだろう。岡江久美子さんが発熱から4日目に病状が急変したことをニュースで把握していなかったのだろうか?保健所がPCR検査を抑制していたのは今となっては明らかである。それはひとえに医療崩壊を招かないためだろうが、発想が逆転している。たくさん検査すれば陽性者もたくさん出る。指定伝染病に指定されたからには、陽性者は全員隔離しなければならない。たちまち病室は埋ま...この国の政治家の無能と無責任

  • 俳句と言葉の可能性と限界

    最近、木曜日の夜7時から始まる「プレバト」という番組を楽しみにしている。俳句の才能査定ランキングの講師である、夏井いつき先生の解説が素人にも分かりやすくてとても面白い。おかげで若い人にも俳句の人気がかなり浸透しているような気がする。もしかしたら、近い将来に「令和の芭蕉」とか「現代の蕪村」と称されるような天才俳人が排出するかもしれない。たった19文字になんらかの気づきや感動を込めようとする、俳人ほど言葉の可能性と限界を知るものはいないではないだろうか。フランスの批評家ロラン・バルトは俳句を絶賛し、次のように評している。「たいせつなのは簡潔であること(つまり意味されるものの濃密を減少させることなしに、意味するものを要約すること)ではなくて、逆にその意味の根源そのものに働きかけることなのである。俳句の簡潔は形体のため...俳句と言葉の可能性と限界

  • なにが現実か?

    大森荘蔵という哲学者の門下からは、野家啓一、飯田隆,野矢茂樹、中島義道、‥‥、そうそうたる人物が輩出している。まさに日本を代表する哲学者であると言ってもよい。文筆家としてもすぐれていて、彼のエッセイは(少なくとも私には)例外なく面白い。それで最近、彼の「流れとよどみ」というエッセイ集を読み返している。そして、そのなかにとても気になる箇所があったのでご紹介したい。われわれはなにを現実と呼んでいるのだろうか。それは何よりも先ず自分自身の命にかかわることであろう。そしてそれとともにまた、自分の生きている状態とでもいえるもの、例えば苦痛や快楽、気分や感情とかである。否応なく自分の命と生にかかわるもの、それがわれわれの現実の核である。だから痛みにはまぼろしはありえないのである。激痛におそわれている人に向かって、君は今、痛...なにが現実か?

  • 無とはなにか?(その6)

    「無常と空の関係」という記事で、「空」は決して神秘的な概念ではないということを説明した。「無」も「空」と同様に決して神秘的なものではない。ともすれば、感覚的に「こんなものだろう」とアバウトな想像をされがちだが、そういうのは大体的外れだと思って間違いない。ただ、「無」を理解するためには突き詰めることが必要で、そこにはかなり高い障害があることは間違いない。私は高校生の時ある禅寺に通っていて、そこの老師に「無とは何ですか?」と単刀直入に訊ねたことがある。(「無とはなにか?(その5)」)その時の老師の答えが、「究極の主体性」ということだった。「究極の」が突き詰めるという意味である。夾雑物を取り除いたぎりぎりの私、それが「無」であるというのである。私の知る限り、この仏教的「無」に最も肉薄した西洋哲学者はカントである。デカ...無とはなにか?(その6)

  • 残念な岡江久美子さんの死去

    日本におけるコロナによる死者数が少ないことについて、軽症者の検査数を抑えて、重篤者に対して重点的に医療資源を振り向けているやり方が一定程度功を奏している、と考えてもよいかも知れない。しかし、岡江久美子さんの死去のニュースを聞いて、とても残念な気がする。症状が出てから三、四日経過を見てから判断するなどと悠長なことを言ってないで、患者の状態によってはもっと積極的にPCR検査をする、という姿勢があっても良かったのではないかと思う。現状で精一杯の現場を非難することはできないが、もっと早い段階に検査と医療を分離し、陽性者の症状による分別の体制を早く整備して他国並みの検査数をこなすべきではなかったかと思う。思考停止の政策決定者は非難されてしかるべきだと思う。もしかしたら、岡江さんは死ななくても良かったかもしれないのだ。高熱...残念な岡江久美子さんの死去

  • 「世界」は仏教語

    私達が日常で使っている言葉には仏教語が多いということは知っていたけれど、「世界」という言葉も仏教語だったということは全然知らなかった。もともと中国にもこの言葉は無かったらしく、インドから中国にもたらされた時につくられた翻訳語だったらしい。「世」が時間、「界」が空間の意味だという。言われてみれば、世は「世代」、「世紀」とか時間に関する熟語が多い。そして、「境界」、「電界」、「文学界」、‥、と、こちらの方は領域に関する熟語が多い。よく似た意味の言葉として「宇宙」があるが、こちらの方は「宇」が空間で、「宙」が時間だということらしい。どちらも、あらゆるものを含む概念であるが、少しニュアンスが違う。「必ずしも人の存在を含まない『宇宙』に対して、『世界』は人をはじめとする生物の業によって生滅するものであり、人間を不可分の存...「世界」は仏教語

  • 無常と空の関係

    この世界をつぶさに見れば、あらゆるものは停止することなく不断に流動している。それが無常である。前回記事では、その無常が自己の存在理由に対する脅威となるということについて述べたが、今回は無常がそのまま空思想につながることことについて説明したい。常に流動しているということは完成形というものがないということでもある。いかなるものも偶然的かつ過渡的で不完全なものでしかない。例えば、人間というものについて考えてみよう。「人間」というものがあるのかどうか?などと言うと訝しいと思うだろうが、われわれはなにを「人間」と呼んでいるのかということを実はよく分かっていないのである。周囲の人間を一人一人見ていくと、誰一人として全く同じ人はいない、一卵性双生児と言えども仔細に点検すると全く同じではない。それでも、それらの人々がすべて人間...無常と空の関係

  • 仏教は無常から始まる

    前回記事では、ゲシュタルトなどというカタカナの言葉を使って空を説明した。そのことについて違和感を覚えた人もいたのではないかと思う。だが、大乗仏教の祖である龍樹の言葉を忠実にたどるとそういう見解に至るのである。空は決して神秘的な概念ではない。仏教も決して神秘的な教えではない。神秘的なのはこの現実の世界である。ゴータマ・シッダールタは王族の子として生まれ何不自由のない暮らしをしていたが、29歳の時無常を感じ出家したと言われている。この「無常」を検索してみると、仏教で、一切のものは、生じたり変化したり滅したりして、常住(=一定のまま)ではないということ。「―観」。人の世がはかないこと。となっている。要するに、ものごとは常に変化しているということだが、それがどうして儚いのだろうか?祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。...仏教は無常から始まる

  • 中道とゲシュタルト・チェンジ

    下の図はご存知の方も多いと思いうが、「ルビンの壺」と呼ばれている。黒い部分を地とし白い部分を図とすれば壺が見え、逆に白い部分を地とし黒い部分を図と見れば二人の人の顔が見える。決して、壺と人の顔が同時に見えることはない。ゲシュタルトとはドイツ語の「形態」という意味だが、この場合はディスプレイ上のただの白黒模様を、壺あるいは人の顔とみなす「ひとまとまりの形」のことを指す。私たちは常に視界の中からなんらかのパターン(意味)を読み取ろうとしているが、その視点の置き方というものにはある種の恣意性があることを、この図は教えてくれる。時に、私達は同時に同じ景色を見ながら別のものを見ているということがあり得るということだ。ゲシュタルトは視覚だけではなく、我々が認識するものすべてにおいて意味として現れる。思想においてもそうである...中道とゲシュタルト・チェンジ

  • コロナと共生と言ったら言い過ぎかもしれないが‥

    これほど感染力が強くてしかも気候条件などによる弱点がない、そんなウィルスがあるとは今でも信じられないのだが、現に熱帯の地方でも猛威を振るっている。新型ウィルスがそのような弱点のないものならば、私達は遅かれ早かれ感染する。理論的にそうなるはずなのだという諦観は必要である。今、人との接触を70~80%減と言われているのは、医療崩壊させないために、感染拡大のスピードをコントロール可能なレベルに落とさなければならないという話である。実際には80%減なんて不可能だから、現状維持が精一杯で同じレベルの自粛状態をこれから先もずっと強いられる公算がかなり大きい。だから、安倍さんや小池さんが最初に「この一二週間が瀬戸際」と言った時はとても大きな違和感を覚えた。日本人はとても几帳面な部分があるが、それが形式的に流れるとうまくいかな...コロナと共生と言ったら言い過ぎかもしれないが‥

  • ひまな人だけ読んでください

    NHKを見ていると、渋谷の街の中継がよく出てきます。それで昨日は「渋谷109」が映っていたんですが、その時なぜか唐突に、この『109』って「とう・きゅぅ(東急)」のことだと気がついたんです。これって意外と気がついていない人が多いのではないでしょうか?この(自称ですが)勘の鋭い私が何十年間も気がつかなかったくらいですからね。えっ、そんなの常識ですって、ああ、そうですか。上の写真は、長野県松本市の中心街にある橋のたもとにある信号なんですけどね、どうしてこんな写真を載せたかと言うとですね、私は半世紀前に松本に住んでいたんです。それも5年間も。大学生だったんですけどね。普通は4年のところつい5年かかってしまいました。ま、それはどうでもいいんですが、つい最近までこの橋の名前は「ちとせばし」だとばかり思っていたんです。それ...ひまな人だけ読んでください

  • 瀬戸際の次は瀬戸際である

    ほんの少し前まで、安倍さんも小池さんも「この一二週間が瀬戸際」というようなことを言っていたのではなかったか。あの「瀬戸際」は一体どこへ行ってしまったのか?先日は緊急事態宣言が発出されて、5月6日まで他人との接触機会を7,8割減らせと言う。「7,8割」がいかなるものかは極めてあいまいだが、その結果5月6日にはどのような判断を下すのだろうか?5月6日に感染者数が減っていたら、緊急事態宣言を終息させるのか?えっ、そんなことしたら、また感染者数が増加するのではないだろうか?そもそも、一か月後に感染者数が減るなどということが考えられるだろうか?東京新聞によれば、ある個人病院で働いている女性は「医師が新型コロナを疑い、PCR検査が必要だと判断した患者が三月以降四人いた。しかし、保健所に断られるなどして一人も検査を受けていな...瀬戸際の次は瀬戸際である

  • 梵我論と無我論

    梵我論の「梵」は「ブラフマン」のことで、宇宙を支配する原理を意味する。無我論の「我」は「アートマン」のことで、私という一個人の個体原理の意味である。梵我論というのは梵我一如すなわち、この宇宙と私自身が同じものであるという思想である。インドのウパニシャドの中心思想で、仏教の源流であるとも考えらている。一方の無我論は仏教の中心思想で、「自我というものは本当は無い。究極の主体は『無』である。」という考えである。前者は大宇宙と私が一体になることを目指す、いわゆる神秘思想に近い。仏教の中でも真言密教は大日如来という絶対者と修行者が合一を目指すという意味で梵我論に近い立場をとっている。そのことを指して、禅の立場から秋月龍珉氏が「空海の思想は釈迦の縁起、無我思想にまだ近かったが、以後の真言宗の思想家はみな梵我一如思想に接近し...梵我論と無我論

  • 信州の春

    このところコロナの話題ばかりで気が滅入りがちですが、少しでも読者の皆様の気持ちが和みますように、信州松本・安曇野の美しい春をご紹介したいと思います。ちょうど1カ月前のこと、いつもの年ならならまだ寒さ厳しい早春の頃ですが、今年はとても暖かい春日和でした。冠雪したアルプスを背景に国宝松本城が美しい。穂高駅前の老夫婦が経営する自転車屋さんで、自転車を借りて安曇野をまわることにしました。広々とした安曇野から北アルプスを望む。大王わさび農場の水車小屋。安曇野は水に恵まれた豊かな土地。同じく大王わさび農場の梅林。紅梅白梅が美しい。まさに信州の春。早春賦の碑の近くで自撮り。私が小学校4年生の時、合唱部で最初に練習したのが「早春賦」。特に思い入れ強し。この道を自転車で走っていると、「青い山脈」を口ずさみたくなります。正面に見え...信州の春

  • 一か月後の見通しは立っているのか?

    緊急事態宣言は出されたが、どうも政府の腰が決まっていないようだ。自粛対象業種や休業補償問題などで自治体との齟齬が目立つ。そんなことはとっくにすり合わせが済んでいなければならないことではなかったのか。ただ漫然と緊急事態宣言を出すというようなことでは困る。安倍さんは大見え切って「やってる感」を出しているが、「緊急事態宣言を出して、まず様子を見る。」などと悠長なことを言っている。どうも、「2009年の春に発生した新型インフルエンザの時のように、梅雨が来ればコロナも自然に衰える。」というような希望的観測を持っているのではないか。私も本音ではそれを期待し願っているが、為政者は最悪の状況を想定しておかなくてはならないと思う。専門家によれば、今回の新型ウィルスはまったく新しいウィルスだと言われている。インドで猛威を振るってい...一か月後の見通しは立っているのか?

  • われ思うゆえにわれはあるか?

    デカルトは西洋哲学の父と呼ばれている。彼の合理精神が哲学をはじめとするヨーロッパ文明に大きな足跡を残したことは間違いないが、有名な「われ思うゆえにわれあり」については、一般的に大きな誤解が流布されているように思う。私が高校の倫理社会で習ったのはこうである。「あらゆることを疑ったとしても、ここに疑っている私があるということは疑えない。」だから私が有るということは間違いない。この「私」を橋頭保として、合理的で整合的な世界観を築き上げていった。大体のところ、このように理解しているのではないだろうか。しかし、ちょっとよく考えてみればわかることだが、たとえ「私」が確実なものであったとしても、疑えるものはすべて疑うのなら、確実な「私」から一歩も踏み出すことはできない。結局、この世で確実なものは「私」だけとなって他のことは何...われ思うゆえにわれはあるか?

  • コロナの市中感染率は?

    昨日(4/4)の東京の新たな感染者が100人を超えたと騒がれているが、私はまだまだ甘いのではないかと考えている。上図が4月4日までの東京都における、日別の新感染者数だが、3月24日頃からは一見急速に上昇しているように見えるが、その増加の度合いが線形的である。他国の例ではもっと急カーブの曲線状に上昇している。感染者はネズミ算式に増えると考えられるのであるから、上の図は少し不自然に見えるのである。やはり検査数を抑制していることがその理由だろう。毎日発表される感染者数の数倍、あるいは数十倍の感染者がいるのではないかと勘繰っている。今朝のサンデーモーニングでは白鵬大学の岡田晴恵教授が、市中感染率を知ることが大事であるという趣旨のことを述べていた。まったく同感である。緊急事態宣言を出すにしても何にしても、思い切った政策を...コロナの市中感染率は?

  • 日本は今、エライことになっている

    世界中コロナで大変なことになっているが、そのどさくさの陰でとんでもない不条理が、日本の政治に浸透しようとしている。「山口敬之」準強姦逮捕状握り潰し中村格氏が「警察長官」に王手という悲劇ぜひ上記記事を読んでいただきたい。中村格氏というのは、あの女性ジャーナリストの準強姦事件の際に、逮捕直前にその執行を取りやめさせた、当時警視庁刑事部長であった中村氏である。総理のお友達であれば、女性にわいせつな行為をしても逮捕を免れることができるという、とんでもない前例を作ってしまった人物である。このところ、官僚の権力者に対する忖度の度合いがより大胆になっている事が気になる。森友学園問題では、総理夫人がひとこと口添えすれば国の土地を8億円も値引きしてもらえるし、そのことがばれそうになると公文書まで大々的に改ざんする。改ざんの事実が...日本は今、エライことになっている

  • 実感を持って生きる

    日本に伝えられた禅宗は二四流あったと言われている。そのうちの曹洞宗の三つと黄檗宗の一つを除けば、すべて臨済宗である。現在の日本臨済宗は14派り、それぞれに本山を頂いているが、法系的には江戸時代の白隠慧鶴(はくいんえかく)の一流しか残っていない。白隠は妙心寺派の流れをくむ人なので、実質的には妙心寺が日本臨済宗の総本山と言っても良い。その妙心寺の御開山が無相大師・関山慧玄(かんざんえげん)禅師である。一般的には関山国師と呼ばれることが多い。日本臨済宗にとってはものすごく重要な人物であるが、あまり一般に名を知られていないのは素朴な修行底の人だったからかもしれない。妙心寺は京都の花園というところにある。花園法王の離宮のあったところで、熱心な禅の信者であった法王がそこに禅寺を立てようと思い、彼の禅の師であった大燈国師の推...実感を持って生きる

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