禅的哲学
住所
港南区
出身
御坊市
ハンドル名
御坊哲さん
ブログタイトル
禅的哲学
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/gorian21
ブログ紹介文
禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。
自由文
私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。
更新頻度(1年)

47回 / 273日(平均1.2回/週)

ブログ村参加:2013/12/07

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御坊哲さんのブログ記事

  • 今日は終戦の日

    東京新聞の一面に次のような一句が「平和の俳句」として紹介されていた。日は昇る赤ちゃんは泣く花は咲く見出しに、「手放しで泣ける幸せ」とある。かつて、赤ちゃんが泣けない状況があったのだ。終戦間際における沖縄で、住民と日本兵がガマという洞窟に隠れていた時、赤ん坊が泣きだした。その時、米軍に見つかるのを恐れて、「殺しちまえ」と怒鳴ったという。(=>「証言でつづる戦争」)赤ん坊が泣けない状況というのも過去にはあったのだ。日は昇る、赤ちゃんは泣く、花は咲く。どれも当たり前のことである。しかし、当たり前のことが尊い。どこかで赤ちゃんの声がすれば、なぜか心が安らぐ。その平安こそが玄妙である、というのが仏教の教えではないだろうか。(山寺)今日は終戦の日

  • 数学と科学(物理学)の関係

    現在では、数学とは公理を前提に論理を演繹してつくられたものと考えられている。論理というのは、私たちがそれに沿って考えることを強いられる原理のことである。通常、無矛盾律とか推論規則と呼ばれているような論理法則のことである。私たちは論理に沿ってしか考えることはできない。論理に反していると、「それは正しくない」と私たちは感じるのである。だから、数学の正しさはそういう意味において、我々にとっては「絶対的」である。公理は現代数学では任意に設定できることになっているが、昔は自明であるものとされていた。自明なものを前提に論理を積み重ねた結果は「正しい」に決まっている。そうでなければ、我々はものごとを認識できないだろう。なぜ「論理」がこの宇宙の秩序と整合しているのかと考えれば、それはたまたまだろう。ただ、「論理」と宇宙の秩序に...数学と科学(物理学)の関係

  • 空とはなにか(2)

    生まれたての赤ん坊はものを見ることができないと言われている。視力がないという意味ではなく、見えているものを認識することができないという意味である。パパやママが盛んに赤ん坊の顔を覗き込んでも、赤ん坊の側からは何かがうごめいているとしか見えない。ママの顔の輪郭線の内側と外側の区別もつけることができないのである。心理学的には、「ゲシュタルトが構成できない」という状態にあるらしい。このことから分かることは、混沌の中からゲシュタルトを見出すには何らかの経験が必要だということである。上の図はいわゆる「アヒルウサギ」と言われているものだが、見ようによってアヒルに見えたりウサギに見えたりする。しかし、アヒルとして見る時はウサギは見えなくて、ウサギとして見る時はアヒルを見ることはできない。このことから判断して、赤ん坊でない私たち...空とはなにか(2)

  • 空とはなにか

    「龍樹の『空』と禅の『空』は異なる」と主張しているブログを見つけた。では、正しい解釈というのはどういうものかと言うと、次のように述べられている。【私たちはふだん『ものがあって私が見る』という見方をしています。それを善では色(しき)の見方と言います。しかし、モノゴトにはもう一つのみかたがあるのです。それが空(くう)の観かたです。(繰り返しますが、見かたと観かたと区別しているのでご注意ください。いずれも「みかた」です。)『空』の観かたによれば、『私がモノを見るという体験こそが真の実在だ』というのです。】表現に少々難はあるが、言いたいことは理解できる。禅を実践している方々の中にはこのように理解している人も多いのではないかと想像する。そのように思うのは、私自身もかつて「空」をこのように理解していたことがあるからだ。西田...空とはなにか

  • 人はなんのために生まれてきたのか?

    私が参加しているSNSで上記タイトルについて議論されています。私たちは無意識のうちに、なんにでも理由があるなら、私達が生まれてきた理由もあるはず、それを知りたいというのは人情でしょう。あなたがキリスト教徒ならこんな問題に頭を悩ます必要はない。すべては神様の思し召しだからである。神のみ心に従って生きればいいだけのことです。しかし、あなたが仏教徒ならどうか?仏教にはそんな神さまはいない。したがって、自分の外部から与えられる使命というようなものは存在しない。他人に迷惑かけない限り、思いのまま自由に生きていけばよい。仏教ではそれを「自然(じねん)」と言います。しかし、何事にも理由があるはずという人間の思い込みは強い。どうしても生まれてきた理由が欲しい人は、それを人間の本性の中に見つけようとする人が多いようです。たいてい...人はなんのために生まれてきたのか?

  • 宿業について

    現在伝えられている仏典は長い年月と多くの人々の手を経ており、その中には矛盾していることもたくさん書き込まれている。誰もが釈尊のような優れた思想家ではないのだから、それは当然のことだろう。仏教はその根本に高度な哲学を含んでいるため、なかなか釈尊の真意が伝わりにくいという一面もある。宗教として広めるためには、わかりやすい図式を方便として利用せざるを得なかったということも考えられる。いわゆる六道輪廻とか宿業という言葉も仏教用語として知られているが、本来の仏教とは無縁の言葉である。過去世などというあるかどうかを確認しようのない概念については言及しない、というのが釈尊の流儀である。(関連記事=>「無記」)ちなみに、ある仏教系団体の公式ホームページには次のように説明されていた。“自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこの...宿業について

  • 憲法九条は非現実的か?

    「9条を守れ」というような主張をしたら、ある若い人から「あんたお花畑か?」と言われた。どうやら、お花畑でおとぎ話を語っている現実離れした爺さんというような意味らしい。台頭する中国の脅威に対して、無防備でいることは非現実的だというのである。しかし、九条の成立した状況を思い返してもらいたい。日本が第二次世界大戦で完膚なきまでに打ちのめされた、その生々しい記憶があってこそ、不戦の誓いを立てたのである。いかなる戦争も愚劣であるという現実を思い知らされた。九条はおとぎ話とはかけ離れた最も現実的な判断だったのだ。私にはむしろ、北朝鮮がミサイル実験をしただけで、Jアラートなどという訳のわからないものを発して大騒ぎする、そんな「戦争ごっこ」のほうがよほど非現実的に見える。口先だけ危機意識をあおっても、とても真剣にやっていること...憲法九条は非現実的か?

  • 根本的なことは言葉によって定義できない

    デイヴィドソンという哲学者が、次のようなことを述べている。「真理は、我々が持つもっとも明瞭で基本的な概念であるから、より単純で基本的な何かに代替してこれを除去しようと夢見るのは非生産的なことである。」(「デイヴィッドソン」森本浩一著P.25)一瞬なんのこっちゃろうと思ったが、よくよく考えてみればまさにその通りだと思った。『真理とは何か?』というのは一見哲学的な大命題のように思えるが、それに先行して、真理というものがいかなるものかが分かっていないと、それを問うことができない。空港に人を迎えに行く場合に、あらかじめ誰を迎えに行くか知らないで行く人はいないのと同じである。「『雪が白い』が真であるのは雪が白い場合その場合に限る。」ということが了解しあえるのもの同士でなければ、議論する意義がないということは理解できる。「...根本的なことは言葉によって定義できない

  • 「今」は動かない。

    時間という概念が存在論的に有意義であることは前回記事でも述べた。あらゆるプロセスは『時間』という秩序に支配されているのであって、われわれの生活もその秩序の上に成り立っている。その秩序というのはひとえに様々なプロセスが同期しうるということにある。朝学校へ行けば始業時刻には皆顔をそろえていて、先生が教室に来られて授業を始める。デートの時刻と場所さえを申し合わせておけば、恋人たちは再び会うことができる。お互いに(直接には)影響を及ぼしあわない、一見無関係だと思われるプロセスが同期する、これは驚くべきことだ。そういう意味で時間という概念は我々にとって必須のものであるにちがいない。前回記事で言いたかったことは、われわれの日常では時計の針の動きに時間というものを仮託しているが、それによって時計の針の動きに合わせて、『時間そ...「今」は動かない。

  • 「今」でないときはない

    禅においては時間というものは無い、ということになっている。いつでも「今」だからである。虚心坦懐に見れば、流れている時間というものはどこにもない。流れているのは目の前の川であって、私達が決して時間というものが流れているのを目にすることはない。この世界ではあらゆるものが動いている。しかし、時間というものが動いている事実はどこにもない。私たちは時計の動きを時間の動きだと勘違いしているのである。否、時計の動きそのものを時間と呼んでいるだけのことである。なぜかこの世界では、全く関係のないプロセスが時計の動きに同期するという事実がある。オリンピックの100m走ではほとんどの選手が10秒前後で走る。たまに、5秒で走ったりする選手はいない。20秒かかったりしたら、それはたぶん怪我でもしたのだろう。A選手が走ることとB選手が走る...「今」でないときはない

  • イリヤ(ある)

    内田樹先生の「レヴィナスと愛の現象学」という本を読んでいると、とても気になる文章に出くわした。【あらゆるものが、存在者も人間も、ことごとくが無に帰した、と想像してみよう。私たちはそのとき端的な無に遭遇することになるのであろうか。あらゆるものが想像的に破壊しつくされた後に残るなにものか、それは何かではなく、「イリヤ(ある)」という事実なのである。あらゆるものの不在は現前のように立ち戻ってくる。ちょうどそこが抜けてすべてのものがすべり落ちてしまった場所のように。大気の密度のように。空虚の充溢のように、あるいは沈黙のつぶやきのように、(‥‥)存在するという事実が、もはや何ものでもないとき、そこに迫りだしてくるのである。そして、それには名前がない。】まるで禅問答である。「ことごとくが無に帰した、と想像」することなどでき...イリヤ(ある)

  • それが人間だ

    新生児の顔を覗き込むと、「ニカッ」と笑うことがある。その笑顔を見せられると、どんな人も心和ませられるものがある。おそらく、赤ちゃんの笑顔に抵抗できる人などいないだろう。しかし、学者に言わせると、あれは反射なのだそうだ。赤ちゃんは面白くて笑っているわけではなく、大人が顔を覗き込むと反射的に笑うことになっているというのである。「『自分が笑うことで周囲が易しくしてくれる』という、赤ちゃんなりの自己防衛手段だと考えられています。」このような説明をされると、まるで自分が赤ちゃんにだまされているようである。「反射」と言う言葉には意思を伴わない「機械的」な反応というニュアンスがある。おそらく学者の言うことは正しいのだろうが、私に言わせれば、この「反射」こそが人間の根源ではないかと思うのである。「そういうふうにできている」とで...それが人間だ

  • 大森荘蔵

    今、「流れとよどみ」という本を読み始めたのだけれど、その序文の一節に感動してしまった。【私の目指したのは、世界と意識、世界と私、という基本的構図をとりこわすことである。‥‥(省略)‥‥人々は自分の思い込みとは違って、実はこの構図の中で暮らしてはいないのである。意識のスクリーン越しに世界を眺めているように思いこむが実は世界の中にじかに生きているのである。世界のエアポケットのような「心の中」で喜んだり悩んだりしているのだと思い込んでいるが、そのとき世界そのものが喜ばしくあるいは悩ましいのである。世界には喜びや悩みの種だけがあるのではなく、喜ばしさ悩ましさそのものが世界なのである。それなのに人は別様に思い込んできたのである。】意識のスクリーンに写る世界を記述しようとするとたいてい失敗する。そのような客観的かつ静的な「...大森荘蔵

  • 経験あつて個人あるのである

    西田幾多郎の「善の研究」の序文の中の一節に、「個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することができ、‥‥」とある。倉田百三もこの文を読んで感動したと述懐している。この世界は一般に物体現象と精神現象からなると考えられているが、西田は「意識現象が唯一の実在である。」と喝破する。ここまでなら「表象がすべて」とするカントと同じである。その分かれ目は第二編第一章「意識現象が唯一の実在である」の次の一節にうかがえる。【しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意に過ぎない。もしこれ以上に所有者がなければならなぬとの考ならば、そは明らかに独断である。しかるにこの統一作用即ち統覚というのは、類似せる...経験あつて個人あるのである

  • 「空」とは何か?

    仏教の原理の一つとして、「絶対」というものを認めないというのがある。すべては相対的であるというのである。究極の真善美を追及する西洋思想とはそこが大きく違っている。「すべては相対的」であることを突き詰めていけば、一切皆空と言わざるを得なくなってしまう。あらゆる概念は関係性の上に成立しているのであって、その本質というものがあるわけではないとする立場、それが空観である。唯識思想の中では天動説が正しいということになっているらしいが、空観の立場からすれば天動説も地動説も共に主張することはできない。一切皆空であるから、いかなる断定もできないのである。「私にはこのことを説くということはない」というのはそういう意味である。現代科学では、「地球が太陽の周りをまわっている」というのが正しいとされている。それははたして本当だろうか?...「空」とは何か?

  • 「空」は「むなしい」と読むべきではない

    「一切皆空」と言う言葉を「すべては儚いものである、だから執着してはならない。」というふうに解釈する向きがある。「執着してはならない」というのはその通りだけれど、この現実を儚いとか空しいというふうに解釈してしまうのは如何なものか。「空」というのは単に絶対性というものを否定しているだけであって、現実のリアリティを否定しているものでは決してない。恋人に対して、「君を永遠に愛しているよ。」というのはかまわないと思う。それは単に相手をどれほど好きなのか、ということを誇張して言っているに過ぎない。文字通り、千年後も一億年後も愛し続けている、という意味で言っているのなら単純に勘違いしているのである。当然心変わりすることもあり得るわけである。相手の気持ちは冷めているのに、永遠の恋にこだわっているとストーカーになってしまう。人は...「空」は「むなしい」と読むべきではない

  • ものとこと

    ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は次のような言葉で始まっている。1.世界は成立していることがらの総体である1.1世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。なぜか私たちは、「世界はものの集まりである」と考えがちである。それには理由があって、そのように想定しないと、他者とのコミュニケーションもままならないし、物事の予測も出来なくなってしまうからである。世界を自分の経験とは切り離されて存在するものの集まり、つまり客観的なものの集まりであると想定するのである。しかし、よくよく考えれば、私の経験と切り離された客観的な「もの」というものは実はどこにも存在しないことに気がつく。例えば、サイコロの形である立方体様のものについて考えてみよう。立方体は正六面体とも言われる、6つの正方形からなる立体だからである。しかし、私達...ものとこと

  • 死は経験することのない概念である

    日本臨済宗の実質的な総本山である妙心寺の御開山である関山慧玄国師は、死について問われた時、「慧玄が会裏に生死なし」と答えたと伝えられている。我々が普段語っている「死」は他人の死について語っているのであって、決して自分の死についてではない。自分の死について語ろうとしても、それはどうしても他人の死から連想した死のイメージでしかないのである。一応、自分の死を矛盾なく定義することはできる。例えば「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」というふうに。しかし、それには直観が伴わない、いわば空疎な概念である。どんなに頑張ってみても、「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」を想像することは私達にはできない。「それは感覚のない世界だから、暗黒と静寂の世界ではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、すでに「暗黒...死は経験することのない概念である

  • 鎌倉花だより

    「東京の桜は満開」の報を聞いて、鎌倉はどうかと思い出かけました。やはり、さくらは青空の下で見たい。明後日からは曇り空になるという予報なので、あせってでかけたのです。が、しかし‥‥段蔓の桜はほとんどが蕾のままです。鎌倉は東京より桜の開きがかなり遅いようです。桜はいまいちだけれど、人の賑わいの方はご覧の通り、平日にもかかわらず小町通は人でごった返しています。気を取り直して、妙本寺の方へ向かいます。綺麗な着物を着ている娘さんがいたので、許可を得て写真を撮らせてもらいました。妙本寺はもともと観光寺院ではなく、4,5年前までは小林秀雄や中原中也ファンが訪れる程度でしたが、近年は穴場としてだんだん知られるようになってきたようです。花の季節になると人力車の観光コースにも組み入れられているみたいで、貸衣装の着物を着て人力車で訪...鎌倉花だより

  • Don't think , feel !

    私はブルース・リーの大ファンで、彼の映画はほとんど見ている。「考えるな、感じろ!」というのは、「燃えよドラゴン」の冒頭のシーンで、彼の弟子をさとして言った言葉である。(=>"BruceLee-Don'tThink,Feel")スター・ウォーズのヨーダのセリフとしても採用されているので、西洋人から見た「東洋の智慧」的な言葉として受け止められているのだろう。実際に、この言葉は仏教の世界観を表す言葉でもある。仏教では「すべては空である」と説く。「空」というのは概念(言葉)による規定を拒絶するということである。つまり、世界をあるがまま受け止めるということに他ならない。真実は現前している、言葉による再構成はそれをゆがめる行為である。「考えるな」というのはそういう意味である。だが、決してこれは神秘的な思想ではない。理詰めで...Don'tthink,feel!

  • メリー・ポピンズ リターンズ

    アメリカ映画には文句を言いたい面もいろいろあるが、ミュージカル映画については文句のつけようがなく、手放しで素晴らしいという他はない。今回の映画も期待に外れることはなかった、と言うより期待以上で、こんなわくわくする楽しい時間をもったのは久しぶりだ。文字通り夢のような時間を過ごし茫然自失の体、おかげでショルダーバッグを映画館に忘れてきたことに気がついたのは帰宅してから3時間もあとのことだった。たいていのミュージカル映画は見逃さないで見ているのだが、オリジナルの「メリー・ポピンズ」だけは観ていない。私がミュージカルに目覚める前に公開された映画だからだが、むしろ観ていないことが、今回の作品を鑑賞するうえで幸いしたかもしれない。ジュリー・アンドリュースの際立った歌唱力と演技を見ていれば、どうしても主人公の人物像の先入観を...メリー・ポピンズリターンズ

  • 仏教が問題としているのはつねに実存である。

    前回記事で、西洋哲学では存在というものに対して、本質(何であるか)と実存(現実かどうか)の二面からアプローチする、と言うように述べた。では、仏教(特に禅)ではどうかというと、本質はほとんど問題にされない。仏教で追及するのは実存だけである。一応、己自究明というのは「自己とは何か?」と本質を追及しているような形式で表現されるが、この問いは決して「自己とはXXである」というような形式の解答は期待されていないのである。本質とはそのものとして欠くことができない要素のことで、人間ならそれを人間たらしめているもののことである。山田君と鈴木君は顔かたちも体格も性格も違うが、同じ人間だと判断されるのは二人とも人間としての本質を持っているからだとされる。いわゆるプラトンのイデアと考えて頂けばよい。しかしここで、仏教は「一切皆空」を...仏教が問題としているのはつねに実存である。

  • 実存と無常

    哲学で言う「実存」とは現実存在の略であるとされている。現実存在というのは本質存在の対義語である。西洋哲学では、存在(ある)という概念を、「いかにあるか」(本質)と「現実にあるか」(実存)というふたつの面からとらえようとする。そこから生まれた言葉である。特に、実存主義における実存は自分自身の現実存在を意味すると考えるべきである。恐山の住職代理の南直哉さんも「実存」という言葉をよく使われるが、これも自分自身の現実存在の意味である。ここで言う「自分自身」というのは他人ではない、「ぼく」とか「私」と言っている自分のことである。私達が世界について語るとき、実は二つの視点からものを見ている。ひとつは客観的視点、もう一つが実存的視点である。実存的視点というのは生身の自分自身が見つめる視点だが、客観的視点というのは自分自身を相...実存と無常

  • それは一体「問題」なのだろうか?

    誰でも一度は、「私は一体、なぜ今ここにいるのだろう?」という考えに取りつかれたことがあるのではないだろうか?「なぜ、私は私なのだろう?」とか「世界はなぜあるのだろう?」とか「なぜ世界はこのようになっているのだろう?」などなど、これらはすべて「哲学的問題」であるということになっている。なぜそれが哲学の問題であるのかと言うと、それは物理学や数学とか地理学などという学問で扱う分野のどこにも属さないからだろう。特定の分野に属さないテーマについて考える学問は哲学しかないからである。だからそれは哲学の問題だというのは妥当だとしても、はたしてそれらは考えてわかる問題か?ということが問題である。哲学はもうとっくにそれらの問題に答えるのは不可能であると結論付けているように、私には思える。ものごとについて『考える』とか『分かる』と...それは一体「問題」なのだろうか?

  • 父になる

    女性は子供を産んだその時から母親としての自覚を持つらしいが、男の方はそうでもないと言うか、少なくとも私はそうではなかった。近頃は男性も女性とともに胎教に参加して、出産にも立ち会ったりするそうだけど、私が結婚したころはそういう方面の意識はあまり高くなかった。妻は長男を実家のある田舎の病院で出産したのであるが、私はそこに駆け付けもせず電話で連絡を受けただけであった。息子との初対面を果たしたのは一週間程過ぎた頃であったと記憶している。赤ん坊はとても可愛かった。瞳をのぞき込むとニカッと微笑み返す、その表情には随分と癒されたものである。しかしそれは単に、「可愛いから可愛い」という域を出てはいなかった。まだまだ血の絆というようなものは感じていなかったような気がする。それは息子が三歳になる前頃のことだった。ある日私は仕事を終...父になる

  • ネットの記事には注意が必要

    池江璃花子選手に関する桜田五輪層の発言がやり玉に挙がっている。なるほど、インターネットで拡散されている記事を読むと、配慮に欠けるような印象を受けるが、実際の発言の一部始終を聞くと全然問題になるような発言ではないと思う。彼のコメントの中から、「がっかりした」「盛り上がりが下火にならないか」という文言だけをとりあげて批判する姿勢には、なんらかの悪意が感じられる。コメント全体を通して聴くと、桜田氏は「まず治療に専念して、一日も早く元気な姿を見せて欲しい。」ということを強調している。確かに、「がっかりした」「盛り上がりが下火にならないか」という文言もあったが、それはだれもが感じること、全体としては彼女の回復を願っているという趣旨のコメントになっている。こんな事で正義漢面して大声を張り上げて批判する野党議員のスタンドプレ...ネットの記事には注意が必要

  • 新実在論

    マルクス・ガブリエルは言う、「モラルは存在する」と。なぜなら、「子供を拷問にかけて良いか?という問いに対し、『良い』と答える人はいないはずだ。」と言うのだ。なるほど、力強くて説得力のある言葉である。彼にしてみれば、日本人が問題にしている「人を殺すのはなぜいけないのか?」という問いはあまりにもナイーブ(素朴)すぎるのだろう。日本人のほとんどは「人を殺すことはいけない」と思いながら、その客観的な根拠を問いたがっている。それはいわば、「1+1=2」であるのと同じように「人を殺すのはいけない」ということを納得したいというのと同じである。その底には、絶対的な規範があればそれに従っていさえすれば責任は回避できるという判断が潜んでいる。しかしカントは、人間の行為にはすべて責任を伴う、道徳行為はすべからく自律的であるべきと説く...新実在論

  • 進化論を目的論的に論じるべきではない

    私達の祖先は長い間の自然選択をくぐり抜けてきた。そうして、現に私たちが今存在しているわけである。なので、私たちは種族保存という意味においては非常に洗練されていると考えて間違いはない。だから、私たちの性質の一つ一つに対して進化論的な理由を見出すことはそれほど困難なことではない。例えば、一般的に蜘蛛や蛇、ムカデなどに生理的な嫌悪感を持っている人が多いが、それらは毒をもつ種が多いゆえに、不用意にそれらに触れようとしない方が望ましい。また、大抵の子供は野菜嫌いであるが、これにもまた同様な理由が考えられる。植物にはアルカロイド系の毒をもつものが多いので、それらが美味しく感じるようではとても危険なのである。たいていの人は親が与える野菜に徐々に慣れていくのである。私達の本能に潜む些細な性質の一つ一つが入念に吟味されているかの...進化論を目的論的に論じるべきではない

  • 私は世界で最高の選手の一人と闘っている、謙虚にならなければならない。

    全豪オープンの決勝戦、大阪なおみ選手は第2セットの第10ゲームでチャンピオンシップポイントを握った。ここでワンポイント取っていれば、彼女の快勝ということになっていただろう。が、その1ポイントがなかなか取れない。いわゆる「勝ちビビり」に取りつかれてしまった。結局クビトワの7ポイント連取を許し、そのセットを失ってしまった。その時点で彼女の負けを覚悟した人も多かったのではないだろうか。彼女は明らかにパニックに陥っていた。ここで彼女はトイレ休憩を申請する。トイレの中で彼女は(おそらく)泣いた。そして、すぐ自分を取り戻した。そしてその時の心境を次のように述懐する。「私は世界で最高の選手の一人と闘っている、謙虚にならなければならない。勝って当たり前などと考えてはならない。」彼女は直ぐにトイレを出て競技場に引き返した。大方の...私は世界で最高の選手の一人と闘っている、謙虚にならなければならない。

  • 禅的真理観について

    前回記事で、禅は「なんの媒介も無しに『一挙に世界を了解』してしまう」と述べた。このことについて少し説明したいと思う。一般に、真理というものは「見えているもの」の背後にあると考えられがちである。だから私たちは考える。しかし、禅仏教はこのような考え方を否定する。事実というものは「見えているもの」以外にはないのであるから、それこそが真実と受け止めるしかない。それが「真実は現前している」という言葉になる。仏教経典には、「無」「不」「非」という否定を意味する字が多いので、なんとなく否定的で神秘的な思想であるかのように受け止められるが、否定するのは分別や懐疑であって、実はとことん現実肯定の思想なのである。そういう意味で、「デカルトの懐疑」に始まる西洋哲学とは対極にあると言える。デカルトはすべてを疑って、ついには「考える私」...禅的真理観について