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禅的哲学 https://blog.goo.ne.jp/gorian21

禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。

私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。

御坊哲
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2013/12/07

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  • 「進化する」と言うが、いったい何が進化しているのか?

    ダーウィンの進化論は自然科学において、ニュートンの万有引力の法則と並んで最も重要な発見であるとされている。思想史的に見ても、私達の世界観にこれほど大きな衝撃を与えた学説は他にないと言ってもよいのではないかと思う。ところが、未だに「猿が人間に進化した」とか「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」式の説明が堂々とまかり通っている。多分「進化」という言葉がいけないのだと思う。進化という言葉を使うのなら、進化する主体というものががなければならないはず。しかし、そんなものはないのである。下の図を見て欲しい。この絵を見ると、まるで猿が人間に変化していくように見える。しかし、そうではないのである。この図の中に変化などしているものはない。ここに描かれているものは一つひとつがそれぞれ別個の個体であり、猿とし...「進化する」と言うが、いったい何が進化しているのか?

  • 100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」

    NHK「100分de名著」という番組の2月のテーマは私はリチャード・ローティの「偶然性・アイロニー・連帯」であった。私はローティという哲学者のことは全然知らなかったのであるが、朱喜哲先生の説明を聞いて、とても偉い人であると思った。と同時に、その根底にある思想は仏教に通底しているとも感じた。ここでローティの言う「偶然性」という言葉について考えてみよう。随分前の話になるが、あるテレビの番組における若者の投げかけた「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが大きな波紋を呼んだことがある。結局決定的な結論には至らず今も問題は宙に浮いたままである。しかし、どう考えてみても「人を殺してはいけない」という結論は理屈では導き出せない。現実に人類は正義の名のもとに盛大な人殺しを繰り返してきたのだから、「人殺しは必ずしも悪...100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」

  • 遅ればせながら大台達成

    私は2015年7月から横浜市主催の「よこはまウォーキングポイント」運動に参加しています。(参照=>「来年の目標」)当該記事を読んでもらえば分かるように、三千万歩の大台まであと約260万歩というところまで来ていました。当時の私は年間約三百万歩以上のペースで歩いていたので、早ければ八月遅くとも10月には大台クリアできると思って、それを2023年度の目標としたのでした。ところが昨年の2月頃から体調が思わしくなくなり、既にご報告の通りネフローゼ症候群という難病に罹ったため昨年度中の目標達成はとん挫せざるを得ませんでした。年が明けて病気も一応緩解ということになり、少しずつペースを取り戻しています。そんなわけで約半年遅れましたが、本日やっと三千万歩の大台に達することができました。次の目標は82歳までに五千万歩達成を目...遅ればせながら大台達成

  • 塩分の摂取コントロールはとても重要

    1月20日の記事にて、一次性ネフローゼ症候群については緩解したとのことをすでにお伝えしてありますが、まだまだ完治にはほど遠いのが実情です。2カ月ごとに経過観察しながら、ぶり返しがなければ徐々にステロイドの摂取量を減らしていく、というプロセスが順調にいってあと一年は続く見込みです。どんな病気でもそうだと思いますが、腎臓病で特に問題になるのは食事制限です。私の場合特に留意するように言われているのが、一日に「塩分とタンパク質の摂取量をそれぞれ6gと50g」以下に抑える事です。平均的な日本人の一日の食塩摂取量は約10gほどであると言われています。私はアジの開きにさらに醤油をかけて食べていた口ですので、おそらく1日に15~20gぐらいの塩分をとっていたのではないかと思っています。漫然とした食生活を送っていると、とて...塩分の摂取コントロールはとても重要

  • 日本はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を支援し続けるべし

    ≪UNRWAは第一次中東戦争後、1949年12月8日に採択された国連総会決議302(IV)により、パレスチナ難民のための救済と事業実施を目的として設置され、1950年5月1日に活動を始めました。それから73年、UNRWAはパレスチナ難民の支援と保護を行っています。≫(以上、UNRWAのホームページからの抜粋。)現在ガザのパレスチナ人が悲惨な状態にあることは全世界が周知している。しかし、この事態に重大かつ全面的に責任があるイスラエルとハマスは人々の生存と安全のためにほとんど何の努力もしていないのが実情である。医薬品や食料品のガザ外部からの搬入は全面的にUNRWAなしでは途絶えてしまう。そんな事情を知らない筈はないのに現時点で15か国がUNRWAへの拠出金停止を表明したのだ。しかもその中に日本も含まれているの...日本はUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)を支援し続けるべし

  • 実力も運のうち

    普通「運も実力のうち」という言葉はよく聞くが、「実力も運のうち」はあまり聞きなれない言葉である。実はこれはNHKの白熱教室で知られるハーバード大学のマイケル・サンデル教授の新しい著書のタイトルである。私はまだその本を読んでいないので、サンデル先生がどのような意図で「実力も運のうち」と仰っているのかはよく分からないが、よくよく考えてみればなかなか意義深い言葉であるように思えてきた。大谷翔平選手の選手としての報酬は10年間で7億ドルだという。年俸100億円である。それ以外にスポンサー企業からの副収入が70億円もあるらしい。私のような貧乏人には見当もつかない金額だが、金を出す側としては大谷選手にはそれだけの市場価値があると踏んでいるわけである。その市場価値の源泉は、野球選手としての力量、魅力的なパーソナリティや...実力も運のうち

  • 寛解しました

    昨年の9月28日の記事(==>「難病に罹ってしまいました」)で、腎臓病に罹ってしまったことをご報告しましたが、1月18日の受診で主治医の先生から「蛋白/クレアチニン比が0.3を下回りました。寛解です。」と告げられました。あっさり「寛解」と言われたので拍子抜けしてしまいました。検査日9/1810/1911/1612/141/18蛋白/クレアチニン比3.091.300.740.670.26アルブミン2.32.93.53.63.7蛋白/クレアチニン比の正常値は0.15以下だが、0.3を下回れば一応ネフローゼ症状を脱したと見做すらしい。ただ、血中アルブミン濃度(正常値は4.1以上)がまだ低いままなので、寛解と言うほどに回復したという実感は持てないでいる。主治医の先生によれば、この症例にしてはほぼ理想的な回復ぶ...寛解しました

  • この著しい不正義を黙って見過ごしてよいのだろうか?

    最近、2歳の女の子が米国における心臓移植に成功したというニュースが流れた。いたいけな少女がやっと人工心臓から解き放たれたと知って、何となく心が軽くなったような気がする。しかし、米国での心臓手術はとてつもなく費用が掛かる。この手術のために、なんと5億3千万円の寄付金が寄せられたという。小さな命の苦しみをわがことのように受け止めた多くの人々の善意である。人ひとりの命がそれほど重いものと、人々は受け止めているからこそだと思う。一つの命がそれほどいつくしまれている一方で、ガザではいかにも無造作に人々の命が奪われ続けている。イスラエルの自衛戦争の名のもとに、なんら抵抗手段をもたない多くの人々が一方的に殺戮されている。すでに2万人以上の人々の命が失われたという。イスラエル側はテロ組織ハマスの排除の為と言うが、被害者の...この著しい不正義を黙って見過ごしてよいのだろうか?

  • 高額で契約するということがそんなに素晴らしいことなのか?

    大谷選手が10年間で7億ドルというでドジャースと契約したらしい。日本円に換算すると年俸100億円という途方もない金額が10年間保証されたのだという。日本のメディアを通して見ると、みなわがことのようにそのことを喜びそして誇りに思っているように見える。しかし、私にはそれがそんなに素晴らしいことだとはどうしても思えないのである。決して大谷選手が嫌いなわけではない。私もこの好青年が大活躍すると嬉しいというファンの一人である。しかし、共稼ぎの主婦がパートで時給1000円前後で生活の為に必死に働いている一方で、青年が好きな野球をやっているだけで1年間に100億円も稼ぐ、ということに私はどうしても引っ掛かりを感じてしまうのである。プロフェッショナルな選手として一つのことに全精力を注ぎむ、それはとても価値のあることだし、...高額で契約するということがそんなに素晴らしいことなのか?

  • 笠置シヅ子に見る一流の矜持

    私は昭和24年生まれの団塊の世代である。で、昨今の朝ドラで話題になっている笠置シヅ子さんのことは小学生の時分から知っていた。と言っても、歌手としてではなくあくまで俳優としてである。私の知っている笠置シヅ子は、お笑いドラマの三枚目的なわき役として起用されることが多かったように記憶している。そんなわけで、漠然と彼女のことを松竹新喜劇出身の人かなぐらいに思っていた。彼女が歌手であったこと、それも一世を風靡した大スターであった、ということを私が知ったのはずっとのちのことである。彼女が歌手を引退したのは昭和31年のこと、私が小学1年生の時である。まだ日本ではそれほどテレビも一般には普及していなかったし、私が彼女が歌手の現役である時代を知らなかったのも当然のことであった。が、私は俳優としての彼女を憶えているほどにはち...笠置シヅ子に見る一流の矜持

  • 分けると分かる

    先月は、「論理とはなにか?」に始まる八回のシリーズで、ロゴス中心主義とそのアンチテーゼとしての仏教的中道思想について解説したつもりだったが、中心テーマになる後半になると閲覧回数が激減してしまった。自分ではかなり力を注いだつもりだったが、もしかしたら独りよがりで稚拙な解説をしてしまったかもしれない。少し未練が残るので、もう一度簡単にまとめてみたい。「分かるとは分けることだ」という言葉がある。もともと「分かる」の語源は「分ける」からきているらしい。まさにこれは核心をつく言葉だと思う。ロゴス中心主義においては「分かる」と「分ける」はほぼ同義と言ってもよい。「ソクラテスは人間である」と言った時、ソクラテスを人間と人間以外に分別しているのである。もちろんいろんな分け方がある。それは男か女か、ギリシャ人であるかどうか...分けると分かる

  • 自分のだめさ加減を思い知らされる

    9月28日の「難病に罹ってしまいました」という記事で、腎臓病はわたしに向いてるというようないかにも達観しているような趣旨のことを述べた。なにしろ普段から、空だ無だの一見偉そうなことを述べている私のことであるから、「さすがに御坊哲は悟っているんだろう」くらいに思った人もいるかもしれない。としたらそれは飛んだ見当違いなので、ここで読者の皆さんの誤解は解いておきたい。私はどちらかと言えばダメダメの落ちこぼれ老人で、ヒマにあかせて言いたいことをブログでぶちまけているだけ、という感じに受け止めてもらえば私も気が楽である。腎臓病が私に向いているというのはある程度本当のことである。常に体はだるいが、なんの気負いもなくだらだらと過ごしていれば別に苦しくとも何ともない。平地をただゆっくりと自分のペースで歩くにはなんの支障も...自分のだめさ加減を思い知らされる

  • 性同一障害とはなにか? そんなものが本当にあるのだろうか?

    前回記事の手ごたえがいまいちで、あまり真意が伝わっていないような気がするので、もう少ししつこく説明させていただきたい。言葉と論理はわたしたちの日常生活には必要不可欠ではあるが、基本的に2値選択の組み合わせによって構成されているし、そこから出てくる結果も、真か偽か、有るか無いか、やるかやらないか、敵か味方かと言った2項対立でしかない。夕食のおかずはどうするかとか、子ども達の三角ベースのチーム分けをどうするかと言ったようなことなら、さほど問題はない。しかし、あまりにも微妙な要素が複雑に絡み合った、例えば倫理的要素の絡む問題などを単純な言葉と論理に当て嵌めると微妙なニュアンスがすべて捨象されてしまって、とんでもない結論に至ってしまうことが多いのである。中道とか中庸と言うのは、そのような二項対立に陥ることなく、も...性同一障害とはなにか?そんなものが本当にあるのだろうか?

  • 空観から中道思想へ(前回記事からの続き)

    前回記事で「日本一低い山などというものも、恣意的視点を受け入れればいくらでも作り出せる。」と述べたが、なにもそれは「日本一低い山」に限ったことではなく、いかなる概念についても言えることである。正義や善についてもまた然りである。現に、世界中至るところで正義同士が悪辣なことをしでかしている例は枚挙にいとまないほどである。プラトンの言うように正義や善のイデア・本質というものがあるのであれば、こんなことはあり得ない。正義は一義的に決定しているはずである。龍樹はなにごともそれ独自で存在するすることはなく、それは縁起によって生じるものであると言う。縁起と言うのは日常語においては、「時間的な継起・因果関係」のようなニュアンスがあるが、日本仏教学の権威である中村元博士は「龍樹がいう縁起とは相依性のことである」と述べている...空観から中道思想へ(前回記事からの続き)

  • ロゴス中心主義と仏教的無常観 (つづきのつづき)

    もう少し無常ということについて考えてみよう。なぜ仏教では世界は無常であるというのだろうか。多分それは、そう考えるのが自然だからだと思う。無常でないとするならば、そこには収束点とか目標というようななんらかの固定的な規矩が存在するということになる。そこで例えば、もし人間のイデアというそのような固定的なものが本当に存在するのなら、それにはこういう形でこういう性質を持ったものが必要であるというような、超越的な意思(それを神と言うのだろう)がなくてはならなかったはずだ。キリスト教の新約聖書は「始めに言葉(logos)ありき」で始まっている。なにもかも神の理性から始まっているということがキリスト教の根本である。それに対し、仏教ではそのような超越的な意志は一切前提しない。釈尊はこの世があまりにも儚いことから、それを差配...ロゴス中心主義と仏教的無常観(つづきのつづき)

  • ロゴス中心主義と仏教的無常観 (前回記事のつづき)

    「言葉には指示対象としての意味はない」と言われても、大概の人はすんなりそれを認める気にはならないだろう。それは無理もないことである。誰もが「赤」という言葉に夕焼けの真っ赤な色という意味を込めているからである。その言葉を受け止める方も「赤」と聞けば、みごとに紅葉したもみじの色を思い浮かべるだろう。問題は各人が各々自分の私秘的な感覚(クォリア)を「赤」という言葉の指示対象であると思い込んでいることである。お互いに自分の「赤」のクォリアを照合しあっているわけではないということに留意しなければならない。その場で使用される「赤」という言葉の正当性を支えているのは、お互いがめいめい勝手に思っている意味としての赤のクォリアなどではなく、同じ赤のクォリアを見ているという思い込みだけである。決して秘私的な各人のクォリアが本...ロゴス中心主義と仏教的無常観(前回記事のつづき)

  • ロゴス中心主義と仏教的無常観

    いくら言葉を重ねてみても人の心は語りつくせねぇもんさ、そいつを口に出しちゃ味ない味ない。by長谷川平蔵(「鬼平犯科帳」より)新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章の冒頭は「始めに言葉ありき」で始まっている。ここで「言葉」と日本語訳された部分のギリシャ語のもとの言葉はlogosであり、それは神の言葉=理性の意味である。英語のlogicもこの辺が語源であろうと考えられる。言葉と論理の近さを象徴しているという意味で非常に興味深いことである。ロゴス中心主義というのは、言葉と論理によってこの世界をすべて語りつくすことができるという考え方のことを言うのだろう。さて、いままで「論理は絶対正しいみたい」なことを言っておきながらなんだが、ここらへんで少しちゃぶ台返しをしたいと思う。古代インドの哲学者ナーガルジュナは大乗仏教の...ロゴス中心主義と仏教的無常観

  • 不完全だからと言って、欠陥があるわけではない。

    前回記事において、正しさの源泉論理であるみたいなことを述べたのだが、ある方から不完全性定理が私たちの信念体系に脅威を与えているかのような意見を頂いた。不完全性定理については「すべての理論は不完全である。したがって、あらゆることの根拠が疑わしい。」式の誤った理解が一般に流布されているような気がするので、そのことに注意を喚起しておきたいと思います。不完全性定理というのは、第一と第二があって、かいつまんで言うと次のようなものです。〇第一不完全性定理:無矛盾な自然数論を含む形式体系(普通の数学理論のこと)には証明も反証も出来ない命題が存在する。〇第二不完全性定理:無矛盾な自然数論を含む形式体系について、その無矛盾性をその体系内において証明することはできない。第一不完全性定理の「証明も反証も出来ない命題」を仮に命題...不完全だからと言って、欠陥があるわけではない。

  • 論理と理論

    (自分でも七面倒くさい話を始めたなと思い半分後悔しています。話が面白くないと感じた方は遠慮なく読み飛ばして下さい。本題はまだまだ先の方です。)日本語の日常会話において、論理と理論はほとんど区別がなされていないというのが実情だろう。「君の話は全然論理的ではない。」という言葉の「論理的」を「理論的」に置き換えても意味は同じである。話のすじみちとして納得できるば、それは論理的であり理論的であるということになるのだろう。しかし、「論理」も「理論」もどちらも本来の日本語にはなかった言葉で、江戸末期または明治の初めに西洋の思想を思想を取り入れる必要にせまられてつくった翻訳語でであることを忘れてはならない。論理はlogic、理論はtheoryであり、これらはれっきとした別概念である。理論(theory)というのは自然科...論理と理論

  • 論理とはなにか?

    「論理」という言葉は元々の日本語にはなく、英語で言う「logic」の翻訳語である。辞書で調べてみると、次のようになっている。OxfordLanguagesの定義·詳細①議論の筋道・筋立て。比喩的に、物事の法則的なつながり。②「論理学」の略。また、一つの論理学が立つ体系。大体は上のような説明でほとんどの人が納得するのではないかと思う。しかし、具体的に論理がどのように自分の思考に関わっているかということを意識する人はあまりいない。私が「私たちは論理によってしかものを考えることが出来ない。」と言うと意外な顔をする人が多い。実際に私たちは非論理的なことを考えることは出来ないのである。私たちの思考は単純な論理法則によって厳格に支配されていて、決して矛盾したことを考えることが出来ない仕組みになっている。例えば三段論法...論理とはなにか?

  • 日本の看護師のモラルの高さ

    入院している患者は大抵不安を抱えているものである。それに、相部屋になっても隣の患者との会話というものもほとんどない。患者と言葉を交わす相手は看護師しかいないのである。患者が看護師に多少甘えたくなるのもある程度やむを得ないと思う。孤独に耐えかねた患者はできるだけ看護師を自分の所に引き留めようとして、やってくる看護師ごとに毎回同じ話をしたりしている。そのくせ、最後には「お忙しいところを引き留めてすみませんねぇ」と殊勝な言い訳したりするのは可愛い方である。中には、居丈高に若い看護師に説教しだす人もいたりする。入院してきたばかりの患者に、担当看護士が「明日の朝いちばんに採血を行います。」と告げた。そしてその翌朝のこと、その看護師は予告通り採血に来て処理し終えたのだが、その患者は「あのね、普通世間一般の常識ではね、...日本の看護師のモラルの高さ

  • 難病に罹ってしまいました。

    長いことブログをほったらかしていたので、「もしかしたら、‥‥」と思った方がいるかもしれませんね。私はまあ何とか生きています。実は、8月21日から9月19日までの約一か月間入院していました。退院してから十日間経ってやっとブログに向かう気力がわいてきたところです。今年の春ごろから異変は生じていました。小便が異様に泡立ち始めたのです。私は血圧コントロールの為に毎月1回かかりつけ医に通っている。5月の健診時にそのことについて先生に訴えたところ、「御坊さんの4月の血液検査の数値は安定していて、腎臓にも今のところは問題はないと思います。」という返事が返ってきた。この先生は人間はとてもいい人なんだが医者としては少し頼りないと思っていた私は些釈然としない思いでその場は引き下がった。そして、翌月5月の健診の帰り際に先生が「...難病に罹ってしまいました。

  • 「世界」は存在しない

    マルクス・ガブリエルは「あらゆるものをその中に含んでいる一つの世界というものは存在しない。」と言う。少し注釈が必要だろう。彼は宇宙と世界という言葉を使い分けていて、宇宙の存在については否定していない。宇宙はすべての物質が自然法則に従って運動している場である。いわば客観的な世界と呼んでもいいかもしれない。しかし「世界」はもっと大きく、われわれの意識的な主観現象も含め、ありとあらゆるものを包摂すると考えられるからである。しかし、科学技術の発展に伴い科学万能主義がはびこると、人々は「宇宙=世界」だと錯覚するようになった。自然主義哲学というのは科学と哲学に境界を認めない考え方で、あらゆることが自然科学の対象となりうるという考え方である。痛みだとか美しい花の色だとか異性に引かれる切ない気持ちなどという、もろもろの意...「世界」は存在しない

  • 一日作さざれば一日食らわず

    百丈慧海禅師の有名な言葉である。とても有名な言葉なので、その言葉にまつわる故事は省略する。(その故事についての解説はこちらを参照してください==>「一日作さざれば一日食らわず」)百丈禅師というのは唐代の大禅匠であるが、「百丈清規(しんぎ)」という禅林の修道生活全般にわたる規範を取り決めた人である。残念ながら百丈清規はその後散逸してしまい、今となってはその全貌を伺うことは出来ないが、現在の僧堂の運用の基礎として残っている。禅林では修行者の日課とその役割が事細かく決められている。各々が自分の役割分担をそれぞれ果たすことによって、はじめて禅林は一個の有機的な集合体として機能するのである。百丈は自立した持続可能な禅林というものを目指していた、千年以上もの昔に今でいうところの「SDGs」を意識していたすごい人なので...一日作さざれば一日食らわず

  • 意味は言葉をすり抜ける?

    前回記事では私の表現方法がつたなくて、記事を読んでいただいた人になかなか意味が伝わらなかったような気がするので、もう少し言葉というものについて掘り下げてみたい。言葉はわたしたちの思考を支えるものであるから、無意識に使用できるほどのものでなくてはならない。いちいち吟味しながら言葉を選ばなくてはならないようでは用をなさないのである。つまり逆に言えば、あたかも「言葉=思考」のごとくであるかのように言葉を使用している。つまり言葉を発した時には、既にもうその言葉は発言者にとって自家薬籠中のものであり、いささかの迷いもなくその言葉を使用しているのである。受け手側もそのような前提に立って言葉を受け取る。だから、「大谷翔平はまた新たな金字塔を打ち建てた。」と言われても、「金字塔って何?」と話の腰を折ったりしない。状況から...意味は言葉をすり抜ける?

  • 「愛」が多すぎる?

    「らんまん」は植物学者・牧野富太郎先生の伝記をもとにした物語である。私は毎朝NHKでこのドラマを見ている。が、少し気になるのはその主題歌のことである。やたら「愛を愛を・・愛して・・」と「愛」が多過ぎるのだ。楽曲そのものは悪くない。才能のある人が作っているのだろう。だから私がつけるケチに対して反発を感じる人も多いかも知れない。しかし、実際にその歌を傾聴すればするほど「いったい何を歌っているのだ?」と言いたくなるほど意味が分からなくなり、連発される「愛」に対して反発したくなる。「愛」というのは本来の日本語つまり大和言葉ではない。もともとは仏教用語として伝来したものに対して、明治時代に"love"の翻訳語として転用されるようになったのである。仏教用語としての「愛」は愛欲すなわち煩悩の一種であり、歌に歌われるよう...「愛」が多すぎる?

  • 著しく正義に悖る

    いわゆる「袴田事件」の再審公判において、検察側は有罪立証する方針であるらしい。本日(7/10)中にもその方針が、再審公判が行われる静岡地裁に伝えるとみられている。この事件についてはいろんな人がその研究結果を発表しているが、それらを読む限りこれは冤罪以外のなにものでもないとしか思えない。なぜ袴田さんが事件の容疑者として浮かび上がったか?それは、元プロボクサーだったから。「ボクシングやるような粗野な奴だから‥‥」というイメージによる思い込み以外に、彼を犯人と決めつける要素は何もなかったのである。彼にとって有利な証拠をすべて避けるような不自然なストーリーがでっち上げられ、そのストーリーに沿って証言を誘導していった。そうとしか考えられない。そして唯一の決め手となる物証がなんと逮捕から約1年後にみそタンク内で見つか...著しく正義に悖る

  • 禅的真理観

    一般に科学とは現象の背後にある真理を追究するものと考えられている。しかし禅仏教においては、「現前しているものそのものが究極の真理であり、隠されているものなど何もない。」という態度で世界に望むのである。「あるがまま看よ」というのはそういう趣旨の言葉である。望遠鏡のない時代においては天動説が科学的には十分な学説であった。しかし、望遠鏡が発明され観測技術が進歩すると、天動説ではどうしても説明できないことが色々とあらわになってくる。結局現在では地動説が正しいということが常識となっている。しかし忘れてはならないのは、天動説も地動説も同じ「この世界」についての説明であるということである。天動説から地動説に代わっても「この世界」は依然として同じ世界であるということを忘れてはならない。そのことを指して、禅仏教では「有るが...禅的真理観

  • 日本・ハラスメント列島

    有名な歌舞伎役者の一家心中が連日ニュースで取りざたされている。これまで行ってきたセクハラが週刊誌によって暴露されることを深刻に受け止めた結果、というようなことが噂されている。ことの真偽は外部のものにはなかなか分からないが、そういうことがあっても少しも不思議ではないと思っている。ハラスメントは社会のいたるところにはびこっているからである。私は長い間フリーランスで請負仕事をやって来た。大きなプロジェクトの下請けの下請けという最下流の仕事がほとんどである。その経験から学んだことの一つが、人は権力をふるいたがるということである。無教養な人ほどその傾向は強くなるが、どの人も自分を大きく見せたがるという欲求から逃れることはなかなか難しいことなのだと思う。私自身からしてそういう傾向の強い人間であるから、その辺のところは...日本・ハラスメント列島

  • 意識とは何か

    あるSNSにおいて、次のような質問を提示した人がいる。「意識とは自分が作っているのではなく他人がいることによって作り出されるものなのでしょうか?」質問された方の真意は分かりづらいが、このような問いが出てくるという事情は理解できる。意識がなんであるか、それはあまりにも自明のことと思われていながら実はとても難しいからである。そして、この人は「他人がいることによって作り出されるものなのでしょうか?」と述べているが、少なくとも他人がいなければ概念として成立しないということは間違いないことだと思う。上述したことについて訝しく思う人は少なくないと思う。「今、御坊哲の書いた記事をディスプレイで見ながら考えている、それは自分の意識の中で起こっている。自明のことではないのか?」と思うのは当然である。私たちはそのような思考に...意識とは何か

  • 永劫回帰と無常

    永劫回帰(永遠回帰とも言う)というのはニーチェの考えだしたことである。彼はこの世界が有限であると考えていた。世界が有限であれば、その世界を構成している要素も有限であるはずである。要素が有限であればいかにそれが膨大なものであってもそれらの組み合わせのバリエーションは有限である。ところが時間は無限だから、世界は同じことの繰り返しにならざるを得ないというのである。つまり私は今までに、無限回生まれ無限回同じ人生を送り無限回死んでいる、ということなのである。宇宙が有限であるかどうか時間が無限であるかどうか、それはわれわれの経験が及ぶところではないので知ることは難しい。例えニーチェの考えるように、宇宙が有限で時間が無限であったとしても、エントロピー増大の法則を知っている人ならば決してニーチェの考えている通りにはならな...永劫回帰と無常

  • 「後悔したこと後悔する」とはどんな意味?

    私は若い頃人生幸朗と生恵幸子師匠の夫婦漫才が好きで、よくラジオでそれを聞いていた。いわゆるボヤキ漫才というやつで、ネタはたいてい流行歌の歌詞に関するものである。何ということはない歌の文句をとりあげて、屁理屈をこねていちゃもんを付ける。そういう芸風である。「『君の瞳は百万ボルト』やて?なんやそれ。目の玉は電球ちゃうぞ!」と怒り出し、終いには「責任者出て来いっ!」と切れまくるという塩梅である。人生幸朗師匠の影響もあってかどうかは知らないが、実は私も流行歌を聴いていて時々いちゃもんをつけたくなることがよくある。私はちょっと言葉についてはうるさい。なんか適当に言葉ならべてるだけじゃないのかと言いたくなるのである。〽もし今日を逃し後悔すれば〽後悔したこと後悔する〽後悔したくないんだったら〽後悔なんかするな若い歌手が...「後悔したこと後悔する」とはどんな意味?

  • Chat GPTの問題点

    チャットGPTというのが現在大きな話題を呼んでいる。質問を入力すると人工知能=AIが、自然な会話をするように答えてくれるのだそうだ。最近のAIの進歩は目覚しく、かなりの精度の高い会話が出来るらしい。使用する側から見ると、向こう側に本当に物知りな人がいて、その人が答えてくれているように感じるらしい。しかも、そのAIを使用すると、そのこと自体が情報として蓄積される。チャットGPTはその蓄積されたデータを分析しさらに高度なものへと進化していくというものらしい。つまり、チャットGPTは自分自身で学習し賢くなっていくという自立性を持っている。素晴らしいシステムだと思う。高度なAIといえば決まって、「意志を持ちしかも人間より賢くなった人工頭脳はやがて人間を支配しようとするのではないか」というような話が持ち上がってくる...ChatGPTの問題点

  • この子が良い

    一昨日(4/2)の東京新聞に俳優の美馬アンナさんの手記が掲載されていた。とても感銘を受けたのでご紹介したい。ちなみに美馬アンナさんは千葉ロッテマリーンズの美馬学投手の奥さんである。美馬さん夫婦の三歳になる息子さんは四肢欠損症で右手首から先がなかった。出産直後にそのことを知ったアンナさんは非常に驚き嘆き悲しんだ。その時のことを彼女は「何をやっても涙が出る。世界が真っ暗になるというか、闇に包まれるというか。そんな思いでした。」と述懐している。彼女の悲嘆は察するに余りあるが、そんな時に夫である美馬投手は「お腹にいる時に分かっていたら産まなかったの?」と訊ねたのだそうだ。彼女が即答できないでいると、美馬投手は次のように言ったのだそうだ。「右手のことが分かってても俺は産んで欲しいと言っていた。この子が良かった。俺た...この子が良い

  • 「政治家の判断はそれ自体が政治性を帯びている」(グレッグ・ダイク)

    昨日(3/25)のTBS報道特集において、報道の政治的公平性について元BBC会長のグレッグ・ダイク氏の言葉が紹介されていた。「あるニュースが政治的に公平であるかどうか、それを判断するのは誰か?」という問題について、ダイク氏は「その判断は政治家にはできない。なぜなら、政治家の判断はそれ自体が政治性を帯びていて、その結果その判断は政治的に偏っていると認識されるべきものである。」とという趣旨のこと述べている。このところ元総務大臣であった高市氏は、総務省の行政文書について「ねつ造である」と言ったことで国会内で窮地にさらされている。しかし、私はこの問題について少なからぬ苛立ちを感じているのである。もし、行政文書にねつ造があるのならそれはそれで大問題でもあるが、今問題にすべきことはそんなことではない。かつて、安倍氏や...「政治家の判断はそれ自体が政治性を帯びている」(グレッグ・ダイク)

  • 大谷は確かに素晴らしいが‥‥

    WBCの最終戦の最後、大谷とトラウトの一騎打ちはとても見ごたえのあるものだった。クローズアップされた大谷の表情からその息遣いが伝わってくる。文字通り息詰まるような瞬間だった。トラウトを三振に打ち取ったときの大谷の感情の爆発を見て、彼の勝負に対する執念と野球に対する情熱を誰もが見た、そして誰もが心を震わせたはずだ。それがスポーツの素晴らしさである。しかし、私は以前からこのWBCに対しては懐疑的である。というのは、この大会がもともとMLB(メジャーリーグ)のビジネスであり、それも日本向けビジネスとして設計されたものであるからである。主なスポンサーがほとんど日本企業であるのに、収益の7割がMLBの懐に入るという、とてもいびつなシステムになっている。アメリカの企業にはスポンサーとして参加させない。アメリカの企業に...大谷は確かに素晴らしいが‥‥

  • 「総務省の行政文書がねつ造である」と当時の所管大臣が平然と言ってのける奇妙さ

    放送法が定める「政治的公平」の解釈をめぐって国会が紛糾している。高市早苗総務相(当時)は2015年、放送番組が放送法の求めるとおり政治的に公平な内容かどうか、ひとつの番組だけを見て判断する場合があると答弁した。そのいきさつについて記してある総務省の行政文書が暴露されたのだ。その文書には当時の安倍首相と高市氏の電話のやり取りが記録されていた。その内容は前述の高市氏の答弁と一致しており、そう言ったやりとりがあった蓋然性は非常に高いという印象を受けた。高市氏は答弁は自分自身の考えであり、その文書に書かれていることは真実ではないと主張する。彼女の主張によれば、その文書はねつ造でありその挙証責任はその文書をとりあげた野党側にある、と言っているように聞こえる。なにやら森友問題の文書偽造を想い起させられる。公式文書を官...「総務省の行政文書がねつ造である」と当時の所管大臣が平然と言ってのける奇妙さ

  • 理性と理由

    「理由」は英語で"reason"というのは大抵の人が知っていると思う。では「理性」を英語で何というかと訊ねられて答えることが出来る人はそれほど多くはないのではなかろうか。実は、「理性」も"reason"なのである。理性は理由を求めるものであり、理由は理性により求められるものである。明らかに別概念であり、英語の"reason"はわれわれ日本人から見れば多義語である。多義語というのは使用される文脈によって意味が違うのだが、使用する側はその違いを意識してはいない。例えば、次のような具合である。"reasonforthesuccessof~"(~の成功の理由)"hisreasontoldhimthatthewaywasthebest"(それが最善であると彼⦅の理性⦆は判断した)あなたがレストランで食べた料理がとて...理性と理由

  • 戦争に行って一番おそろしかったこと、それは男のパンツを穿かされたことさ。

    アレクシェーヴッチの「戦争は女の顔をしていない」は、第二次世界大戦に参戦したソビエトの500人もの従軍女性へのインタビューの記録である。その中にとても印象深い供述がある。「戦争に行って一番おそろしかったこと、それは男のパンツを穿かされたことさ。」第2次世界大戦におけるソビエト連邦の戦死者は2600万人にもおよぶと言われている。その女性兵士もおそらくその惨状の一部に触れていたと思うのだが、一番恐ろしかったのは、銃弾が空気を切り裂く音や爆弾の炸裂する音でもない、また血だらけの死体が散乱する光景でもなく、自分が男のパンツを穿かされたことだという。このことをどういう風に受け止めればよいのだろう。人間にとっては命にかかわることがなにより一番重要であり、その他のことは二の次であるというのが一般通念である。生きるか死ぬ...戦争に行って一番おそろしかったこと、それは男のパンツを穿かされたことさ。

  • 時間は秒速1秒の速度で進む?

    アインシュタインが特殊相対性理論を発表してからは、時間の速度が一定ではないということが言われだした。高速度で飛ぶロケットの中では、地上よりも時計の進みが遅いということも実際に確認されている。特殊相対性理論の計算上では、光と同じ速度で飛ぶロケットの中では時間が止まってしまうことになる。その事からの延長として、光速を越えれば時間の流れが逆転するのではないかという連想が生まれてくるのは自然だろう。そういうところから、時間の進む速度というものについても言及したくなるのは当然で、「時間の速度は秒速1秒」という表現をして見たくもなる。「時間の速度は秒速一秒」というのは、どう考えてみてもナンセンスである。速度は時間を基準とするものだからである。一秒後に一秒が経過しているのは同語反復で、「秒速1秒」がなんら意義のあること...時間は秒速1秒の速度で進む?

  • あきれるほどの日本の政治の劣化

    ーー2月13日のヤフー・ニュースよりーー≪政府は、来年秋に現行の健康保険証を廃止し、マイナンバーカードと一体化させる際、カードの取得が難しい高齢者や紛失した人などが保険診療を受けられるよう、必要な情報が記載された「資格確認書」を発行する方針。≫マイナンバーカードを普及させるために健康保険証を廃止するという「強硬手段」に出たのだろうが、それでもカードを取得しない人には「資格確認書」を発行するという。一体何を考えているのだろう?それなら、わざわざ新しい「資格確認書」を発行するという手間をかけなくとも、現在機能している健康保険証をそのまま使用し続ければよいではないか。健康保険証を廃止しても、それに代わってマイナカードと「資格確認書」の二本立てで医療保険システムを動かすのであれば、効率が良くなるわけがあるはずがな...あきれるほどの日本の政治の劣化

  • 納得できない責任の論理

    先月18日に福島第一原発事故に関して、業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴されていた東京電力の旧経営陣3人に対して無罪判決を言い渡した。「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」とというのが東京高裁の判断である。裁判の争点は、先ず第一に「原発事故を引き起こすような巨大な津波を予測できたかどうか」という予見可能性と、第二点として「予測が可能だったとして有効な対策をとれば事故を避けられたか」という結果回避可能性である。これら判断する重要なポイントが、地震調査委員会によって2002年に公表された「長期評価」の信頼性である。それによれば、福島県沖を含む広い範囲で巨大な津波を伴うマグニチュード8クラスの大地震が、30年以内に20%程度の確率で発生す...納得できない責任の論理

  • 友よ水になれ

    昨夜(2/6)NHKの「映像の世紀バタフライエフエクト」という番組を見た。「バタフライ・エフェクト」というのは、エドワード・ローレンツという気象学者の「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という言葉が由来で、この番組では一人の人間の行動が世界に大きな影響を及ぼした例を扱っている。昨夜の番組はブルース・リーの「友を水になれ」という言葉をテーマとしたものであった。今年の1月26日にボスニア=ヘルツェゴビナで金色に輝くブルース・リーの像の除幕式があった。「なぜボスニアでブルース・リーの像が?」という奇異の念とともに、このニュースは世界中に配信された。1990年代に旧ユーゴスラビアの分裂とともに各民族・宗教間の対立が深刻な紛争を引き起こしたことはご存じだと思う。ボスニア=ヘル...友よ水になれ

  • ダイバーシティとは掛け声ばかりか?

    性的少数者について「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ。」と発言した首相秘書官が更迭されるらしい。岸田首相は「内閣の考え方にそぐわない、言語道断の発言だ」と述べたらしい。またかという感じである。政権中枢部の人がなぜこうもたやすく失言してしまうのだろう。正直と言えば正直な人なのだろうが、いわれない差別を公職にあるものが公然と口に出して良いわけはない。なぜそれが差別になるのか?その理由は簡単、性的嗜好(志向)はその人の責任ではないからである。首相秘書官になるほどの人だから頭が良いはずなのにこんな単純なことも分からないのか。首相は「言語道断の発言」と断じたが、その発言が出たいきさつを聞くとどうも釈然としないものを感じる。岸田首相は2月1日の衆議院予算委で、同性婚の法制化について聞かれ「家族観や価値観、そして社会...ダイバーシティとは掛け声ばかりか?

  • 日本歌謡曲と美空ひばりに関する論考

    「20世紀の世界三大歌姫はポルトガルのアマリア・ロドリゲス、フランスのエディット・ピアフねそれに日本の美空ひばりである」という説を聞いたことがある。残念ながら、それはたぶん日本だけでしか通用しない噂話でしかない。美空ひばりを知っている欧米人がいたとしたら、その人はおそらく相当の日本通だろうと思う。美空ひばりは日本では傑出した大スターだが世界的にはそれほどポピュラーではない。日本では海外の楽曲がバンバン流れているが、その逆はまれである。中には、ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」がロシアで大流行したとか、坂本九の「上を向いて歩こう」が全米ビルボード1位になったとか、三橋美智也の「達者でな」がカンボジアでカバーされたとか、たまにはそういうのもあるが、日本で流れている洋楽の量に比べると微々たるものでしかない。なぜ日...日本歌謡曲と美空ひばりに関する論考

  • 「なぜそれがあるのか?」という問いに答えてくれる学問は存在しない

    あるSNSの中で「なぜすべての物質に質量があるのですか?」という問いかけをする人がいた。確かになんにでも質量がある。質量のないものって何だろう?映画の映像、音、思考‥‥、いわゆる物体でないものという訳か。逆に言えば、質量のあるものを物質と呼んでいるだけのことではないのだろうか。ひねくれものである私はそういうところに引っかかるのである。問いを発した方は、現代物理学の質量に関係するいろいろな因子について知りたいだけの話かもしれないのだが、「なぜ‥あるのか?」という問い方はもっと根源的なことを問題にしているような響きがあると、私は感じてしまうのである。ある一人の解答者によれば、最近の物理学では質量の起源をヒッグス粒子というもので説明しているらしい。ちなみに、ウィキペディアでそのヒッグス粒子というものを調べてみた...「なぜそれがあるのか?」という問いに答えてくれる学問は存在しない

  • 久響龍潭

    (この記事は2014年の過去記事の再掲です。)無門関第二十八則「久響龍潭」は、唐代の大禅匠である徳山宣鑑が悟りを開いた時の話である。前段と後段の二つのエピソードから成り立っていて、前半は龍潭和尚のもとで見性するくだりで、後半は時間的には逆転するが、その龍潭和尚を訪ねるようになったいきさつについての話になっている。まず、その後半のほうのくだりから紹介することにしよう。<<徳山は金剛経の学者で、南の方に金剛経の教えを広めようとしてやってきた。そこに茶店があったので、団子(原文では点心)でも食べようと思って立ち寄った。以下はその店のお婆さんと徳山のやり取りである。婆「あんたの荷物は一体なんじゃ?」徳山「金剛経とわしの書いた注釈書じゃ。」婆「では聞くがのう、金剛経には『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』と...久響龍潭

  • スピリチュアルについて

    先日地区センターの窓際で読書していたのだが、隣の私と同年配の男性の読んでいる本のタイトル「『あの世』の本当の仕組み」が目に入ってきた。最近はやりのスピリチュアルとというやつらしい。英語のspiritは日常的には精神とか根性と訳されるが、宗教的には霊魂とか聖霊の意味を持つらしい。で、本来の意味からすれば精神の奥深くのことがらについて扱う分野ということになるのだろうが、「精神→非物質→科学が及ばないことがら」という連想が働いているのだろうか、超常現象的なことがらをもっともらしい言葉で語るのがこの頃のスピリチュアルなのかなと私には思えるのである。その「スピリチュアル」についてもう一つ引っかかるのが、それが哲学として語る人がいることである。私はこのブログを「にほんブログ村」の哲学というカテゴリーに参加しているが、...スピリチュアルについて

  • 未だに同性愛を犯罪と見なす国がある

    2022年7月時点で、同性間の性的交渉を犯罪としている国は70カ国ある。しかも、そのうち12カ国は死刑、27カ国は禁錮10年から終身刑、31カ国が禁錮10年未満となっている。(クリックして参照してください==>「性的指向に関する世界地図」)この資料を見ると、死刑などの重罪が課せられるのはイスラム教国が多い。一般的に、同性愛に対する許容度がもっとも低いと言われるのがイスラム教で、プロテスタント系福音派、カトリック、そして主流派プロテスタントが続くと言われている。西ヨーロッパや南北アメリカのキリスト教国では同性婚が法律で保障されている国が多いが、これは近年のリベラルな風潮が浸透してきたためで、二十世紀半ばまでは犯罪とされていた国が多かったのである。現在のコンピューターの生みの親でもあるアラン・チューリングとい...未だに同性愛を犯罪と見なす国がある

  • 未だに同性愛を犯罪と見なす国がある

    ==>「性的指向に関する世界地図」未だに同性愛を犯罪と見なす国がある

  • 中道とはなにか

    私たちはものに対応して言葉があると考えがちであるが、ソシュールという言語学者は「言語が世界を分節する」ということを言い出した。もともと連続している世界を言葉によって分節し、分節した網の目構造として世界を再構成した上で認識する、それが私たちの知識となる。例えば、虹は何色でできているかということを考えてみればそのことがよく分かる。虹の色の種類の数は民族によっていろいろある。もともと光のスペクトルは連続していて色の分け方というものは恣意的にならざるを得ないのである。ソシュールによれば、あらかじめ猫というものがあって「猫」という言葉が生まれたのではなく、「猫」という言葉によって初めて我々は猫というものを認識するようになるということである。つまり、「猫」という言葉はこの世界を猫と猫以外に分節するという機能「しか」持...中道とはなにか

  • ロゴス中心主義からの脱却

    西洋には論理と言葉に依ってすべて解明しうるという考えがある。それがロゴス中心主義である。「はじめにことばありき」の言葉とは「神の言葉」の意味であり、この世界の摂理・論理である。つまり、この世界はすみずみまで神の意志によって合目的的に構成されている。したがって、この世界は思惟によって合理的に把握でき、言葉に依って表現できるはずであると考えられるのである。もしかしたら上記のことのどこが西洋思想かと疑問に思う人がいるかもしれない。「この世界は思惟によって合理的に把握でき、言葉に依って表現できる」というのは実に当たり前の話であって西洋がどうのこうのという話ではないのではないか、と言いたくなる人が多いのではないかと思う。それはもはや西洋思想というよりも、すでに現代の日本人の中にも相当浸透していると見た方が良い。仏教...ロゴス中心主義からの脱却

  • 考えるということはどういうことか (抽象、論理、言語)

    あるテレビ番組を見ている時、数学とは何かということについて「数学とは違うものを同じと見なす学問である。」という説明がされていた。言われてみてなるほどと思った。3個の大福と3個のミカンは全然別のものだが同じと見なす。3個という性質以外はすべて無視するのである。そうすると「3」という数としての抽象概念が成立する。同様にして「1」や「2」をつくっていくと自然数というものが出来上がる。現代数学の重要な一分野に位相幾何学(トポロジー)というのがあるが、これは粘土をちぎったりくっつけたりしないで変形できる形をすべて同じと見なす学問である。だから位相幾何学ではドーナツとティーカップは同じ、鉄アレイと湯飲み茶わんは同じものと見なされる。数学においてどのような関係を「同じ」とみるかは極めて自由である。以下の三つの条件さえ備...考えるということはどういうことか(抽象、論理、言語)

  • 自然の妙

    下の写真がなんであるかお分かりだろうか?おそらくこれを見ただけでそれが何だか分かる人はいないと思う。妻には、「自転車置き場の間のくぼ地にたまった水たまりの写真」というふうに、言葉で説明したのだが全然理解できないようだった。水色の部分は空が映っており、その他の部分は水の中の草と落ち葉と土である。なんでもない水たまりだが、とても美しい。思わず心惹かれて写真に撮った。家に戻って私は考えた。「なぜこの変哲もない光景が私の心をこれほどとらえるのだろうか?」よくよく考えてみれば、この写真の中には私たちに必要なものの全てが映っていると気がついた。透き通ったきれいな水、鮮やかな緑の草、黒い土、それと水色の空(つまり光)、それらはわたしたちの命を支えるすべてのものの象徴である。美しいのも道理であると合点した。下の写真は別の...自然の妙

  • 来年の目標 「目指せ3千万歩」

    2015年から今まで約7年半の間「よこはまウォーキングポイント」というのに参加していて、12月25日現在で27,418,192歩に達しています。歩くと頭の血流が良くなるような気がして、いつも歩きながら考えています。あと260万歩ほどで3千万歩の大台に乗るので、これを来年度中に達成させようと思っています。最近は体力の衰えから少しペースが落ちていますが、割と楽に達成できそうです。目標と言うより単なる区切りという感じかな。来年の目標「目指せ3千万歩」

  • ジョニィへの伝言

    作詞家の阿久悠さんが、自分の作った歌出一番気に入っているのはどれかを尋ねられて、それは「ジョニィへの伝言」であると答えたらしい。それを聞いて私はとても腑に落ちた。私も彼の作品の中でそれが一番好きだったからである。私が高橋真梨子さんの大ファンであるということもあるのかも知れないが、歌謡曲の歌詞にしてはわりとまじめに作っているという気がする。♪ジョニィが来たなら伝えてよ二時間待ってたと♪わりと元気よく出て行ったよとお酒のついでに話してよ♪友だちならそこのところうまく伝えて♪ジョニィが来たなら伝えてよわたしは大丈夫♪もとの踊り子でまた稼げるわ根っから陽気にできてるの♪友だちならそこのところうまく伝えて明らかにこの歌詞の主人公はまだジョニィに未練があるのだろう。それで、二時間「も」待っていたと伝えて欲しいと言って...ジョニィへの伝言

  • 不殺生戒について考えてみた

    一般に宗教は神秘的なものと考えられている。人間の生死に関わることや世界の成り立ちに関わることを扱うからだろう。仏教においても、葬式を執り行ったり加持祈祷をしたりするので、なにか神秘的なことに通じているのではないかという印象を持っている人も多いのではないかと思う。しかし、私の知る限りでは(というより、「私の考えている仏教では」と言うべきかもしれないが)、釈尊が説かれたことの中には神秘的なことはなに一つない。釈尊は、生まれる前と死んだあとそれからこの世界の成り立ちについてはなにも言及しておられない。そのような形而上のことがらについてはすべて無記なのである。思うに、釈尊の唱えられた教えというものはシャーマニズムの支配する当時においては余りにもラジカル過ぎたのかも知れない。人々はどうしても宗教に神秘的な力を求めて...不殺生戒について考えてみた

  • どんなくだらない平和であっても戦争よりまし

    一昨日(12/16)国家安全保障戦略などの安保3文書の改訂が閣議決定された。中国や北朝鮮を名指しでその脅威を謳っている。そして、解釈次第で「反撃能力」という名の先制攻撃を敵基地に与えることもできるようになったらしい。明らかな憲法違反である。言うまでもなく憲法は政権への歯止めとしてあるのである。その歯止めを無視して政策を推し進めようとするそんな政府を大半の日本国民は許容しているように見える。悲しいことだが、現在の日本の立憲主義とか民主主義というのは単なる空念仏以上のものではないらしい。野球の日本代表はサムライ・ジャパンと呼ばれている、サッカーの方はサムライ・ブルーである。そういう所から見てもやはり日本人は武士道精神というものに誇りを持っているのだろう。私自身は武士も武士道もあんまり好きではないが、それなりの...どんなくだらない平和であっても戦争よりまし

  • こんなことでええのか?

    NHKの調査によれば防衛費増額に対する賛成は55%、それに対し反対は29%だという。その他の調査でも国民の大半は増額に賛成であるとの結果がでている。しかし、ちょっと理解しがたいのが、その財源としての増税には90%以上の国民が反対だという。(参照~>「夕刊フジ」)外国の脅威を現実的なものと受け止めているのなら、増税反対どころではないのではなかろうかと思う。防衛力は必要であるが、それに必要な経費の負担を自分はしたくない。まるで他人事である。おそらく人々は「自分は外国の脅威を感じいる」と言葉の上だけで思っているだけで、そこにはリアリティなどないのだと私は考える。もし、他国のミサイル攻撃にリアリティを感じているなら、それが原子力発電所に命中したらどうなるかを想像しなければならない。そういうことを抜きにして防衛力増...こんなことでええのか?

  • 流れ圜悟

    先日上野の国立東京博物館に見学に行こうとして果たせなかったことを記事にした(参照=>「久し振りの東京見物」)が、それは「流れ圜悟」というものを見てみたいと思ったからである。それは一体何かと言うと、宋の禅僧である圜悟克勤(えんごこくごん)が弟子の虎丘紹隆(くきゅうじょうりゅう)に与えた印可状であるという。印可というのは師家が弟子に与える禅における免許皆伝のようなもので、師が自分と同等以上の悟境に到達したと認めた場合に初めて与えられる。禅僧はこの印可状を与えられてはじめて師家として後進を指導することができ、年齢にかかわらず「老師」と呼ばれるようになるのである。圜悟克勤という人は日本臨済宗にとってはとても重要な人物である。まず、禅をかじったことのある人なら誰でもその名を知っている「碧巌録」の編纂者であることと、...流れ圜悟

  • 人は必ず死ぬ?

    今年はいつもの年に比べて喪中はがきが良く届く。先日2軒隣に住んでいた私と同じ歳の方が亡くなられた。以前はよく街で出会う人が最近はあまり顔を見ないと思っていたら、実は亡くなられていたという話を耳にした。同級生の訃報もぽつぽつと入ってくる。日本人の平均寿命は男性が81.47歳、女性が87.57歳だという。私は今73歳だから、ざっと見てあと10年以内に同世代の男性は半分くらい死ぬのだろう。男性は70歳を越えればいつ死んでも不自然ではないと言える。私自身自分が遠くない将来に死ぬのだろうと思っている。しかし、私が自分の死の意味を知っているのかどうかということには問題がある。私たちの知っている「死」の概念はあくまでも客観的な死または生物学的な死、心臓が止まり脳波がなくなり動くこともしゃべることもしなくなる、そういう死...人は必ず死ぬ?

  • 国民の税金使って、そんなことをやってええのか?

    ツイッターの中を覗いたら、共同通信の「防衛省、世論工作の研究に着手AI活用、SNSで誘導」というニュースが大きな話題になっていた。これのなにが問題かという人もいるかもしれないが、本来は番犬であるに過ぎない防衛省が飼い主である国民の税金を使って、国民を無意識のうちに番犬の思い通りに誘導しようとしているということが問題である。しかし、よくよく考えてみると、こんな研究は以前から実施されていてすでにその効果が表れていると見るべきではなかろうかと思いついた。昔の話をすれば防衛予算がGNPの1%に達する時点で大問題視された。それが今や、なんの根拠も示されず2%という金額目標がまず設定されていることが不思議だ。近年は本当に効果があるかどうかが疑わしいミサイル迎撃システムや1機で100億円以上(いろんな資料を読んでも正確...国民の税金使って、そんなことをやってええのか?

  • サッカーは人の心を揺さぶる

    サッカーほどいろんな能力を要求されるスポーツはないような気がする。力、スピード、技術はもちろんだが、広い視野を保ちながらダイナミックな状況判断を常に要求される。しかも得点が入りにくい。細心の注意技術をもってパスをつないでゴールを狙っても、そこには唯一自由に手を使えるキーパーがいる。意表を突く工夫がなければなかなか得点には結びつかないのである。それ故ゴールが決まったときのカタルシスは大きいものとなる。ドイツ戦の浅野、スペイン戦の田中のそれぞれの決勝ゴールはその最たるものではなかったかと思う。浅野はその前にもすでにシュートを放っていたが、それは枠内には飛ばなかった。そのプレーを見る限り、浅野は走力には優れているがそれ程決定力のある選手には見えなかった。その浅野が後方からのパスを巧みにトラップし、前に立ちふさが...サッカーは人の心を揺さぶる

  • 東京見物PARTⅡ(皇居編)

    仕事で東京に通っていた頃は味もそっけもない殺伐とした大都会だと思っていたが、先日神宮外苑や上野界隈を訪れて、東京はいろいろな風土に恵まれた美しい街であることを再確認した。というわけで、東京見物に味をしめて、一昨日(11/27)は皇居へ行ってきました。今までに皇居前広場とか桜田門付近には何度も言ったことがあるけれど、天守台の辺りは一度も言ったことがなかったので、この際見に行ってみようと思い立ったのです。街路樹の黄葉とモダンなオフィスビルが美しいお堀端。皇居前に来ると何やらすごい人だかりです。ちょうど乾通りの公開が行われているということで、大勢の人々が詰めかけていました。ということで、私も参加することにしました。ここが宮内庁庁舎だそうです。皇居には様々な樹種の木々が植わっていて、紅葉のバリエーションも多彩で華...東京見物PARTⅡ(皇居編)

  • 久し振りの東京見物

    昨日は急に東京国立博物館を見に行こうと思い立ち電車に乗り込んだ。この前に東京へ行ったのかいつか思い出せないほど久し振りのことである。この日は晴れのち曇りの天気予報でもあったので、博物館に行く前に神宮外苑の銀杏並木を見に行こうと思った。明るい陽光の中で見る黄葉は美しかろうと思ったのである。銀杏の黄葉は美しかった。ただし人も多かった。できれば光に満ちた静かな秋の日を満喫したかったが、それは贅沢というものだろう。外国から観光に来られた方も多いようだ。特に中国語らしい響きがあちこちで聞こえる。まだ中国からの来日は本格化していないようだが、それでもやはり中国のプレゼンスは大きいと感じる。昨日は日差しが強かった。陽の光と黄葉が戯れるというのはこういう様を言うのだろう。時折風が吹くたびにおびただしい葉っぱがひらひらと光...久し振りの東京見物

  • 「消費税上げるな」はワガママか?

    ホリエモンこと堀江貴文さんが「消費税を下げろ」と言う人に対して次のように言ったらしい。「消費税あげるな、富裕層が負担しろ、移民は嫌だ。中国怖いから防衛費は上げろ、予防とかしたくないけど病気になったら医療費は保険でカバーしろ、年金はちゃんとくれ、とかみんなワガママすぎるんだよな」(yahooニュース)「消費税を上げるな」という主張は本当にワガママだろうか?もともと税金というものは所得の再配分であるという考えに立つなら、消費税そのものが税金の趣旨に反しているという考えも成り立つ。堀江さんは若いから消費税が導入された経緯をたぶん御存じないのだろう。消費税が必要になったのは所得税と法人税の度重なる減税のせいであることを忘れてはならない。ちなみに昭和49年度の所得税の最高税率は75%で住民税と併せると93%もの高額...「消費税上げるな」はワガママか?

  • 歌の橋と実朝

    先日、鎌倉の鶴岡八幡宮から杉本寺まで歩いていく途中で面白いなまえの橋を見つけた。下の写真を見て欲しい。「歌の橋」とある。なんの変哲もない橋だがなかなか優雅な名前の橋である。私はてっきり「歌」を唱歌のことだと思い、この近くに音楽関係の学校でもあったのだろうかと思ったのだが、このそばに立っている碑の由緒書きによればどうやらそれは和歌のことらしい。「渋川刑部兼守謀殺の罪により誅せられんとせし時悲の餘り和歌十首を詠じて荏柄社頭に奉献せしに翌朝将軍実朝伝聞せられ御感ありて兼守の罪を赦されしによりその報賽として此の所に橋を造立し以て神徳を謝したりと伝えられこの名あり」とある。インターネットで調べたところ、この「謀殺の罪」というのは、頼家の子である千寿丸を鎌倉殿に擁立しようとした謀反「泉親衡の乱」に渋川兼守が加担してい...歌の橋と実朝

  • 百丈野鴨子

    前々回と前回記事において実存的視点というものをとりあげたのだが、そういう観点から過去に取り上げたこともある禅宗の公案「百丈野鴨子」について再度検討してみたい。公案というのはいわゆる禅問答のお題のことと思ってもらって差し支えない。禅問答というと一般には訳のわからないことを指す、確かにそのようにとられても仕方のないようなやり取りが多いのだが、禅はあくまで宗教であり学問ではない。論理的な正確さよりも、修行者を導くための実感を重視する。その為に意表を突くようなやり取りが多くなるのである。しかし、そのような奇妙なやり取りの中にも、哲学的な普遍性があるということについて、できる限り論理的に説明したいと思う。私たちはエッフェル塔の写真を見て、「あっ、パリだ。」と言う。自由の女神なら「ニューヨーク」である。しかしエッフェ...百丈野鴨子

  • 素朴にものを見るということ、比較しないということ

    前回記事において実存的視点と客観的視点について述べたが、その違いは比較するかしないかということにあると思う。実存的視点というのはただ素朴に世界を見つめる視点である。それに対して客観的視点というのは、架空の視点から自分自身をも含めてあらゆるものを客観的世界の中に位置づけようとする視点であり、それは比較という操作がなければできないことである。例えば「平等」という言葉について言うと、一般的な平等というのは人と人を比較しての平等であるが、仏教でいう平等は比較しない平等ということになる。客観的な位置づけというものをしないのである。だから当然のことだが「親ガチャ」などという概念も、実存的視点からは生まれようがないのである。禅寺で雲水たちの生活を見ていると、掃除でも食事でもとにかく早く一心不乱にやっていることに気がつく...素朴にものを見るということ、比較しないということ

  • 今、ここ、私、そして実存

    「私は今ここにいる」という言葉は、誰がいつどこで言っても正しい言葉すなわちトートロジーである。トートロジーは情報としてはなんの意味をも含んでいない。試しに、そばに居る誰かに向かって「私は今ここにいる」と言ってみよう。多分相手はけげんな顔をして「そんなこと分かっている」と返してくるだろう。その言葉は無意味だが「私が今ここにいる」ということは、ある意味なによりも重大な意義があることでもある。それは私が今ここに現実に生きているということだからである。哲学用語ではそれを「現実存在」略して「実存」と呼ぶ。それで、「私が今ここから」ものごとを見る視点を実存的視点と言う。それに対し、客観的視点というのはこの世界の全体を正確に見渡せるような高みにある架空の視点のことを言う。客観的視点というのはわたしたちが生きていくうえで...今、ここ、私、そして実存

  • 祭りの喪失

    韓国の梨泰院(イテウォン)で154人もの若者が圧死してしまうという恐ろしい事故が起きてしまった。現代の若者は他人とのかかわりを持ちたがらないようにも見受けられるが、一方で人の集まる所へ引き寄せられる。おそらく彼らは祭りのエロスを求めているのだろう。どこの民族どこの地域にも祭りというものがある。日本の祭りではたいていみこしを担いだり、笛や太鼓に合わせて踊ったりする。半裸の男たちが重厚なみこしを担ぎあげ汗をほとばしらせる。荒々しい男たちの中でみこしを担ぐ、その経験を通して一人前の男であることを自覚する、それが若い男の通過儀礼である。また、その喧騒の中で思いを寄せる男を見つけて若い女は胸をときめかせる。それが正しい祭りのあり方だと思う。祭りに喧嘩や事故はつきものだということはある程度言える。しかし、154人もの...祭りの喪失

  • 自分で何を言っているか分からない時がある

    ヴィトゲンシュタインによれば「哲学上の問題のほとんどは言語に対する無理解からきている」らしい。彼の投げた一石はやがて「言語哲学」となって20世紀後半の哲学界を席巻することとなった。自分の言葉を反省するのはとても難しい。私たちは通常言葉で考えているので、言葉そのものが思考であるという思い込みからなかなか抜けられないのである。なにか言葉として発した時点で何かが言えた気になってしまうのである。例えば、次のような言葉はどうだろうか?「ビッグバンによって宇宙は誕生した。それ以前には空間も時間もなかった。」「空間も時間もない」と訳知り顔に言ってしまうことに問題は無いのだろうか?あなたは「空間も時間もない」事態を想像できるだろうか?無理やり想像しようと思っても、ただの暗黒を想像するのがオチであると思う。しかし空間が無け...自分で何を言っているか分からない時がある

  • 著作権と表現者の問題

    音楽教室のレッスンで講師や生徒の楽曲演奏から著作権使用料を徴収するのは不当だという判決が最高裁で下された。ヤマハ音楽教室などの事業者が日本音楽著作権協会(JASRAC)を相手取り訴えていたものである。というのは、JASRACが音楽教室に対し年間受講料収入の2・5%を楽曲使用料として要求していたからである。この訴えに対し、判決は「生徒の演奏については教師から指導を受けて技術向上を図ることが目的で、課題曲を演奏するのはその手段に過ぎない」と指摘し、音楽教室側の言い分を認める結果となった。この問題に違和感を覚えた人は少なくないのではなかろうか。少なくとも私はある種のけち臭さを感じた。先生が生徒に楽器の演奏を教える、その時使用された楽曲の作者はその使用料を本当に欲しいと思っているのか?いやしくも表現者ならばそんな...著作権と表現者の問題

  • 朝令暮改のなにがいけないのか?

    【岸田首相は18日の衆院予算委員会で、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題に言及。宗教法人法に基づく「質問権」を行使することについて、解散命令請求が認められる法令違反の要件として「民法の不法行為は入らない」という認識を示した。しかし翌19日の参院予算委員会では、「民法の不法行為も入りうると整理した」と一夜にして答弁を一転。これにより野党から、〝朝令暮改にもほどがある〟と批判の声が上がった。】(以上、yahooニュースより引用)朝令暮改は言うまでもなく望ましいものではない。総理大臣の言っていることが一夜にして頃っと逆転すること等あっていいわけがない。しかし、「過ちては改むるに憚ること勿れ」という言葉もある。間違いを犯したならば、ためらわずに直ちに改めるべきである。問題は最初の発言の「民法の不法行為は...朝令暮改のなにがいけないのか?

  • 源実朝と興国寺

    興国寺というのは紀州・由良にあるかつて日本三大禅道場とも謳われた臨済宗の鷲峰山興国寺のことである。もとは高野山の金剛三昧院の別当である願生が源実朝の菩提を弔うために当初は西方寺として建立したが、後に開山として心地覚信禅師を迎え入れて寺号も興国寺とあらためたものである。ちなみに由良は私の故郷である御坊市の隣町でもある。ここで、金剛三昧院と願生と心地覚信の関係性について触れておこう。金剛三昧院の前身は禅定院という禅蜜兼修の道場であった。北条政子が夫の源頼朝を弔うために立てたものである。三代将軍源実朝が非業の死を遂げた後政子は実朝の菩提を弔うために、政子は禅定院を大幅に改築し金剛三昧院と名を改め、鎌倉将軍家の菩提寺としたのである。そして金剛三昧院の経営のために紀伊の国由良の荘が領地として与えられた。願生はもとは...源実朝と興国寺

  • 天才子役

    最近は毎朝NHKの朝ドラを視ては泣いている。「舞い上がれ」の主人公を演じている9歳の子役・浅田芭路(あさだ・はろ)さんがとても可愛くて演技が上手だ。演技と言うより完全に劇中の少女役に入り込んでいるような気がする。それで見ているこちらもつい引き込まれてしまうのである。彼女が涙ぐんでいると、つい自分の孫娘が悲しんでいるような気になってしまう。最近の子役それも特に少女役の俳優はどの人もとても上手だと思う。何年か前に「義母と私のブルース」というドラマが放映されたが、この時も子役の横溝菜帆さんがとても魅力的で見入ってしまった。少女役に要求されるひたむきさ、可愛らしさをそなえており、感情表現も実にスムースである。悲しみの場面ではごく自然に目に涙を讃えている。昔も天才子役と言われる人はいた。しかし現代の子役と比較すれば...天才子役

  • Jアラートって、なんだかちょっと恥ずかしい

    昨日Jアラートが発信されたが、最初に北海道と東京都の島しょ部に発信されたのが午前7時27分のことだという。私の記憶では、かなり長い間テレビのアナウンサーが何度も「北朝鮮からミサイルが発射されたものとみられます。建物の中、または地下に避難してください」とアナウンスを繰り返していた。ところが、実際には7時29分には青森県上空を通過していたのだという。私たちはその後も無意味な警報音と同じ文言のアナウンスを繰り返し聴かされ続けていたわけだ。なんともおかしい話ではないか。日本にはアメリカから購入したミサイル迎撃システムがあるのではなかったか?飛んでくるミサイルを打ち落とすというほど精密なシステムなのだから、瞬時に日本に着弾するおそれがあるかどうかぐらいは判断できるくらいでなければ用をなさないのではないか。もし日本の...Jアラートって、なんだかちょっと恥ずかしい

  • 仏教と呪術

    呪術というのは「超自然的な方法によって意図する現象を起こそうとする行為,信仰,観念の体系の総称。(コトバンクより)」である。宗教と呪術の位置はとても近い。それは前回記事でも述べたが、この世界の根源的な問題が理屈では割り切れないということにあるのだろうと思う。それで宗教にはどうしても呪術的要素が入り込みやすいのである。そのことについては仏教も例外ではない。地獄・極楽だとか六道輪廻だとか、誰も見たことのないはずのものが仏教的説話にはいくらでもある。かつては鎮護国家というような考え方もあった。私は子どもの頃「蒙古襲来」(インターネットで確認したところ、正確には「日蓮と蒙古大襲来」が正しいらしい)という映画のポスターを見かけたことを覚えている。日蓮が「南無妙法蓮華経」を唱えて、モンゴル軍を撃退したというお話しであ...仏教と呪術

  • 信仰は必要か?

    結論から言うと必要だと思う。と言うか、人は必ず何らかのことを既に信じている。誰もがなにかを信じないでは生きられないのである。「私は唯物論者だから非科学的なことは信じない。」と言う人もいるが、それだって一つの信仰(注1)である。アインシュタインやニュートンのように超一流の科学者でありながら、神さまを信じている人はいくらでもいる。唯物論と科学で満足できる人はある意味幸せであるが、悩む人はたいていもっと根本的な不安を抱えているものである。この世界というものが信用できないという不安に駆られているからだ。そもそもなぜこのような世界があって私はここにいるのだろう?という問いには科学も答えることが出来ない。「ビッグ・バンで世界は生まれた。その前は無である。」なんて答えはダメである。なんで無からビッグ・バンが生じたのかを...信仰は必要か?

  • テロは絶対に許してはいけない‥‥

    安倍銃撃事件が発生した時、「民主主義への挑戦」という言葉が飛び交った。事件直後には自民党の政治家は口々にその言葉を発していたように記憶している。彼らはこの事件をテロだと見做したのだろう。しかし、これはテロとは言えない。テロとはウィキペディアによれば次のように説明されている。『日本大百科全書』によると、テロリズムとは「政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るもの」山上被告を事件に駆り立てた動機はあくまで統一教会に対する個人的な怨恨であり、政治的意図はないのは明らかで、彼の行為をテロというのは当たらないように思う。しか...テロは絶対に許してはいけない‥‥

  • 去るものは去らず

    「去るものは去らず」とは、古代インドの哲学者龍樹(ナーガルジュナ)の著書「中論」の中に出てくる文言です。龍樹は大乗仏教の祖ともいうべき人で、大乗仏教の広まった地域では第二の釈迦とも呼ばれています。龍樹の思想の特徴は、あらゆる固定的な概念規定を否定するほどに、空観を徹底していることです。親鸞は高僧和讃の中で龍樹を次のように称えています。南天竺に比丘あらん龍樹菩薩となづくべし有無の邪見を破すべしと世尊はかねてときたまふ(龍樹に関する10首中の2首目)龍樹は、あらゆるものは相依性によって成立すると説きます。相依性というのは、「善があって悪がある、また悪があって善がある。」というように、関係性によってものごとが成立しているということを指します。それはなにものもそのもの独自によって成立しているものはない、つまりあら...去るものは去らず

  • 統一教会と日本の政治の闇

    自民党の旧統一教会との関係の「自主点検リスト」が物議をかもしているが、問題となっていることのポイントがずれているような気がしてならない。茂木幹事長によれば、接点があった議員の9割近くが、相手が教団と関係しているとの認識がなかったらしい。「社会的な問題に対する我々の認識が不足していたのだろう」などと空とぼけたことを述べている。そもそも社会的な問題に対する認識が欠けているような人は政治家になるべきではない。そんなことは当たり前の話ではないか。重要なのは、旧統一教会のような組織に対して政治家としてどのような態度で臨むべきかということなのだ。1980年代から90年代にかけて霊感商法であれほど話題になった組織がなぜ今も生き残っているのかということが問題にされなければならないのではなかろうか。「旧統一教会の関連団体だ...統一教会と日本の政治の闇

  • 美について

    日本人は西洋人に比べて抽象的な思考が苦手である、というようなことが言われることがある。本当のところはどうかということはなかなか言えないような気がするが、江戸末期から明治にかけてそれまで日本語にはなかった多くの抽象概念が西洋からもたらされたことは間違いのないことのようだ。数ある外来語の中でもとりわけ意外なのが、「美」という概念である。実はこれがオランダ語の"schoonheid"の翻訳語であらしい。多和田葉子氏の「エクソフォニー」というエッセーで、そのことが柳父章氏の「翻訳語成立事情」の中で紹介されているということを知ったのである。私にとってそのことはちょっとしたショックであった。「美」という言葉はいたるところで見聞きするし、これほどポピュラーな概念もないのではないかと思っていたからである。「立てば芍薬、座...美について

  • 人は老いると小さくなる?

    就学や就職で一旦故郷を離れた後に久し振りに帰省すると生まれ育った町が小さくなったと感じる、それはほとんど誰もが経験することらしい。道幅は狭く、通い慣れた学校は「もう少し遠くにあると思っていたが、案外近かったんだな。」という感慨を抱く。ところが今回久々に信州を訪れて、私はこれとは全く逆の経験をしたのである。私は学生時代の五年間(1年落第)を松本で過ごした。その内の大部分を思誠寮というところで暮らしたのだが、そこは現在は「あがたの森公園」の一部となっている。あがたの森は松本駅から一直線の目抜き通りの終点にあり、駅を出ると正面に見えるヒマラヤスギの森がそれである。駅近くのホテルに荷物を置いて、早速私はあがたの森を目指したて歩き出した。「松本の街も昔に比べて随分小ぎれいになったなぁ」などという感慨に浸りながら歩い...人は老いると小さくなる?

    地域タグ:松本市

  • 脱構築と中庸

    前回記事ではジャック・デリダという哲学者をとり上げたが、彼の哲学は脱構築であると言われている。一般に西洋思想は言語と論理により真理を究めようとするロゴス中心主義であると言われる。それは、真と偽や善と悪というような二項対立的な発想を積み重ねることによって成り立っているが,こういった発想に潜む自己矛盾を暴くことによって、それまでのロゴス中心主義を解体していこうとする、それが『脱構築』という試みである。デリダの著作はとても難解で私にはハードルが高すぎるのだが、それでも魅力的に感じるのはその主張するところが仏教の空観や中庸に通じるような気がするからである。「ロゴス」というのはもともとギリシャ語の「言う」という動詞の名詞形で「言われたこと」を意味する。そこから「言葉」・「論理」を含む多義的なニュアンスを持つ言葉とな...脱構築と中庸

  • 思考と言葉について

    あるSNSで「言語は思考の最小単位ですか?」というようなことを誰かが言い出した。私たちが普段ものを考える時には言葉で考えているように思えるから、このような問いが生じてくることは理解できる。私たちは考えていることを必ず言葉によって表現するのである。つまり、言語以上の思考が表ざたになることは決してないので、「思考は言葉でできている」つまり「言葉=思考の最小単位」と考えたくなるのも当然のことかもしれない。しかし、もし言葉が思考の最小単位なら、【言葉の連なり=思考】ということになってしまう。すると、どんな難解な書物であってもそれを丸暗記しさえすればその書物を完全理解したことになってしまうのではないだろうか。もし、人間が言語以上のことを考えることができないのであれば、言語は永久に固定されたままで、新しい概念など生ま...思考と言葉について

  • 世界はなぜ無常なのか

    この世はなぜ無常なのか?その問いに答えることは簡単である。それは神様がいないからだ。もし、ユダヤ・キリスト教のいうような超越神があるならば、神の意志による世界のあるべき姿というものが存在する。しかし、仏教ではそのような超越的な神様を認めない。であるから、仏教においてはこの世のあるべき姿というものが存在しない。つまり、あらかじめ約束されているものがないので、すべては偶然的な成り行き次第ということになる。超越的なものの意志と力がない限り、全ては自然法則に従って流動していくだけ、当然そうなる。それが無常ということである。だから、本当なら仏教には「神頼み」というものはない。仏教徒の本来の祈りはおのれの計らいを捨て自然(じねん)に従うというところにあるのである。唯一神を信じる西洋と無常観に基づく東洋の世界観の違いは庭園の...世界はなぜ無常なのか

  • 不立文字の現代的な意義について再考してみる

    禅仏教では不立文字とか教外別伝ということがよく言われる。それでWikipediaで調べてみたのだが、その説明の中の次の一文が少し気になった。【「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めである。】なるほどそういう見方も成り立つのかも知れないけれど、仏教の教えが無常や空というところから成り立っていることからすればむしろ逆ではないのかと思うのである。いったん言葉にしてしまうと、そのことは概念として固定されてしまう。いかなる概念(言葉)にも本質というものは備わっていないというのが一切皆空ということである。釈尊の言葉であるとされる経典のその精神は尊重されなければならないとしても、それに束縛されてはならないという...不立文字の現代的な意義について再考してみる

  • 最後の手段

    ロシア軍によるキエフ総攻撃は時間の問題であると言われている。このままウクライナ側が徹底抗戦を続ければ、280万都市が焼け野原になってしまう。今までとは別次元の悲惨な状況に陥ることは疑う余地がない。ロシアに対していくら経済制裁を加えてもプーチンにおもいとどまらせることはできない。かといって、第3次世界大戦を避けるには欧米も直接戦争への介入はできない。となればどうすれば良いのだろうか?素人考えと言われるかもしれないが、白旗を揚げるべきではないのかと思う。一度は自由な空気を吸ったウクライナ国民にとって、ロシアの傀儡政権の支配下で暮らすのは苦痛以外のなにものでもないと思うが、このまま抵抗を続ければ何十万どころか何百万の人命が失われかねない。祖国の栄光の為に最後まで戦っても、死んだら元も子もない、死んだらその人にとってな...最後の手段

  • ロシア 虚偽報道禁止法案を可決 - 空しい言葉の持つ力について

    言葉はいい加減なものである。いい加減だが力を持つのでやっかいなものでもある。言葉は時には論理と一体であるかのごとく振舞うが、実のところ論理に言葉を矯正する力はない。言葉は恣意的に運用される。早い話が人間はいくらでも嘘を付けるのである。しかもその嘘が効力を発揮するということに人間の不条理が存在する。4,5日前に、ロシア議会では虚偽報道禁止法案なるものが可決された。「ロシアの軍事行動について『虚偽』とみなされる報道を行うと最大で15年の禁錮や懲役を科す」という内容です。この法案がもし厳格に適用されるならば、屁理屈並べてウクライナ侵攻を命令しているプーチン自身が真っ先に監獄へ送られねばならないはずだ。しかし、皮肉としか言いようがないが、実のところは真逆の話でウクライナに関する真実の報道を禁止するためにこの法案は作られ...ロシア虚偽報道禁止法案を可決-空しい言葉の持つ力について

  • プーチンの本当の狙い

    世界中の人々が固唾を飲んで見守っている最中、恐るべき非道な蛮行が正義の名において堂々と行われている。目の前で多くの人々が大変な難儀に見舞われているのに、私たちにはどうすることもできない。世界中にごまめの歯ぎしりが響き渡っているような気がする。なぜプーチンはこんなことができるのか?という疑問とともに、彼のこのような行為を許容しているロシア国民に対して怒りを覚えている人も多いのではなかろうかと思う。ロシア国民の中にも戦争に反対している人々は少なからずいるが、情報が遮断されていることもあって大半のロシア人は国外の事情に疎い。今回の侵略についてプーチンを支持している方が多数派であるらしい。なぜプーチンはこのような暴挙に出たのか?NATOの東進に対する不安?それとも大ロシアへのロマンチシズム?私はどちらも主たる要因ではな...プーチンの本当の狙い

  • ロシアの良心を信じたい

    30年ほど前、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という本が世界中で話題になったことがある。政治イデオロギー面の対立においてはすでに決着がつき、「リベラルな民主主義以外のどんな政治体制も正統性(legitimacy)を持ちえない」ということが白日のものとなった、というような内容であったように記憶している。ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊し、中国では天安門事件が起こった。そういう当時の世界の雰囲気を反映した論文であった。そのとおりであれば、インターネットの普及による情報網の充実と、活発な経済交流により、世界の「リベラルな民主主義」化は一層促進されるはずだった。私の生きているうちにロシアも中国も民主化されることは間違いないとさえ思えた。ところがどうだろう、プーチンはドンバス地方の反政府グループを背後からコントロー...ロシアの良心を信じたい

  • 自分を超えることは出来ない

    自分が馬鹿か利巧かと自問すれば、大抵の人はどちらかと言えば利巧であると思っているのではないだろうか。それは至極当然と言えば当然のことである。人は自分が分かることは分かる。逆に言えば自分が分からないことは分からない。実に当たり前のトートロジーであるが、このことをわきまえておくことはとても重要である。自分の思考力を客観的に把握するためには、自分の分かることだけではなく分からないことも分からなければならない。分かることと分からないことの両方が分からなければ、本当の意味で自分の限界を知ったことにはならないのである。「分からないことを分かる」というのは矛盾したもの言いである。「それまで分からなかったことが分かるようになる」ということはあり得るが、それは単に「分かる」領域が広がっただけであり、あえて言うなら「分かり得ること...自分を超えることは出来ない

  • カブトムシの箱

    月曜日の9時からのドラマで「ミステリと言う勿れ」というのがある。ストーリーの展開がちょっとミステリアスで面白いので毎週見ているのだが、今回の話の中で「カブトムシの箱」という哲学の思考実験の話が出てきた。ちょっと感動したとともに違和感をいだいた、というのはなかなかこれはドラマにアクセントをつけるだけのものとしては少し難解な話だからである。これはヴィトゲンシュタインの「哲学探究」という本の第293節に出てくる話だが、その一部を引用してみよう。≪--そこで、人は皆ある箱をもっている、としよう。その中には、我々が「カブトムシ」と呼ぶあるものが入っているのである。しかし誰も他人のその箱の中を覗くことはできない。そして、皆、自分自身のカブトムシを見ることによってのみ、カブトムシの何たるかを知るのだ、と言うのである。--≫自...カブトムシの箱

  • 中庸ということの大切さ

    私は1960年代の終わりから70年代の前半にかけて学生時代を過ごしている。いわゆる学生運動が盛んな時代でもあった。私自身は典型的なノンポリ学生であったが、おそらくそれは私が怠惰な人間であったからだと思う。学生でありながら勉強は全然せず、かといってアルバイトに打ち込むというほどのことはしない。日がな一日部屋でごろごろと転がって日向ぼっこをしているような毎日であった。私はその頃学生寮に住んでいたが、寮にはいろんな人が住んでいた。思想的にはいわゆる左がかった人も多く、日共系、反日共系のどちら側の学生も住んでいた。そして、活動らしいことはしていなくとも、いわゆるシンパ系の学生は相当いたはずである。何気ない雑談中に思想的な話題になると、普段は温厚で気弱そうな人の口調が急に変わって過激なことを口走りだす。そんな経験があって...中庸ということの大切さ

  • 石原慎太郎氏逝く

    このブログを読み続けてくれている人なら、私が石原氏とは相容れない信条の持ち主であることをご存じだろうと思う。思想信条だけでなく、いろんな面で彼と私は対照的である。慎太郎氏は男前で豪放磊落おまけに金持ちで女性にも持てる。不細工で小心翼々として貧乏で女性にも持てない私とはまるで正反対である。そんなわけで、普通は死んだ人のことを悪く言うのは慎むべきだが、ヒガミから少しケチをつけさせてもらおうと思う。どうせマスコミには称賛する声が溢れているだろうから。石原氏は問題のある放言が多いことで知られている。「(障碍者について)ああいう人ってのは人格あるのかね」とか「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」とか「俺はオカマとナマコは大嫌いなんだよ」とか、通底しているのは弱い立場の人々や女性に対して寄り添う姿勢が見られない...石原慎太郎氏逝く

  • 「私」の概念規定は?

    「私」とは何だろう?問うている意味がわかりにくい問でもある。「『私』って私に決まっているじゃない?」と言いたくなるのも分かる。辞書で引けば、「〖代〗自分自身を指す語。第一人称単数の代名詞‥」となっている。それで今度は「自分」を引いてみると、「その人自身」となっている。つまり、「私」とは私自身のことを指す代名詞だということになる。もうこれ以上追及できないらしい。どうやら私自身は私にとって自明であるということなのだろう。私自身はもう他の言葉では説明できない。デカルトは「私は考える。だから私は存在する。」と言った。すべてが疑わしいと考えたデカルトも「私が存在する」ということだけは確実であると考えた。この言葉は非常に説得力があった。あらゆることに先立って「私が有る」と、多くの人々が考えるようになった。ここで小話を一つ。...「私」の概念規定は?

  • 即非の論理再考

    即非の論理とは、鈴木大拙博士が次のように定式化したものである。「AはAにあらず、ゆえにAなり」これはもともと金剛般若経の次の一節をもとにしたものである。「仏説般若波羅密、即非般若波羅密、是名般若波羅密」これだと本来は「AはAにあらず、これをAと名づく」とならねばならないはずだが、あえて「ゆえにAなり」としたのは、禅の大家でもある大拙居士が体空観による実感をもとに、そのように定式化したのであろう。(体空観については以前記事にしたことがあるので参照していただきたい。==>「析空観と体空観」)禅を実践している人には大拙居士の言うことが腑に落ちるのだろうが、そういう人にはそもそもそういう定式化は必要ない。一般人には「ゆえにAなり」は余りにも論理を無視した言い方なので神秘的過ぎる。論理を無視した説明は所詮説明にはなり得な...即非の論理再考

  • 空とは概念の解体である

    海の景色はどこもよく似ている。砂浜や磯があって、そこに常に波が打ち寄せている。波打ち際では、海水がひいては打ち返すということが延々と繰り返されている。この同じことが反復されるということから「波」という概念が成立する。もう一度概念の定義って見よう。「同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象」つまり、抽象ということである。「概念はすべて抽象されたものである」ことを忘れてはならない。そこで問題となるのが、「同類のもの」というがどの程度似ていれば同類と見なすか、その客観的な基準がないことである。どの波も似ているように見えるが、どれ一つとして同じものというものはないのである。水の動き方は実は無限にあり、厳密に見れば全く同じものというのはどこにもない。つまり、なにも反復などしていない。「波」と呼ば...空とは概念の解体である

  • 「概念」について考えてみた

    「概念」でググってみると次のように説明されていた、同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。対象を表す用語について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、意味。この説明ですっと理解できる人は、ある程度言語操作に慣れている人に違いない。私が初めてこの言葉を教えられたのは中学校の国語の授業だったと思う。おそらく先生は上のような説明をしてくれたのだと思う。しかし、よく理解出来なかった。不審顔の私達を見て、先生は「まあ、言葉の意味やと思っとけ」と言ったように記憶している。正三角形と正四角形の違いは誰にでも分かるだろう。図示されたものを見ても直感的に分かるし、「角が三つ」と「角が四つ」の違いは歴然としている。しかし、正一万角形と正一万一角形についてはどうだろう?図形を頭の中で思い浮かべること...「概念」について考えてみた

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