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アヴァンギャルド精神世界 https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

本当のなつかしさ、本当のやさしさ、そういったしみじみとしたものだけが好みです。 気になるもの 錬金術、冥想、瞑想、オカルト、坐禅、気功、ヨーガ、オーパーツ、超能力、霊能力、前世記憶、PTSD、トラウマ、修験道、アトランティス、レムリア、ケルト、クンダリーニ,チャクラ、洗脳、情報操作、テレビっ子、個人主義、疎外、おひとり様、悟り世代、アセンション、無私、敬虔、清貧

naitoukonan
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2013/11/11

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  • 宮本武蔵 独行道

    ◎仏神は貴し仏神をたのまず宮本武蔵は一剣に依る求道者。以下が晩年の独行道。一、世々の道をそむく事なし一、身にたのしみをたくまず一、よろずに依枯(えこ)の心なし一、身をあさく思ひ、世をふかく思ふ一、一生の間よくしん(欲心)思わず一、我事において後悔をせず一、善悪に他をねたむ心なし一、いずれの道にもわかれをかなしまず一、自他共にうらみかこつ心なし一、れんぼ(恋慕)の道思いよる心なし一、物毎にすきこのむ事なし一、私宅においてのぞむ心なし一、身ひとつに美食をこのまず一、末々代物なる古き道具を所持せず一、わが身にいたり物忌みする事なし一、兵具は格別よ(余)の道具たしなまず一、道においては死をいとわず思う一、老身に財宝所領もちゆる心なし一、仏神は貴し仏神をたのまず一、身を捨てても名利は捨てず一、常に兵法の道をはなれず正保弐...宮本武蔵独行道

  • 神人合一の実感を語る-7

    ◎一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『私は一瞬間を聖クリシュナとして生き一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり性愛の享楽が聖者の清らかな解脱であるそしてすべては去ることもなく去りまた来ることもなく新しい生涯が来る止まることのない生々流転よ私は生々流転のあったためしのないここでゴーヴィンダ・クリシュナの美しい横笛の音を奏でる今でない今、ここでないここで私はクリシュナとして生きクリシュナとして死んだ』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120-121から引用)※ゴーヴィンダ・クリシュナ:牛飼いのクリシュナこの詩の劈頭は、クリシュナとして生き、クリシュナとして死にたいから始まっているので、それを受けた形。クリシュナと言っても日本ではあ...神人合一の実感を語る-7

  • 神人合一の実感を語る-6

    ◎私は私自身の中を旅し続けているダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『精神の広大さも物質宇宙の戯曲も私には何のかかわりもない私は私の冥想の旅を続ける旅は方向をもって続けられるがその旅は私に理由のない確信を与えても決してどこかに行き着くことはない私は私自身の中を旅し続けている』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120から引用)未知の虚空にもともとありもしない手と足とを放ち去ったので、精神の広大さも物質宇宙の精妙にも全く関わりなく生きている。生と死をフル・コートとした冥想の旅は、『今でない今、ここでないここ』であるが故に、いつまでも終わることはない。その全体を確信してはいるが、今でない今、ここでないここであるから、終着駅にたどり着くことはない。単純に個生命であれば、個の死を以って終着点と見そう...神人合一の実感を語る-6

  • 神人合一の実感を語る-5

    ◎死:もともとありもしない手と足とを未知の虚空に放ち去ろうダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『私達はこの世では狐独であり続ける私達の眼は私達の故郷を見知らぬものとして眺め私達の家族を初めて見るこれは私達の眼がかすんだゆえではない私達の眼がより透明になったせいだ何もかもが常に未知なものとしてあり何もかもが常に新しい何もかもが未知な新しさであれば私達の脳髄は尽虚空中に砕破する死は何と私達の身近かにあったことだろう最も身近かな死だけが人類の唯一最大の教師だ手足を放ち去ろう未知の虚空にもともとありもしない手と足とを』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP119から引用)※尽虚空:顕れない宇宙全体。神人合一の実感を人間の側から語るとこのようになるだろうという叙述。ここで言う死は、勿論肉体死のことでなく...神人合一の実感を語る-5

  • 神人合一の実感を語る-4

    ◎一刹那を神の御意のままに生き死ぬ、神人合一ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『一刹那の生涯でよい神の御意のままに生き神の御意のままに死にたい一刹那の神の御意はすべての生命達の生涯とすべての生命達のそれぞれの宇宙であった神のみが終対無の中に久遠の安住を続けあくび一つも神には無縁だ私は私という心身の異郷の客であり何一つとして私のかつて見知った事柄はないこの悲しみが人間に理解できるだろうか』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP118から引用)『一刹那の神の御意』こそが神人合一の瞬間。この時、神には久遠の安住なる至福、実在・智慧・歓喜(サット・チット・アーナンダ)の充溢だけがあり、あくびのような個なる弛緩はない。だが、ここに我が身に還えれば、『私は私という心身の異郷の客であり何一つとして私のかつ...神人合一の実感を語る-4

  • 神人合一の実感を語る-3

    ◎快楽は苦痛の種となり、老衰と病のない健康もないダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『ソロモン王の英知がソロモンの栄華と幸福を実現しそして又ソロモンの英知がその英知ゆえに愚迷のうちに滅亡したように死のないどのような生もあり得ない愚かさを持たぬどのような智慧もなく安心のある所に不安があり愛のある所に憎悪が勇気のある所に恐怖が幸福のある所に不幸があり快楽は苦痛の種となる老衰と病のないどのような健康もあり得ぬように善は悪とともにいつもあり宿善の功徳は天人の天国を実現するがその天人にも五つの衰亡を避ける手だてはない』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP117-118から引用)夢の宇宙はあのように戯れ続け、人は人である以上、この世を天国的に生きようと希求し努力もする。地上天国、天人の天国は、時にこの世...神人合一の実感を語る-3

  • イエスが死んだ犬の歯の白さを讃える

    ◎聖者は決して罪人に出会わないガリラヤのある村で、一匹の死んだ犬のまわりに大勢の人が集まっていた。耳はぼろぼろで、人々は、「これは闘犬だっただろう。」と言い、「首に縄の切れ端が残っているから、元は飼い犬が逃げて来たのだろう。」と言い、また別の人は「なんて汚ない犬なんだ。」と言った。その時、群衆の中から穏やかながら叱る声がした。「真珠ですら、この犬の歯の白さに及ばない!」。群衆は、三々五々その場を去りながら、小声で、「そんなことを言うのはナザレのイエスにちがいない。死んだ犬相手にさえ、何かいいことを言うのは、イエス以外にはいないから」と言った。※この出典はイエスについてのイスラム圏の伝承らしい。(永久の哲学1OSHO講話録OSHO/講話市民出版社P161にも出てくる。)イエスは、人間ができているから、何者をもくさ...イエスが死んだ犬の歯の白さを讃える

  • ディヤン・スートラの七つの段階-10

    ◎感情からの自由とサマーディ思考の観察から一歩進んで感情の観察もできる。最後には純粋な観察者を目指す。この「見ていること」を意識と呼び、英知と呼ぶ。OSHOバグワンは、ここで予想どおりあるいはいつものパターンで、感情の観察については詳述していない。せいぜい思考の観察と同様に感情を見守るのだくらいの説明である。ここで無身体、無思考、感情からの自由の三つの“空”が成り、これによってサマーディに進むとする。だがサマーディとは個なのか全体なのか、何がどう素晴らしいのかなどについてはほとんど説明がない。続く質疑の章に次のような暗示するものはあるが、サマーディの説明がちゃんとしていないのは、聴衆のレベルがあったのだろう。『そう、あなたが神性の探求に乗り出すときは、「わたしは神性を見つけるつもりだ」という思いから始める。しか...ディヤン・スートラの七つの段階-10

  • ディヤン・スートラの七つの段階-9

    ◎思考からの自由思考からの自由は、自分の思考の正しい観察を通して起こる。思考の流れを傍観する。思考が流れて行くのを見守る。やがて思考と自分は別であることに気づく。自分は思考でなく観照者であることに気づく。トータルな気づきを以って内側を見つめると思考が止まる。その時行為者と観察者が別だとわかる。だが、そこで考えてはいけない。この観察者を見る人とも呼ぶ。OSHOバグワンの説明では、凡人には、思考がある。瞑想者には、思考と観察の二つが並行する。覚者には、観察だけがある。思考は死んでいる。(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHOP235-242)自分が思考ではないと気づくなら、思考は死ぬという大胆な分析である。ここは、体験した者だけが語り得る部分。只管打坐でも似たようなことをやっている。浮かんでくる思考を「相手に...ディヤン・スートラの七つの段階-9

  • ディヤン・スートラの七つの段階-8

    ◎自分の身体は“空”ディヤン・スートラの七つの段階の前半三段階の浄化で土台が整い、後半は神性と合体する。後半三段階を“空”とし、“空”にも三段あり身体、思考(マインド)、感情の段階があるとする。『自分は身体だ』と感じることが消えると身体は“空”となる。『自分は身体だ』と感じることを落とすと身体は“空”となる。OSHOバグワンは、行住坐臥、一挙手一投足について、「それがどこで起こっているのか、肉体なのかそうではないかに気づきをもって見つめよ」と言う。例話では、傷つけられる自分は肉体なのかそうではないのか、今まさに殺されようとする自分は肉体なのかそうではないのか見極めよという話を出して来ている。更に夢を見ている自分は肉体ではないと既に自覚できていることも挙がっている。このように一日24時間、『行住坐臥、一挙手一投足...ディヤン・スートラの七つの段階-8

  • 師の導きで自分自身に出会う

    ◎自分に出会う恐怖と狂気-2ダンテス・ダイジは、盛んに自分自身に出会うことほど恐ろしいことはないと繰り返していたが、只管打坐が進み雑念が落ちて行ったところや、様々な冥想のトランスの中で浮かんでくる自分自身から来る響きにそれを知るのだと考えていた。OSHOバグワンは、その響きとは、十牛図第六騎牛帰家で牛の背に乗る童子が吹く笛の音がその音だとし、「この笛の音は人々の生活を根底から変えてしまうことを本能的に知っているがゆえに、人々はその笛を聞くのをこわがる」と言う。OSHOバグワンは、ディヤン・スートラで改めて三か月間の隔離により人が狂気に至る道筋を示し、自分自身に出会うとはどういうものかを露骨に呈示した。いきなり自分自身に出会うことは、多くの人にとって耐えられるものではない。カルロス・カスタネダが過去の自分自身に別...師の導きで自分自身に出会う

  • アフターコロナで内に閉じこもる

    ◎自分に出会う恐怖と狂気日中は、そこはかとなく暖かいからよいが、宵から早朝にかけては冬の気候である。先日さる地方都市に2年ぶり位で訪問したのだが、目抜き通りに空き家がいや増して、街の寂れぶりには、怖気を奮うほどであった。高校生が朝の電車で、サンダルや裸足でいるのは稀に見るが、最近多いのは無職らしい中高年男女のホームレスは勿論、ホーム有りらしき人も、暖を求めてか、気晴らしかわからないが、電車に乗っていることである。そのような用事のない風な人が例年以上に多く、高い失業率の厳しさを感じさせられる。それと若いアジア系を中心とした外国人の多いこと。OSHOバグワンは、痛みに対応するのに、痛みを忘れる方法を求める人と痛みを打ち砕く方法を捜している人の2種類があって、前者は非宗教的で、後者は宗教的であるとする(参照:ディヤン...アフターコロナで内に閉じこもる

  • 神人合一の実感を語る-2

    ◎夢の宇宙はあのようにも戯れるダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『無限の中には時間も空間も因果律も存在していない無限の中に宇宙の果ては私の小指の長さにあり千億光年の天体生命の光茫が私の肉体の心臓の一鼓動とともに生まれ来たり滅び去る熟したリンゴの樹の果実が地面から枝へと昇る神の絶対無の中に夢見続ける宇宙夢の宇宙はこのように戯れ夢の宇宙はあのようにも戯れる』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP116から引用)無限という言葉は日常感覚で問題にする人は少ない。その実感が『時間も空間も因果律も存在していない』であって、それを敷衍したのが、宇宙の果ての長さが小指だったり、遠距離の辰星が鼓動とともに生滅するということ。世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。林檎の実が熟していく姿は、根源から生へと...神人合一の実感を語る-2

  • 神人合一の実感を語る-1

    ◎ダンテス・ダイジ-今でない今、ここでないここで神人合一した人物がその境地を語ることは、時に沈黙だったり、片言隻句だったり、短歌だったりするのだが、ダンテス・ダイジは、韻文で残してくれている。『今でない今、ここでないここで一刹那の生涯でもよいクリシュナとして生きクリシュナとして死にたいあらゆる演戯を越えた―つの戯れ根本無明の演戯がなければ神は神自体を観照することができぬ根本無明のこの移し世が神自身の唯一の演戯道場神は人間の作り出したどんな思想の中にも宗教の中にもいない人間自体の死の虚無性が人間からすべてを奪い人間をも奪う』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP115-116から引用)ダンテス・ダイジの前世の一つはインドの神人クリシュナとして知られるが、戯れる者、マーヤの演技者としてクリシュナを出して来ている。光明、...神人合一の実感を語る-1

  • 窮極という名の第二の世界観

    ◎二つの世界観宗教教育は重要だが、日本戦後教育のように窮極にほとんどアプローチしないものであると、青少年が漂流することになった。そこに様々なカルトが付け入ることになり、実際に人生を棒に振ることになった青少年が無数に発生したし、今も増え続けているのだろう。父なる神を知らない神父、牧師、仏を知らない僧、住職、神をしらない禰宜。こうした人は当たり前のように存在している。あるいは「私は悟った」という言葉を宣伝文句に、金儲けする人もいる。だが、そうしたあらゆるバイアスを取り去って、なぜ自分が昔の聖人の言行録や、最近の覚者の記録を読んでもすっと頭に入って来ないかを考えると一つの事実にぶち当たる。勿論聖人、覚者にも二種類あって、神仏を見たことがあるだけの聖人、覚者と、神人合一した聖人、覚者だが、ここでは、神人合一した聖人、覚...窮極という名の第二の世界観

  • 人類絶滅と窮極の間合

    ◎国と国との間合が近い40年以前の学生の頃ですら、大陸間弾道弾が敵国から日本に炸裂するまで10分程度と考えていた。今やマッハ5の極超音速兵器が反日思想の隣国などから発射されれば、時速6225キロで距離1000キロを飛ぶとして、日本着弾は、これまた10分程度。第二次世界大戦の頃は、今でいう航空戦、海洋戦主体、地上戦主体だったから、自国が侵略を受けても、降伏に至るまで何か月かかかるので、その間に他国の支援要請を求めたりする牧歌的展開でなんとかなった。いまや潜水艦発射の大陸間弾道弾主体なので、極端な話、突然奇襲核攻撃を受けてから全国土の大半が焦土となるのに最短で10分程度となる。開戦から10分後に、米国の支援を要請したはいいが、その頃には日本は壊滅しているということ。これを以って国家と国家の間合が近いと評す。剣道など...人類絶滅と窮極の間合

  • 血染めの教行信証

    ◎文字も言葉も変わってしまうが親鸞の教行信証を読めば、南無阿弥陀仏と唱えれば、浄土に往生でき、仏にもなれると書いている。ただし、無間地獄に落ちるような大罪を犯した者と正法を誹謗する者、聖人を批判する者は除く、などと書いてある。最近では、人間には悪人であっても仏性が備わっており、キリスト信者取り締まりをしていたパウロの如き悪人の代表も大悟できる例が知られている。また、聖者覚者といえども肉体を持つ限り、厳密に言えば、悪の部分を持たざるを得ないこともまた知られている。人間は、七つの身体論で言えば、滅ぶボディ、滅ばないボディの両方を持つのだが、滅ぶボディの方のパフォーマンスは、利己的にならざるを得ない部分があるからである。だからといって滅ばないボディは、全体である第六身体アートマン以上だからそこには個はなく、人間として...血染めの教行信証

  • ディヤン・スートラの七つの段階-7

    ◎感情の浄化-4感謝感情が純粋になれる4つの局面の4番目は、感謝。感謝とは神性である。OSHOバグワンは、「誕生に際して、あなたは意識的なはたらきかけをしたわけではない。誕生は自分自身の決定ではなかった。」と前置きをする。そして、我が肉体を感謝できない人は他人の肉体に感謝できはしない。人は、まず自分を作った空と大地に感謝しなさい。これを神聖なる感謝とよぶ。『この感謝なくして宗教的にはなれない。感謝しない人間が、どうして宗教的になれるだろう?この感謝を絶えず体験し始めたら、あなたは驚くだろう-この感謝はあなたを大いなる安らぎに満たし、大いなる神秘に満たす。するとあなたは、あることを理解する-自分は、こうしたすべてを与えられるに値しないということを。しかし、これらすべてを手にしているがゆえに、自分は感謝の念に満たさ...ディヤン・スートラの七つの段階-7

  • ディヤン・スートラの七つの段階-6

    ◎感情の浄化-3快活さ感情が純粋になれる4つの局面の3番目は、快活さ。これは、喜び、幸福、歓喜、至福の感覚、そして苦悩の不在だ。これは、普通の人の考える快活さではなく、肉体死を既に問題にしない人の快活さである。毒杯をあおったソクラテスの言葉、『そして彼は言った。「わたしは幸せだ。死は、たったふたつのことしかできない—完全にわたしを破壊するか、しないかだ—もし死がわたしを完全に破壊するなら、わたしは幸せだ。なぜなら、悲しみを体験するわたしはそこにいないのだから。また、もしわたしの一部が残るとしたら、わたしは幸せだ。なぜなら、破壊されるのはわたしでない部分だからだ。わたしは依然として存続する。死は、たったふたつのことしかできない。だからわたしは笑っているのだ」。』(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHOP170から...ディヤン・スートラの七つの段階-6

  • ディヤン・スートラの七つの段階-5

    ◎感情の浄化-2慈悲感情が純粋になれる残り4つの局面の2番目は、慈悲。人生はただ生きるだけでも非常に困難なものであり、人はいつ死ぬかもわからないが、生き、愛し、多くのものを作り出し、出会った人とは別れ、愛した人や愛したペットとも別れる。そうしたものすべてへの共感、同情は、慈しみであり、悲しみである、これを慈悲という。(OSHOバグワンは、幾つかの例を出して説明しているが、いまひとつしっくり来ない印象。)mercyという言葉もあるが、いっそ悲しみ、命の悲しみの方が慈悲の本質に近いのではないか。ダンテス・ダイジは、竹富島で自殺した友人の霊に一緒に死んでくれと求められ、直ちに首をくくって死んだ。その時、「その友人の人間の果てにある孤独感を理解した」。それが命の悲しみ、慈悲。ディヤン・スートラの七つの段階-5

  • ディヤン・スートラの七つの段階-4

    ◎感情の浄化OSHOバグワンは、感情を4区分する。感情が純粋になれる4つの局面とは、友愛、慈悲、快活さ、感謝。それぞれの反対語である不純な局面とは、憎しみ・敵意、冷酷さ・暴力・不親切、惨めさ・苦悩・不安、恩知らず。不純な局面は常に外側、外面に焦点を向けているのに対し、純粋な局面は自分の内側から流れ出る。また純粋な感情は実存の一つの境地、逆に不純な感情は歪み。以上が感情の全体論。これに対して、局面別の説明が続く。最初は友愛の説明だが、愛と友愛の違いにはあまりこだわっていない。人生にはごくごく些細なこと、非常にささやかなことが無数にある。この中に友愛と愛の中枢を目覚めさせるチャンスが広がっている。そこで毎日何の見返りも求めないことを一つか二つ必ず実行する。そうすると自分の内側に愛が誕生し、友愛が育っていく。これは、...ディヤン・スートラの七つの段階-4

  • 議員会館でオームを念じたら問題にされる

    ◎オーム、オーム『「“信者”とマントラ」維新4回生議員が議員会館を不適切使用の疑い』(文春オンライン11/2(火)16:12配信)によれば、比例東海ブロックで当選した日本維新の会の杉本和巳氏(61)が、議員会館を不適切に使用していた疑いがあると叩かれている。議員会館で、政治とは関係のない数名の“信者”が会館の部屋に集まり、『オ~ム~、オ~ム~』とひたすら唱え続けるのが、不適切なのだそうだ。この記事では、議員会館会議室で、私的なヨガの儀式を行うのがまずいと見ているらしい。マントラといえば、オームはダメで、南無妙法蓮華経や南阿弥陀仏ならよいのだろうか。国会には南無妙法蓮華経や南無阿弥陀仏関係の議員もいるのだろうから、議員会館で生活していれば、部屋でお題目や念仏なるマントラの一つや二つ唱えるのではなかろうか。オームは...議員会館でオームを念じたら問題にされる

  • ケン・ウィルバーの境界崩壊プロセス

    ◎「今」以外の時はない彼は、自己と全体(神)との境目が消えて行くプロセスをポロっと書いている。最初自分には行動の自由、選択の自由があると言って、全体(神)の前で立ち去ることを繰り返す。これは悟れてない状態だが、それは本人がその状態を求めているからである。だが、ある日自分のその行動が逃げ回ることであると見抜く。その時自分に残された選択肢は、自分を全体(神)に明け渡すだけになる。しかしながら、あえてそうすることもできないし、あえてそうしないこともできない。なぜならどちらも逃げ回る行為の一種だから。その何もできない状態を自覚した時、その万事休した時、逃げ回るという全体(神)への抵抗が見え自覚されることを突破口に、抵抗が消え去り始める。すると独立した個の感じが段々消えて行く。独立した個の感じも逃げる感じも同一のものであ...ケン・ウィルバーの境界崩壊プロセス

  • ディヤン・スートラの七つの段階-3

    ◎思考(マインド)の浄化現代人のほとんどは金かセックスか権力について始終考えている。これをOSHOバグワンは不純な思考に分類し、この周辺に嘘をつくことや不正をやることが位置するとする。一方彼は、純粋な思考の焦点とは、真善美だとする。不純なマインド(思考)のままでは、光明を得られない(悟れない)。そしてマインド(思考)は、行動の源泉であるから、不純なマインド(思考:金、セックス、権力)は、不純な行動となり、純粋なマインド(思考:真善美)は、純粋な行動となる。ここで彼は、行動する前にその行動は真善美に沿っているものか考えなさいと言う。だが、素直にそうしようとする人なら、自分は真理が何かを知りもしない、自分は善とは何かを知りもしない、自分は美が何かを知りもしないと感じるものだ。だが、そのように内省する人は、次第に真理...ディヤン・スートラの七つの段階-3

  • 境界はない

    ◎原初の境界は幻想だが根絶はできない七つの身体論で、第一身体肉体から第五身体コーザル体までと、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間には境界があり、不連続である。不連続という意味は、第一身体から第五身体までは、個人だが、第六身体・第七身体は全体だから不連続であるということ。だが、まともな覚者は、そのような境界はないと、口を揃える。ケン・ウィルバーの「無境界」という本はその境界そのものを論じた本であり、その意味で稀有である。ケン・ウィルバーは、この境界を「原初の境界」とも呼び、「この境界を破壊しようと動くのが、統一意識(大悟覚醒、全体)への近道だ」と思うかもしれないが、それは誤りだという。なぜなら原初の境界はそもそも存在しないからである。なぜなら原初の境界を破壊しようという動きは、幻想としての境界を強化する...境界はない

  • ディヤン・スートラの七つの段階-2

    ◎身体の浄化最初の段階の「身体の浄化」とは、次のようなものである。1.身体の障害やブロックやしこりをなくする。2.今の身体の持っているブロックやしこりをとるために、人に見られることのない林の中などで、身体のしたいことをするがままにさせる。それは、想像上の敵を殴ることだったりする。これにより、古いしこりやブロックを解放し新しいブロックが育たないようにする。OSHOバグワンは、ここで原理を説明する。まずあなたは怒っているとする。怒りのエネルギーすべてが、(例えば胃や足や両手の)筋肉の収縮に使われていると想像し、怒りのエネルギーすべてを筋肉の収縮に投入する。すると不思議なことに1、2分後には怒りは消えている。これこそ怒りという心的エネルギーが筋肉の収縮エネルギーに転換されたもの。この転換の原理を用いたのが、古いブロッ...ディヤン・スートラの七つの段階-2

  • ディヤン・スートラの七つの段階

    ◎サマーディとは神になることサマーディへの七段階などというと、あたかも三昧というものが、個人的体験の一つであって世間でも共通認識のあるテクニカル・タームであるように誤解されがちである。ところが、サマーディとは、神になること、仏になること、宇宙意識になることであり、七つの身体論でいえば、第六身体と第七身体。つまりサマーディ以前とサマーディ以後には連続性はないのだ。『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』は、三日間の瞑想初心者向けの冥想合宿での講話。OSHOにしては、飽きないで体系だって説明しているところは珍しい。こういう真面目な語り口の講話は、1970年代や世界逃亡開始以後のウルグアイ以後に多い印象がある。さて『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』に出てくるOSHOバグワンの説くサマーディへの七段階とは、1...ディヤン・スートラの七つの段階

  • 求道における真剣味

    ◎言語を絶する不幸には滑稽が伴うダンテス・ダイジの示した「冥想者の日常的な態度」は以下のようなものであって、それには、真剣さ、人生への取り組みの真剣さの項目はない。1.素直であること2.正直であること3.情熱的であること。4.リラックスしていることなぜ真剣さという項目がないかについては、これを示した弟子たちは既に真剣さがあるレベルに達していたからであって、殊更にそれを示す必要がなかったからではないかと思う。【真剣さメモ】1.シュンニャの皮を剥く。何回剥けるかどこまで剥けるかはその真剣味による。2.クンダリーニのエネルギー・コードはその存在次元によって性質を変えるが、そこで順路を辿る意思・慣性は真剣さから来る。3.人生で与えられた生きるエネルギーは人によって、今生で持ってきた分量には多寡がある。精神の成熟はそれに...求道における真剣味

  • 空転空

    ◎絶対無の戯れダンテス・ダイジの公刊された三冊のうち、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」は、理論編。「アメジストタブレット・プロローグ」は予言編にして理論編。「絶対無の戯れ」は、人間とリアリティを韻文にしたもの。中でも「絶対無の戯れ」は、覚者の生活実感、現実感というものを知るには好適な一冊となっている。最初の方の長編詩「おれは神」は、神人の現実感覚の描写なのだが、どこか禅僧趙州の十二時の歌を思わせるところがある。そこには超能力も霊能力もなく、冷厳な現実と「おれは神」だけがゐる。長いのでブログやtwitterでは分割して上げるしかないだろう。さて、星の砂で知られる竹富島のトイレで首を吊った筋ジストロフィーの青年は幽霊となってダンテス・ダイジを訪問し、一緒に死んでくれと頼んできた。ダンテス・ダイジは、躊躇なく一...空転空

  • 大本神歌について

    ◎個々の覚醒へ大本神歌は、日月神示や大本神諭などの大本系の予言の中でも格調が高く、いわば中核と言える予言。侍者木庭次守による出口王仁三郎の片言隻句メモでも言及が多い予言である。最後の方で、日本魂の巻き返しが、悲惨な戦況、情景と二重写しになっているが、これは、彼が日本の悲惨な未来を描写する時には、みろくの世、千年王国、神主主義の時代を必ず添えるという定番の構成。過去日本が神風で敵を撃退したのは、亀山上皇の時だけであって、白村江の戦でも神風はなかったし、ルメイ将軍の日本全国大空襲の時も神風はなかった。いわゆる宗教権威者が、国家の呪法をリードし得るのは、民草の自意識が未発達な時代であって、最近のように個々人が明確な自意識を持つ時代では、一上皇、一個人の意向で国民をも誘導し神風を起すというのは難しいのではないか。つまり...大本神歌について

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