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アヴァンギャルド精神世界 https://blog.goo.ne.jp/naitoukonan

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

本当のなつかしさ、本当のやさしさ、そういったしみじみとしたものだけが好みです。 気になるもの 錬金術、冥想、瞑想、オカルト、坐禅、気功、ヨーガ、オーパーツ、超能力、霊能力、前世記憶、PTSD、トラウマ、修験道、アトランティス、レムリア、ケルト、クンダリーニ,チャクラ、洗脳、情報操作、テレビっ子、個人主義、疎外、おひとり様、悟り世代、アセンション、無私、敬虔、清貧

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2013/11/11

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  • 2021年の終わり

    ◎神仏に出会う、神仏に成る本年はご来訪ありがとうございました。平日は出勤前に書くというスタイルを基本としているが、17年目ともなると、いろいろな事が起きて来るものでした。今年は、コロナがアフター・コロナに転じた時代。また登山家も冒険家も本格的に行き詰まった時代でもある。春先に丹田強化をくり返し意識していたのだが、きちんと丹田強化の努力を積んでいれば、このような一年にはなっていなかったと悔やまれる。ダンテス・ダイジも晩年は、社会的にやっていくために、肚出し体操などを意識的に取り組まねばならなかったことが思い起される。下方三チャクラも生きるためには必要で、中でも丹田=スワジスターナは重要だときつく思い知らされる年の暮れ。丹田を錬る-1肥田春充の丹田強化-1今年は、ダンテス・ダイジの韻文を紹介するものが多かった。彼の...2021年の終わり

  • 叡知の城に至る12の門-2

    ◎おもいのままにするわざぞよき「叡知の城」に至る12の門の5から8。『「腐敗」・・・金属はこの段階で完全な死を迎えて、「カラスの嘴のように黒い粉末」となる。黒化の段階は、同時に再生への出発点である。結合の段階で蒔かれた種子は「懐胎」された状態となる。「凝固」・・・浄化された金属は白くなり、「白い石」が得られる。白化の段階であり、これ以降は「赤い石」を生成する作業が続くが、詳細は不明である。「滋養強化」・・・耳慣れない言葉(cibation)であるが、新しく生まれたものには養分を与えて大切に育てる必要があるように、滋養物を与えて金属を強化する過程である。「昇華」・・・固体を、液体の形を経ないで直接に気化させる。』(図説錬金術/吉村正和/河出書房新社P12から引用)5.「腐敗」は、自我の死であって黒。再生の前段階の...叡知の城に至る12の門-2

  • 叡知の城に至る12の門-1

    ◎ドラゴンの火で第五元素をあぶり出す15世紀イギリスの錬金術師にして修道士ジョージ・リプリー作の『錬金術の構成』では、賢者の石の生成過程が、「叡知の城」に至る12の門として描かれている。まずその1から4。『1.「煆焼(かしょう)」・・・金属を焙焼して金属灰(calx)にする操作であり、不純物を除去する。2.「溶解」・・・金属を液状にする操作であり、濃密な状態が希釈化される。それまで金属の内部に隠されていたものが解放されて、液の中に溶け出して来る。原初的なプリマ・マテリアの状態に重なる。3.「分離」・・・四大元素の分離であり、分解した四大元素からその魂である精気(第五元素)が遊離してくる。この過程を進めるために必要なものは、金属の内部にある神秘的な火、即ちドラゴンの火である。4.「結合」・・・分離した対立要素が結...叡知の城に至る12の門-1

  • アニマ・ムンディ(世界霊魂)

    ◎自分を死んだ者だけが知るヘルメス主義者は、自分の外に何をも捜しに行く必要のない、深遠な自然をアニマ・ムンディ(世界霊魂)と呼んだ。シンボリズムは大蛇。要するにアートマン(有)のようなものだ。『生命霊気宇宙に遍在する生命原理であり、神の息吹(プネウマ)として、人間だけでなく金属を活性化する原動力である。錬金術は、物質から化学的な操作によってこの生命霊気を抽出する技術といえる。その意味で生命霊気は、第五元素、賢者の水銀、賢者の石、エーテルなどと呼ばれるものときわめて近いものである。』(図説錬金術/吉村正和/河出書房新社P19から引用)宇宙に遍在する生命原理とは、アニマ・ムンディにして天の露にして、賢者の石のことだろう。『物質から化学的な操作によってこの生命霊気を抽出する技術』は、いかにもひっかけ質問であって、正解...アニマ・ムンディ(世界霊魂)

  • 常にけだかく寒き

    ◎心をさび高くもて芭蕉門下では、俳句のさびが結構な関心事であった由。『連歌論書の一つ、心敬の『所々返答』に、古賢曰く、常にけだかく寒き名歌、おなじく秀逸の詩聯句をならべて詠吟修行して、心をさび高くもてと也。』(さび(塙新書)/復本一郎/塙書房P14から引用)これにより、「さび」が「寒い」ことに関連があり、かつ気高さの風趣をも帯びていることがわかる。ただ、修行の結果「心をさび高くもつ」というのは、只管打坐でいう、修行と悟りは一体であるという立場から言えば問題ではある。だが心はさび高いのだ。見知ったものは何もない。山水画の孤舟蓑笠の翁の気分である。常にけだかく寒き

  • 十和田湖の男装坊伝説

    ◎男装坊昇天以後は弥勒の世秋田県には、十和田湖と田沢湖があり、八郎潟という汽水湖は、干拓されて耕地になっている。この三つの湖の言われは、観光案内にも出ているのだが、これを大神に感じて出口王仁三郎が随筆集月鏡に『十和田湖の神秘』として巻末に書き下ろしたもの。この話のあらましは、次のようなものである。秋田県の赤吉という所に大日別当了観という有徳の士が夫婦で住んでいた。昔、伯耆大山即ち日の川上山において、神素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治されたのだが、この大蛇の霊魂が再び凝って、大蛇となり、近所の北沼に棲んでいた。さて大日別当了観に悪心の兆した時、この大蛇の霊魂が了観に化け了観に成りすまして、了観の妻と交わり、間もなく了観の妻は妊娠し、やがて玉の如き男子を生み落した。ところが、出産の当日は朝から天地晦冥大暴風雨起り来て大日...十和田湖の男装坊伝説

  • ドン・ボスコの母の教え

    ◎主は与え、主は取り去られる。ドン・ボスコは、フランス革命の影響によりイタリアが飢えに苦しんでいた1815年生まれ。サレジオ会の創始者として知られる。両親とも農業で生計を立てていた。だが父親は彼が2歳になる前に早逝、母の手一つで育てられた。極貧で恒常的な飢えに苦しむ中、その母の次のような薫陶に見るべきものがある。『子どもたちを近くの原っばに遊びに行かせる前、「神様はお前たちを見ておいでですよ」と言っていた。子どもたちが小さな恨みを抱いたり、その場を取りつくろう目的でうそをつこうとしていたりする時、「神様はお前たちの心までお見通しですよ」と諭していた。』(完訳ドン・ボスコ伝テレジオ・ボスコ/著ドン・ボスコ社P35から引用)『星が美しく輝く時、戸口で夕涼みをしながら彼女は言った。「世界を造り、空にたくさんの星を置か...ドン・ボスコの母の教え

  • 窮極は垂直ジャンプを求める

    ◎目標設定のあり方目標は、現状より2段階上が適当などと言われる。それ以上だと理解も及ばぬし意欲もわきにくいものだ。質問者に合わせて解答する対機説法(相手の機根に合わせた説法)というのは、求道意欲を失わせないように回答していくものなのだろう。しかし、目標を持って坐るのは駄目。目標とは、厄除け、方位除災、身体安全、交通安全、魔除け、身代わり、子授け、金運、火防、良縁成就、学業成就、受験必勝、病気平癒、安産、無病息災、家内安全など。おひとり様全盛の現代、家内安全はどうも最近は人気が薄いようだ。こうしたものは、仏教で言えば、欲界(性欲・食欲・睡眠欲など)、色界(物質的欲望)に分類され、窮極からは遠い。ところが、釈迦は色界の第四禅からスタートし、大涅槃(ニルヴァーナ)に入った。このように下層の物欲も性欲も、釈迦臨終時の大...窮極は垂直ジャンプを求める

  • 人のからくり

    ◎神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである今年も臘月八日の後は、ダンテス・ダイジ忌だった。ダンテス・ダイジ自身も存命ならば70代。彼に面識のある者もその年代周辺であって、社会的にはOBとなり、あまり影響力はなくなったと見られる。ダンテス・ダイジの教えで特徴的なのは、真理の社会性を相対的なものと見、いわばおひとり様宗教もありだと示したこと。覚者が必ずしも人格者や好々爺ではないことを示したこと。覚者の非社会性をことさらに強調して見せたこと。こうした真理自体の許容度を広げて見せた結果、一生を棒に振ったり、社会に迷惑をかける邪教がはびこったりというのは「ダンテスの悪影響」と称される。ダンテス・ダイジという覚者と直接の面識がなくとも、七つの身体論という人間像の相対化、あらゆる世界観の相対化、ひいては近代西欧文...人のからくり

  • 竜宮の謎

    ◎艮の金神、金勝要神が竜宮館に出現出口王仁三郎の霊界物語によると、天国の下に霊国がある。天国はすべて大神の祭司的国土にして大神の御住所である。霊国は大神の王土にして之を王座又は瑞の宝座とも云う。(霊界物語第52巻第2章哀別の歌)霊国の方に天の高天原と地の高天原があって、地の高天原に黄金で作られた館があり、これが竜宮城。竜宮は主として竜神の集まる所で、竜神が解脱して美しい男女の姿と生れ更る神界の修業所である。また竜神は実に美しい男女の姿を顕現することができるが、天の大神に仕へ奉る天人に比べると、その神格と品位において著しく劣つている。また何ほど竜宮が立派であっても、竜神は畜生の部類を脱することはできないから、人界よりも一段下に位している。ゆえに人間界は竜神界よりも一段上で尊く、優れて美しい身魂であるから神に代って...竜宮の謎

  • 神仏はどう見えているか

    ◎神仏の顔99.99%の人が神知らぬ時代に神はどう見えているか。神仏のことをお寺の人に聞いても、ちゃんと答えてくれることはまずないし、神社の人に聞いても、まともな説明をしてくれることもまずない。一神論、多神論などと分けてみても、祭神たる神の数を数えてもその数えている神とは何でしょうか、神と会話ができるのでしょうかなどと質問が出て来た途端に、黙ってしまうのではないだろうか。だからと言って、維摩の一黙のように、神とは説明できないから沈黙するのだと、木で鼻をくくったような対応では何も先に進まない。神仏とは、一円相であって、月のことだから月を指す指は神仏そのものではないと説明されても、神仏のイメージを膨らませる連想もできない。神仏には二相あって、無なるニルヴァーナと有なるアートマンだが、現代科学でそれを証明する手段はな...神仏はどう見えているか

  • 心の中の生と死の境界

    ◎夢の修行C.G.ユングは、心の中の生と死の境界について、『BBCのインタビューで、ユングは「無意識の心は死をほとんど無視しており、夢は何事もないかのように進んでいく」と言った。』(臨死の深層心理M-L・フォン・フランツ/人文書院/P91から引用)要するに、夢の中では、人は生と死の境目を十字路を越えるが如く平然と進むものだということ。この本では続いて、54歳の膀胱ガンの患者が夢で、54歳で早く死ぬことになったのを悟り、死を受け入れた。死を受け入れた後、夢の中で落葉樹ばかりの森に足を踏み入れたが、森林火災が起こり森は全焼した。森は黒い炭と灰ばかりになっていたが、真ん中に大きくて赤く丸い砂石が焼けていないのを発見した。M-L・フォン・フランツは、この赤く丸い砂石こそ賢者の石だと唱える。賢者の石は、本来の自己であり、...心の中の生と死の境界

  • 世界の穀物中国買いだめ

    ◎亢竜悔いあり、盈(み)つれば久しかる可からざるなり。2021年12月19日日経新聞によれば、世界人口の2割に満たない中国が、主要穀物在庫の過半を買いだめしているとのこと。2022年前半の米農務省推計の中国の世界の在庫に占める比率は、トウモロコシ69%、米60%、小麦51%で、過去10年間で20%増。中国は過去10年にわたって買い占めを続けて来た由。この在庫量は小麦で言えば中国1年半分の消費量である由。この原因は、中国の米、小麦などの食料生産が、2015年以降漸減していることに加え、農地の分散化や土壌汚染や、農民の都市への流出で元々生産性が低いことと、中国の政権交代(革命)は民衆の飢餓から発生していることだそうだ。テレビで小銭を国連機関に寄付すれば、発展途上国の子供が助かるみたいなコマーシャルを見るが、その裏で...世界の穀物中国買いだめ

  • わびと飢え

    ◎ダンテス・ダイジと片岡山の貴人ダンテス・ダイジが沖縄での修行中か何かに、托鉢での食料も金もなくなり、飢えて元気もなくなり道端で横になるシーンがある。一方で聖徳太子が片岡山で、大悟したらしき貴人が飢えと寒さで道端で動けなくなっており、これを見た聖徳太子がわが衣をかけてあげ、「しなてるや片岡山に飯に飢て臥せるその旅人あはれ親なしに汝生りけめやさす竹の君はや無き飯に飢て臥せるその旅人あはれ」という歌を詠み、翌日人をやって見に行かせると亡くなっていたので、墓を作り葬ったというエピソードがある。覚者であっても飢えで困窮し、果ては亡くなることもある。覚者にとっては、元気な時期に大悟という体験とは言えない体験を経るが、これをピークの時期と見れば、上の二つは衰亡、わびの時期の例。「わび」の本来の意味は、「物足らずして一切我意...わびと飢え

  • インドで仏教が滅びたわけ

    ◎人間が変わっていくのに合わせ、言葉も変わり、窮極へのアプローチも変わる中村元が現代語訳大乗仏典6密教経典他/東京書籍P141以降で、「インドで仏教が滅びたわけ」を述べている。その理由は、民衆は呪術迷信を信じていたのに、教団は哲学論議に没頭したこと、支援してくれる上層階級が没落したこと、民衆に接近するために卑猥なタントリズムを説くようになったことなどを挙げている。特に在俗信者の取り込みのために、出生、命名、入信式、結婚、死亡などの人生の節目に仏教団は、呪術的儀式を持ち込まなかったのが、滅亡の原因となった、としている。中村元はタントリズムはわからなかったか、女性のことに詳しくなかったどちらかなのだろう。インド後期密教と言えばタントリズム。清よ明けき日本ではタントリズムは似合わないというのかもしれないが、タントリズ...インドで仏教が滅びたわけ

  • 現代人の悟りのための処方箋

    ◎最初の仮説これだけ物質科学も心理学も宗教学も進歩発展したというのに、一向に大悟覚醒した人物が増えて来ないのには、過去のやり方に何か欠ける点があったのだろうと思う。1980年代から1990年代にかけて、クリシュナムルティ、OSHOバグワン、ダンテス・ダイジと巨星がこの世を去ってから、爾後の30年はいわば暗黒時代の様相を呈している。ここに個人の言論、宗教、思想の圧殺をITで行いつつ、核による世界戦争が容易に想定できる今、現代人の覚醒に必要なのは、次のようなものではないかと思う。1.本気度本気で冥想修行にとりくむ。日々の敬虔で真摯な暮らしぶりも基本。2.精神の成熟これは、空、アートマン、色即是空を体感するための必要条件。3.死生への感覚、関心この時代は、自己の願望実現を盛んに煽り立てるが、願望は実現すればするほど肥...現代人の悟りのための処方箋

  • 鳩摩羅什密室で王女を犯す

    ◎枯木寒巌に倚(よ)る三冬暖気無し鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーヴァ、344年-413年)は、西域の仏教の盛んな亀茲国(クチャ)に貴族として生まれた。前秦の呂光が亀茲国を攻略、鳩摩羅什は彼の捕虜となった。この際、鳩摩羅什は亀茲国の王女と一緒に密室に閉じ込められ、女犯の戒をいつまで犯さないでいられるかをテストされた。結局、彼女の魅力に抗し得なかったのか、彼は禁を冒し、関係を持ってしまった。これは、仏教教団追放の罪に値する。ものの本には、後に彼が長安で訳経僧として大きな業績を挙げた動機は、この時の事件による悔恨が大きいなどと書いてあったりする。さて禅の公案集碧巌録に婆子焼庵(ばすしょうあん)という公案がある。昔、一人のおばさんがいた。さる禅僧を庵に住まわして二十年間供養していた。いつも16歳の娘を遣って食事な...鳩摩羅什密室で王女を犯す

  • 夢窓国師の和歌三首

    ◎雲よりもたかきところに出て見よ夢窓国師の、美濃の守護土岐頼貞との和歌贈答の中から。雲よりもたかきところに出て見よしばしも月にへだてあるやと世の憂さを慰むといふ言の葉に身を忘れざる程ぞしらるる身をかくす庵をよそにたづねつる心のおくに山はありけり絶対無を月でシンボライズするのはお馴染みで、十牛図でもそう。禅ではないが、和気清麻呂、龍樹などにも月は重要な意味を持つものとして登場。月は未悟者にとって日常感覚ではない日常を指すのに、日々是好日、平常心是道などと逆説的に述べるのが覚者の作法。『世の憂さを慰む』とは、癒しのことだが、癒しとか言っているうちはダメだと直截である。心の奥の山といえば、牛かひ草の旅にも風景として山が出てくる。夢窓国師の和歌三首

  • 夢窓国師の大悟-2

    ◎香厳が石が瓦礫に当たった音で悟ったように夢窓国師は、常州の臼庭(北茨城市)の小庵で、五月の末、庭前の木の下で一日坐禅をして、夜も更けたので、疲れて庵に上がって来た。そこで壁のないところを壁と思って身をもたれかけたら倒れた。そこで大悟して、思わず失笑した。『多年、地を掘って青天を覓(もと)む添え得たり重々礙膺(げよう)の物一夜、暗中に碌甎(ろくせん)を飃(あ)げ等閒(なおざり)に撃砕(ぎゃくさい)す虚空(こくう)の骨』(大意)長い間、地を掘って青天を求めるように、方向違いの迷いを積み重ねてきた。ある夜、香厳が石が瓦礫に当たった音で悟ったように一気に虚空の骨を打ち破った。この時期は一人で坐っていたので、悟りかどうか確認してもらえる師はなかったのだろう。臼庭には10月までいて鎌倉に行き、仏国国師に悟ったことを認めら...夢窓国師の大悟-2

  • クリシュナムルティの最後の講話

    ◎生の本源は名がないクリシュナムルティの最後の講話は、1986年インドのマドラスで行われた。クリシュナムルティは、自ら「生の本源」というお題を振ったところ、それについて聴衆の一人との質疑になった。『kなぜそれを尋ねるのでしょうか。なぜなら、私が尋ねたからですか。おわかりですか、またもやあなたは…すみません。どんな叙述も合わないし、けっして本源を叙述できません。本源は名がないのです。本源は絶対的に静かです。それは音をたてて騒ぎまわっていないのです。創造はたいへん聖なる何かです。それは生においてもっとも神聖なことです。あなたがあなたの生をでたらめにしてしまったのなら、それを改めてください。今日、それを改めてください。明日ではありません。あなたが不安定であるなら、なぜかを見出して、安定してください。あなたの考えがまっ...クリシュナムルティの最後の講話

  • 雷電の激しき時と地震の揺る時

    ◎神に祈らぬはなし悪石島を始め、北は北海道から全国的に地震は揺れ、空に火球が飛ぶ気になる時期。悪石島が鳴っているのだ。出口王仁三郎の祈りをテーマとした十三首。出口王仁三郎は、生長の家、世界救世教など戦後の成功した神道系宗教教団の源流に当たるが、日本では一貫してタブーとして圧殺され続けている印象。『眼に見えぬ己(おの)が心霊(こころ)を眼に見えぬ神にささぐる幽斎(ゆうさい)の道見るを得ず聞く声もなき神のまへに祈る心は神なりにけり善きにつけ悪しきにつけて天地(あめつち)の神にいのるは人の真心(まごころ)雷電(いかづち)のはげしきときと地震(なゐふる)の揺(ゆ)るとき神に祈らぬはなし天地(あめつち)を祈るこころは人草(ひとぐさ)の道にかなひしまことなるべし手を拍(う)ちて祈るはよけれ皇神(すめかみ)の心汲(く)まずば...雷電の激しき時と地震の揺る時

  • 道人は聞こえず

    ◎至上の徳のある人には徳に見えるようなものはないOSHOバグワンの前世については、チベット僧だのいろいろと取沙汰されているが、荘子だという説もある。これは、OSHOバグワンがコミューンや教団を作りながら、弟子の育成にあまり熱心だとは思えなかったこと。通例大教団では、高弟が衣鉢を継ぎ、教祖と高弟のハイ・レベルなエピソードがその後の貴重なものとして語り継がれたり、高弟が教団維持の体裁を整えるものだが、OSHOバグワンはそうではなかった。荘子も高尚な理論は説くが、坐忘そのものには詳細な説明はなく、孔子を代表とする既成教団への批判ばかりやっているところがある。一歩踏み込んでいないのだが、この点が荘子はOSHOバグワンの前世と言われても抵抗感のない部分である。荘子秋水篇から。『道人は聞こえず、至徳は得ず、大人は己なし』大...道人は聞こえず

  • 道の行われない国で修行する

    ◎聖天子の堯が華に視察に行くむかし、聖天子の堯が華という所に視察に行ったときのこと。華の関守が堯のために、「たくさんの男の子が授かりますように、富に恵まれますように、長寿に恵まれますように」と祈ったが、堯はこれを受けようとしない。関守がその理由を尋ねたところ堯はこう答えたという。「男の子が多いと心配事が絶えない。金持ちになると煩わずらわしいことばかりだ。長生きすれば、それだけ恥も多い。だから、せっかくだがお断りしたのだ。」すると関守は、あなたは聖人だと思っていたが、それでは君子止まりですな。男子も金持ちも長寿も、もともと何の面倒もない。天下に道なければ、徳を修め閑職について、世に顕れることなく最後は、天上に昇るものだ云々。堯は、もっと質問させて下さいと願ったが、関守はこれを断った。(荘子天地篇)苛政は虎よりも恐...道の行われない国で修行する

  • 人間は死の世界から出でて死の世界に帰って行く

    ◎死を体験する一般に死を体験するのは、臨死体験しかない。ところが広義のクンダリーニ・ヨーギ達は死の世界を体験することが重要だと説く。これに対し、禅、只管打坐型の覚者では、せいぜいが生と死に差はないと説く程度。まるっと見ると死の世界の一部が生の世界。クンダリーニ・ヨーギ達の説とは、次のようなもの。荘子斉物論篇:死を憎むとは、弱喪して帰るを知らざる者(弱年にして故郷を失った者が故郷を忘れてさまよう者)ではないのか。⇒死は故郷である。淮南子:生は寄なり、死は帰なり。出口王仁三郎:『有難き現界私は五六度死んだ事があるが、生きかへつてから後も二週間位はひどく疲労れたものである。元来生の執着は神様より与へられたものであつて、結構な事である。三十才の生命を神様より与へられて居る人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は...人間は死の世界から出でて死の世界に帰って行く

  • 万人が神知る時代の始まり

    ◎冥想修行の入り口万人が神知る時代が近づいたと言っても、それは主に欧米先進国や日本のことであって、それ以前の自己実現をテーマとしている人が大多数である国の事情とは異なる。要するに万人が神知る時代とは総論なのだが、個別に各国の国民について、実際に物質的願望に飽き、それ以上のもの、精神的な価値あるものの極みを本心から望んでいるかどうかを見てみれば、発展途上国の国民は必ずしもそうではないことが見て取れるのではないだろうか。精神が爛熟熟成すれば、本来求道に進むべきものだが、テレビ、ネット、マスコミなどによる広義のマインド・コントロールにより、人は、ともすれば無駄な時間つぶしや、金や便利を求める水平的な行動に引っ張られがちである。ヴァーチャル・リアリティは下層霊界であるというのは既に指摘があるが、メタバースもヴァーチャル...万人が神知る時代の始まり

  • ドン・ファンの熟眠中に夢を見ない

    ◎死の瞬間に意識を清明にヤキ・インディアンのソーマ・ヨーギのドン・ファンは、まず世界全体としてのイーグルがあり、それの全体的あるいは部分的現れとして覚者グループであるナワールがある。仏教で言えばイーグルは法身、ナワールは、報身のような感じ。ここで見る者というアカシック・レコードみたいな存在があり、その役割は、イーグルを見てその止むとのない流転を観察し記録すること。見る者は、人間を作っている輝く殻が壊れている場合には、イーグルの中に人間のかすかな反応を見出すことも可能だという結論に達した。これは、現代人の相当数が輝く殻が壊れていて、イーグルなる全知全能の世界全体宇宙全体にアクセス可能だということなのだろう。ドン・ファンは、自由に到達するとは、永遠に生き続けることを意味することでなく、「見る者」によれば、『人は、普...ドン・ファンの熟眠中に夢を見ない

  • 禅の悟りは展開しにくかったが

    ◎人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行する信心銘で、禅の悟りを象徴している言葉は、万法一如、真如法界、空、大道等々で、色味がなく、せいぜいがモノクロの山水画を見ているような感じ。これに対してクンダリーニ・ヨーガ系の悟りは、それまでのステップで、十分に枝葉をつけているものである。例えば錬金術書『逃げるアタランタ』XXⅢ図では、背景で、太陽とヴィーナス神が交わって、男女両性具有が成り、その結果、あるいは同時に白髪の赤子が誕生し、世界は黄金を降らして言祝ぐ。同じくクンダリーニ・ヨーガ系である古事記では、天照大神が素盞嗚尊と天の安の川原で仲直り誓約をするシーンが、男女両性具有の実現であり、禅でいう『好悪なし』。この誓約で生まれた神が、伊都能売神。道教では、柳華陽の慧命経に、...禅の悟りは展開しにくかったが

  • なりきるためには人間であることを否定する練習

    ◎このまま死んでもいいと思って坐っていたクンダリーニ・ヨーギ本山博の述懐。『本当に毎日毎日真剣勝負でした。もうこのまま死んでもいいと思って坐っていましたからね。実際のところ、真剣勝負でないような瞑想なんて何の意味もないんですよ。心は落ち着くかもしれないけど、霊的な成長なんてできない。一番肝心なことは、すべて神様にお任せをする。生きるとか死ぬとか考えないで、ただ一所懸命に坐って、ひとつのことになりきることです。たとえば般若心経をあげると、その般若心経の声そのものになるわけです。自分があるということ、肉体があるということ、唱えている状況、そういうことをみんな忘れて、なりきってしまう。渡部先生もどこかで書かれていたように思いますが、ひとつになりきらないと、いつまでたってもちっちゃな自分の枠から外には出られない。善人で...なりきるためには人間であることを否定する練習

  • 永遠の0とホタル

    ◎特攻映画の発想永遠の0は、岡田准一と三浦春馬をメインキャストとした特攻映画。テーマは特攻隊員でありながら家族のために生還することを目的とした人物の話。ホタルは、高倉健主演の特攻映画。戦友であった朝鮮半島出身者の遺品を朝鮮在の遺族に持っていく話。とちらの戦死者とも、「天皇陛下万歳」と叫んでは散っていかなかったらしい、やや厭戦的な映画に仕上がっている。大日本帝国は、戦闘機特攻の他に、モーターボートに爆弾を積んだ「震洋」、人間魚雷「回天」、爆弾とロケットエンジンを組み合わせた「桜花」など、人権無視、人命無視の悪魔的特攻専用兵器まで開発、実戦配備した。原爆は開発しきれなかったかもしれないが、人倫に悖る発想は、軍上層部にあったわけだ。中国古代では、非戦闘要員を戦争に巻き込むのは、人倫に悖るという発想がもともとあった。そ...永遠の0とホタル

  • 分別対立のない真如の世界への共感

    ◎イエスが弟子の足を洗う『真如法界他なく自なし急に相応せんと要(ほっ)せば唯だ不二と言うのみ』(信心銘)大意:分別対立のない真如の世界には、他もなく自分もない。それをバッチリと一言で言うならば、不二と言うしかない。禅の極みでは、自分は世界全体、宇宙全体となるから、自他の区分は無い。これを世間では、ある種の異常な心理状態だと見るから事を誤る。他人もなく、他の事物もなく、自分もないのが、心理状態でなく、現実そのもの。そうした世界に生きるというのが、悟り。他もなく自分もないと言っているが、続く詩句では、包容されぬものなしとしているので、これは、有(アートマン)の側。聖者を友人にするというのは、そういう現実感に生きることに抵抗など示さず、当たり前に理解し共感してあげるということなのだろうと思う。イエスが弟子の足を洗って...分別対立のない真如の世界への共感

  • 眼(まなこ)もし睡らずんば

    ◎宗派によらない体験とは言えない体験禅の達磨から三人目の第三祖僧さんが、体験とは言えない体験を説く。『眼(まなこ)もし睡らずんば諸夢自ずから除く心もし異ならずんば万法一如なり』(信心銘)大意:眼が眠らなければ、様々な夢は自ずと見ない。心がもし変わらず同じならば、すべての存在は一つである。熟眠中でも眠らなければというのは、インドでも冥想の重要テーマだった。荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)というのがある。宗派は異なっていても求める境地に変わりはない。個が宇宙全体・世界全体に転換するポイントがあって、それは冥想修行のステージの一つとして存在することは知られていたのだ。そしてそれは、最初は特異な体験だが、日常に変わる。眼(まなこ)もし睡らずんば

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