冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。
本当のなつかしさ、本当のやさしさ、そういったしみじみとしたものだけが好みです。 気になるもの 錬金術、冥想、瞑想、オカルト、坐禅、気功、ヨーガ、オーパーツ、超能力、霊能力、前世記憶、PTSD、トラウマ、修験道、アトランティス、レムリア、ケルト、クンダリーニ,チャクラ、洗脳、情報操作、テレビっ子、個人主義、疎外、おひとり様、悟り世代、アセンション、無私、敬虔、清貧
◎する方もされる方も相手を選ぶべき野口整体の野口晴哉には、シャクティパットのような気を入れる愉気というのがある。野口晴哉によると、愉気は本来肉体の不調を気を入れることで回復させようという狙いのもの。ところが、世の中には、ぺらぺらしゃべるのは得意だが、ちらかっているものを片付けるのは不得手な人が沢山いて、こういう人から手を当ててもらい愉気を受けても、おしゃべりになるだけだったり、食べたいお菓子のことが気になってしまうだけだったりする。子供が歩けなかった父は子供に愉気をしていたが、愉気をすると子供が動けなくなる。野口は、父にあなたは不安を愉気しているのでおやめなさいと言った由。一方母親は、何が何でも丈夫にしてしまおうと闘争心を愉気していたので、病気と喧嘩することで病気の方も強くなり、なかなか治らなかったようだ。野口...シャクティパットもいろいろ
◎言葉の変化、ボディの変化終戦の詔勅を聞いて、当時は普通に天皇陛下による敗戦の表明であったと理解されたという当時の日本人の漢文の素養の高さに驚かされる。時代劇、特に昭和30年代までに作られた時代劇では、同様の漢文と江戸時代以前の歴史の素養がないと一度聞いてもわかるまいというような漢文のせりふ回しがしばしば登場する。映画『忍びの者』もそうだし、『忠臣蔵』もそうだ。このように言葉は、時代の経過とともに全く変化を遂げてしまう。大意はわかるが微妙なニュアンスの伝わるのは、その時代の人だけなのだ。その点で文学というのは、時間のない世界から書かれたものを除けば、その時代とともにやがて打ち捨てられるものなのだろうと思う。ブログ、SNS、twitterも直に棄てられるだろう膨大な文字群だと思う。その一方、過去1万2千年のスピリ...過去1万2千年のスピリチュアリズムの骨組みが壊れつつある
◎趙州録趙州は、60歳になってから各地の有名禅者に教えを請うて回った。40年間師事した南泉、そして臨済、薬山、寒山拾得等々に行脚して回った。80歳になってようやく狭い庵に居を定めそこで弟子の教化にあたって120歳で寂滅。120歳なら現代日本でも最高齢だが、唐代の平均寿命おそらく30代の時代にあっての120歳というのは、粗食で生活環境も悪い中、それだけでも驚異である。日本の天海も108歳と言われ、単なる長寿に意味あるところではないが、長寿して伝道したいという願いなかりせば、それはならなかっただろうと思う。さて当時は、世界の終わりには、すべてが崩壊して黒い穴(ブラック・ホール)になると信じられていたのだろうか、次のような問答が趙州録に残っている。『Q.世界が変じて黒い穴になると申しますが、どの路に落ちるでしょうか。...世界の終りのブラック・ホール
◎クリシュナムルティの愛の定義-2クリシュナムルティの愛の定義とは、次のようなものだ。恐怖や悲しみのある心に愛は存在しない。ところが、キリスト教では苦しむ人(義の教師)の姿を十字架につけ礼拝している。苦しみからの解放は苦しみ経由しかないと言わんばかりに。恐怖は愛ではなく、他の人や宗教や神に依存する心が愛でもない。嫉妬も愛ではなく、金や動産・不動産・貴金属を所有したり、他人を権力や脅しで支配することも愛ではない。ましてや責任や義務も愛ではない。自分を哀れに思うことが愛ではなく、愛されていない苦悩が愛ではなく、憎しみの反対語が愛でもない。愛することを実践するためのメソッドやトレーニングやシステムやマシーンや環境で、愛みたいなパフォーマンスをすることも愛ではない。その一方で、この世界では、快楽と欲望が物事の大半を占め...愛は生もの
◎クリシュナムルティの愛の定義-1文明論的には、この時代を救うのは愛だとされる。自己実現の火星であるマニピュラ・チャクラから、愛の金星であるアナハタ・チャクラへの文明移行をもって、この時代の目的が達成されると神秘学徒たちは見ている。だが大半の人が、何が愛か全く見失った砂漠のような時代がこの時代であって、風水火の大三災に晒され、さらにボタンを押すだけで始まる世界戦争の危機に直面しているのもこの時代である。冥想せよとしないクリシュナムルティが愛を定義づけている。『「私は神を愛している」ということは、まったく無意味なことである。神を礼拝するのは、あなた自身を礼拝することであって、それは愛ではない。』(自己変革の方法/クリシュナムーティ/著霞ケ関書房P165から引用)このようにクリシュナムルティは、いきなりこん棒で頭を...「私は神を愛している」は無意味
◎生活を楽しんでいるようには見えないが寒山という坊さんは、浙江省天台国清寺の西70里の寒巌という場所に隠棲していた。時々国清寺の炊事係の拾得のところに来ては食べ物を恵んでもらっていた。拾得は料理の残りを竹筒に貯めておいて、寒山が来るとそれを背負って帰らせたのだ。当の寒山は、面貌は痩せて乞食のようだった。寒山は国清寺の長い廊下をだらだらと歩きつつ、愉快そうに言い、独り言を言い、一人笑いをする。時に寺僧につかまり、罵り打たれ、追い払われる段になるとじっと立ち止まり、手を叩いて大笑いして後、立ち去ったという。統合失調症で、離人症気味だが、光明を得て生存している、いわゆる聖胎長養の時期だったのだろうと思う。社会的適応という点では問題だが、見性、見仏、あるいは即身成仏を経た直後は、そのようになるものであることが、中国の禅...寒山
◎西欧社会の怖さドイツの聖職者ゾイゼは、たちの悪い信者の女が不義を犯して子供まで作っていたことをとがめた。すると女は、逆恨みして、その子供は実はゾイゼの子なのだと嘘を吹聴して回った。ゾイゼは、その噂が街で最も親しい親友2名にまで伝わり、その嘘を信じた彼らになじられ、それまで築き上げてきた聖職者としての名声が地に落ちたことに愕然とし、司教にまでバレたらまずいなどと何日も煩悶し続けた。ゾイゼは、自分は真の意味で放下できていないことの反省はしていた。この苦悩の頂点においてさる高級神霊である娘がゾイゼに現れ、この事件の首謀者の悪女やこの中傷を流した人々もまもなく死に襲われることを予言した。ほどなくかの悪女やゾイゼに対してひどい仕打ちをした人々は、不測の死を迎え、預言は成就した。この、聖者に対してfavorな終わり方は黄...ゾイゼが身に覚えのない不義の子の父となる
◎意識清明にしてこの世ならぬものに会う夢を見るというのは、明け方近く夢を見てそれを覚えているケースや、正夢、逆夢などと睡眠中に夢を見るということはあり、そうした中で未来の予知夢などもある。ここでは、そうした本物の夢のことは言わない。求道者の伝記や伝説などをみると、洋の東西と問わず、翻訳者や学者さんが『夢告』と平気で訳しているものだから、私も本当に夢告と信じていた。だが、本当は、睡眠に入って夢を見た夢告ではないと思われるのがいくつかある。それは次のようなものであって、おそらくは冥想体験なのだ。1.崇神天皇は、又疫病が流行して、沢山の死者が出続けることに苦悩し、真っ暗な神床で、連日の冥想を続けたところ、何日目かに大物主神を崇敬すれば、国家は安寧となるという夢告を得た。2.親鸞は、19才の時に、法隆寺参詣の帰途、大阪...夢告は冥想体験である
◎言葉も論理も越えたもの『女神イシスの全体像や、その多面にわたる意義の総体を合理的に理解しつくすことはできない。ある元型が包含する意味を言葉で言いつくすことは不可能だからである。』(男性の誕生『黄金のろば』の深層M.‐L.フォン・フランツ/著紀伊国屋書店P224から引用)父なる全能の神ラーは地母神イシスと結婚して、ラーの生まれ変わりを生む。これを指して人類学者は近親相姦だと言ったりするが、仏教的には、法身がラーであり、応身はイシスで、報身は再生した赤子のラー。これはキリスト教の三位一体とパラレルであり、洋の東西、宗派を問わず、見る目のある人にはそう映っていたということ。出口王仁三郎の弥勒三会もそういう構造。地母神イシスは、母にして、完全な人間を出現させる媒介・刺激であり、世界の王と結婚する世界の女王であり、ラー...白髪頭の子を産む
◎シャクティパット金ラメのNefertariタロットの「吊るされた男」は、逆さ吊りされていないので、破格である。「吊るされた男」の正位置、逆位置などとして意味を採る人には困ったことになる。22枚の大アルカナの順序でいえば、「吊るされた男」は「死」という全体の直前であり、個の極みという位置にある。それからすると、逆転してもらわないと話は進まないのだが。この図案は、神が人の頭を王笏かこん棒で叩こうとしているか、あるいはシャクティパットをしている図と見える。シャクティパットとは何か。シャクティパットには2説あって、ダンテス・ダイジは口を切るだけという説明であり、OSHOバグワンは、何らかのエネルギーを注ぎ込むという説を採る。オウム真理教では、1回30万円でシャクティパットを教祖がやっていて、初期には受けた弟子がその効...逆さ吊りになっていない「吊るされた男」
◎王と女王の結婚最近出た金ラメのタロットカードNefertari。これにも王と女王がペアであり、ご丁寧なことに教皇と女教皇もペアになっており、否が応にも両性具有の重要さを意識させられる。『西洋の錬金術師たちは、中国の内丹家のように冥想により王と女王が結婚し、両性具有者が誕生するといイメージこそ「賢者の石」であるとして体験していた。というのは一部の錬金術師たちは、賢者の石のことをグロリファイド・ボディつまり栄光の体と呼んでいた。一般にグロリファイド・ボディとは磔刑を経て復活したキリストの身体のこと。』(『』内出典:分析心理学におけるクンダリーニ・ヨーガの意義/老松克博(クンダリーニ・ヨーガの心理学C.G.ユング)P13)グロリファイド・ボディとは、コーザル体なのかアートマンなのかという議論がある。死を経るというこ...錬金術の両性具有なる賢者の石
◎伊勢神宮との競合三輪山の神(大神神社)である大物主神は、『山王神道の研究/菅原信海P11』によれば、日本の都が飛鳥にあった頃から天皇家の守護神だったらしい。額田王の奈良から近江へ遷都する際に歌った次の歌にも当時の宮廷人の三輪山への崇敬が見てとれる。『味酒三輪の山あをによし奈良の山の山の際にい隠るまで道の隈い積るまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を情なく雲の隠さふべしや』(大意:なつかしい三輪山よ。この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、また行く道の曲がり角が何個も後ろに積もり重なるまで、たっぷりと眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山であるものを、無情にもあんなに雲が隠してしまってよいものだろうか)かくして794年京都に遷都。これは最澄在世の時であったが、最澄が比叡山に三...天皇家の守護神としての大物主神
◎クンダリーニ・ヨーガは表ダンテス・ダイジのさる高弟へのアドバイスから(続)。『摩可般若心経表版(クンダリーニヨーガ)苦あるが故に不可知あり、不可知あるが故に多様多元の全体者ここに目覚めている。中心が多様多元として現れているが故に中心自身の目覚めは大いなる空の戯れとして戯れている。』ここでは、不可知は苦の対極ではなく、苦でも楽でもない別次元として到来していると見る。苦も有の世界。有の世界から眼を背けないまま、死をも生をも包含して、見た場合、そこに不可知があるということなのだろう。その不可知こそ、多様多元の多様多元の全体者が目覚めていることだとする。ここで既に個の視点はないが、宇宙の中心自身の目覚めこそが、大いなる空の戯れという、世界遊戯、リーラという、時間も空間も物質も含めた転変化々する現象世界の夢幻性を自証し...ダンテス・ダイジ高弟へのアドバイス-2
◎古事記の天国と地獄の結婚-4さてこのように大物主神と人間の娘との間に生まれた娘の名は富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)。出口王仁三郎の説明では、この名の言霊は真空之全体である。日本の名は実の極みであって、名は実体を指し示す記号に過ぎないなどということはない。日本人の声は有機物であって、外国人の声は無機物であって記号、シンボルに過ぎないと、日本語の発声の優秀性を主張する。以下出口王仁三郎の言霊説明。『ホは太陽の明也、上に顕る也。トは十也、治る也。タは常に治り静る也。タは身を顕し居る也。ラは極乎として間断無き也。イは治而無為也。スは集中也、真中真心也。スは垣無く無為也。ギは天津御祖の真也。ヒは大慈大悲の極也。メは地球を含む物の天と云ふ也。ミは産霊の形を顕す也。コは極微点也。トは一切を能く結...大物主神、レディの秘所を突く-3
◎国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売の神古事記に一行だけ神名が書かれてあって、日本書紀には記述のない伊都能売神。キリスト教では聖霊を非常に広い意味で使っているが、伊都能売神は、あらゆる二元対立を超えた至誠であり、聖霊でもある。古事記に一か所だけ出て来て、しかも神名しか出てこない。この伊都能売神こそは、空であり、本来の自己である。出口王仁三郎は、伊都能売神を殊更に強調したのだが、その意図は汲まれるべきである。古神道は一般に多神教と言われるが、一神教であると出口王仁三郎が断言するアーキテクチャーが、伊都能売である。自らが鎮魂して伊都能売に至るのだ。出口王仁三郎が自らを変性女子と唱えたのもそういう意図。平たく言えば、天照大御神は、高天原の天の真名井での誓約で男神を生み、須佐之男命は女神を生み、これにより、...死神死仏から伊都能売
◎叫びと異常気象出口王仁三郎の見立てでは、小三災の飢餓病気戦争は既に遂行シーンであり、次は大三災(風災、水災、火災)。今般の千葉の台風では、経済産業省によると、千葉県を中心に電柱2千本が倒壊や損傷したとの推計が出ている。電柱は、風速40mまでは耐えられる設計なのだが、風速40mを越えた場所では、軒並み電柱は損傷し、停電、断水などにつながったようである。要するに、今後日本のどこでも風速40m越えの台風が襲えば千葉と同様のインフラ壊滅があり得るということ。千葉は東京の隣県であり、ローカルバス乗り継ぎ観光番組では頻出の場所なのだが、東日本大震災も驚く復興までの時間のかかり具合ではある。出口王仁三郎によれば、地震は火山がらみであるから大三災でいえば火災分類であり、今次の風災とは違う。ただ大三災のうちどれが一番被害が大か...風速40mと風災
◎古事記の天国と地獄の結婚-3ギリシア神話では頻出の、男神と人間の娘の結婚。古事記では、三輪山の大物主神が、美人の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)と交媾し、神の子富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)が生まれた。これについて出口王仁三郎が言霊解を出している。まずトイレで御用たし中の美女を下から大物主神が赤い矢に変身して襲う段。乙女(美人)の最もデリケートな部分を神に突かれたという衝撃により、乙女は至誠に目覚めそれまでの退嬰的消極的な姿勢を改め、積極的に四方に奔走し、敬神勤皇報国のために大々的活動を開始されたこととみている。要するに大悟覚醒し、本来の自己、大神、アートマンに出会うというショックを受けて、人格も行動も至誠を基にするという形に全く変わってしまったという意味。ここで注目すべきは下から...大物主神、レディの秘所を突く-2
◎天皇万世一系の御守護『山王神道の研究/菅原信海』によれば、比叡山と京都の南、松尾大社の祭神は、大三輪明神である。大三輪明神とは、大物主神のこと。大物主神は、大和の国一の宮たる大神神社の祭神であり、古神道の上からも、万世一系の天皇制の点からも極めて重要な位置を占める。まず、開化天皇の子ミマキイリヒコイニエが第十代の崇神天皇。崇神天皇は、それまでのように神人同床では神祇を冒涜するの恐れあるとして、別人別処の制を起した。また又疫病流行して、沢山の死者が出続けることに苦悩し、真っ暗な神床で、連日の冥想を続けたところ、何日目かに大物主神を崇敬すれば、国家は安寧となるという夢告を得た。そこで崇神天皇は、天神地祇に祈って、天下を順伏し、これをもって後世、御肇国天皇と称した。出口王仁三郎によれば、『アの言霊は大物主であり、地...大神神社と大物主神
◎肚出し作業の必要性NHKの連続テレビドラマ『なつぞら』で北海道の開拓者、酪農家にして絵画家の天陽が死んだ。開拓者、酪農家という現実とパワフルに向き合い改変していく生業であって、デリケートにしてクリエイティブな画家は、いないことはいないのだろうが、きれいごと、作りごとに近い人物設定であることは、感じる人は感じていたのではないだろうか。そして、重要な脇役は死ぬの原則のとおり、亡くなってストーリー全体に香辛料を振りかけることになった。ダンテス・ダイジの言葉に『肚が出てきたら、もう本当の芸術作品を創ることはできない。』というのがある。開拓者として雄々しく、たくましくあればあるほど、芸術家としては二流になっていく。臨済禅みたいに肚をつくるタイプの冥想法もあるが、一日何時間も坐るような人は、現実に適応していく力(肚の力)...肚(はら)と芸術の両立は可能か
◎電気の使い過ぎが邪気を起こし台風を招くのか2019年9月8日夜、東京湾深くまで勢力を落とさず(中心気圧は955ヘクトパスカル、最大風速45メートル、最大瞬間風速60メートル)侵入し、千葉県に上陸した台風15号は、千葉県の半数以上の市町村に広範囲な停電を起こし、断水地域も発生している。停電の主たる原因は、電柱が根こそぎ枕を並べて倒れてしまっていることだが、電柱が倒れるくらいだから、家屋の損壊も相当広がっているのではないか。(9月8日の仕組?)電気は、肉体レベル神経系でも活動し、半物質のエーテル体レベルでは主力が電気的エネルギー。出口王仁三郎は、大正時代から電気の使い過ぎは邪気を生じせしめるとして、警鐘を鳴らしてきた。電気の使い過ぎが邪気を起こし台風を招くのだろうか。出口王仁三郎は、当時からみろくの世では電信柱が...千葉県で大規模停電
◎天台・真言、ブラック・マジック白黒映画で市川雷蔵主演の「忍びの者」を見た。これは、伊賀忍者の2つのグループが、天下統一を目前にする織田信長を暗殺しようというストーリーで、市川雷蔵は、忍者にして大盗賊の石川五右衛門役。冒頭に忍者の全体会議シーンがあって、全員が手印を組み、天台・真言の流れを汲むことが述べられ、山の尾根や渓を黒装束で駆け回るシーンが描かれる。これを見ると、山谷を走り回るのは、修験と同じであることに気がついた。土遁、火遁、水遁など定番の忍者技も紹介され、変装、罠、まきびし、くいなもあり、更に催眠術に、向精神性薬物にて相手を眠りこませる、薬をいぶした煙で殺そうとするなど忍者もそれなりに幅のあるカルチャーだったことを感じさせられた。映画の中では繰り返し、忍者は、家族関係も捨て、女の恥も捨て、面相も捨て、...忍びの者
◎古事記の天国と地獄の結婚-2『古事記』によれば、三輪山の大物主神は、今を時めく美人の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)に一目ぼれした。大物主神は、すかさず丹塗矢に変身して、その美人がトイレで大便中に下水溝を流れ下って便器に至り、ぐさりと彼女のホトを突いた。すると不意を突かれて彼女はあわてふためいたが、気を取り直し、その矢を持ち帰って床の辺に置いたところ、矢はイケメンの男になったので、二人はすぐ交わった。この二人の間に生まれた子が、富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)であって、神の子と謂われた。美和の大物主神は、世界各国の帝王又は大統領たちを司宰する大帝王のシンボル。彼が、世の中の醜き低きところの極み(大便所ではあるが、万物の生れ出る根源でもある)まで探して恋い求め、混乱する世界の肝腎かなめ...大物主神、レディの秘所を突く
◎アンチ・テーゼは呈示されたがオウム真理教裁判で、教祖が最後の数年は行為能力に疑問を持たれるような状態で、拘禁反応か何かだろうと推測されていた。独房に長期間入ると拘禁反応は出やすいものらしいが、戦後最大の被害者を出した事件の首謀者らしい人間がそのような状況で、何年も裁判を続けるのは、傍目にも異様に感じられた。オウム真理教事件関連本を精密に読んでいるわけではないが、どうして教祖がそうなったかは、『オウム死刑囚井上嘉浩すべての罪はわが身にあり魂の遍歴』などを読んで思い当たることがあった。教祖は一貫して自分の無罪を主張し続け、いわば弟子たちの暴走が事件の構図であったというような主張を裁判ではし続けたのだが、教祖の裁判において最愛弟子井上嘉浩が、教祖の指示によって犯行が行われたことを証言したことをきっかけに拘禁反応が強...オウム真理教無罪主張と死刑
◎只管打坐は裏ダンテス・ダイジは、現代における最高の冥想法として、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガを推した。只管打坐では、一気にそれに至り、クンダリーニ・ヨーガは一歩一歩かけてそれに至るが、その実りは大きく豊かなものとなる。只管打坐は、生を極めることにより死をも極める。クンダリーニ・ヨーガでは、死を窮めることで生をも窮める。ダンテス・ダイジの文明論的視座では、只管打坐により人類は救済されることができるが、クンダリーニ・ヨーガのデリカシーがないと豊かにはなるまいというようなことを言っている。なぜ、只管打坐とクンダリーニ・ヨーガなのかは、そのアプローチが逆方向であることだが、その2坐法の絶対性の評価は、自分でやってみる他はないが、一生だけで評価プロセスが足りるかどうかは保証の限りではない。ダンテス・ダイジは、なぜだか...ダンテス・ダイジ高弟へのアドバイス-1
◎天国と地獄の結婚に至らず人に『悟りとは何か』とか『救済とは何かと』問えば、ほとんどの人は口ごもったり、ちゃんと説明などできるものではないだろう。『オウム真理教偽りの救済/瀬口晴義/集英社』は、網羅的ではあるが、実によくわかっていて、緻密に組み上げられている本だという印象を受けた。何が本当の問題だったのかがわかる本に仕上がっている。教団内では、救済とは、地獄から天国への救済であるとして、そこで救済してくれるのは教祖の力であるとし、信者にLSD、覚醒剤などを投与して、意識レベルを低下させて、リアル地獄を体験せしめた。著者は、そのリアルな地獄体験を有する人が今の中堅幹部だと指摘する。地獄体験の恐怖がいまも厳然として影響を与え続け、それが信仰をサポートしているであろうことは想像できる。まともな宗教では、平素の生き方は...オウム真理教偽りの救済
◎他人のプライバシーへの異常な関心と巨大監視システムかつて職場に二人の還暦越えの男性がいて、その両人の話題は、いつも組織内の人物のプライベートな境遇のことであった。その話題は、不幸であったり気の毒であったりする内容であれば、興趣が盛り上がっている風であった。たまにその様子を見て、私はいつもどうしてそこまで他人の私生活に興味を持たねばならないのかと、訝しんでいた。それは要するに他人の生活ぶりを妬み、そねんでいたのであり、自分が不幸であれば、他人が同様に不幸であることを以って自分を慰める類のことであった。他人の不幸は蜜の味。そうした蔭には、同等の生活環境であれば、できれば、その中で少しでも上回りたいという願望が蠢いているのだが、その際限のない堂々巡りを繰り返しても何十年倦むことのない心的エネルギーこそ恐るべきものだ...他人を監視することと幸福
◎性に『何か』があるという信仰OSHOバグワンは、女性においてはセックスへの抑圧がなかりせば、42歳までに自然な形で禁欲生活がスタートするものだという。ところが、修道院の女性は、入った時から禁欲生活なので、42歳までに訪れるはずの自然な禁欲生活が到来せず、人によっては70代80代までセックスのことが頭から離れないことがあり得るという。(出所:一休道歌(下/バグワン・シュリ・ラジニーシP161-162))OSHOバグワンはこの話の続きで中世の女性神秘家が、現れたイエスに乳房を愛撫され絶頂に導かれ・・・・みたいにその神秘体験を揶揄しているが、揶揄されても仕方のない内容の神秘体験ではある。性的抑圧の産物と見られるのも仕方はない。さて最近のPC、スマホでは一度エロ系HPを見ると、しばらくエロ系の宣伝が入り続ける。これで...人間の一生と性欲の盛衰
◎複数の冥想法の組み合わせOSHOバグワンのタロットは2種類ある。OSHOZENタロットとOSHONEOタロット。どちらも本家タロットの伝統やシンボリズムはほとんど無視したもの。彼の弟子のナルタンさんが、OSHONEOタロットの方が良いと言っていたように記憶するが、私も同感である。およそ組織宗教の教祖ならば、一つの冥想法を専一に推し進めるのが常道。その冥想法にフィットした経典、参考書、道場の日課、日常所作の決まり、呼吸法、食べるもの、飲むものまで決めてしまうことがあるもの。日蓮は、南無妙法蓮華経を専一に、親鸞、法然は、南無阿弥陀仏を専一に、道元は只管打坐を専一に進めた。この点で、OSHOバグワンは、特定の冥想法だけで、教団組織を維持拡大するよりは、様々な冥想法のあることを認めた瞑想コミューンの方に関心があったよ...OSHOバグワンのタロット
◎ツタンカーメンなどツタンカーメンは、エジプト王。その父親のアメン・ホテプ4世は、アメン信仰をアテン信仰に強引に変更して様々な反発を受けたことで知られる。既存の神像を多数破壊。その息子のツタンカーメンは、9歳で王に即位、19歳で夭折。ツタンカーメンの墓には、彼の子供らしい2体の幼児のミイラが納められ、一族皆殺しに近いことに遭遇したことが想像される。もともとの多神教を初の一神教に変えたのが父にして先帝アメン・ホテプ4世という説明がされるが、その説明の当否は別として、主神を変えるのは相当な軋轢があるもの。ツタンカーメンの時代には、主神を元に戻したが、結局このような悲劇となったらしい。この時代は、丁度今から約3500年前であり、現代が西欧文明主体の時代となる萌芽がこの時代にあったと言われるので大いに興味を惹かれる時代...宗教改革者への大弾圧
◎弥勒の時代の前半と後半弥勒三会とは、地上天国を建設している最中の、善悪混淆、善と悪とのバトルの時代が前半であって、法身の弥勒と応身の弥勒が活躍する時期のこと。後半の時代に初めて、地上天国の時代、鼓腹撃壌の時代に成る。これが報身の弥勒の時代。これは世の大峠以降。弥勒は悪魔たる大自在天と闘わなければならないが、弥勒のパワーゲージは100に対して悪魔は99。悪魔側は、財力もあり、政治力もあり、法律も権力も持っており、マスコミの力もあり、SNSコントロールもできるし、その上軍隊や核兵器までも使って攻めてくる。弥勒と悪魔の差の1は、誠一つの1だけである。この誠一つを以って悪魔方の99のすべてを撃破していく。このように弥勒様の応身の立場は、実に苦しい。悪魔方すべてを撃破し去って初めて報身の世となる。ところで、出口王仁三郎...弥勒三会とは-2
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