情報社会の背景を社会的なレベルで人はどう考えてきたか。「物」から「情報」への変化を考える
情報化は社会を確実に変えてきている。PCやスマホなどの出現で、何処にいても様々なことが便利にできるようになったり、複雑なことが簡単にできるようになってきた。 今までできなかったことが現実にできるようになり、より豊かな生活を享受できるようになったのだ。これが情報化の恩恵の一つだが、このような生活の表層の変化以上にもっと潜在的な意識層での変化がおきているのではないか。その変貌を考えてみたい。
無駄を排除して必要最小限に削っていくという方向性から、個と個のつながりを実現し、その交流から新しいアイデアを得るチャンス(機会)を生み出す。これが情報化の普遍的概念を覆す力なのだ。
客観的でない客観性という共同幻想が新しい可能性をつぶして行く。
考えなくてもよい事は素晴らしいという幻想。当初の理念を失い、ニーズではなくシーズを支える技術の進歩によって言葉だけが独り歩きした結果なのだ。
ルールや運用が時代遅れになっているのにコンプライアンスといわれても、やらなければならないことの道筋はそこでは見つけられない。本心を隠すことに疲労し、結局あきらめてしまうのである
お互いにお互いの様子を見ながら変化するモデルでは、いつまでたっても解にたどりつけない。一つづつ片付けていても堂々巡りし、終わりの判断すらできないのだ。
利害が相対化し、他人の思惑で自分の行動がきまるようでは、理想との距離は縮まらない。
コンプライアンスが正しいのはルールが正しいからである。ルールが正しくなければコンプライアンスの意義はない。ただ隷属を強いるだけの手かせ足かせに過ぎない。
一家に一台の物は飽和した。次は個人の嗜好にあわせる物が狙うことになる。これを普及させるには、大量生産と言う既存の構造は崩壊せざるを得ないのだ。
「製品の規格化」「作業の標準化」「消費者のモデル化」の三すくみ。それぞれが自らの役割を果たすことで、ローマの水道橋の「アーチ構造」のような安定した社会構造を作ってきたのだ。
能力を規定されてしまったホワイトカラー難民の能力復元は可能なのか
「ブログリーダー」を活用して、Guyさんをフォローしませんか?