名古屋の冬は寒い。夏も暑くて、あまり恵まれた気候とは言えない。京都も同じようなことが言われるが、こちらは「盆地」がその理由である。名古屋が冬寒いのは「伊吹おろし」の風が冷たいからである。若狭湾・琵琶湖・関ヶ原の窪みが、日本海気候を濃尾平野にもたらすからである。 三重県の桑名・四日市・津へは「鈴鹿おろし」が吹き下ろす。同じように寒い冬を迎える。伊勢湾は内海なので、太平洋の「黒潮」の暖気を受けること...
三重県四日市市智積町あたりは、昔から農業用の水不足が深刻な土地柄でした。「智積養水(ちしゃくようすい)」が造られた時期は明らかではありませんが、正徳元年(1711)の書物にその存在が記されています。川の下を潜る三十三間の暗渠の筒を、官費で伏せ替えたという記事です。 昭和30年代までは水車がいくつかあり、精米などにも使われていました。洗い物などの生活用水や、防火用水としても使用されました。人々の生...
三重大学の学生が名古屋から通学しようとすると、普通は近鉄を利用することとなる。津駅のひとつ手前の「江戸橋駅」は、特急は止まらないが急行は停車する。名古屋から1時間ほどなので、津に下宿せずに名古屋から通う学生も多い。 江戸橋駅からは、志登茂川を跨ぐ「江戸橋」を渡って国道23号・通称伊勢街道に出る。大学のキャンパスは道路の反対側なので、交通量の多い国道を横断しなければならない。「江戸橋横断歩道橋」が...
東海道五十三次は,宮の宿(熱田)から桑名の宿までは唯一の海路である。「七里の渡し」という。どちらの湊にも鳥居が立っていた。宮には現在はないが、歌川広重の浮世絵を見ると描かれている。桑名は伊勢神宮参りの一の鳥居であり、宮は熱田神宮への一の鳥居であった。 桑名の宿は、桑名城(現在は九華公園)に接して置かれていた。渡し舟は天候に左右されるので、出航待ちのために、やむなく宿泊する人も多かった。江戸時代の...
尾張、伊勢との国境にある美濃「高須藩」は、尾張二代藩主・徳川光友の次男が藩主となって以来、代々尾張家の支藩であった。尾張宗家の嗣子が絶えた時には、尾張家の当主を送り出す。幕末のころには、次男慶勝は尾張、七男容保は会津、九男の定敬(さだあき)は桑名の藩主であった。 激動の時代に松平容保は京都守護職、定敬は京都所司代を務めて幕府を守ろうとした。畿内における最大の戦力であったが、鳥羽伏見の戦いを経て会...
名古屋テレビ塔は、昨年12月に国の重要文化財に指定され、昨日、文化庁の指定書が交付されました。地上180m、真ん中の90mの所に展望台(スカイデッキ)があります。完成は昭和29年(1954)、戦災復興のシンボルとして建設されたものです。 通常、60m以上の建造物は赤白に塗装することが航空法(昭和35年)により義務付けられていますが、このテレビ塔は法制定以前のものなので銀色に塗られています。平成23年にアナログ放送が...
香嵐渓を訪れる人は多いけれど、飯盛山(いいもりやま)北斜面のカタクリや待月橋周辺の紅葉を観ることで満足してしまい、奥の方まで行かない人もいるようです。もう少し上流へ進めば、茅葺きの「三州足助屋敷」や赤い吊り橋「香嵐橋」などがあり、山の中腹には「香積寺」もあります。 「香嵐橋」は長さ43m、幅1.8mの吊り橋です。如何にも山奥へ来たような気分に浸ることができます。このあたりまで来ると、紅葉やカタク...
前回の三河湖のマップで、巴川は足助の地点で鋭角に向きを変えることが分かった。北向きから南へ曲がるところが香嵐渓である。この地方最大の紅葉の名所である。川の美しさも含めて、京都の嵐山・渡月橋に匹敵するのではと思う。 国道153号・飯田街道は、かつて足助の市街地を通っていたが、現在は二つのトンネルをもつバイパスができたために、ずいぶんスムーズに通過できるようになった。しかし、春のカタクリと秋の紅葉の...
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