今日、9月30日をもって中部復建株式会社を退社します。約12年間、65歳から77歳まで勤めさせていただきました。造園工事の監督業務や自然林の樹木調査も行いましたが、何と言ってもこのブログの発信が一番大きな仕事でした。 愛知・岐阜・三重・静岡各地の街や村の橋や公園、山間部のダムや海岸の堤防など様々な土木施設を訪ね歩きました。車を運転して同行してくださった当社取締役・塚本俊弘氏は、協力者というより...
ぼう僧川下流域は、かつての氾濫原や低平地が広がっている。しかし昭和50年以降、周辺部のベッドタウンとして宅地開発が急速に進んできた。静岡県の太平洋沿岸は、東海沖地震あるいは南海トラフ大地震の際には高い津波が予測されており、大きな被害が出ることが恐れられている。昭和54年から(1979)この地域の津波対策が進められ、平成9年に「ぼう僧川水門」が建設された。水門の型式は「鋼製シェル構造スライドゲート(...
天竜川の東10kmほどのところに太田川が流れている。その河口近くに「ぼう僧川」という二級河川が合流している。磐田あたりの三角州の水を集める川で、延長は13kmほどである。流域の気温は年平均16~17度と温暖である。 太田川との合流地点から1kmほど上流に「はまぼう橋」という自転車専用の橋が架かっている。丸パイプによるアーチ橋であるが、吊り材のワイヤーがななめになっている「ニールセンローゼ橋」という型式...
静岡県の海岸沿いに4つのサイクリングロードがある。西から ①浜名湖周遊自転車道 ②浜松・御前崎自転車道 ③静岡・御前崎自転車道 ④静岡・清水自転車道である。合計の距離は約200kmと長い。今後、伊豆半島地区での整備も進めていく。 浜松からは、磐田・袋井・掛川を通って御前崎へ至る。天竜川の、河口から2番目に「掛塚橋」が架かっている。延長は約900m、トラス橋であるが一定の距離に「山」がある。構造上に意味...
浜名湖は、全国で10番目の面積をもつ。しかし形が複雑なので、外周の距離は3番目に長い。それは4つの枝湾をもつからである。細江湖・松見湖・庄内湖・猪鼻湖である。1498年の明応地震のときに、砂州が決壊して海と繋がったので、汽水湖となった。魚など生物が豊富に生息する。 猪鼻湖は北西に位置する。水深は深く、最深部では16mもある。湖面ではカキの養殖が、西岸ではミカンの栽培が盛んである。大きく突き出した...
NHK大河ドラマ「どうする家康」も佳境に入ってきました。私の家の近くに、桶狭間のときに義元が本陣を構えたと言われる史跡が2か所あるので訪ねてみました。ひとつは東郷町の祐福寺、もう一つは豊明市の沓掛城です。いずれも義元が討たれた前日に宿泊した所となっています。 祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の...
三方ヶ原の南端にはいくつかの谷筋があり、その一つに佐鳴湖が入り込んでいる。太古には海と繋がっていたが、2000年ほど前に切り離され自然湖となった。しかし今でも、満潮になると海水が流入して汽水状態になるという。 南北に約2km・東西に500mほど、周囲5.5km・面積約1.1平方キロの湖である。ひところは生活排水や事業排水が流れ込み、日本で最も汚染された湖であった。近年は改良が進み、第1位の汚名は...
「三方ヶ原」と聞くと、徳川家康を思い浮かべる。武田の大軍に蹴散らされて、家康も命からがら浜松城に逃げ帰ったという戦いである。武田軍は諏訪を回って秋葉街道を南下し、二俣城を落とした。家康は浜松城で籠城戦に臨もうとしたところ、武田軍は素通りして浜名湖の堀江城へと進軍した。 武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15...
都田川は・愛知県との県境にある鳶巣山(とびのすやま)に端を発し、浜松辺りを流れて浜名湖に注ぐ。全長32kmの中河川である。上流部は急峻、中下流部は幅が狭くかつ蛇行しているので、古くから洪水の被害をもたらす河川であった。 昭和45年から16年もの年月と127億円の巨費をかけて、洪水防止・農業用水・上水のための多目的ダムが建設された。「都田川ダム」である。高さ55m、長さ170mのコア型ロックフィル...
静岡県立森林公園は、浜名湖の北・天竜川の右岸・新東名高速道路沿いにある。浜北インターチェンジからが近い。この辺りはいくつかのゴルフコースがあるように、自然豊かな森林地帯である。公園内には天然のアカマツの美林がある。 植物は1000種類以上、野鳥も約80種類、数多くの昆虫も生息して、四季の変化を楽しませてくれる。散策・アスレチック・デイキャンプなどもできる。木工体験館には、「日曜大工」や「DIY」な...
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今日、9月30日をもって中部復建株式会社を退社します。約12年間、65歳から77歳まで勤めさせていただきました。造園工事の監督業務や自然林の樹木調査も行いましたが、何と言ってもこのブログの発信が一番大きな仕事でした。 愛知・岐阜・三重・静岡各地の街や村の橋や公園、山間部のダムや海岸の堤防など様々な土木施設を訪ね歩きました。車を運転して同行してくださった当社取締役・塚本俊弘氏は、協力者というより...
私ごとですが、この9月いっぱいで会社を退職します。12年近く勤めさせていただきました。その間、ブログを878回発信しました。どの記事も、全て現地に足を運んで調査しましたし、写真もごく一部を除いて全て自分で撮影したものです。 「土木施設」は、一歩街へ出れば当たり前に存在しますので、意識的に見たり感じたりするものではありません。しかし、道路でも河川でも公園でも、造るに当たっては技術者や職人たちが汗水...
今年のNHK朝ドラは、牧野富太郎の生涯を描いていますので面白く見ています。毎回いろいろな植物が紹介されますが、季節外れのものもありますので不思議に思っていました。新聞の紹介記事で、精密な模造品を作っていると知り納得しました。 植物学黎明期の東大植物学教室の状況も描かれていて、その面からも興味深い番組です。その中で、イチョウとソテツの精子発見の話題が出てきます。いずれも生物進化の過程で、シダから種子...
「木曽三川国営公園」のあるこの地区は、かつて木曽・長良・揖斐の大河川が合流し、水害の絶えない土地であった。「宝暦の治水」は、ドラマや演劇で観るような薩摩藩士の犠牲的な努力により、宝暦4~5年(1754~1755)に行われた。 明治時代の改修工事により、宝暦当時の堤防は大きく形を変えたが、薩摩藩士たちの植えた「千本の日向松」は今も残っている。中には200年を越える老松もあり、昭和15年に「油島千本...
木曽川下流域は、木曽・長良・揖斐の3河川が入り乱れて流れていました。物流は舟が主体であり、犬山・岐阜・大垣などは、3河川から伊勢湾を経て名古屋や伊勢と結ばれていました。しかし、明治期の「三川分流工事」によりそれぞれ独立した川になりました。 これにより洪水は大きく防げるようになりましたが、船便は一々河口を回らなければ隣の川へ行けなくなりました。そこで明治27年(1894)、立田村船頭平地内に閘門を...
東海道が木曽川を渡るのが「尾張大橋」である。長島を斜めに横断して、次に「伊勢大橋」を渡って伊勢の国に至る。昭和8年(1933)の開通。幅員7.5m、「下路ランガートラス鋼橋」という型式も伊勢大橋と同じである。13連で、全長879mである。 橋の近くに「東海道」と記した石柱が立っている。側面には「明治廿五年四月一日」と刻まれている。古くは、京と関東を結ぶ道は「鎌倉街道」と呼ばれていた。江戸時代に五...
伊勢湾岸道路の2kmほど上流に、名四国道が走っている。この道路が木曽三川を渡るのが「木曽川大橋」と「揖斐長良大橋」である。この両橋は、昭和38年(1963)に一般有料道路として供用開始された。当初は二車線であったが昭和41年に下り線が完成し四車線となった。 いずれも「単純平行弦下路ワーレントラス」という型式である。木曽川の方は12連で約860m、揖斐長良は14連1040mである。昭和47年に豊明...
伊勢湾岸自動車道路が木曽三川の最下流部を渡るところに、ユニークな2本の橋が架かっている。「トゥインクル木曽川橋」と「トゥインクル揖斐川橋」である。長良川はというと、少し上流で揖斐川と合流しているので2橋となっている。 2橋は同じ構造・デザイン、同じ幅員(33m)であるが、「木曽川」の方は5径間(柱は4本)1145m、「揖斐川」は6径間(柱は5本)1397mである。合計約2500mという長大な橋で...
今度は堀川です。最下流部、「宮の渡し」湊の近くに2本の橋があります。このあたりまで来ると川幅もずいぶん広くなるので、橋長も長くなります。水も見た目には綺麗になりますし、周辺も公園が多くてみどり豊かな景観になります。 堀川右岸(西側)には、「国際会議場」と、その南に「白鳥庭園」があります。ここはかつて貯木場(「白鳥貯木場」2013年3月6日参照)があったところで、埋め立てて造成しました。国際会議場...
山崎川は、日本さくらの会が指定する「日本さくら名所100選」に選ばれている。愛知県では、ほかに鶴舞公園・岡崎公園・五条川(岩倉~江南~大口)が選定されている。山崎川の桜は、護岸と歩道にも植えられているので、花のトンネルを散策することができる。 お花見は、沿道が住宅地であることから「宴会」などは禁じられている。他の名所と異なり、花を愛でながらの散歩を楽しむことになる。地下鉄新瑞駅から歩くと、瑞穂運...
先日(8月8日)、中日新聞夕刊「写記・名古屋城~~戦火の記憶~~」の欄に松の木の幹の写真が大きく掲載されていた。「戦時中に燃料にするため、松やにを採取した跡」との説明がある。名古屋城内に残る戦争の傷痕である。 市役所本庁舎北側のクロマツの街路樹にも大きな傷跡が残っている。この傷はさらに大きく、木肌の部分には「ウルシ掻き」と同じような斜めの切り傷も見ることができる。傷痕は車道側にあるので、歩道を歩...
10年ほど前、瀬戸の焼き物を訪ね歩きました。とある窯元の展示場で「御深井焼き」という表示があったので、「おふけやき」と呟いたところ、店の方がビックリされました。‟今まで誰も正確に読んだ人がいない!“と。名古屋城北西部「御深井丸」を「おふけまる」と呼ぶので知っていたのです。 「おふけやき」は、藩主が城内などで作る「御庭焼き」の一つです。窯が「御深井丸」あったのでしょう。何人かの陶工が担当したとのこと...
私事ですが、6月中旬から1か月間ハンガリーに行っていました。ブダペストから西へ1時間半ほど走った「ベスプレム」という町です。近くに、バラトン湖という琵琶湖ほどの湖と「ヘレンド」という磁器で有名な村があります。娘の家族と暮らすことと、日本庭園の整備が目的です。 日本庭園整備事業は、「欧州文化首都」の一環として企画されたものです。娘がこのプロジェクトの通訳をしていて、その関係で私にオファーしてきたも...
昨日の中日新聞の夕刊に、尾瀬の「歩荷(ぼっか)」の記事が載っていた。私も学生のときに、北アルプスで1度だけ経験したことがある。数10年を経て、初めて尾瀬に行ったときに出会ったこともあり、懐かしく思い出した。 山小屋への物資運搬は、ほとんどの山ではヘリコプターが主流だが、尾瀬では環境保護のため歩荷が主力だという。100kgもの荷物を背負って、10kmの山道を登る。左下の写真の段ボール箱を見ていただきたい...
年に数回は近鉄に乗ります。津や伊勢、時には奈良方面に行くのに近鉄を使います。白子駅に近づくころに右側の車窓から見ると、水田のただ中に大きなクスノキが見えます。手前の電柱などと比較するとかなりの太さのようです。一度降りて近くへ行ってみたいと、以前から思っていました。 昨日は伊勢に向かっていました。同じような気持ちで眺めていてビックリ! 枝が枯れているではありませんか。伊勢神宮の調査の帰りに、「箕田...
山崎川の下流域では、たびたび氾濫が起こっている。名鉄呼続駅あたりの海抜は約2mである。伊勢湾台風のような高潮や、今後予想される南海トラフ大地震による津波が発生すれば、大きな災害が起こることも懸念されている。 名鉄本線の橋梁が山崎川に架けられたのは大正6年(1917)のことである。その後、山崎川の堤防は氾濫対策として嵩上げされた。しかし、山崎川橋梁はそのままの高さであったので、線路から逸水する危険...
県道56号線は、名古屋市千種区と岡崎を結ぶ主要道路である。通称「平針街道」と呼ぶ。地下鉄原駅と平針駅の間で国道302号と交差する。この交差点にユニークな横断歩道橋がある。「平針歩道橋」という。その上を名古屋第二環状自動車道が走っている。 平針は家から近いので、買い物などによく行く。この歩道橋の下も何回かくぐっており、変わった橋だなと思っていた。その時には「円形」の橋と思っていたけれど、今回取材し...
「竹林」と言えば、京都・嵯峨野(上の写真)を思い浮かべる。周辺の寺院や庭園と相俟って人気が高く、多くの観光客が訪れる。それにも負けず劣らぬ竹林が名古屋にもある。牧野ヶ池緑地と猪高緑地である。しかし残念なことに認知度が低く、多くの人々を呼び寄せるまでには至っていない。 孟宗竹は大陸から伝わったが、13世紀に道元禅師が持ち帰ったという伝承もあるし、薩摩藩主の磯庭園では日本で初めて琉球から取り寄せたとも...
山崎川は、平和公園の猫ヶ洞池に端を発し、瑞穂運動場の真中を貫いて南に流れている。運動場の1kmほど北には「壇渓」と呼ぶ景勝地があった。山崎川は、御器所台地と八事丘陵の間を流れるが、東岸の八事の方は小高い山地になっていて、この一帯は緑豊かな土地柄であったのだろう。 運動場と壇渓の中ほどに「東山荘(とうざんそう)」がある。航空写真で見ると、先ほど述べた丘陵の緑が、ここだけに未だに残っているのである。...
笠寺から宮の渡しへ向かう旧東海道が精進川(しょうじがわ=現新堀川)を渡るところに「裁断橋」が架かっていた。江戸時代には、この川を「三途の川」に見立てて、橋のたもとに「姥堂」が建てられていた。今では川筋も変わり、姥堂もRCの建物に変わってしまっている。 ただ、建物の前庭に裁断橋の複製が残り、御影石の石柱に「裁断橋」「姥堂」の文字を見ることができる。昔の様子は、大口町の「堀尾跡公園」の陶板レリーフを見...
浜松市は平成の市町村合併により市域面積が広がり、全国では高山市に次いで第2位である。約1560平方km、名古屋市327平方kmの約5倍である。因みに愛知県で一番広いのは、やはり稲武や小原を合併した豊田市で、26位・約920平方kmである。 天竜川を遡った愛知・長野との県境地域は「北遠」と呼ぶ。遠州の北部という意味であろう。天竜・春野・龍山・佐久間・水窪の5地区を指す。その中で「佐久間地区」は、人...
天竜川は、佐久間ダムの下流で大きく逆もどりし、北に向かって流れている。そのV字の部分に、支流の相川が合流している。JR飯田線は下川合駅と中部天竜駅が右岸にあり、国道473号線は左岸を走っている。国道が天竜川を跨ぐのが「原田橋」である。 現在の原田橋は3代目で、令和2年開通の真新しい橋である。橋長284m、幅員は8mの2車線である。初代は大正4年(1914)に架設された木製補剛桁の吊り橋であった。長さ...
天竜川の支流「相川」は、浦川あたりで大きくU字型に蛇行している。山裾が半島のように相川に向かってせり出している。半島の西側に広い河川敷があり、その中に半月形の島がある。ここはキャンプ場になっていて、そこへ通ずる吊り橋が2本(1号・2号)架かっている。 吊橋は、いずれも人道橋で昭和45(1970)年完成。自転車は通行できるが、バイクは不可である。1号橋は長さ96m、幅員は1.9m、床は板張りである。2号...
最近はとんとご無沙汰ですが、飯田線はよく利用しました。妻の実家が温田駅近くにあり、里帰りや夏の避暑のために子供を連れて乗ったのです。その頃は急行が何本かあり、車内販売も廻ってきました。新城から先は山岳地帯なので、トンネルと橋梁の連続です。とにかく景色の良い路線です。 飯田線が開通したのは明治30年、全通したのは昭和12年のことです。起点の豊橋から終点の辰野まで約196km、その間に94の駅があり...
26 高 橋: 昭和36年(1961)・・・26の橋の最後。県道18号・大垣~一宮線に架かっている。 橋の中央に芭蕉の俳句が掲げられている。 今回は、水門川をたどって26の橋を訪ね歩いた。大垣にはもう一本の散歩道がある。松尾芭蕉の句碑のある道で、やはり駅近くの牛屋橋を起点に、終点も同じ高橋である。 高橋は、芭蕉の「奥の細道」むすびの...
24 貝 殻 橋: 昭和46年(1971)・・・橋のたもとに船町の道標「右京みち・左江戸道」。25 住 吉 橋: 昭和55年(1980)・・・赤い欄干。燈台と湊跡が近い。≪船町湊跡と住吉燈台≫・・・◆船町湊は、江戸から明治にかけて、桑名とを結ぶ運河「水門川」の川湊で、物資や人の往来の中心であった。◆住吉燈台は、天保11年(1840)に建てられた。高さ8mの寄棟造り、最上部の四方に油紙障子を嵌めこみ燈火を入れた。...
21 俵 橋: 昭和45年(1970)・・・近くに飯沼慾斎の邸宅跡がある。22 美登鯉橋: 昭和53年(1978)・・・「四季の広場」への入り口。直角に曲がり川幅が広い。23 虹 の 橋: 昭和61年(1986)・・・滝・四阿が眺められ、川面には鯉が泳ぐ。...
⑯ 丸の内橋: 昭和58年(1983)・・・右岸には、藩主戸田氏の菩提寺「圓通寺」がある。⑰ 興 文 橋: 昭和57年(1982)・・・左岸は、地方裁判所などのある官庁街。白い高欄。⑱ 清 水 橋: 昭和28年(1953)・・・レンガタイルの高欄。東西の幹線道路。⑲ 西外側橋: 昭和53年(1978)・・・左岸に、大垣市役所がある。⑳ 竹 橋: 昭和41年(1966)・・・水門川は、ここでS字にカーブする。...
⑫ 龍の口橋: 昭和40年(1965)・・・親柱に龍のレリーフがある。⑬ 武者溜橋: 昭和32年(1957)・・・親柱の上に城郭の彫刻が乗っている。⑭ 花 月 橋: 平成7年(1995) ・・・欄干に桜の模様がある。⑮ 八幡大橋: 昭和49年(1974)・・・橋上広場がある。北には八幡神社がある。...
⑦ 貴 船 橋: 昭和54年(1979)・・・大垣城東総門跡、貴船神社が近い。⑧ 小 原 橋: 昭和37年(1962)・・・中央に円形デッキ。橋下に遊歩道。⑨ 新 大 橋: 昭和30年(1955)・・・駅から南下する大通り。赤い欄干。中央に現代アート。⑩ 東外側橋: 平成元年(1989) ・・・親柱は常夜灯風モニュメント。⑪ 高 岡 橋: 昭和54年(1979)・・・下流に川下りの船着き場がある。...
① 新牛屋橋: 昭和53年(1978)・・・大垣駅近く。恵比寿大神の境内に山車倉がある。② 牛屋橋: 昭和44年(1969)・・・欄干に日陰棚がある。③ 平和橋: 昭和33年(1958)・・・親柱に外灯が付いている。④ 岐阜町橋: 昭和61年(1986)・・・レンガタイルの手すり。⑤ 最上橋: 昭和60年(1985)・・・円形のデッキに照明灯がある。⑥ 赤坂口橋: 建設年不明・・・擬木の手すり。道路幅員...
大垣城は天文4年(1535)に築かれ、関ヶ原の戦いでも大きな役割を果たした。城と城下町のあるこの地は、揖斐川の扇状地であり水の豊かなところである。市の中心を流れる水門川は、かつては大垣城の外堀を兼ねていた。河口部の桑名とを結ぶ、重要な水運の運河でもあった。(2014・2・7「大垣城」&2014・6・30「自噴井戸」参照) 時あたかも桜満開の良き日に、ブログの取材に訪れた。水門川には個性的な26の橋が架けられてお...
浜松御前崎自転車道線(県道376号)を東へ進むと、いよいよ御前崎に近づいてくる。一級河川菊川の河口に「潮騒橋」が架かっている。サイクリングの自転車・歩行者専用である。全長232m、幅員3m、平成7年(1995)年に完成した。 「4径間連続上路式PC吊床版橋」という構造形式で、世界でも類を見ない珍しい形だという。普通は上にあるアーチが、下向きに垂れるようになっている。「吊床版」というように、最下部の...
太田川の東5kmほどの所、袋井と掛川の市境に弁財天川が流れている。長さ約4kmの二級河川で、流域面積4.5㎢ほどの水田地帯を流れている、。遠州灘に注ぐ河口周辺は「弁財天海浜公園」になっている。松林のある丘陵は、海から吹きつける風により打ち寄せられた砂山である。 入母屋屋根のある展望台周辺には枯れたマツが目立つ。海からの塩分や砂から田や畑を守るために植えられた松林であるが、松くい虫の被害を受けたも...
ぼう僧川下流域は、かつての氾濫原や低平地が広がっている。しかし昭和50年以降、周辺部のベッドタウンとして宅地開発が急速に進んできた。静岡県の太平洋沿岸は、東海沖地震あるいは南海トラフ大地震の際には高い津波が予測されており、大きな被害が出ることが恐れられている。昭和54年から(1979)この地域の津波対策が進められ、平成9年に「ぼう僧川水門」が建設された。水門の型式は「鋼製シェル構造スライドゲート(...
天竜川の東10kmほどのところに太田川が流れている。その河口近くに「ぼう僧川」という二級河川が合流している。磐田あたりの三角州の水を集める川で、延長は13kmほどである。流域の気温は年平均16~17度と温暖である。 太田川との合流地点から1kmほど上流に「はまぼう橋」という自転車専用の橋が架かっている。丸パイプによるアーチ橋であるが、吊り材のワイヤーがななめになっている「ニールセンローゼ橋」という型式...
静岡県の海岸沿いに4つのサイクリングロードがある。西から ①浜名湖周遊自転車道 ②浜松・御前崎自転車道 ③静岡・御前崎自転車道 ④静岡・清水自転車道である。合計の距離は約200kmと長い。今後、伊豆半島地区での整備も進めていく。 浜松からは、磐田・袋井・掛川を通って御前崎へ至る。天竜川の、河口から2番目に「掛塚橋」が架かっている。延長は約900m、トラス橋であるが一定の距離に「山」がある。構造上に意味...
浜名湖は、全国で10番目の面積をもつ。しかし形が複雑なので、外周の距離は3番目に長い。それは4つの枝湾をもつからである。細江湖・松見湖・庄内湖・猪鼻湖である。1498年の明応地震のときに、砂州が決壊して海と繋がったので、汽水湖となった。魚など生物が豊富に生息する。 猪鼻湖は北西に位置する。水深は深く、最深部では16mもある。湖面ではカキの養殖が、西岸ではミカンの栽培が盛んである。大きく突き出した...
NHK大河ドラマ「どうする家康」も佳境に入ってきました。私の家の近くに、桶狭間のときに義元が本陣を構えたと言われる史跡が2か所あるので訪ねてみました。ひとつは東郷町の祐福寺、もう一つは豊明市の沓掛城です。いずれも義元が討たれた前日に宿泊した所となっています。 祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の...
三方ヶ原の南端にはいくつかの谷筋があり、その一つに佐鳴湖が入り込んでいる。太古には海と繋がっていたが、2000年ほど前に切り離され自然湖となった。しかし今でも、満潮になると海水が流入して汽水状態になるという。 南北に約2km・東西に500mほど、周囲5.5km・面積約1.1平方キロの湖である。ひところは生活排水や事業排水が流れ込み、日本で最も汚染された湖であった。近年は改良が進み、第1位の汚名は...