分は基本凡庸な作り手の優れたクリマよりも秀逸な作り手の下位のクリマの方が楽しめる。凡庸な演奏家の大曲よりも優れた弾き手の小品の方が深遠かつ心踊らされる楽しさを感じられるからだ。 でもまあこう言うワイ
基本的にブルゴーニュのワインサイトです。
一応日本のブルゴーニュファンの中では古い方に入ると思います。JayerやC. Noellat, DRC等お宝ワインを30年程前から収集すると共にブルゴーニュへも頻繁に出かけてvigneron回りをしていました。オスピスでも競売に参加していましたよ。
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分は基本凡庸な作り手の優れたクリマよりも秀逸な作り手の下位のクリマの方が楽しめる。凡庸な演奏家の大曲よりも優れた弾き手の小品の方が深遠かつ心踊らされる楽しさを感じられるからだ。 でもまあこう言うワイ
今まで何杯のグラスを重ねたことだろう。 一杯のグラスからワインが味われ咀嚼されそれが思い出に変わる。そして空になったグラスにまたワインが注がれその繰り返しだ。今のグラスを飲みながらその前にあったワイ
ブルゴーニュの懐深いのはradar screenに映らない優れた作り手が存在する事だ。この作り手も日本に入っておらずその存在を知る人は日本でも非常に少ない。Moreyを名乗るドメーヌは色々有ってそれぞれの複数の息子や
人もワインも永遠の命がない」という事を実感する時はやはり還暦を過ぎた頃だろう。 20代から40代は未熟さを若さの力で補い少し仕事も覚え、家庭を持ち順風満帆で自信を覚え、社会的にも中核になり責任も重くなり
前にRMシャンパーニュはシングルモルト、NMはブレンデッドウイスキーに喩えれると書いた。基本自分はRMしか飲まないが手持ちにはNMの上級キュベも幾多か有る。殆どセラーからの出番はないが。今日は久方ぶりに拠出。
いやはや30年余飲んできて何度か現地踏査しSancerreのfirst tierは両CotatとVatanで終わりだと確信していた。ダグノーのシェヴィニョルも飲んだけどあれはmicro oxidizationをかけて膨らましたところにあざとさを感
Champagneに何度か行き色々試した結果、結局のところChamagoneは(例外はあるにせよ)基本あちこちのしかも複数のセパージュを使い砂糖の交えた混ぜ物でそれが故にあまり感動もしないし何ならスティルワインを混ぜて
決して悪いワインではない。いや寧ろ良いくらいだ。少し樽のマキアージュがきついがきっちりと出た果実の中に綺麗に溶け込んでいる。その果実はコルシャルのような南方系ではなく良質のCdBの淡い白果実。樽から出た
ウイスキー道ではブレンデッドウイスキーとシングルモルトとが峻別されそれぞれの魅力が追求されている。ブレンデッドでは優れた原酒をブレンディングやバッティングという人為的な方法で複雑だがメローな味に仕立て
こう言うワインを飲むとブルゴーニュというのは種々のクリマが基本クラシックの種々の曲、作り手は演奏家なのだなとつくづく思う。もう少し追加すると村は作曲家、そして飲み手の我々は聴衆、ワインを飲むのは演奏会
長年ワインを飲んでいて一番嬉しいのはやはり自分と長年飲んできた後進のワイン愛好家から自分の良く知らなかった作り手を教えてもらった時だろう。別段教え子などいう烏滸がましい考えは持ってないのだが、自分のと
Côte d’Orの村で一番グランクリュの数が多い村は実はVosneでもMoreyでもなくこの村で、この結果は有る意味1930年代後半のブルゴーニュアペラシオン策定に当たっての一番の失敗であるように思う。 勿論グランクリ
色々と飲んできて、最近はあまり手放しで褒める事はないのだがこのワインは掛け値なしに素晴らしかった。タイトなMeursaultも勿論素晴らしいのだがこれは一才無駄な要素が無く鋭利な刃物のよう、それでいてフィニッ
ブルゴーニュでは珍しく長期の瓶熟を経てから売り出すドメーヌ。ブルゴーニュで自分の知る限りでは他はGounoux、Lejeuneがそうだ。尤もLejeuneは樽から試飲できたがこことGounouxは樽から飲ませない事で知られている
最近古参のワインファン達が超弩級のワインを処分し始めているが、その背景には結局のところ、ある程度飲めばどんな素晴らしいワインでも(一部の素晴らしいワインを除いては)想定内の美味しさを想定内であったと言う
英語でname dropping という言葉が有る。「重要な人と知り合いで有る事をひけらかし自分が重要で有る事を匂わす」事だ。勿論良い意味ではない。更にname dropping businessというとあまり中身がない商品を売りつける
ワインが単なる飲み物を超越する理由はその味わいや値段にも拠るがやはり最終的にはワインは熟成による進化を遂げる謂わば生き物であり、時にはその進化により人智を超えた高みに到達する可能性があると言うことだろ
今日は少しIntermezzo的なワイン。 名手(私は苦手だが)が作るちょっと遊び的な1本。銘に有る三角形はそれぞれのセパージュに対応した地域、ボルドー(セミヨン)、ローヌ(ヴィオニエ)、ブルゴーニュ(シャルド
Chablisで一流とされる作り手は何人も居るが結局の所Raveneauを除いてDauvissat、Piuze、Louis Michelなど全てがChablisの範疇を越えられないと思っていた。どれもが一口飲んでChablis独特の締まりの有る淡く透明感
最後の晩餐に何を食べるかというお決まりの質問に対して大抵の人は鮭のおにぎりのようなシンプルな物か、母の味のようなノスタルジックな物を選ぶ傾向があるが、いずれにせよ、豪勢な料理を選ぶ人はあまりいない。ま
分は基本凡庸な作り手の優れたクリマよりも秀逸な作り手の下位のクリマの方が楽しめる。凡庸な演奏家の大曲よりも優れた弾き手の小品の方が深遠かつ心踊らされる楽しさを感じられるからだ。 でもまあこう言うワイ
今まで何杯のグラスを重ねたことだろう。 一杯のグラスからワインが味われ咀嚼されそれが思い出に変わる。そして空になったグラスにまたワインが注がれその繰り返しだ。今のグラスを飲みながらその前にあったワイ
ブルゴーニュの懐深いのはradar screenに映らない優れた作り手が存在する事だ。この作り手も日本に入っておらずその存在を知る人は日本でも非常に少ない。Moreyを名乗るドメーヌは色々有ってそれぞれの複数の息子や
人もワインも永遠の命がない」という事を実感する時はやはり還暦を過ぎた頃だろう。 20代から40代は未熟さを若さの力で補い少し仕事も覚え、家庭を持ち順風満帆で自信を覚え、社会的にも中核になり責任も重くなり
前にRMシャンパーニュはシングルモルト、NMはブレンデッドウイスキーに喩えれると書いた。基本自分はRMしか飲まないが手持ちにはNMの上級キュベも幾多か有る。殆どセラーからの出番はないが。今日は久方ぶりに拠出。
いやはや30年余飲んできて何度か現地踏査しSancerreのfirst tierは両CotatとVatanで終わりだと確信していた。ダグノーのシェヴィニョルも飲んだけどあれはmicro oxidizationをかけて膨らましたところにあざとさを感
Champagneに何度か行き色々試した結果、結局のところChamagoneは(例外はあるにせよ)基本あちこちのしかも複数のセパージュを使い砂糖の交えた混ぜ物でそれが故にあまり感動もしないし何ならスティルワインを混ぜて
決して悪いワインではない。いや寧ろ良いくらいだ。少し樽のマキアージュがきついがきっちりと出た果実の中に綺麗に溶け込んでいる。その果実はコルシャルのような南方系ではなく良質のCdBの淡い白果実。樽から出た
ウイスキー道ではブレンデッドウイスキーとシングルモルトとが峻別されそれぞれの魅力が追求されている。ブレンデッドでは優れた原酒をブレンディングやバッティングという人為的な方法で複雑だがメローな味に仕立て
こう言うワインを飲むとブルゴーニュというのは種々のクリマが基本クラシックの種々の曲、作り手は演奏家なのだなとつくづく思う。もう少し追加すると村は作曲家、そして飲み手の我々は聴衆、ワインを飲むのは演奏会
長年ワインを飲んでいて一番嬉しいのはやはり自分と長年飲んできた後進のワイン愛好家から自分の良く知らなかった作り手を教えてもらった時だろう。別段教え子などいう烏滸がましい考えは持ってないのだが、自分のと