電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
14世紀後半以降の朝鮮半島では、倭寇の討伐で名を挙げた李成桂(りせいけい)が1392年に高麗(こうらい)を倒して、新たに「朝鮮」を建国しました。朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、足利義満がこれらに応じたので、日朝両国は国交を開きました。我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。こ...
貿易における我が国からの輸出品は刀剣や鎧(よろい)などの武具、銅や硫黄(いおう)などの鉱産物、扇や屏風(びょうぶ)などの工芸品が中心であり、輸入品は銅銭(どうせん)が圧倒的に多く、その他には生糸(きいと)や高級織物などが輸入されました。なお、銅銭は先述のとおり「明銭(みんせん)」として普及し、我が国の貨幣の流通に大きな影響をもたらしました。しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」...
14世紀の半ば頃までには元の勢力は衰え、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)によって明(みん)が建国されました。明は倭寇の鎮圧や密貿易の禁止のために海禁政策をとるとともに、チャイナにとって伝統的な中華思想に基き近隣諸国に対して朝貢外交を求めると、前回(第89回)述べたとおり、3代将軍の足利義満がこれに応じるかたちになりました。こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を両...
13世紀に起きた元寇(げんこう)の後、元(げん)と我が国との間に正式な外交関係は存在しませんでしたが、私的な商船の往来が続けられていました。正中(しょうちゅう)2(1325)年には建長寺(けんちょうじ)の再建費用を得るために北条(ほうじょう)氏によって建長寺船が、南朝の興国(こうこく)3年/北朝の康永(こうえい)元(1342)年には天龍寺(てんりゅうじ)の建立(こんりゅう)費用のために、足利尊氏によって天龍寺...
貨幣経済の発達は金融機関の活動をうながしました。酒屋などの富裕な商工業者が高利貸しである土倉(どそう)を兼ねるようになり、幕府は彼らを保護する代わりに土倉役(どそうやく、別名を倉役=くらやく)や酒屋役(さかややく)などの営業税を課しました。なお、本来はお酒を造っていた酒屋でしたが、売上げが伸びて多額の資本を持ったことで、次第に金貸しなどの様々な業種を扱うようになりました。また土倉の名は、金貸しが質...
商品経済の発達は必然的に貨幣(かへい)の流通をもたらしましたが、国内で貨幣が発行されなかったために、従来の宋銭(そうせん)とともに永楽通宝(えいらくつうほう)などの明銭(みんせん)が大量に輸入されました。また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な...
商品経済の発達によって、各地における取引が盛んとなりました。地方においても、それまでの月に三度開かれた三斎市(さんさいいち)から、応仁の乱後には月に六度の六斎市(ろくさいいち)が一般的になりました。また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。この他、京都や奈良・鎌倉などの大都...
農民による物資の需要がもたらした商品経済の発達は地方の産業の繁栄につながり、その結果として加賀や丹後(たんご、現在の京都府北部)の絹織物や美濃(みの、現在の岐阜県南部)の美濃紙(みのがみ)、尾張(おわり、現在の愛知県西部)や近江の陶器(とうき)、河内(かわち、現在の大阪府東部)の鍋(なべ)など各地の特色を生かした様々な特産品が製造されるようになりました。製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行わ...
室町時代の農業は、生産性を高める目的で集約化あるいは多角化が進められたのが大きな特徴です。灌漑(かんがい)や排水設備が整備されたことで、畿内ではそれまでの二毛作(にもうさく)に加えて米・麦・蕎麦(そば)の三毛作(さんもうさく)が行われるようになりました。また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようにな...
正長の土一揆をきっかけとして、近畿地方やその周辺各地において実力による強引な債務放棄や売却地の取戻しがたびたび発生し、中には正長2(1429)年の「播磨(はりま、現在の兵庫県南西部)の土一揆」のように、領主である守護の赤松(あかまつ)氏の軍に国外退去を迫るといった政治的要求を掲(かか)げるものもありました。足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳...
惣による強い団結心を持つようになった惣村の農民は、折からの下剋上の風潮とも相まって、不法を働く荘官(しょうかん)などの役人の免職や不作の場合の年貢の減免を求めて、一定の集団の盟約行為や連帯行動全般を意味する「一揆」を結びました。農民たちは正式な手続きを踏まずに領主のもとに押しかける強訴(ごうそ)や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込むという逃散(ちょうさん)を行ったり、さらには武力によって反抗...
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、畿内(きない)やその周辺地域では荘園領主や守護、あるいは盗賊に対する自衛のために地域的な村落(そんらく)が自然発生しましたが、やがてそれらは農民たちによる自治的あるいは自立的な組織となりました。このような村を「惣(そう)」あるいは「惣村(そうそん)」といいます。惣村では、結合の中心となった宮座(みやざ)と呼ばれる神社の氏子(うじこ)組織による村の神社の祭礼や農業に...
応仁の乱は約10年間続きましたが、守護大名が京都で戦っているうちに、先述のとおり大名の領国では守護代や国人たちが力を伸ばし、大名から領国の支配権を奪っていきました。また、国人たちは領主権を確保するために、地域的な集団として各地で「国人一揆(いっき)」を結成しましたが、その範囲は一部の地域から国内、さらには隣国へと広がるとともに、地域住民も広く組織に入れて周辺の秩序を守る「国一揆(くにいっき)」を結ぶ...
義視が西軍に属したことで、応仁の乱の戦いの構図は、当初の「足利義政―足利義視―細川勝元vs.日野富子―足利義尚―山名宗全」から「細川勝元―足利義政―日野富子―足利義尚vs.山名宗全―足利義視」という形式となり、敵と味方とが完全に「ねじれ現象」となってしまいました。これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが...
応仁の乱が起きた後、有力な守護大名が細川氏あるいは山名氏に所属したり、あるいは分裂して両軍それぞれについたりしたので、戦いの規模はますます大きくなりました。なお、両者の位置関係から細川氏側が東軍、山名氏側が西軍と呼ばれており、また京都の「西陣(にしじん)」という地名は、山名氏が京都の堀川(ほりかわ)より西に陣を置いたことが由来となっています。緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返...
一日も早く隠居がしたかった義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を養子として後継者に迎えましたが、その直後に日野富子との間に男子(後の足利義尚=あしかがよしひさ)が生まれてしまいました。義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません...
※今回より「第90回歴史講座」の内容の更新を開始します(7月19日までの予定)。足利義教(あしかがよしのり)の死後に幕府の権威が著しく低下した理由の一つに「将軍の後継者不足」がありました。義教は天台座主(てんだいざす)から還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して将軍になったため、暗殺された当時に二人いた男子がまだ幼かったのです。義教の後を継いで嘉吉(かきつ)2(1442)年に7代将軍となった...
※「昭和時代・戦前」の更新は今回が最後となります。明日(6月14日)からは「第90回歴史講座」の内容を更新します(7月19日までの予定)。さて、開戦のご聖断が下ったことによって、アメリカとイギリスに宣戦布告するための開戦の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書のこと)が発表されました。漢文体で書かれた詔勅の原案が東條内閣によって作成されましたが、その文面をご覧になった昭和天皇が「お言葉」を付け加えら...
ハル・ノートによって我が国は対米交渉への望みを完全に断たれたことになりますが、その内容の厳しさに関しては、後年に極東国際軍事裁判(=東京裁判)で裁判官を務めたパルが、アメリカの現代史家の言葉を引用して「モナコやルクセンブルクでさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」と言明しています。しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の...
幕末の開国に伴って欧米列強から不平等条約を押しつけられて以来、我が国はいつ他国の侵略を受けて植民地化されるかという亡国の危機と背中合わせになりながら、血のにじむような努力で急速な近代化を達成し、気が付けば大日本帝国は世界の一等国として列強と肩を並べるまで成長を遂げました。しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝が人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のア...
もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。先述のとおり、アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、第二次世界大戦に勝利したことによって我が国を中国...
野村・来栖両大使が持ち帰ったハル・ノートを確認した日本政府の首脳は、東郷外相が「自分は目もくらむばかりの失望にうたれた」と述べるなど、それぞれがその内容に仰天しました。それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒(つうちょう)」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開やイギリスを助ける意味などもあって日本との戦...
ハル・ノートは10か条から成り立っていましたが、その内容は日米交渉がそれまでに積み上げてきたものをすべて無視するばかりか、根底から覆すというまさに言語道断なものであり、特に以下の内容は我が国が絶対に認められないものでした。1.中国大陸や仏印(=フランス領インドシナ)からの全面撤兵2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認3.日独伊三国同盟の破棄もしこれらの条件を我が国が受けいれれば、満州を含む我...
日米交渉の窓口であった駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)は軍人出身であったので、日本政府はベテラン外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)をアメリカに派遣し、野村・来栖の両大使は昭和16(1941)年11月17日にフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しました。来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかしてやんわ...
さて、第三次近衛内閣の崩壊後に組閣の大命が下った東條英機でしたが、このことは彼自身にとってまさに青天の霹靂(へきれき)でした。昭和天皇の戦争回避のご意思を拝聴した東條は、それまでの開戦派的姿勢を改め、帝国国策遂行要領を白紙に戻して再検討することとしました。昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか...
こうして誕生した東條内閣でしたが、新内閣発足と前後して日本国内でとんでもない謀略事件が発覚しました。いわゆる「ゾルゲ事件」のことです。昭和16(1941)年秋、特別高等警察(=特高)はソ連のスパイ組織が日本国内で諜報(ちょうほう)並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実(おざきほつみ)らを逮捕しました。ゾルゲはドイツの新聞記者として昭和8(1933)年に来日し、ドイツ大使の信頼を得るなどして巧(た...
頼みの綱だった首脳会談が幻(まぼろし)に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた昭和16(1941)年10月12日、近衛首相は東條英機(とうじょうひでき)陸軍大臣らと話し合いましたが物別れに終わり、同月18日に第三次近衛内閣は総辞職しました。ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐(じぎゃ...
しかし、昭和に入った頃からの我が国においては、敵国と化したアメリカやイギリスあるいはオランダなどを離反あるいは分断させるような工作や謀略が、政府によって熱心に研究されたような形跡が今も見つかっていません。戦国時代や幕末あるいは明治期において数々の工作や謀略を成功させてきた我が国が、なぜこの時期になって先人の経験を生かすことができなかったのでしょうか。その理由として考えられることは、そうした先人の智...
人間というものは、一般的に戦争など目に見える大きな出来事に心を奪われがちですが、一つの戦闘行為の裏には数えきれないほどの下準備や謀略(ぼうりゃく)などが隠されているものです。それは我が国においても例外ではなく、動乱の戦国時代を最終的に制した者は、単なる戦(いくさ)上手だけではなく、ありとあらゆる謀略を使ったうえで200年以上の長きにわたる平和を築き上げた徳川家康(とくがわいえやす)でした。また、開国...
御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮(くりょ)していた近衛文麿首相は、事態打開のためにフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、大西洋憲章で対日戦争に関する協議を行っていたアメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。ところで、そもそも世界情勢というものは、今も昔もほんのわずかな...
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電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...