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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 朝鮮・琉球・蝦夷との交易 その1

    14世紀後半以降の朝鮮半島では、倭寇の討伐で名を挙げた李成桂(りせいけい)が1392年に高麗(こうらい)を倒して、新たに「朝鮮」を建国しました。朝鮮が我が国に倭寇の禁止と通交とを求めると、足利義満がこれらに応じたので、日朝両国は国交を開きました。我が国と朝鮮との日朝貿易は、幕府の他にも守護大名や有力国人(こくじん、地方豪族のこと)、あるいは商人までもが参加したために、貿易船の数が非常に多くなりました。こ...

  • 倭寇と日明貿易 その3

    貿易における我が国からの輸出品は刀剣や鎧(よろい)などの武具、銅や硫黄(いおう)などの鉱産物、扇や屏風(びょうぶ)などの工芸品が中心であり、輸入品は銅銭(どうせん)が圧倒的に多く、その他には生糸(きいと)や高級織物などが輸入されました。なお、銅銭は先述のとおり「明銭(みんせん)」として普及し、我が国の貨幣の流通に大きな影響をもたらしました。しかし、明の永楽帝(えいらくてい)の名が入った「永楽通宝」...

  • 倭寇と日明貿易 その2

    14世紀の半ば頃までには元の勢力は衰え、1368年に朱元璋(しゅげんしょう)によって明(みん)が建国されました。明は倭寇の鎮圧や密貿易の禁止のために海禁政策をとるとともに、チャイナにとって伝統的な中華思想に基き近隣諸国に対して朝貢外交を求めると、前回(第89回)述べたとおり、3代将軍の足利義満がこれに応じるかたちになりました。こうして始まった日明貿易ですが、明から交付された勘合(かんごう)という証明書を両...

  • 倭寇と日明貿易 その1

    13世紀に起きた元寇(げんこう)の後、元(げん)と我が国との間に正式な外交関係は存在しませんでしたが、私的な商船の往来が続けられていました。正中(しょうちゅう)2(1325)年には建長寺(けんちょうじ)の再建費用を得るために北条(ほうじょう)氏によって建長寺船が、南朝の興国(こうこく)3年/北朝の康永(こうえい)元(1342)年には天龍寺(てんりゅうじ)の建立(こんりゅう)費用のために、足利尊氏によって天龍寺...

  • 農業や商工業の発達 その5

    貨幣経済の発達は金融機関の活動をうながしました。酒屋などの富裕な商工業者が高利貸しである土倉(どそう)を兼ねるようになり、幕府は彼らを保護する代わりに土倉役(どそうやく、別名を倉役=くらやく)や酒屋役(さかややく)などの営業税を課しました。なお、本来はお酒を造っていた酒屋でしたが、売上げが伸びて多額の資本を持ったことで、次第に金貸しなどの様々な業種を扱うようになりました。また土倉の名は、金貸しが質...

  • 農業や商工業の発達 その4

    商品経済の発達は必然的に貨幣(かへい)の流通をもたらしましたが、国内で貨幣が発行されなかったために、従来の宋銭(そうせん)とともに永楽通宝(えいらくつうほう)などの明銭(みんせん)が大量に輸入されました。また、遠隔地の取引が拡大したことで、現金を直接送付する場合のリスクを避けるため、為替(かわせ)手形の一種である割符(さいふ)の利用も盛んとなりました。その一方で、需要の増大とともに粗悪(そあく)な...

  • 農業や商工業の発達 その3

    商品経済の発達によって、各地における取引が盛んとなりました。地方においても、それまでの月に三度開かれた三斎市(さんさいいち)から、応仁の乱後には月に六度の六斎市(ろくさいいち)が一般的になりました。また、連雀(れんじゃく)商人や振売(ふりうり)と呼ばれた行商人が各地で活動し、薪(まき)や炭などを頭に乗せて売り歩く大原女(おおはらめ)などの女性の活躍も目立ちました。この他、京都や奈良・鎌倉などの大都...

  • 農業や商工業の発達 その2

    農民による物資の需要がもたらした商品経済の発達は地方の産業の繁栄につながり、その結果として加賀や丹後(たんご、現在の京都府北部)の絹織物や美濃(みの、現在の岐阜県南部)の美濃紙(みのがみ)、尾張(おわり、現在の愛知県西部)や近江の陶器(とうき)、河内(かわち、現在の大阪府東部)の鍋(なべ)など各地の特色を生かした様々な特産品が製造されるようになりました。製塩(せいえん)は瀬戸内海の沿岸で盛んに行わ...

  • 農業や商工業の発達 その1

    室町時代の農業は、生産性を高める目的で集約化あるいは多角化が進められたのが大きな特徴です。灌漑(かんがい)や排水設備が整備されたことで、畿内ではそれまでの二毛作(にもうさく)に加えて米・麦・蕎麦(そば)の三毛作(さんもうさく)が行われるようになりました。また、水稲(すいとう)の改良が進んだことで、早稲(わせ)・中稲(なかて)・晩稲(おくて)など地方の風土に応じた品種が栽培(さいばい)されるようにな...

  • 惣村の形成と土一揆 その3

    正長の土一揆をきっかけとして、近畿地方やその周辺各地において実力による強引な債務放棄や売却地の取戻しがたびたび発生し、中には正長2(1429)年の「播磨(はりま、現在の兵庫県南西部)の土一揆」のように、領主である守護の赤松(あかまつ)氏の軍に国外退去を迫るといった政治的要求を掲(かか)げるものもありました。足利義教が暗殺された後の政治の混乱時に起きた嘉吉(かきつ)元(1441)年の「嘉吉の土一揆(嘉吉の徳...

  • 惣村の形成と土一揆 その2

    惣による強い団結心を持つようになった惣村の農民は、折からの下剋上の風潮とも相まって、不法を働く荘官(しょうかん)などの役人の免職や不作の場合の年貢の減免を求めて、一定の集団の盟約行為や連帯行動全般を意味する「一揆」を結びました。農民たちは正式な手続きを踏まずに領主のもとに押しかける強訴(ごうそ)や、全員が耕作を放棄して他領や山林に逃げ込むという逃散(ちょうさん)を行ったり、さらには武力によって反抗...

  • 惣村の形成と土一揆 その1

    鎌倉時代末期から室町時代にかけて、畿内(きない)やその周辺地域では荘園領主や守護、あるいは盗賊に対する自衛のために地域的な村落(そんらく)が自然発生しましたが、やがてそれらは農民たちによる自治的あるいは自立的な組織となりました。このような村を「惣(そう)」あるいは「惣村(そうそん)」といいます。惣村では、結合の中心となった宮座(みやざ)と呼ばれる神社の氏子(うじこ)組織による村の神社の祭礼や農業に...

  • 応仁の乱と下剋上 その5

    応仁の乱は約10年間続きましたが、守護大名が京都で戦っているうちに、先述のとおり大名の領国では守護代や国人たちが力を伸ばし、大名から領国の支配権を奪っていきました。また、国人たちは領主権を確保するために、地域的な集団として各地で「国人一揆(いっき)」を結成しましたが、その範囲は一部の地域から国内、さらには隣国へと広がるとともに、地域住民も広く組織に入れて周辺の秩序を守る「国一揆(くにいっき)」を結ぶ...

  • 応仁の乱と下剋上 その4

    義視が西軍に属したことで、応仁の乱の戦いの構図は、当初の「足利義政―足利義視―細川勝元vs.日野富子―足利義尚―山名宗全」から「細川勝元―足利義政―日野富子―足利義尚vs.山名宗全―足利義視」という形式となり、敵と味方とが完全に「ねじれ現象」となってしまいました。これでは何のために戦っているのか分かりません。戦いの当事者たちにもいつしか厭戦(えんせん、戦争をするのをいやに思うこと)の気分が盛り上がってきましたが...

  • 応仁の乱と下剋上 その3

    応仁の乱が起きた後、有力な守護大名が細川氏あるいは山名氏に所属したり、あるいは分裂して両軍それぞれについたりしたので、戦いの規模はますます大きくなりました。なお、両者の位置関係から細川氏側が東軍、山名氏側が西軍と呼ばれており、また京都の「西陣(にしじん)」という地名は、山名氏が京都の堀川(ほりかわ)より西に陣を置いたことが由来となっています。緒戦の戦いは山名氏に優位に展開しましたが、細川氏が巻き返...

  • 応仁の乱と下剋上 その2

    一日も早く隠居がしたかった義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を養子として後継者に迎えましたが、その直後に日野富子との間に男子(後の足利義尚=あしかがよしひさ)が生まれてしまいました。義視からすれば、一度約束された将軍後継の地位を反故(ほご)にされてはたまったものではありませんし、義尚(よしひさ)の母の富子からすれば、自分がお腹を痛めて産んだ我が子が将軍後継になれないことほど愚かな話はありません...

  • 応仁の乱と下剋上 その1

    ※今回より「第90回歴史講座」の内容の更新を開始します(7月19日までの予定)。足利義教(あしかがよしのり)の死後に幕府の権威が著しく低下した理由の一つに「将軍の後継者不足」がありました。義教は天台座主(てんだいざす)から還俗(げんぞく、一度出家した者がもとの俗人に戻ること)して将軍になったため、暗殺された当時に二人いた男子がまだ幼かったのです。義教の後を継いで嘉吉(かきつ)2(1442)年に7代将軍となった...

  • ついに開戦へ その8

    ※「昭和時代・戦前」の更新は今回が最後となります。明日(6月14日)からは「第90回歴史講座」の内容を更新します(7月19日までの予定)。さて、開戦のご聖断が下ったことによって、アメリカとイギリスに宣戦布告するための開戦の詔勅(しょうちょく、天皇の意思を表示する文書のこと)が発表されました。漢文体で書かれた詔勅の原案が東條内閣によって作成されましたが、その文面をご覧になった昭和天皇が「お言葉」を付け加えら...

  • ついに開戦へ その7

    ハル・ノートによって我が国は対米交渉への望みを完全に断たれたことになりますが、その内容の厳しさに関しては、後年に極東国際軍事裁判(=東京裁判)で裁判官を務めたパルが、アメリカの現代史家の言葉を引用して「モナコやルクセンブルクでさえもアメリカに対し矛(ほこ)をとって立ち上がったであろう」と言明しています。しかも、先述したケロッグ国務長官の「経済封鎖は戦争行為そのものである」という言葉を借りれば、先の...

  • ついに開戦へ その6

    幕末の開国に伴って欧米列強から不平等条約を押しつけられて以来、我が国はいつ他国の侵略を受けて植民地化されるかという亡国の危機と背中合わせになりながら、血のにじむような努力で急速な近代化を達成し、気が付けば大日本帝国は世界の一等国として列強と肩を並べるまで成長を遂げました。しかし、いわゆるハリマン問題などを原因としてアメリカとの間に出来た溝が人種差別に基づく日本人敵視政策を生みだし、また昭和初期のア...

  • ついに開戦へ その5

    もしハリー=ホワイトが本当にソ連のスパイであったとすれば、彼がフランクリン=ルーズベルト大統領に取り入ったことで日米間に埋めようもない深い溝を構築し、日米開戦を誘発したことになりますが、果たしてソ連にそのようなメリットが存在したでしょうか。先述のとおり、アメリカはかねてから東アジアにおける権益を狙っており、そのための障害となっていた日本を敵視し続け、第二次世界大戦に勝利したことによって我が国を中国...

  • ついに開戦へ その4

    野村・来栖両大使が持ち帰ったハル・ノートを確認した日本政府の首脳は、東郷外相が「自分は目もくらむばかりの失望にうたれた」と述べるなど、それぞれがその内容に仰天しました。それにしても、なぜアメリカはこうした「最後通牒(つうちょう)」ともいえるハル・ノートを我が国に突き付けたのでしょうか。アメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領は、自国の疲弊した経済の打開やイギリスを助ける意味などもあって日本との戦...

  • ついに開戦へ その3

    ハル・ノートは10か条から成り立っていましたが、その内容は日米交渉がそれまでに積み上げてきたものをすべて無視するばかりか、根底から覆すというまさに言語道断なものであり、特に以下の内容は我が国が絶対に認められないものでした。1.中国大陸や仏印(=フランス領インドシナ)からの全面撤兵2.蒋介石の重慶国民政府以外の中国における政府の否認3.日独伊三国同盟の破棄もしこれらの条件を我が国が受けいれれば、満州を含む我...

  • ついに開戦へ その2

    日米交渉の窓口であった駐米大使の野村吉三郎(のむらきちさぶろう)は軍人出身であったので、日本政府はベテラン外交官の来栖三郎(くるすさぶろう)をアメリカに派遣し、野村・来栖の両大使は昭和16(1941)年11月17日にフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しました。来栖大使はルーズベルト大統領に我が国の苦しい立場を素直に表明して、交渉に応じるよう懸命に説得しましたが、大統領は言葉を適当にはぐらかしてやんわ...

  • ついに開戦へ その1

    さて、第三次近衛内閣の崩壊後に組閣の大命が下った東條英機でしたが、このことは彼自身にとってまさに青天の霹靂(へきれき)でした。昭和天皇の戦争回避のご意思を拝聴した東條は、それまでの開戦派的姿勢を改め、帝国国策遂行要領を白紙に戻して再検討することとしました。昭和天皇に絶対の忠誠を誓っていた東條首相ならではの方針の転換でしたが、さらに東條は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳(とうごうしげのり)を選んだほか...

  • 行きづまる日米交渉 その9

    こうして誕生した東條内閣でしたが、新内閣発足と前後して日本国内でとんでもない謀略事件が発覚しました。いわゆる「ゾルゲ事件」のことです。昭和16(1941)年秋、特別高等警察(=特高)はソ連のスパイ組織が日本国内で諜報(ちょうほう)並びに謀略活動を行っていたとして、ゾルゲや尾崎秀実(おざきほつみ)らを逮捕しました。ゾルゲはドイツの新聞記者として昭和8(1933)年に来日し、ドイツ大使の信頼を得るなどして巧(た...

  • 行きづまる日米交渉 その8

    頼みの綱だった首脳会談が幻(まぼろし)に終わり、対米交渉の外交期限も近づいた昭和16(1941)年10月12日、近衛首相は東條英機(とうじょうひでき)陸軍大臣らと話し合いましたが物別れに終わり、同月18日に第三次近衛内閣は総辞職しました。ところで、これまでに述べた歴史の流れを振り返れば「アメリカが我が国を大東亜戦争に追い込んだ」という見方も成立しそうですが、これは「日本が一方的に侵略した」という「自虐(じぎゃ...

  • 行きづまる日米交渉 その7

    しかし、昭和に入った頃からの我が国においては、敵国と化したアメリカやイギリスあるいはオランダなどを離反あるいは分断させるような工作や謀略が、政府によって熱心に研究されたような形跡が今も見つかっていません。戦国時代や幕末あるいは明治期において数々の工作や謀略を成功させてきた我が国が、なぜこの時期になって先人の経験を生かすことができなかったのでしょうか。その理由として考えられることは、そうした先人の智...

  • 行きづまる日米交渉 その6

    人間というものは、一般的に戦争など目に見える大きな出来事に心を奪われがちですが、一つの戦闘行為の裏には数えきれないほどの下準備や謀略(ぼうりゃく)などが隠されているものです。それは我が国においても例外ではなく、動乱の戦国時代を最終的に制した者は、単なる戦(いくさ)上手だけではなく、ありとあらゆる謀略を使ったうえで200年以上の長きにわたる平和を築き上げた徳川家康(とくがわいえやす)でした。また、開国...

  • 行きづまる日米交渉 その5

    御前会議の終了後、対米関係の悪化に苦慮(くりょ)していた近衛文麿首相は、事態打開のためにフランクリン=ルーズベルト大統領と直接会談しようとしました。駐日大使のグルーは首脳会談の早期実現を本国に強く訴えましたが、大西洋憲章で対日戦争に関する協議を行っていたアメリカはこれに応じず、昭和16(1941)年10月2日に会談の拒否を我が国に通告しました。ところで、そもそも世界情勢というものは、今も昔もほんのわずかな...

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