大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
財閥が行ったリスクヘッジ(=相場変動などによる損失の危険を回避すること)はもちろん合法的な経済活動であり、現代でも当然のように行われていますが、当時は「世の中が不況で苦しんでいるのに、財閥だけが為替相場で儲(もう)けているのは許せない」という主張がまかり通るようになってしまい、このような社会的な背景が、当時の我が国を震撼(しんかん、人をふるえあがらせること)させた「血の粛清(しゅくせい)」を生んで...
大正13(1924)年にいわゆる護憲三派が与党となって成立した加藤高明(かとうたかあき)内閣以来、我が国では衆議院で多数を占める政党のトップが内閣を組織するという「憲政の常道」が続きましたが、その陰では衆議院での第一党をめざした政党同士の抗争が果てしなく繰り広げられており、国民不在の政治ぶりが多くの非難を浴びていました。また、大正14(1925)年に成立した普通選挙法によって選挙費用が増大し、政党が財閥(ざい...
しかし、現実には後手に回った政府が諸外国に対して軍部の独走という異常事態を上手に説明できず、列強が「日本は二重政府の国か」と我が国に対する不信感を強める結果となり、それが満州国の不承認、さらには我が国の国際連盟からの脱退にまでつながってしまったのです。その後の満州国ですが、昭和20(1945)年に我が国が終戦を迎えるまでの十数年間で飛躍的な発展を遂(と)げました。しかし、我が国の敗戦とともに満州国の歴史...
このため、本来であれば軍令違反で厳罰の対象であった満州事変が起きた際も、軍の首脳部は当事者に対して何も言えず、また政府も軍部に遠慮して強く出られませんでした。そんな政府や軍首脳の対応を見た一部の青年将校の中から「大義のためなら何をしても許される」という考えが生まれていくのは、むしろ自然な流れでもありました。この後、我が国は軍部を中心とした様々な事件が発生するとともに、彼らの行動を誰も止められなくな...
【ハイブリッド方式】第86回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和3年9月)
黒田裕樹の歴史講座は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合が...
その後、我が国は昭和9(1934)年12月にワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、翌昭和10(1935)年12月には第二次ロンドン海軍軍縮会議が開かれたものの意見が合わず、我が国は翌昭和11(1936)年1月に脱退しました。ワシントン海軍軍縮条約並びにロンドン海軍軍縮条約はいずれも昭和11(1936)年12月に失効し、以後は無制限の建艦競争が各国で繰り広げられるようになるのです。ところで、満州の日本人居留民保護を目的として始ま...
それなのに、欧米列強は自分たちが好き勝手に植民地から収奪しておきながら、我が国による正当かつ人道的な統治行為を一切認めようともしない。これまで我が国は世界の一流国をめざして欧米列強と妥協(だきょう)に妥協を重ねてきたが、これ以上の欧米による身勝手に、もはや我が国が付き合う必要はないのではないか。そんな我が国の思いが、国際的に重大な決断をすることにつながったのです。昭和8(1933)年2月、国際連盟総会に...
しかし、国民政府が柳条湖(りゅうじょうこ)事件を日本の侵略として国際連盟へ提訴したため、その後に連盟理事会が満州へ調査団を派遣することになり、昭和7(1932)年にイギリスのリットンを団長とするいわゆる「リットン調査団」が、約5か月にわたって日本や満州・中華民国など各地を訪問した後、同年10月にリットン報告書を連盟理事会に提出しました。リットン報告書では我が国の満州の権益は認められたものの、日本軍による軍...
また、満州国の統治者として満州族の本来の皇帝が就任するというアイディアは、民族自決(=各民族が自らの意志によって、その帰属や政治組織、あるいは政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利のこと)という意味でも理に適(かな)っており、当時の国際常識からすれば非常に穏健(おんけん)な方法でした。何しろ他の列強は、1915(大正4)年にアメリカがハイチを侵攻した際に約20年間も占領し続け...
ところで、一般的な歴史教科書では「満州国は『日本の傀儡(かいらい)国家』に過ぎず、事実上の植民地であった」という評価をされていることが多いですが、これは本当のことでしょうか。もし満州国が我が国の傀儡国家として植民地のような厳しい対応をしていれば、少なくとも執政(後に皇帝)となった溥儀を強引にその座に就かせたはずなのですが、実際には溥儀は自ら望んで執政や皇帝の地位に就きました。なぜなら、清朝はもとも...
張学良(ちょうがくりょう)による圧政に反発を強めていた満州(現在の中国東北部)の各省は、満州事変の勃発(ぼっぱつ)後に相次いで張学良軍からの独立を宣言しましたが、その大半はまだ関東軍が進出していない地域でした。これは、満州事変がそのきっかけではありながらも、関東軍による満州独立の強制が行われなかったという事実を明らかにしています。満州全土における独立の機運は、やがて昭和7(1932)年3月に日・朝・満・...
関東軍の行為に対しては賛否両論あるとは思いますが、少なくとも彼らに「チャイナへの侵略」の意思がなかったことは明らかであり、むしろ大陸の混乱を鎮(しず)めることで、現地の人々にも喜ばれることを確信して起こした行動だったことは疑いがありません。ということは、満州事変が十五年戦争の始まりであるという解釈が当てはまらないのは言うまでもないことなのです。そもそも、現地の居留民に危害が及んだ場合に、本国政府が...
ところで、一般的な歴史教科書では「満州事変は中国に対する侵略戦争の第一歩であるとともに、1945(昭和20)年の終戦までのいわゆる『十五年戦争』の始まりとなった」と断じているところが多いようですが、これらは本当のことでしょうか。まずはっきり言えることは「満州事変は侵略戦争ではない」ということです。確かに柳条湖事件が関東軍の自作自演という事実は動きませんが、ではなぜ関東軍はわざわざそんなことをしてまで満州...
ところが、かねてより自分たちに乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を続けてきた張学良軍に対する満州の住民の不満は強く、住民の支持を得られなかった張学良軍が各地で敗北を重ねたことで、戦いは関東軍の優位に展開しました。一方、当時の第二次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣や参謀本部は、自分たちに対して何の連絡もせずに勝手に兵を動かした関東軍の行動を牽制(けんせい)して「不拡大方針」を発表したものの、関東軍はこ...
満州における排日運動が強まるに従って、日本人と中国人との間の衝突が増加し続けたほか、ソ連の軍事的脅威も本格化しました。関東州や満鉄の警備を任務としていた我が国の関東軍は、日本政府を通じてこれらの事態を打開しようとしましたが、当時は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)外務大臣による協調外交が復活しており、武力に頼らずに話し合いによる解決をめざそうとしていました。しかし、そのような弱腰な姿勢は相手を増長...
満州における安全保障上の危機はソ連だけではありませんでした。当時の中華民国は軍閥(ぐんばつ)が割拠(かっきょ)して内戦を繰り返す無政府状態で頼りにならず、その一方で中国共産党を中心とした排日運動が大陸各地で激化していました。さらには、東アジアの権益を狙って対日批判を続けるアメリカの存在もあったことから、当時の我が国は極めて難しい外交判断を迫られていました。そんな折の1928(昭和3)年6月、蒋介石(しょ...
明治33(1900)年の北清(ほくしん)事変をきっかけとして満州(現在の中国東北部)を事実上占領したロシアは、勢いに乗って朝鮮半島をも侵略しようとしました。これに対し、朝鮮半島をロシアに奪われては自国の安全保障が風前の灯(ともしび)となることを理解していた我が国は自衛のためにロシアと戦い、最終的に勝利しました。いわゆる「日露戦争」のことです。戦争後に結ばれたポーツマス条約によって、我が国はロシアが持って...
はじめは軍部が持ち出した統帥権干犯問題は、現実に浜口首相が先述の答弁で述べているように、議会の場において否定することは決して不可能ではありませんでした。しかし、当時の野党であった立憲政友会が「政争の具」として軍部と一緒になって浜口内閣を攻撃したことが、憲政を擁護(ようご)する立場であるはずの政党政治に致命的な打撃を与えてしまったのです。なぜなら、政党政治を行う立場である政党人自らが「軍部は政府の言...
元老は憲法のどこにも規定がなかったのですが、そもそもは明治維新に功績のあった人々の話し合いの場であり、伊藤博文や山県有朋(やまがたありとも)、井上馨(いのうえかおる)、松方正義(まつかたまさよし)、黒田清隆(くろだきよたか)など錚々(そうそう)たるメンバーが揃(そろ)っていました。そもそも、明治維新や明治新政府は元老たちが明治天皇の下で起こしたのですから、元老の意見は天皇の意見と同じだけの重みをも...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の東京歴史塾のお知らせ(令和3年9月)
黒田裕樹の東京歴史塾は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
軍部や立憲政友会の攻撃に対して、浜口雄幸首相は「大日本帝国憲法の第11条や第12条には、確かに天皇の統帥権の独立が定められているが、同時に第13条において、天皇の外交大権が規定されている。しかし、実際には立憲制度の下の責任内閣を通じて外交を行っており、統帥権についても同じではないのか」と反論しました。ところが、軍部が火をつけ、政友会が油を注いだ統帥権干犯問題はもはや止めることができず、ロンドン海軍軍縮条...
ロンドン海軍軍縮条約の締結後、軍部を中心に「海軍軍令部長の同意を得ないで政府が勝手に軍縮条約を調印した行為は、憲法に定められた統帥権(とうすいけん、軍隊を指揮する権利のこと)の干犯(かんぱん、干渉して他者の権利を侵すこと)である」として、政府を攻撃する声が高まりました。なるほど、確かに大日本帝国憲法(=明治憲法)第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、条文を素直に読めば「統帥権は天皇のみが有する...
昭和5(1930)年、イギリスの仲介により補助艦の制限を主な目的として、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5か国で「ロンドン軍縮会議」が行われ、我が国は若槻礼次郎(わかつきれいじろう)元首相を全権大使として派遣しました。会議では各国の意見が対立して難航しましたが、主力艦の建造禁止を昭和6(1931)年末から昭和11(1936)年末までさらに5年延長することや、補助艦の総トン数をアメリカ10・イギリス10.29...
大正11(1922)年に結ばれたワシントン海軍軍縮条約によって、主力艦の保有総トン数をイギリスやアメリカよりも低く制限された我が国でしたが、巡洋艦・駆逐艦(くちくかん)・潜水艦といった補助艦は制限されていなかったため、各国による補助艦を中心とする軍拡競争が続いていました。このため、補助艦についても主力艦同様に制限をかけるため、昭和2(1927)年にスイスのジュネーヴにおいてアメリカ・イギリス・日本の3か国間で...
しかし、当時の我が国が大不況であったがゆえに、この国家社会主義思想は当時の軍人、特に青年将校を中心に大きな広がりを見せるようになりました。当時の青年将校は、いわば「エリート中のエリート」でした。難関の旧制中学に合格した中でも特別の優等生だっただけでなく、明晰(めいせき)な頭脳と頑強な肉体を持っていた彼らの多くが若くして少尉(しょうい)や中尉(ちゅうい)となり、多くの兵隊を預かっていました。しかし、...
さて、1929(昭和4)年にアメリカで始まった世界恐慌(きょうこう)がその後に数年間も続いたことで、当時の世界では先述のとおり「資本主義による自由経済体制には限界があるのではないか」と考えられるようになりました。一方、共産主義国家のソ連でいわゆる「五か年計画」が成功しているかのように見えたことで、世界の経済政策は、先述したアメリカのフランクリン=ルーズベルト大統領によるニューディール政策や、ドイツのヒ...
※今回より「昭和時代・戦前」の更新を再開します(10月6日までの予定)。昭和3(1928)年、先の大正14(1925)年に成立した普通選挙法に基づく最初の衆議院総選挙が行われ、無産政党勢力が8名の当選者を出しました。選挙という民主的な手段によって我が国で初の無産政党に所属する代議士が誕生したわけですが、時を同じくして、それまで非合法活動を続けてきた日本共産党が公然と活動を開始しました。当時はソ連(現在のロシア)の...
※「第85回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(9月6日)からは「昭和時代・前編」の更新を再開します(10月6日までの予定)。生まれつき手先が器用で幼い頃から次々とからくり人形を作っていた少年が、やがて「からくり儀右衛門」と評判を呼ぶようになり、成人した後も精力的に活動を続けて、ついには我が国の歴史を大きく変える発明家となったのみならず、彼が晩年に起こした事業は現在も続く我が国屈指の複合電...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年9月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
銀座において、久重は電信機など様々なものを製作しました。明治11(1878)年には西洋で発明されたばかりの電話機を製造し、同じ年には正午の時報を全国に伝える「報時器(ほうじき)」を発明しています。最晩年まで様々な発明や改良を行い続けて、我が国の歴史に大きな足跡を残した田中久重でしたが、明治14(1881)年1月11日に83歳の天寿を全うしてこの世を去りました。久重の死後に養子が二代目田中久重を名乗り、翌明治15(188...
元治元(1864)年、久重は久留米藩からの強い要請を受けて、佐賀から久しぶりに故郷への久留米へと移住しましたが、その後に長崎に残した養子とその子を殺されるという悲劇もありました。突然襲った悲しみを振り払うかのように、久重は久留米藩で蒸気船の軍艦の購入に立ち会ったり、銃砲の製造に携(たずさ)わったりするなど精力的に活動を続けました。江戸幕府が滅びて明治維新を迎える頃にも、久重は我が国初となる製氷機や自転...
戊辰戦争での大きな戦いのひとつに、明治元(1868)年旧暦5月に起きた上野の彰義隊(しょうぎたい)による上野戦争がありますが、肥前藩の用意したアームストロング砲によって、1000人以上いたと伝えられる彰義隊は一日で壊滅しました。アームストロング砲はその後も大いに活用され、同年の会津(あいづ)戦争では会津藩の鶴ヶ城(つるがじょう)を落城させました。アームストロング砲によって激しく損傷した当時の鶴ヶ城の写真が...
アームストロング砲はイギリス人のアームストロングによって1855年に発明された大砲であり、砲身の内部に螺旋状(らせんじょう)の溝である施条(しじょう)を新たに付けていました。施条を付けたことによって、飛び出す砲弾の飛距離を伸ばすとともに弾道をぶれなくさせ、さらに命中精度を高めるという優れた兵器となったのです。アームストロング砲の優秀さを伝え聞いた肥前藩は直ちに大砲を輸入しましたが、それだけで満足せず、...
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大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる「大正デモクラシー」の先駆けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識人層を...
第一次世界大戦の前後から、我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、...
第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...
さて、自由民権運動が広がりを見せるなか、西南戦争の最中の明治10(1877)年に立志社の片岡健吉らが政府の太政大臣である三条実美(さんじょうさねとみ)に対して「立志社建白」を提出しましたが却下されました。翌明治11(1878)年には各地の民権派が大阪に集まり、活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としまし...
ところで、漸次立憲政体樹立の詔の発布が議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めた一方で、漸進的(ぜんしんてき、「漸進」とはじっくり時間をかけること)な動きしか見せない政府に対する批判が激しくなりました。新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られたことに対して、政府は過激な政治的言論を取りしまるため、明治8(1875)年に「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」などを公布しました。また、西南戦争...
漸次立憲政体樹立の詔の発布と同時に、政府はそれまでの左院・右院(ういん)を廃して、新たに立法の諮問(しもん、有識者などの一定機関に意見を求めること)機関である「元老院(げんろういん)」や、現在の最高裁判所にあたる「大審院(だいしんいん)」、そして府知事や県令で行われる「地方官会議」を設置しました。これらのうち、元老院や地方官会議には立法府の、大審院には司法府の性格を持たせており、これらは政体書(せ...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...