大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
久重の「からくり儀右衛門」としての名声を聞きつけた肥前(ひぜん)藩(=佐賀藩)の藩主であった鍋島直正(なべしまなおまさ)は、家臣で蘭学者の佐野常民(さのつねたみ)を使者として久重を肥前藩に招きました。精煉方(せいれんかた)として着任した久重は藩主直正の期待に応え、安政2(1855)年には蒸気機関車や蒸気船の模型を完成させたほか、文久2(1862)年には蒸気船の原動力となる蒸気釜を製作しました。久重によるこれ...
時は流れ、京都に移住した久重は優れた職人のみに与えられる「近江大掾(おうみだいじょう)」の称号を得ましたが、彼の向学心は衰えることを知らず、50歳になる頃には天文学の勉強を始めました。新たな知識を自分のものとした久重は、日の出と日の入りの間をそれぞれ6等分するという、季節によって時間の長さが上下する我が国独特の不定時法(ふていじほう)に合わせた和時計(わどけい)である「須弥山儀(しゅみせんぎ)」を嘉...
天保5(1834)年、36歳となった久重は大坂の伏見(ふしみ、現在の大阪市中央区伏見町)に移住し、持ち運びに便利な携帯用の「懐中燭台(かいちゅうしょくだい、燭台とは蝋燭=ろうそくを立てる台のこと)」を発明しました。天保8(1837)年には大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きて、一家が焼け出されてしまうという不幸を経験しましたが、それにめげることなく、久重は同じ年に「無尽灯(むじんとう)」を発明しました...
久留米の五穀神社(ごこくじんじゃ)で行われていた祭礼は毎年多くの人出でにぎわっていましたが、儀右衛門は様々なからくり人形を製作して人々を喜ばせ、いつしか「からくり儀右衛門」と人々に呼ばれるようになりました。やがて成人した久重は「からくり興行師」として、大坂や京都あるいは江戸などを行脚(あんぎゃ)しては次々と新作のからくり人形を人々に紹介し、その名が全国に知られるようになったのです。久重が作ったから...
硯箱をきっかけに自分の才能に目覚めた儀右衛門は、その後も箱細工や隠し戸のついた箪笥(たんす)などを次々と作っては周囲の大人を驚かせましたが、その噂を聞きつけた一人の女性によって、歴史に残る綿織物を製作することになりました。その女性とは、同じ久留米に住んでした井上伝(いのうえでん)であり、彼女は久留米絣(くるめがすり)の創始者でしたが、絣に絵を入れることがどうしても出来ず、儀右衛門に依頼したのでした...
田中久重は、筑後国久留米(ちくごのくにくるめ、現在の福岡県久留米市)のべっこう細工師の田中弥右衛門(たなかやえもん)の長男として寛政11年旧暦9月18日(西暦1799年10月16日)に生まれました。幼名を「儀右衛門」といいます。べっこう細工師は、タイマイ(ウミガメの一種)の甲羅(こうら)を利用した工芸品や装飾品を作成するのを生業(なりわい)としており、非常に精緻(せいち、極めて詳しく細かいこと)な金属細工を必...
我が国は資源に恵まれない島国ではありますが、第二次世界大戦の敗北から驚異的なスピードで立ち直り、GDP(=国内総生産)で世界有数の大国にまで成長しました。敗戦からの復興を実現させた原動力は電機や自動車などの技術面が主流であり、我が国はかねてより「技術立国」とも呼ばれていますが、こうした科学技術の発展は名もない人々による「ものづくり」の精神によって支えられているということを皆さんはご存知でしょうか。我...
山田方谷は大胆な改革によって藩の財政を立て直しましたが、その基本となったのは彼が長年務め上げた教育者としての矜持(きょうじ、自分の能力を優れたものとして誇る気持ち)でした。士農工商の身分を超えて多くの優れた人材を育て上げた教育精神が、彼の経済政策を成功に導いたことは間違いありません。また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正...
時代が変わり明治維新を迎えると、岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)あるいは木戸孝允(きどたかよし)といった明治新政府の重鎮が、政府への出仕を求めて方谷に何度も使者を送りました。財政問題に悩んでいた新政府からすれば、財政改革を成し遂げた方谷の手腕が何としても欲しかったのでしょう。しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕え、同時に彼を支え続けてきた方谷...
備中松山藩による降伏の申し出を受けた征討軍は謝罪書の提出を要求し、官軍側が前もって作成した文書を備中松山藩に持ち帰らせましたが、その草案に書かれていた「大逆無道(たいぎゃくむどう)」の四文字を見た方谷は激怒しました。「親殺しや主君殺しを意味する『大逆無道』を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。方谷による命...
備中松山藩主の板倉勝静(かつきよ)は嘉永4(1851)年に江戸幕府の奏者番(そうじゃばん)になると、安政4(1857)年には寺社奉行を兼務しました。その後、大老(たいろう)の井伊直弼(いいなおすけ)の逆鱗(げきりん)に触れて一度は職を解かれたものの後に復帰し、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には老中にまで出世しました。勝静(かつきよ)がこれらのような出世街道を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であっ...
河井継之助にさかのぼること1年前の安政5(1858)年、長州藩士の久坂玄瑞(くさかげんずい)が備中松山藩を訪問し、西洋の銃陣法(じゅうじんほう)を訓練中の方谷に会いました。里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出しているところに、軍政の神髄が存在することを理解しました。後に久坂は元治(げ...
改革を成し遂げて国内有数の富国強兵藩となった備中松山藩には、その成果を参考にしようと他藩からの旅行者がひっきりなしに訪れましたが、ここでは代表的な2名を紹介しましょう。備中松山藩の改革成功の噂を耳にした越後長岡(えちごながおか)藩士の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって、安政6(1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助...
方谷が財政改革を始めた1850年代はアメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航し、我が国に開国を迫るなど国際的な動きもみられるようになりましたが、こうした社会情勢のなかでは軍制の改革も不可欠であると方谷は考えました。方谷は、自ら学んだ砲術をもとに大砲を鋳造して洋式兵術を導入したほか、嘉永5(1852)年には領内の庄屋の家の壮健な若者を選んで銃と剣を学ばせ、帯刀(たいとう)を許して「里正隊(りせいたい)」とい...
財政改革を成し遂げるには優れた施策を行うことが重要ですが、同時に藩のみならず我が国を支えるだけの優秀な人材の育成が不可欠であることが、長年藩校の学頭(=校長)を務めた方谷には分かっていました。そこで方谷は、藩校の有終館を拡張したり、領内に「学問所(がくもんじょ)」や「教諭所(きょうゆじょ)」を設けたりしたほか、郷学(ごうがく、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校のこと)や私塾あるいは...
次々と藩政改革の施策(しさく)を考案しては実行に移した方谷ではありましたが、そんな彼の改革を支えていたのは藩を挙げての倹約令でした。方谷は武士の俸禄を減らすとともに賄賂(わいろ)を禁止し、奢侈(しゃし、ぜいたくすること)を強く戒(いまし)めた一方で、自らの家の会計を他人に任せてその収支を明らかにしました。次に、盗賊の取り締まりを厳しくしたり、賭博(とばく)を禁止したりすることで領内の治安を向上させ...
ところで、当時の我が国では小判や豆板銀(まめいたぎん)、あるいは寛永通宝(かんえいつうほう)といった金・銀・銅貨が流通していましたが、これらの発行権は江戸幕府が独占していたため、各藩にはそれぞれ独自の藩札を発行することが認められていたものの、額面どおりの金貨にいつでも引き換えが可能な兌換性(だかんせい)が義務づけられていました。しかし、財政難に苦しんでした備中松山藩では兌換のための準備金にまで手を...
財政改革には産業の振興が欠かせませんが、備中松山藩の領内では昔から良質の砂鉄や銅が産出することに方谷は目を付け、これらの鉱山を藩が買い取って直営とすることで多くの農民を雇い、彼らの失業対策に一役買うことにつながりました。次に方谷は、農作業の負担を軽減するために良質な砂鉄を使った三本歯の「備中鍬(びっちゅうぐわ)」を新たに開発し、当時の我が国の人口の8割を占(し)めた農民に幅広い人気を集めたほか、建...
まず方谷は自ら大坂に出向き、集まった債権者の商人たちに対して、これまで粉飾決算を行ったことや、藩の実収が2万石に満たないことを、帳簿を持参したうえで明らかにしました。これらを正直に明かすことで商人たちの信義を一時的には裏切ることになりますが、藩の再建のためには致し方ないと考えたのです。同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認めら...
板倉勝静(かつきよ)は前藩主の勝職(かつつね)の養子であり、元々は江戸幕府の老中(ろうじゅう)として寛政(かんせい)の改革を行った松平定信(まつだいらさだのぶ)の孫という血筋でしたが、そんな名門を迎えた備中松山藩の財政は火の車であり、破綻寸前でした。藩の将来を憂慮した若き藩主の勝静(かつきよ)は、学問を究めた方谷にすべてを託し、農民出身でありながら「元締役」と「吟味役」の兼任という藩財政の最高責任...
山田方谷は、文化(ぶんか)2(1805)年に備中松山藩の農商であった山田家の長男として生まれました。山田家は清和源氏(せいわげんじ)の血を引いており、方谷の父は山田家の再興を願っていましたが、方谷は幼くして母や父を亡くすなどの苦労を重ねました。そんな方谷を助けたのが学問でした。5歳の頃から朱子学や詩文を学んだ方谷は、わずか9歳の折に「将来は何になりたいか」と問われた際に、治国平天下(ちこくへいてんか)、...
ところで皆さんは、岡山県高梁(たかはし)市に全国でも珍しい「人名由来の駅」があるのをご存知でしょうか。それはJR伯備(はくび)線の「方谷(ほうこく)駅」であり、地元出身で幕末期の陽明学者だった「山田方谷」にあやかって命名されたものです。令和元(2019)年10月に実施された消費税の税率アップや、新型コロナウィルス感染症の蔓延(まんえん)など様々な問題によって我が国の景気の悪化が懸念される昨今ですが、こんな...
※今回より「第85回歴史講座」の内容の更新を開始します(9月5日までの予定)。いわゆる「鎖国」の状態をズルズルと引き延ばしてきた江戸幕府の失政がペリーによる黒船来航という名の恫喝(どうかつ、人をおどして恐れさせること)外交をもたらし、その結果として我が国が無理やり開国させられたのみならず、一方的な不平等条約を結ばされるなど幕末期の大混乱を引き起こしたことは周知のとおりです。しかし、そんな中でも懸命に働...
※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(8月9日)からは「第85回歴史講座」の内容を更新します(9月5日までの予定)。世界恐慌や金解禁などによって始まった昭和恐慌は、農村部にも深刻な影響をもたらしました。昭和5(1930)年はコメが大豊作となったことで米価が暴落して豊作飢饉(ききん)となり、その翌年である昭和6(1931)年には逆に大凶作となりました。折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都...
【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年8月)
黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...
我が国が金解禁に踏み切って金本位制に復帰した前年の1929(昭和4)年10月に先述した世界恐慌が始まっていましたが、当時はまだ経済学が発展途上だったこともあって、我が国では通常の不況と大差ないと思われていました。だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生...
浜口雄幸内閣の蔵相となった井上準之助は、金解禁に備えて軍事予算の削減など徹底的な財政支出の引き締めと同時に金融の引き締めも行いました。財政支出や金融を引き締めれば、政府は金本位制に基づく正貨(=一国の貨幣制度の基準となる貨幣のこと)の確保が可能になる一方で、国内の通貨量が減ってモノの値段が下がるという、いわゆるデフレーションになりますが、我が国の製品が安くなれば輸出量が増え、結果として景気が回復す...
19世紀から20世紀にかけて、世界の列強諸国では「金本位制」を採用していました。金本位制とは金を通貨価値の基準とする制度であり、各国の金の保有量で通貨の発行高が決まると同時に、貿易での金のやり取りが景気を左右することになるため、一定の金を常に国家が保有することが重要となる制度でもありました。ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国が流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため...
ところで、1933(昭和8)年にアメリカ大統領となったフランクリン=ルーズベルトは、不況にあえぐアメリカ経済を立て直すために「ニューディール政策」を始めました。ニューディールとは「新規まき直し」のことであり、それまでの政府が限定的な市場への介入や経済政策しか行わなかった自由主義的経済から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと切り替えたものでした。経済の自助作用から政府主導での経済立て直しへと政策を...
ブロック経済体制は、他国との貿易によって国家の生計を立てていた我が日本にも深刻な影響を与えました。製品の輸出も資源の輸入もできなければ、国内産業が壊滅すると同時に国家の生命線である軍備も整えられなくなってしまうからです。当時の世界全体が「自国の経済安定のためには他国を顧(かえり)みる余裕はない」という流れだったこともあり、やがて日本国内から「アメリカやイギリスを見習って、我が国だけの自給自足圏(け...
高い経済力を持つアメリカや、植民地を含めた領土が世界の4分の1の規模を占めていた大英帝国ことイギリスがブロック経済体制に入ったという現実は、世界の貿易に重大な影響を与えましたが、アメリカやイギリス自身にとってはそれほど大きな問題にはなりませんでした。なぜなら、アメリカは広大な領土とそこに眠る資源を持っており、またイギリスも世界各地に植民地を持っていたことから、両国とも自給自足による国家の運営が可能だ...
大正末期から昭和初期にかけて、すなわち1920年代の世界では恐慌(きょうこう)が相次いで発生し、数多くの失業者が生まれましたが、この背景には発達途上にあった資本主義に対する理解不足がありました。当時の国家の多くが「資本主義による自由経済体制には限界があるのではないか」と思い込んだことで、世界経済は大きな変革を迎えるようになったのです。1929(昭和4)年10月、ニューヨークのウォール街において株価が大暴落し...
「ブログリーダー」を活用して、黒田裕樹さんをフォローしませんか?
大正デモクラシーの流れを受けて、婦人運動も次第に活発となりました。明治44(1911)年には平塚(ひらつか)らいてうが女流文学者の団体として「青鞜社(せいとうしゃ)」を結成しました。青鞜社が発行した「青鞜」発刊の辞である「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。青鞜社の活動は次第に文学運動の枠を超え、市民の生活に結びついた婦人解放運動へと発展していきました。大正9(1920)年には平塚や市川房枝(い...
「冬の時代」から立ち直りつつあった社会主義勢力の内部では、ロシア革命の影響もあって共産主義者が大杉栄らの無政府主義者を抑えて影響力を著(いちじる)しく強め、大正11(1922)年にはソビエトのコミンテルンの指導によって、堺利彦(さかいとしひこ)や山川均(やまかわひとし)らが「日本共産党」を秘密裏(ひみつり)に組織しました。しかし、当時の日本共産党は「コミンテルン日本支部」としての存在でしかなく、また結成...
東京帝国大学の吉野作造(よしのさくぞう)教授は、大正5(1916)年に中央公論誌上で「政治の目的は民衆の幸福にあるので、政策の決定は民衆の意向に従うべきである」とする「民本(みんぽん)主義」を提唱しました。民衆の政治参加や普通選挙制・政党内閣制の実現を説いた民本主義は、いわゆる「大正デモクラシー」の先駆けとなり、吉野が大正7(1918)年に「黎明会(れいめいかい)」を結成して自らの考えを広めると、知識人層を...
第一次世界大戦の前後から、我が国でも民主主義を求める動きが活発化したほか、ロシア革命などをきっかけとして共産主義(あるいは社会主義)の風潮が急速に高まるとともに、様々な社会運動が見られるようになりました。大戦景気による産業の大きな発展は我が国における労働者の大幅な増加をもたらしましたが、それは同時に、賃金引き上げなどを要求する労働運動や労働争議の多発をも招くことになりました。こうした流れを受けて、...
第一次世界大戦が終結してヨーロッパ諸国の産業が復興すると、アジア市場は再びヨーロッパの商品であふれるようになったことで、我が国は大正8(1919)年から再び輸入超過となり、特に重化学工業の輸入品の増加が国内の生産を圧迫しました。そして、大正9(1920)年には株価の暴落をきっかけとして「戦後恐慌」が起こり、銀行で取り付け騒ぎが続出したほか、綿糸や生糸の相場が半値以下に暴落したことで、紡績業や製糸業が事業を縮...
電力業では猪苗代(いなわしろ)水力発電所が完成して、猪苗代~東京間の長距離送電が成功したことで工業エネルギーの電化が進み、大戦中には工場用動力の馬力数で電力が蒸気力を上回ったほか、電灯の農村部への普及が進みました。また、電気機械など機械産業の国産化も進んで、重化学工業が工業生産全体の約30%を占めるようになりました。大戦景気は我が国の工業生産の構造をも変えてしまったのです。さらには輸出の拡大が繊維業...
第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、我が国は連合国への軍需品の供給に追われる一方で、ヨーロッパ列強が戦争によって後退したアジア市場には綿織物などを、好景気だったアメリカには生糸などを次々と輸出したことで、貿易は大幅な輸出超過となりました。大正元(1912)年には11億円近い債務国だった我が国が、大正9(1920)年には27億円以上の債権国となるなどその影響は凄まじく、日本国内は史上空前の「大戦景気」を迎...
南京事件の発生からわずか10日後の昭和2(1927)年4月3日、我が国の水兵と中国の民衆との衝突をきっかけとして、暴徒と化した中国の軍隊や民衆が漢口の日本領事館員や居留民に暴行危害を加えるという事件が起きました。これを「漢口事件」といいます。イギリス租界といい、南京といい、また漢口といい、国際的な条約によって列強が保有していた租界に対して暴徒が押しかけて危害を加えたり略奪(りゃくだつ)を働いたりする行為は...
大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
明治11(1878)年5月、参議兼内務卿(ないむきょう)であり、最高実力者であった大久保利通が暗殺され、強力なリーダーシップを持つ指導者を欠いた政府は、自由民権運動が高まりを見せるなかで分裂状態となりました。肥前(佐賀)藩出身で参議兼大蔵卿(おおくらきょう)の大隈重信(おおくましげのぶ)は、イギリスを模範(もはん)とした議院内閣制に基づいた、国会の即時開設と政党内閣の早期実現などを目指していました。しか...
さて、自由民権運動が広がりを見せるなか、西南戦争の最中の明治10(1877)年に立志社の片岡健吉らが政府の太政大臣である三条実美(さんじょうさねとみ)に対して「立志社建白」を提出しましたが却下されました。翌明治11(1878)年には各地の民権派が大阪に集まり、活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13(1880)年3月に行われた愛国社の第4回大会で「国会期成同盟」が結成され、運動目標の中心を国会の開設要求としまし...
ところで、漸次立憲政体樹立の詔の発布が議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めた一方で、漸進的(ぜんしんてき、「漸進」とはじっくり時間をかけること)な動きしか見せない政府に対する批判が激しくなりました。新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られたことに対して、政府は過激な政治的言論を取りしまるため、明治8(1875)年に「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」などを公布しました。また、西南戦争...
漸次立憲政体樹立の詔の発布と同時に、政府はそれまでの左院・右院(ういん)を廃して、新たに立法の諮問(しもん、有識者などの一定機関に意見を求めること)機関である「元老院(げんろういん)」や、現在の最高裁判所にあたる「大審院(だいしんいん)」、そして府知事や県令で行われる「地方官会議」を設置しました。これらのうち、元老院や地方官会議には立法府の、大審院には司法府の性格を持たせており、これらは政体書(せ...
明治7(1874)年といえば、民撰議院設立の建白書が出されただけでなく、前年の明治6(1873)年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起きたり、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に反対だった木戸孝允が下野したりするなど、政府にとって様々な問題が発生した一年でした。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため翌明治8(1875)年1月から大阪・北浜で木戸や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれて、政府がじっくり...
ところで、一般的な歴史教育では「自由民権運動の活発化によって民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで国会設立と憲法制定を渋々(しぶしぶ)と行った」というイメージがあるようですが、これは余りにも一方的な見解であると言わざるを得ません。明治政府が誕生して間もない明治元(1868)年旧暦3月に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が発布(はっぷ)されていますが、その第一条には「...
征韓論争に敗れた前参議の板垣退助や後藤象二郎は旧土佐藩、同じく前参議の副島種臣(そえじまたねおみ)や江藤新平は旧肥前(佐賀)藩の出身でした。彼らが下野(げや)したことによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者がその多くを占(し)めるようになり、薩長藩閥(はんばつ)政府への批判が高まるという結果をもたらしました。また、西郷隆盛も同時に下野したことによって、政府内では大久保利通による独断的な政...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...