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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 歴史を変えた「アームストロング砲」 その1

    久重の「からくり儀右衛門」としての名声を聞きつけた肥前(ひぜん)藩(=佐賀藩)の藩主であった鍋島直正(なべしまなおまさ)は、家臣で蘭学者の佐野常民(さのつねたみ)を使者として久重を肥前藩に招きました。精煉方(せいれんかた)として着任した久重は藩主直正の期待に応え、安政2(1855)年には蒸気機関車や蒸気船の模型を完成させたほか、文久2(1862)年には蒸気船の原動力となる蒸気釜を製作しました。久重によるこれ...

  • 「からくり儀右衛門」の誕生 その6

    時は流れ、京都に移住した久重は優れた職人のみに与えられる「近江大掾(おうみだいじょう)」の称号を得ましたが、彼の向学心は衰えることを知らず、50歳になる頃には天文学の勉強を始めました。新たな知識を自分のものとした久重は、日の出と日の入りの間をそれぞれ6等分するという、季節によって時間の長さが上下する我が国独特の不定時法(ふていじほう)に合わせた和時計(わどけい)である「須弥山儀(しゅみせんぎ)」を嘉...

  • 「からくり儀右衛門」の誕生 その5

    天保5(1834)年、36歳となった久重は大坂の伏見(ふしみ、現在の大阪市中央区伏見町)に移住し、持ち運びに便利な携帯用の「懐中燭台(かいちゅうしょくだい、燭台とは蝋燭=ろうそくを立てる台のこと)」を発明しました。天保8(1837)年には大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱が起きて、一家が焼け出されてしまうという不幸を経験しましたが、それにめげることなく、久重は同じ年に「無尽灯(むじんとう)」を発明しました...

  • 「からくり儀右衛門」の誕生 その4

    久留米の五穀神社(ごこくじんじゃ)で行われていた祭礼は毎年多くの人出でにぎわっていましたが、儀右衛門は様々なからくり人形を製作して人々を喜ばせ、いつしか「からくり儀右衛門」と人々に呼ばれるようになりました。やがて成人した久重は「からくり興行師」として、大坂や京都あるいは江戸などを行脚(あんぎゃ)しては次々と新作のからくり人形を人々に紹介し、その名が全国に知られるようになったのです。久重が作ったから...

  • 「からくり儀右衛門」の誕生 その3

    硯箱をきっかけに自分の才能に目覚めた儀右衛門は、その後も箱細工や隠し戸のついた箪笥(たんす)などを次々と作っては周囲の大人を驚かせましたが、その噂を聞きつけた一人の女性によって、歴史に残る綿織物を製作することになりました。その女性とは、同じ久留米に住んでした井上伝(いのうえでん)であり、彼女は久留米絣(くるめがすり)の創始者でしたが、絣に絵を入れることがどうしても出来ず、儀右衛門に依頼したのでした...

  • 「からくり儀右衛門」の誕生 その2

    田中久重は、筑後国久留米(ちくごのくにくるめ、現在の福岡県久留米市)のべっこう細工師の田中弥右衛門(たなかやえもん)の長男として寛政11年旧暦9月18日(西暦1799年10月16日)に生まれました。幼名を「儀右衛門」といいます。べっこう細工師は、タイマイ(ウミガメの一種)の甲羅(こうら)を利用した工芸品や装飾品を作成するのを生業(なりわい)としており、非常に精緻(せいち、極めて詳しく細かいこと)な金属細工を必...

  • 「からくり儀右衛門」の誕生 その1

    我が国は資源に恵まれない島国ではありますが、第二次世界大戦の敗北から驚異的なスピードで立ち直り、GDP(=国内総生産)で世界有数の大国にまで成長しました。敗戦からの復興を実現させた原動力は電機や自動車などの技術面が主流であり、我が国はかねてより「技術立国」とも呼ばれていますが、こうした科学技術の発展は名もない人々による「ものづくり」の精神によって支えられているということを皆さんはご存知でしょうか。我...

  • 藩を救った改革とその後の方谷 その4

    山田方谷は大胆な改革によって藩の財政を立て直しましたが、その基本となったのは彼が長年務め上げた教育者としての矜持(きょうじ、自分の能力を優れたものとして誇る気持ち)でした。士農工商の身分を超えて多くの優れた人材を育て上げた教育精神が、彼の経済政策を成功に導いたことは間違いありません。また、いかに財政が豊かになろうとも、藩を守るためには軍制の改革が欠かせません。方谷が壮健な者を選(え)りすぐって里正...

  • 藩を救った改革とその後の方谷 その3

    時代が変わり明治維新を迎えると、岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)あるいは木戸孝允(きどたかよし)といった明治新政府の重鎮が、政府への出仕を求めて方谷に何度も使者を送りました。財政問題に悩んでいた新政府からすれば、財政改革を成し遂げた方谷の手腕が何としても欲しかったのでしょう。しかし、江戸幕府の老中首座だった藩主の板倉勝静(かつきよ)に長年仕え、同時に彼を支え続けてきた方谷...

  • 藩を救った改革とその後の方谷 その2

    備中松山藩による降伏の申し出を受けた征討軍は謝罪書の提出を要求し、官軍側が前もって作成した文書を備中松山藩に持ち帰らせましたが、その草案に書かれていた「大逆無道(たいぎゃくむどう)」の四文字を見た方谷は激怒しました。「親殺しや主君殺しを意味する『大逆無道』を加えるとは何事か。我が藩は一度たりとも朝廷に刃(やいば)を向けたことがない以上、この四文字は自らの命に代えても受けいれられない」。方谷による命...

  • 藩を救った改革とその後の方谷 その1

    備中松山藩主の板倉勝静(かつきよ)は嘉永4(1851)年に江戸幕府の奏者番(そうじゃばん)になると、安政4(1857)年には寺社奉行を兼務しました。その後、大老(たいろう)の井伊直弼(いいなおすけ)の逆鱗(げきりん)に触れて一度は職を解かれたものの後に復帰し、文久(ぶんきゅう)2(1862)年には老中にまで出世しました。勝静(かつきよ)がこれらのような出世街道を歩んだ理由としては、元々の血筋が松平定信の孫であっ...

  • 方谷による財政改革の全容 その9

    河井継之助にさかのぼること1年前の安政5(1858)年、長州藩士の久坂玄瑞(くさかげんずい)が備中松山藩を訪問し、西洋の銃陣法(じゅうじんほう)を訓練中の方谷に会いました。里正隊を中心とする見事な訓練ぶりに感嘆した久坂は、単なる財政改革の成功だけではなく、教育面や軍事面など身分制度にとらわれない様々な改革によって優秀な人材を輩出しているところに、軍政の神髄が存在することを理解しました。後に久坂は元治(げ...

  • 方谷による財政改革の全容 その8

    改革を成し遂げて国内有数の富国強兵藩となった備中松山藩には、その成果を参考にしようと他藩からの旅行者がひっきりなしに訪れましたが、ここでは代表的な2名を紹介しましょう。備中松山藩の改革成功の噂を耳にした越後長岡(えちごながおか)藩士の河井継之助(かわいつぎのすけ)は、本当かどうかを自分の目で確かめたくなって、安政6(1859)年に方谷を訪ねました。当初は農商出身の方谷を「山田」と呼び捨てにしていた継之助...

  • 方谷による財政改革の全容 その7

    方谷が財政改革を始めた1850年代はアメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航し、我が国に開国を迫るなど国際的な動きもみられるようになりましたが、こうした社会情勢のなかでは軍制の改革も不可欠であると方谷は考えました。方谷は、自ら学んだ砲術をもとに大砲を鋳造して洋式兵術を導入したほか、嘉永5(1852)年には領内の庄屋の家の壮健な若者を選んで銃と剣を学ばせ、帯刀(たいとう)を許して「里正隊(りせいたい)」とい...

  • 方谷による財政改革の全容 その6

    財政改革を成し遂げるには優れた施策を行うことが重要ですが、同時に藩のみならず我が国を支えるだけの優秀な人材の育成が不可欠であることが、長年藩校の学頭(=校長)を務めた方谷には分かっていました。そこで方谷は、藩校の有終館を拡張したり、領内に「学問所(がくもんじょ)」や「教諭所(きょうゆじょ)」を設けたりしたほか、郷学(ごうがく、藩士の教育や庶民の教育のために各地に設けられた学校のこと)や私塾あるいは...

  • 方谷による財政改革の全容 その5

    次々と藩政改革の施策(しさく)を考案しては実行に移した方谷ではありましたが、そんな彼の改革を支えていたのは藩を挙げての倹約令でした。方谷は武士の俸禄を減らすとともに賄賂(わいろ)を禁止し、奢侈(しゃし、ぜいたくすること)を強く戒(いまし)めた一方で、自らの家の会計を他人に任せてその収支を明らかにしました。次に、盗賊の取り締まりを厳しくしたり、賭博(とばく)を禁止したりすることで領内の治安を向上させ...

  • 方谷による財政改革の全容 その4

    ところで、当時の我が国では小判や豆板銀(まめいたぎん)、あるいは寛永通宝(かんえいつうほう)といった金・銀・銅貨が流通していましたが、これらの発行権は江戸幕府が独占していたため、各藩にはそれぞれ独自の藩札を発行することが認められていたものの、額面どおりの金貨にいつでも引き換えが可能な兌換性(だかんせい)が義務づけられていました。しかし、財政難に苦しんでした備中松山藩では兌換のための準備金にまで手を...

  • 方谷による財政改革の全容 その3

    財政改革には産業の振興が欠かせませんが、備中松山藩の領内では昔から良質の砂鉄や銅が産出することに方谷は目を付け、これらの鉱山を藩が買い取って直営とすることで多くの農民を雇い、彼らの失業対策に一役買うことにつながりました。次に方谷は、農作業の負担を軽減するために良質な砂鉄を使った三本歯の「備中鍬(びっちゅうぐわ)」を新たに開発し、当時の我が国の人口の8割を占(し)めた農民に幅広い人気を集めたほか、建...

  • 方谷による財政改革の全容 その2

    まず方谷は自ら大坂に出向き、集まった債権者の商人たちに対して、これまで粉飾決算を行ったことや、藩の実収が2万石に満たないことを、帳簿を持参したうえで明らかにしました。これらを正直に明かすことで商人たちの信義を一時的には裏切ることになりますが、藩の再建のためには致し方ないと考えたのです。同時に方谷は、商人たちに対して今後は一切借財をしない代わりに、返済期間を延ばした計画書を一人ひとりに手渡し、認めら...

  • 方谷による財政改革の全容 その1

    板倉勝静(かつきよ)は前藩主の勝職(かつつね)の養子であり、元々は江戸幕府の老中(ろうじゅう)として寛政(かんせい)の改革を行った松平定信(まつだいらさだのぶ)の孫という血筋でしたが、そんな名門を迎えた備中松山藩の財政は火の車であり、破綻寸前でした。藩の将来を憂慮した若き藩主の勝静(かつきよ)は、学問を究めた方谷にすべてを託し、農民出身でありながら「元締役」と「吟味役」の兼任という藩財政の最高責任...

  • 山田方谷の誕生とその半生 その3

    山田方谷は、文化(ぶんか)2(1805)年に備中松山藩の農商であった山田家の長男として生まれました。山田家は清和源氏(せいわげんじ)の血を引いており、方谷の父は山田家の再興を願っていましたが、方谷は幼くして母や父を亡くすなどの苦労を重ねました。そんな方谷を助けたのが学問でした。5歳の頃から朱子学や詩文を学んだ方谷は、わずか9歳の折に「将来は何になりたいか」と問われた際に、治国平天下(ちこくへいてんか)、...

  • 山田方谷の誕生とその半生 その2

    ところで皆さんは、岡山県高梁(たかはし)市に全国でも珍しい「人名由来の駅」があるのをご存知でしょうか。それはJR伯備(はくび)線の「方谷(ほうこく)駅」であり、地元出身で幕末期の陽明学者だった「山田方谷」にあやかって命名されたものです。令和元(2019)年10月に実施された消費税の税率アップや、新型コロナウィルス感染症の蔓延(まんえん)など様々な問題によって我が国の景気の悪化が懸念される昨今ですが、こんな...

  • 山田方谷の誕生とその半生 その1

    ※今回より「第85回歴史講座」の内容の更新を開始します(9月5日までの予定)。いわゆる「鎖国」の状態をズルズルと引き延ばしてきた江戸幕府の失政がペリーによる黒船来航という名の恫喝(どうかつ、人をおどして恐れさせること)外交をもたらし、その結果として我が国が無理やり開国させられたのみならず、一方的な不平等条約を結ばされるなど幕末期の大混乱を引き起こしたことは周知のとおりです。しかし、そんな中でも懸命に働...

  • 金解禁と昭和恐慌 その4

    ※「昭和時代・戦前」の更新は今回で中断します。明日(8月9日)からは「第85回歴史講座」の内容を更新します(9月5日までの予定)。世界恐慌や金解禁などによって始まった昭和恐慌は、農村部にも深刻な影響をもたらしました。昭和5(1930)年はコメが大豊作となったことで米価が暴落して豊作飢饉(ききん)となり、その翌年である昭和6(1931)年には逆に大凶作となりました。折からの恐慌で農家の兼業が望めなくなったうえに、都...

  • 【ハイブリッド方式】黒田裕樹の日本史道場のお知らせ(令和3年8月)

    黒田裕樹の日本史道場は、受講者様の健康と安全を守るために、また新型コロナウィルス感染症の予防および拡散防止のため、従来の対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。「対面式のライブ講習会」の実施に際して、以下の措置にご理解ご協力いただきますようお願いします。なお、状況の変化により取り扱いを随時変更させていただく場合...

  • 金解禁と昭和恐慌 その3

    我が国が金解禁に踏み切って金本位制に復帰した前年の1929(昭和4)年10月に先述した世界恐慌が始まっていましたが、当時はまだ経済学が発展途上だったこともあって、我が国では通常の不況と大差ないと思われていました。だからこそ浜口内閣は金解禁を断行したのですが、当時はアメリカの大不況によって我が国の輸出額は激減していました。不況にあえぐ国が他国からモノを買う余裕などなかったのです。このため、売れなくなった生...

  • 金解禁と昭和恐慌 その2

    浜口雄幸内閣の蔵相となった井上準之助は、金解禁に備えて軍事予算の削減など徹底的な財政支出の引き締めと同時に金融の引き締めも行いました。財政支出や金融を引き締めれば、政府は金本位制に基づく正貨(=一国の貨幣制度の基準となる貨幣のこと)の確保が可能になる一方で、国内の通貨量が減ってモノの値段が下がるという、いわゆるデフレーションになりますが、我が国の製品が安くなれば輸出量が増え、結果として景気が回復す...

  • 金解禁と昭和恐慌 その1

    19世紀から20世紀にかけて、世界の列強諸国では「金本位制」を採用していました。金本位制とは金を通貨価値の基準とする制度であり、各国の金の保有量で通貨の発行高が決まると同時に、貿易での金のやり取りが景気を左右することになるため、一定の金を常に国家が保有することが重要となる制度でもありました。ところが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が始まると、我が国を含む各国が流出を防ぐ目的で金の輸出入を禁止したため...

  • 世界恐慌とその影響 その4

    ところで、1933(昭和8)年にアメリカ大統領となったフランクリン=ルーズベルトは、不況にあえぐアメリカ経済を立て直すために「ニューディール政策」を始めました。ニューディールとは「新規まき直し」のことであり、それまでの政府が限定的な市場への介入や経済政策しか行わなかった自由主義的経済から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと切り替えたものでした。経済の自助作用から政府主導での経済立て直しへと政策を...

  • 世界恐慌とその影響 その3

    ブロック経済体制は、他国との貿易によって国家の生計を立てていた我が日本にも深刻な影響を与えました。製品の輸出も資源の輸入もできなければ、国内産業が壊滅すると同時に国家の生命線である軍備も整えられなくなってしまうからです。当時の世界全体が「自国の経済安定のためには他国を顧(かえり)みる余裕はない」という流れだったこともあり、やがて日本国内から「アメリカやイギリスを見習って、我が国だけの自給自足圏(け...

  • 世界恐慌とその影響 その2

    高い経済力を持つアメリカや、植民地を含めた領土が世界の4分の1の規模を占めていた大英帝国ことイギリスがブロック経済体制に入ったという現実は、世界の貿易に重大な影響を与えましたが、アメリカやイギリス自身にとってはそれほど大きな問題にはなりませんでした。なぜなら、アメリカは広大な領土とそこに眠る資源を持っており、またイギリスも世界各地に植民地を持っていたことから、両国とも自給自足による国家の運営が可能だ...

  • 世界恐慌とその影響 その1

    大正末期から昭和初期にかけて、すなわち1920年代の世界では恐慌(きょうこう)が相次いで発生し、数多くの失業者が生まれましたが、この背景には発達途上にあった資本主義に対する理解不足がありました。当時の国家の多くが「資本主義による自由経済体制には限界があるのではないか」と思い込んだことで、世界経済は大きな変革を迎えるようになったのです。1929(昭和4)年10月、ニューヨークのウォール街において株価が大暴落し...

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