川水流駅前バス停留所 2025年6月「かわずる」と読む。五ヶ瀬川が下流域に入り、河原も広く、明るい山里に清冽な流れを感じる駅名に惹かれて37年前、ここで数葉の写真を撮った。今はバス停にのみ名を残す。 跡地には地元の公民館が建っていた。木立に囲まれた在りし日の川水流駅は、交換駅の為一人きりの当務助役がいてタブレットを交換し、構内の花々に丹精を加えていた。国鉄からJRに変わって一年余り、第三セクター「...
昔の国鉄ローカル線、地方私鉄や最近のローカル線など、旅の写真と思い出で綴るブログです。
1980年代、「鉄道のある風景」を求めて全国を旅した風太郎が写真と文章で綴る、ローカル線紀行。バリ鉄ではありませんが、自然溢れる沿線や、出会った人々など、しばし「鉄路の叙情」を感じて頂ければ、と思っています。しばらく「鉄」から遠ざかっていましたが、最近復活、ローカル線の「今」も綴っています。その他自然風景、日々雑感諸々まで。なるべく頻繁に更新したいと思っています。よろしくお願いいたします。
山陰本線 宇田郷 2022年11月此処の夕陽バックはありがちだけど、風太郎的には饒舌過ぎるそれよりも、夜明けのグラデーションこそ捨て難いと思っている。長門市の宿を朝5時に出発、闇にシルエットがようやく浮かぶ辺りからスタンバイは当然のことだ。シンメトリーな造形と穏やかに動きを停めた大気の、静謐な調和。晩秋の山陰にやってきました。今回は珍しく二人旅です。 ドライバーとナビゲーターの息は、さて何処...
宗谷本線 歌内 2017年山を下り、最北の里に降り始めた雪は、いよいよ根雪になることだろう。( 写真展漫遊録 )風太郎は「鉄道の写真展」についてあまり見に行かないのだが、一人の作家さんが明確なテーマの許にしっかり構成を考えて組んだそれは、見応えがあるから気になる。六本木の「富士フイルムスクエア」に「宗谷本線」を見に行く。メインは除雪列車なのだが、酷寒の中でわずかなチャンスを待つ、ツラさも興奮...
花輪線 横間 2019年雪国の晩秋は、またひときわ物憂げなものだ。汽車は出てゆく、紫煙は残る。初雪の便りも間もなく。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村国連によれば、クーデター以降、住み家を追われた避難民は140万人、子供だけでも50万人とも。敬虔な仏教徒が多いミャンマーでは、伝統的に寺院が最後のシェルターになっていたが、それにも限界があろう。 国民は飢え、軍隊ばかりが...
松尾鉱山 鉱山住宅跡 2019年八幡平の懐深く、標高900mの高地にあったという松尾鉱山は東洋一の硫黄鉱山として栄華を極め、1960年代の最盛期には人口一万三千を数えたという。 各所に当時最新の設備を整えた新興都市は「雲上の楽園」とも称されたが、硫黄産業の急激な衰退と共に瞬く間に廃墟と化した。花輪線の大更駅から延びていたという松尾鉱山鉄道も、残された写真を見れば長大な混合列車など当時の活況が...
わたらせ渓谷鐡道 小中 2021年嵐を呼んだ低気圧は、夜半に抜けた。洗われた朝日が窓辺に降る。 © 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村国連によれば、クーデター以降、住み家を追われた避難民は140万人、子供だけでも50万人とも。敬虔な仏教徒が多いミャンマーでは、伝統的に寺院が最後のシェルターになっていたが、それにも限界があろう。 国民は飢え、軍隊ばかりが肥え太る国家とは。...
Project 「 写真集 旅のたまゆら 1981-1988 」 デッキの時間
宗谷本線 1988年 写真集「旅のたまゆら 1981-1988」 「通学列車」収録予定風太郎はとにかく記録に無頓着なので、何処で撮ったものやらと分からなくなっている写真多数なのだが、こういう偶然写り込んだ駅名とかがあると助かる。 しかし、「はつかり」?「ばっかい」じゃねえかと膝を打つまで暫く時間が掛かったが、あの茫漠たる原野の駅を発車するシーンかと知れば別の趣もある。高校生の笑顔が全てで...
只見線 只見 2022年11月急病人騒ぎで小出行きも30分以上遅延。 それでも塞翁が馬、残照を背負った叶津鉄橋で捉えることが出来た。これが今回のラストショット。 会社辞めて一体何して暮らしてるんだと問われれば、「弘法大師」と答えることにしている。乞食坊主と言ったら空海さんに失礼だが、宿は無く、貧しい糧を食みながら諸国を巡る。しかし手にした錫杖でひと突きすると霊泉が湧き出すような功徳も無いから...
只見線 会津越川 2022年11月復活した会津川口~只見間の運転は一日僅か3往復。 陽が短いこの時期、撮影可能本数はたったの2往復4本。更に会津川口で交換がある関係で、7~8時台と15~16時台に立て続けに上下列車が往復するから、真ん中の時間帯は昼寝してろと言わんばかりである。 此処まで来ると紅葉は綺麗とはいえ、いささか時間を持て余す。小出行きは9:07只見着だから「只見高校」への通学は全く考慮さ...
奥只見湖 2022年11月只見の町のどん詰まり、田子倉ダムの巨大な堰堤の前で休憩中、自転車に乗った老夫婦に尋ねられる。 「奥只見湖を見たいんですけど」。聞けば只見まで列車で来た観光客で、折り返しまで5時間もあるので駅前のレンタサイクルで此処まで来たのだと。まるで屏風のような堰堤に観光用エレベーターでも付いているかと思ったらしいが、無論そんなものは無いというより、立ち入り禁止。見るならつづらの...
只見線 会津越川 2022年10月女ゴコロと秋の空。一日二往復の列車をどんな空の下で迎えるか、読める人がいるならあやかりたい。 只見 叶津鉄橋実質一日二往復しか撮りようがない川口以西は、5時間位の長いブランクが出来る。 前から気になっていた、会津塩沢近くの「河井継之助記念館」に行く。 以前にも書いたがもうひとつの会津戊辰戦争、只見の戦いである。河井継之助とは長岡藩の家老で、様々な才と人徳に...
只見線 会津西方 2022年11月川口~只見間に拘りたいのだけど、朝7時を過ぎないと列車が走らないお寝坊さん。それじゃあ夜明けのスペクタクルに間に合わないのだよ、という事でこっちに浮気する。道の駅「みしま」での車中泊なら、朝6時の一番列車を此処で撮るのも楽勝だしと思いつつ、しかし誰でも撮る場所だからなあとテンションいまいちのところもあって、ウダウダ寝ていたら通過ギリギリの時間に。おい朝霧の出...
只見線 只見 2022年11月早戸~宮下辺りは色づきが悪いのか早過ぎるのか紅葉はいまいちだが、六十里越まで来ると既に最終盤だ。通過の直前にさっと雲が切れる幸運。奥の山まで陽が回らなかったは贅沢だが。なんと風太郎の知人がこの写真の列車に乗っていたと後で知る。 聞けば乗車にあたり小出駅のホームで1時間半並んで座席を確保、この区間まではマシだったらしい。只見駅に到着するや、バス2台分の団体ツアー客が...
只見線 会津横田 2022年11月里をゆく線路は、低く垂れた雨雲の下にある。今回の偵察にあたり主眼に置きたかったのは、鉄橋がどうこうよりも、静謐な里の風景だ。しかし奥会津のまさに最深部、豪雪に閉ざされる土地にあって、そこに生を営むことの過酷さも実感して難しい。立派な構えの農家はあっても、玄関は閉ざされ、そこが主を失った家と認めざるを得ない事もしばしばだ。自家用車が傍らに置かれていれば少し安堵...
只見線 会津大塩 2022年10月東北のマッターホルンの異名を持つ蒲生岳は、見る方向によって形を変える存在感たっぷりの山。11年間列車が通らなかった区間に屹立するシンボルでもある。逆光だろー、と三脚軍団は皆逃げちゃうけど、人の行く裏道に・・・・。会津大塩近くの「河井継之助記念館」、解説のおばちゃんがいかにエライ人だったかと熱弁を奮うのだが、その講談前のマクラに只見線。「開通したんですよー、11年...
深名線 撮影地不詳 1988年頂きは白く雪化粧した。 次第に色を落として、秋が逝こうとしている。単行列車が枯野をざわりと揺らす。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村海外渡航がようやく現実味を帯びてきた中で、外務省の「海外安全情報」を見る機会が多くなった。ミャンマーは昨年2月のクーデター勃発以来、レベル2「不要不急の渡航は自粛」のまま、ロヒンギャ問題のあるラカイン州と、中...
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川水流駅前バス停留所 2025年6月「かわずる」と読む。五ヶ瀬川が下流域に入り、河原も広く、明るい山里に清冽な流れを感じる駅名に惹かれて37年前、ここで数葉の写真を撮った。今はバス停にのみ名を残す。 跡地には地元の公民館が建っていた。木立に囲まれた在りし日の川水流駅は、交換駅の為一人きりの当務助役がいてタブレットを交換し、構内の花々に丹精を加えていた。国鉄からJRに変わって一年余り、第三セクター「...
ミャンマー マダヤ線 タイーゼィ 2018年線路上のお店を瞬く間に片づける手際は見事なものだが、通過する車輪が潰してゆく果実の、甘い香りも漂う収穫期の朝。本日初日。 生憎の小雨模様のなかお越し頂いた方々からは想定以上のご厚志を頂きました。ミャンマーの民に代わって御礼申し上げます。web版「鉄道ファン」誌にご掲載頂きました。web 鉄道ファン吉祥寺の旅の書店「街々書林」でミャンマー大震災救援チャリティー写...
ミャンマー マダヤ線 オーボー 2019年この国で写真を撮って驚くのは、写真撮らせてと声を掛けた場合、複数の人間がいても全員の眼差しがピタリとレンズの光軸に一致することだ。まさか写真を撮られる練習などしていないだろうし、もとより写真に撮られる機会さえあまりないはずだ。こうして写真の中の彼らと目線が合うと、写真撮りとしてのこちらの真摯さや覚悟まで試されているような気持になる。通りすがりは難しいか...
高千穂線 吾味 1987年 写真集「旅のたまゆら 1981-1988」 「夏の光」より。で、オリジナルとなれば遠い記憶の場所に遡る。なんでマイナーな高千穂線なんて一生懸命撮ったのか。 それは国鉄からJRに変わった舌の根も乾かぬうちに第三セクター化が決まっていたから。国鉄時代がそのまま残っていたから、そのノスタルジーを追うべく、夏休みの年休をやり繰りしたんだろう。吾味と日ノ影の間にあったコンクリートアーチ...
高千穂峡 2025年6月日南から北上、高千穂へやって来ました。阿蘇の溶岩層が侵食されて出来たという高千穂峡、真っ黒な岩肌と白布を垂らしたような滝、深緑を映す水面と役者は揃っている。席巻するインバウンドがこれを放っておく訳もなく、「日本ではない」はご多聞に漏れずだ。真名井の滝のすぐ近くまで寄せられる貸ボートの料金は、ピーク時30分5100円だそうで、調子に乗った法外な価格に財布を開くのは「外人」ばかり...
ミャンマー ラーショー線 2018年写真は露出の加減で明るく写っているが、実際にはほぼ真っ暗である。マンダレー駅を朝4時に出て、やっと山岳地帯の麓に辿り着いたところで夜明けを迎える。ここからはスイッチバックやオメガカーブが連続する険しい山越えが控えている。そんな事情もあってか、ここで独特な「朝食停車」がある。乗務員も乗客もここで朝食をとるのだ。ホームでは勝手知ったる屋台が店を広げている。夜明...
日南線 大堂津 2025年5月干満の差が激しい海のようだ。橋脚の土台まで露出するのでは、という昼間の引き潮から一転、暮れなずむにつれ、満ち潮の時間がやってくる。海水と淡水が混ざる、いわゆる「汽水」は格好の釣り場なのか、竿を操る人の姿が目立つ。列車の前景にするなら当然竿を出してるポーズが欲しいが、見ていると入れ食い状態で、すぐに釣れては針から外す時間があるから気を揉む。それでもまずまずのタイミ...
日南線 大堂津 2025年6月名勝七つ岩を眼下に。今はマリンスポーツのメッカと知る。南九州梅雨入りは何処へやら、蒼い夏が満ちている。オーシャンビューでリゾートはリゾートだがビジネスホテル然とした安宿は、広島カープの毎年のキャンプの定宿と知る。その質素はさすが市民球団! しかしどうも貧弱なレストランでプロ野球選手の腹は持つのかと心配になる。まあヨソの球団の心配をしている場合でもないが。Copyright...
日南線 大堂津 2025年5月薩摩半島に居過ぎた感もあるので宮崎・日南海岸に移動。ひと月って随分長いようだけれど、広い九州を細かく巡るには短か過ぎるよなあと言うのが実感だ。 贅沢と言えば贅沢過ぎる話だけど。日南線沿線も細かく見ればいいところはあるのだろうけど、駆け足で先を急げばやっぱり此処に行き着く。南国の海は早や真夏の光。Copyright © 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
知覧特攻平和会館 2025年5月 再び九州。 加世田から程近いところに「知覧」がある。武家屋敷のお庭は綺麗だし、住人がそこで普通に暮らしているというのが良い。問題はもうひとつの「名所」、知覧特攻平和会館だ。内容を見聞きするたびに一言も二言も申し上げたいところがあって今回も敬遠していたのだが、見もしないでものを言うのもどうかと思って。まあ想像した通りだ。「特攻隊員の手紙」は全て軍による検閲済みの...
2021年のクーデターから事実上の内戦状態にある同国。 追い打ちをかけるように今年3月に発生したマグニチュード7.7の大地震により、多数の犠牲が報じられますが、紛争地故、正確な犠牲者数すら判明しないという惨状です。また国軍は避難民の頭上に爆弾の雨を降らすという非道も伝えられます。国連によれば戦災と併せ避難民は600万人に及ぶとされ、早急な人道支援が必要とされています。 一般社団法人 日本ビルマ救援センター 提供...
長良川鉄道 深戸 2025年4月「九州」はまだまだ終わりませんが、この辺で閑話休題。話題のChatGPT、「ジブリっぽくして。」 やってみた。何というか、物凄くそれらしい出来。ホームが消されちゃって、女が男に代わったりしてるけど、それこそが絵として相応しいというAI様のさじ加減なのだろう。著作権がどうなんだという議論があるようだが、「ジブリ化」というボタンがサイト上に設置されているわけでもなく、あくま...
鹿児島交通 枕崎線 干河駅跡 2025年5月干河駅跡はただの草原に変わっていた。 一筋の道がホーム擁壁のラインだったらしい。写真集を拡げて確認する。撮影位置はここで間違いなかろう。 タイムトラベルではないが、「その現場」に立つたびに不思議な気持ちになる。 その時ここで何を考えてたのだろう、とか。隣地に住むご婦人が通りかかって、駅の跡を見に来たのかね、と言う。 そういう連中は珍しくないらしい。い...
鹿児島交通 枕崎線 加世田駅跡 2025年5月一大ターミナルだった加世田駅跡は広大なバスターミナルに変わっている。蒸気機関車にディーゼル機関車、かつて鉄道ありきのモニュメントが並ぶ。この瓦屋根はどこか見覚えがあると思ったが、多分ビンゴだろう。 セーラー服の、上。 鹿児島交通 枕崎線 加世田 1982年あの猛暑の日の、喉の渇きがリアルに蘇る。 白く乾いた構内通路と、微かに漂う機械油の匂い。「...
昨日発売の「旅と鉄道」8月号、フォト&エッセイ「旅のたまゆら1981-1988」連載第6回は「蝉時雨の駅」です。真夏を迎えた蒲原鉄道七谷駅。 駅まで歩くのが当たり前だった時代、そして大勢の人々が炎天下に駅を目指したあの頃。開け放たれた待合室に降って来るのは、夏草の匂いと騒がしい蝉時雨。上下列車がやって来て、ひととき賑わう駅の情景を、写真が呼び起こす記憶の糸を手繰って描きました。夜行って何の夜行よというご時世...
鹿児島交通 枕崎線 永吉駅跡 2025年5月廃線跡は一部がサイクリングコースになっていた。 そして吉利駅や永吉駅はホームが保存されている。最末期の此処はホームも線路も夏草が伸び放題、駅舎はボロボロに朽ち果て、既に打ち捨てられた空気に満ちていたから、楚々と芝生が貼られ、公園的に整備されたそこはどこか白々しさも覚える。それもまた、あの生きていた鉄道が手の届かぬ遠い過去になったという証なのだろう。あ...
鹿児島交通枕崎線廃線跡 永吉 2025年5月路線が長い割に意外に「決め」になる場所がなかった鹿児島交通。吉利~永吉間の永吉川に架かるプレートガーターは数少ないそれだったかもしれない。いや、だから誰でも撮る場所だった。 アングルに苦しむ。手前の石橋も渋く、これを前景とするのもあったろうが、それでは石橋の写真になってしまいそうで。 しかも完全逆光。南九州の炎天下、クラクラしながらの逡巡が昨日の事の...
鹿児島県 吹上浜 2025年5月薩摩半島と言えば、鹿児島交通鉄道線だろう。 いや現地では最後まで「南薩線」と呼んでいたという。鹿児島本線伊集院から指宿枕崎線枕崎まで49.6kmは決して短くはないローカル私鉄だった。いい時代もあったはず。 しかし高度成長期を迎え、「北海道の産炭地並みの」沿線人口急減に見舞われ、廃止が取り沙汰される。しかし鹿児島の名門企業、岩崎財閥の経営が災いしたか、その度に沿線の廃止反...
吹上温泉 中島温泉旅館 2025年5月旅の時間を鹿児島に巻き戻しましょう。予約するときから「ウチは普通の旅館じゃなくて古い自炊湯治宿ですから。」「仕切りは障子1枚ですから。」云々の注釈多し。値段も値段だし、これは剛の者とは思ったが、なんだかんだでこのご時世である、それなりのソーシャライズがあるものと思ったが。薩摩半島は東シナ海に面した、吹上浜に程近い古い温泉場である。これは来ましたね。物凄い...
日南線 大堂津 2025年6月この天気のくせにトップライトに近い光線のせいか、モノトーンの感じになっているのが逆に面白いかと思っている。既に真夏の光のなかで。 此処に走ってたかと、タラコの白日夢。南九州梅雨入り宣言は何処へ行ったかと快晴。 更に北上すればまた快晴。フロントガラス越し、健康的に日焼けして帰って来ました。 後を追いかけるように九州は大荒れ、本物の梅雨入りを迎えたようですね。30泊31日、う...
鹿児島交通 加世田 1982年ネガの端に長く眠っていた、短か過ぎて永遠の夏。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
小湊鉄道 里見 2014年露出の加減にレタッチ、写真のマジックでこうなるが、夜の帳が降りた里見駅ホームの端はこれよりずっと暗い。 カメラのAFは当てにならない。 MFで駅員氏の背中に置きピンも手だけれど、望遠に絞り開放では自分の目玉が信用出来ない。唯一のチャンスと思われるのは、駅員氏の上半身をラインライトが縁取る1秒余りに、AFがそのコントラストを捕まえるか否か。来い来い来い、というその瞬間に...
磐越西線 1982年この写真の主役は妻面に貼られたポスター、「レール・オリエンテーリング」である。カメラを抱えた少年が目一杯弾けて小躍りしている。しかしこの少年の服装センスが凄まじいのだ。上半身は緑のトレーナー、下半身は真っ赤なズボン。 クリスマスかっての。これは1980年から始まった「いい旅チャレンジ20,000km」のPRポスターである。このキャンペーン、宮脇俊三氏のベストセラー「時刻表2万キロ」に便乗...
大井川鐡道 家山 2021年床下のコンプレッサーも止まった発車前、ホームを打つ雨音に耳を澄ます。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
前にも書いたが風太郎は一匹狼というか、自分勝手な人間なので、折角の和を乱すような気がして、グループの一員になって皆で写真を撮りに行ったり、合同写真展とかに関わることは基本的に無い。いきおいその界隈における知人はかなり少ない。それでも目立つ形で前に出ると、思わぬ方まで情報が届くものだ。受付でカードに記されるご芳名を見ていて、ああっと驚くことが結構ある。只見線写真の名著「望郷只見線」の中心メンバーの一...
大井川鐡道 崎平 2018年 そぼ降る雨中のタチアオイ。茎の下の方から開花して、上まで咲き登ると梅雨の終りと聞く。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
退院の朝手術室というところが、あれほど冷え冷えと室温を落としている場所とは思わなかった。手術着1枚しか着ていない風のナースは冷え性にならないのかしらと思ったり、他人事状態のうちに皆でエイヤと幅50cm位しかないのではという手術台に載せ替えられる。真上にいわゆる手術室のライト、両側から見下ろすドクター達。これはいい絵だねえ。縦位置ウルトラワイドで決まりだな。スマホカメラでいいから腹の上に置かせてくれ...
とんだ不注意で外傷事故にあい、1ヶ月ほど入院加療になってしまいました。復活の日をどうかお待ち頂ければ幸せです。風太郎 拝...
只見線 入広瀬 2018年この駅で下車する高校生たちが、ほぼ全部の乗客だった。道筋に残っているのは、あとひと駅。たった一人の為に、列車は闇に沈む山峡へ。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
ご来展者から素敵なフォトブックを頂いた。タイトルは「PORT RAIL」。 車内に駅に線路際に、人々の素敵なポートレートを集めている。作者は川井聡さん。風太郎の3歳先輩で、多岐にわたるジャンルで活躍されているプロ作家だ。見れば見る程、コレどうやって撮ったんですかと驚くばかりなのだが、全て声掛けし、許可を得て撮っているという。それでも意識させない自然な表情の捉え方は素晴らしい。 無論相手と対峙する作者の人柄の為...
もう40年前に全盛を極めた鉄道趣味サークル「日本レイルファンクラブ」というのがあって、風太郎も誘われて末席を汚していた。関東・関西に二拠点があったと言えば大規模集団のように見えるが、会員数は100名に達することは無かったと思う。更にコアな集団に限れば30名以下に絞られ、写真展に合宿、各種イベント等々、関東・関西仲良く交流していた。学生、社会人、属性は様々で、ほとんどが20代前半、30代などジジイと呼ばれてい...
今般の写真展においては鉄道写真はもちろん、ジャンルを超えたプロ作家をはじめ、伝説的なアマチュア作家、そして無名の写真愛好家に至るまで、心に響く交流を持つことが出来た。 そこで感じたことを「余聞」として適宜書き綴っていきたいと思う。1976年創刊、以来1983年春号をもって休刊の告知があるから7年の命だったことになる。「鉄道グラフ雑誌」の触れ込みで、「蒸気機関車を失ったあとの鉄道写真」のクオリティを、孤軍奮闘...
島原鉄道 大三東 2016年天狗が通ったあと、実は長い長い歳月が流れていたのです。いろいろなものが変わりました。 変わらないのは、この空と海。© 2011 風太郎のPな日々 All rights reservedにほんブログ村...
「こういう大空間に自分の写真を置いて眺める機会は人生に何度も無いぞ。」とは成程と頷いてきたけれど、今回は「自分の写真を眺める」時間はおよそ無かったなー、というのが実感。正味10日間のご来展者は延べ1000人というところ。 それが多いか少ないか以前に、ご来展者とのコミュニケーションがこれまでの個展と比べ異次元に多く、深かった。他人の写真展を見に行った時に、作者在廊なら何らかの感想を述べて帰るのが、タダで見...
日中線 1984年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示・写真集未収録)現代に生き残っているローカル線よりよほど乗っているのは皮肉と言う他ない。「葬式鉄」は一人もいなかった。廃止の日まであと二か月。 GWを挟んで長きに及んだ展示は、13日(月)でいよいよ千秋楽を迎えます。 15時まで。写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 2024年4月25日(木)~5月13日(月) ※ 4月30日(火)~5月8日(木)...
島原鉄道 大三東 1982年ご来展者によれば。この時代を象徴する一枚なのだそうだ。まず「足だけ」も含め子供が3人も写っていること。地方に子供達が目立った1980年代を人口構成に鑑みれば、戦後日本に巨大なマスを形成した「団塊世代」(1947~49年生まれと定義づければ)が33歳から40歳だったということだ。「団塊二世」である。そして第一次産業専従とは言わずとも、団塊世代が地方に定住した「三世代同居」が当然の...
蒲原鉄道 大蒲原 1983年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示)降って、止んで、また降って。越後の長い冬に伸びる、ひと筋の道。今回の写真展の開催告知において、「写真系紙メディア」は冷たかったなーと思う。現在の「二大誌」と思っている「CAPA」はたった一行、タイトルと期間のみ。「フォトコン」に至っては完全スルー。「銀塩フイルムの」ときた時点でお呼びじゃないのかな。かつて写真誌の権威と言えば...
五能線 大戸瀬 1983年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示)「この写真のピントはわざと雪に合わせたのか。」と聞かれれば、そんなことは言いっこなしと写真に書いてあるだろう、と開き直るしかない。「こういう写真を見るとさ、ここに写っている人たちは今何処でどうしているんだろうと思うんだよな。」と述懐されれば、撮影技術を越えたところにある意図は伝わったかと思う。女子高生風が持った茶封筒...
宗谷本線 音威子府 1984年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示)上りの利尻は0時前に音威子府に着く。ここで降りた目的は下りの利尻を撮ることと、その後4:20発の天北線の始発で浜頓別、興浜北線に向かうこと。怪訝そうに待合室を覗き込んだ駅員が、何を了解したか無言で引っ込むのは、決して珍しくはないお客だったからかもしれない。それからの長い時間をどう過ごしたのか、今となっては思い出...
磐越西線 豊美 1985年 (写真展 「旅のたまゆら 1981-1988」 展示・写真集未収録)「たまゆら」って何?とはよく聞かれるが、古代の「勾玉」同士が触れ合う微かな響き、ひいては音が出るその「瞬間」のイメージ。仏教用語でいうところの「刹那」(指をひとはじきする間を65刹那とする、「極めて短い時間」の念。1/75秒に相当するとも。)に近いかもしれない。(旅先での)魂の揺らぎでもあろうという解釈も付...