大社の神門通り沿いにある、少々大柄な入母屋造の建物。現在は外壁も観光地的な和風に改装されていますが、実はけっこう歴史のある建物だったことがわかりました。平成15年頃の当該建物です。全体的に和風商家なたたずまいですが、何となく、洋風な要素もあったり、ベランダもあったりで気になる物件でした。ヤフオクで発券した戦前のパンフレットでこの建物の正体がわかりました。「簸川郡指定物産陳列場」という名の、土産物屋さ...
以前ご紹介した、浜田市(旧旭町)木田の旧木田小学校の続報です。木田小学校は平成25年の閉校後、活用方法を模索し、平成28年に木田地区の交流施設「木田暮らしの学校」にリノベされました。歴史的財産価値のある木造校舎を何とか残し活用したいという、地元の想いから改修・活用に至ったとのことで、戦前派の木造校舎は今後も姿をそのままに活用されることとなったわけです。(昭和10年2月19日付山陰新聞)山陰新聞にこのような...
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大社の神門通り沿いにある、少々大柄な入母屋造の建物。現在は外壁も観光地的な和風に改装されていますが、実はけっこう歴史のある建物だったことがわかりました。平成15年頃の当該建物です。全体的に和風商家なたたずまいですが、何となく、洋風な要素もあったり、ベランダもあったりで気になる物件でした。ヤフオクで発券した戦前のパンフレットでこの建物の正体がわかりました。「簸川郡指定物産陳列場」という名の、土産物屋さ...
ご無沙汰しております。昨年の10月に旧木田小学校の記事を掲載して以来、ブログの更新を途絶えさせてしまっていました。Twitterでは活発に活動していたのですが、腰を据えてのブログ記事はなかなか作業が進まず、ご覧いただいていた皆様には申し訳ございません。家庭の事情や、昨年夏から某国家資格の勉強などもしていて、余裕がなかったというのが正直なところです。おかげさまで某国家資格試験にも合格しましたので、少しずつブ...
以前ご紹介した、浜田市(旧旭町)木田の旧木田小学校の続報です。木田小学校は平成25年の閉校後、活用方法を模索し、平成28年に木田地区の交流施設「木田暮らしの学校」にリノベされました。歴史的財産価値のある木造校舎を何とか残し活用したいという、地元の想いから改修・活用に至ったとのことで、戦前派の木造校舎は今後も姿をそのままに活用されることとなったわけです。(昭和10年2月19日付山陰新聞)山陰新聞にこのような...
川本町の三原八幡宮近く、旧美原小学校の入り口に建つ旧三原村産業組合の倉庫です。この建物の存在は知らず、いつもお世話になっている地元葦野さんに教えていただきました。なぜ「三原村産業組合」の倉庫だとわかるかというと、倉庫の壁にそのように書いてあるからです。「原」、「村」、「業」の文字が確認できます。「組」、「合」、「庫」の文字が確認できます。このような感じで、通風窓で文字が欠落している部分は、それぞれ...
浜田漁港を見下ろす大歳神社の後ろに、ちょっとした展望広場がありまして、そこにはこのような洋風の東屋(ガゼポ)が残されています。正確な建築年は不明ですが、昭和8年に浜田漁港が改良された際の記念絵葉書にその姿が確認できますので、昭和8年頃までに建設されことは間違いなさそうです。キャプションに「粟島公園住吉鼻の景」とあり、粟島公園の一部だったということがわかります。浜田港を一望できる絶景スポットに建てられ...
海潮小学校のそばに、木造の建物を見つけました。海潮小学校の敷地の道を挟んですぐ隣という立地なので、学校の付属施設なのかな?という感じはしましたが現地ではよくわからず。(大東町誌より)後日、大東町誌を調べてみると、このような写真と記載がありました。「大東町誌 」(1974)より引用なお海潮青年団は昭和11年に小学校校舎に接して青年研修館を建設したが、戦後昭和27年には現在地へこれを移転増築し、現在研修・会合...
浜田市金城町追原の美又信組事務所については、日本ジャーナリスト教育センターさんが建物利活用を目指してクラウドファンディングを実施中ですが(2023.10.10現在)、その活動報告から、大きなニュースが飛び込んできました。島根建築士協会の協力の元、屋根裏から取り出した板図に、昭和10年12月25日に竣工したことが記されていたというのです。当ブログでは2014年に、資料の調査により金城町誌に「昭和12年2月に追原に二階建て...
浜田市金城町追原の旧美又信用購買販売組合事務所の建物について、本ブログでは何度かご紹介しています。近年は空き家の状態が続いており、今後どうなるのかと心配していました。今年(2023)の9月に入って、クラウドファンディングにより、この建物を再生・活用するという、とてもうれしい動きがありましたので、ご紹介します。クラウドファンディングにより、この建物を改修・活用しようという取り組みを行っているのは、一般社...
(松陽新報 昭和5年11月11日付)昭和5年の松陽新報に、本庄村(現松江市本庄町)に木村義男のアトリエが新築されたという記事がありました。「木村氏にアトリエを新築し贈呈式を挙行す」昨九日八束郡本庄村木村画伯のアトリエ落成式挙行、(中略)午前十一時挙式来賓吉岡勘之助氏、大坪博士、西尾家政女学校校長、森澤松操女学校長、櫻井天象氏等五十余名先づアトリエ建築後援会幹事長森山與八郎氏左の如き式辞あり、次いでアトリ...
2012年に紹介した、仁多町上阿井のJAについて、新たな情報です。昭和17年に、阿井村産業組合事務所として建てられたもの。ということが分かりました。戦時中に建設されたことになりますが、資材(木材)は当地の櫻井家から寄付があったとのことです。これは、SNS上で、この地の御出身の方が、現在も阿井地区にお住いの御親族から聞き取り、教えてくださったものです。事務所の向かいには農業倉庫が建てられていますが、これは事務...
恵曇漁港の佐陀川の河口のところに、戦前に建てられた「恵曇製氷冷凍」の建物が残されています。来歴が分かり易く、RCの建物に「恵曇製氷冷凍」の文字が大書きされています。このRCの倉庫風の建物は現在どのように使われているのか不明ですが、「島根県の近代化遺産」のリストで「恵曇漁港倉庫(S9)」としている建物のこれである可能性があります。上掲の倉庫風の建物の裏側、佐陀川の河口沿い側には木造平屋建てが連結していて、...
最近になって解体された、島根県内の近代建築についてまとめます。初代安来銀行(M34)。最新の航空写真で確認すると更地になっています。港町・商都安来の繁栄を記憶する貴重な建物でしたが、何ら活用されることなく消えてしまいました。旧米子銀行母里支店(T9)母里の町で山陰合同銀行の代理店として近年まで現役でした。床几山配水池ポンプ室現在、公園として整備されて公開されている床几山配水池にあった、ポンプ室の建物で...
山陰本線の荒島駅駅舎です。改修されているのでそこまで古い築には見えませんが、駅舎に財産標が掲示されており、昭和10年築ということが分かりました。戦前派の木造駅舎ということになります。屋根の形状ははかま腰屋根。この時代の公共建築にありがちな形式ですね。妻面に円形の通風孔があり、このあたりが昭和のモダンな雰囲気を醸し出しています。ホームから駅舎を眺めます。駅舎からホームに差し掛けている屋根は木柱で、古レ...
「しまねインフラツーリズムガイドinIZUMO」という冊子に、一畑電鉄立久恵線桜駅の遺構が紹介されているのを見て訪問してきました。現在、一畑バスの「須谷医院前バス停」の待合所になっているのが、近隣にあった「桜駅」から移設されたものとのことです。確かにこうしてみてみると、駅のホームにある待合室っぽい感じがします。一畑電鉄立久恵線は昭和7年に大社宮島鉄道として出雲今市~出雲須佐間で運転を開始し、昭和13年に出雲...
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だいぶ以前に、浜田市外ノ浦に験潮場の施設が残っているのではないか?という記事をUPしました。その後、各種資料や、地元の方からいただいた様々な情報などから、この外浦の旧験潮場について色々なことが分かってきましたので改めてまとめます。【験潮場の外観】本来であれば波打ち際に建っているハズの験潮場ですが、近年の堤防工事により周辺は埋め立てられ、初見では何の建物か分からなくなっています。こちらはようやく入手し...
益田市の向横田にある「向横田公民館」です。石見瓦の大きな屋根が特徴的です。地域の公民館にしては、ずいぶん大柄な建物なので、気になって訪問してみました。妻面にはこのような明り取りの小窓と装飾があります。かなり歴史がありそうな建物です。公民館の裏側。三角屋根の庇が付いた出入り口があります。出入り口の拡大。建物の規模や、裏側の出入り口の感じからして、最初から公民館として建てられたものではなく、どこかの学...
かねてより、松江市立病院跡地に建設中だった松江放送局新会館が完成し、令和5年3月6日より運用が開始されました。旧放送会館の傍らにはラジオ塔が保存されておりまして、新会館への移転後にこのラジオ塔はどうなるのかと、以前松江放送局に確認しましたところ、新築に併せてラジオ塔も移築するという回答を頂きました。ところが、新放送会館の建築が進んでも、ラジオ塔は一向に移築されず、完成後の敷地を見ても、ラジオ塔が移設...
大田市静間町の旧静間小学校跡地に、小学校時代の校舎の一部が残っています。現在は縫製工場として利用されているようです。「大田市誌:十五年のあゆみ」によれば、大正2年から4年まで校舎新築大正15年理科実験室増築とあり、それ以降の増改築に記載がないので、現存する旧校舎は大正期のものの可能性があります。(国土地理院HPより)昭和51年当時の航空写真を見ますと、かつてはコの字型に校舎が建てられていたことが分かりま...
大阪朝日新聞島根版(昭和13年4月13日付)昭和13年の大阪朝日新聞島根版に、大田町の喜多八幡宮に櫻塔なる塔が建設されたという写真付きの記事を見つけました。大阪朝日新聞島根版(昭和13年4月13日付)「櫻塔」大田町北*八幡宮の櫻花は今を盛りとわが世の春を誇っているがこのほど有志によって境内に瀟洒な櫻塔が建設され優雅な夜桜に一層の風情を添え樹間を往く若人のそぞろ歩きによき道しるべとなり精彩をはなっている*「...
浜田漁港を見下ろす大歳神社の後ろに、ちょっとした展望広場がありまして、そこにはこのような洋風の東屋(ガゼポ)が残されています。正確な建築年は不明ですが、昭和8年に浜田漁港が改良された際の記念絵葉書にその姿が確認できますので、昭和8年頃までに建設されことは間違いなさそうです。キャプションに「粟島公園住吉鼻の景」とあり、粟島公園の一部だったということがわかります。浜田港を一望できる絶景スポットに建てられ...
海潮小学校のそばに、木造の建物を見つけました。海潮小学校の敷地の道を挟んですぐ隣という立地なので、学校の付属施設なのかな?という感じはしましたが現地ではよくわからず。(大東町誌より)後日、大東町誌を調べてみると、このような写真と記載がありました。「大東町誌 」(1974)より引用なお海潮青年団は昭和11年に小学校校舎に接して青年研修館を建設したが、戦後昭和27年には現在地へこれを移転増築し、現在研修・会合...