静岡県磐田市向笠(むかさ)の新豊院山遺跡(しんぽういんやまいせき)A~D地点は、曹洞宗 鷲渓山 新豊院の北・南・西側の丘陵尾根に立地しています。発掘調査では、縄文時代の竪穴式住居跡(たてあなしきじゅうきょあと)、弥生時代の土器棺墓(どきかんぼ)・土坑墓(どこうぼ)・
静岡県内の埋蔵文化財(遺跡古墳横穴窯跡経塚城跡砦陣屋)を探訪し地図付きで紹介。
旧石器、縄文、弥生、古墳、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、江戸、明治、大正、昭和時代、原始古代中世近世の歴史、郷土史のサイト。 原則リンクフリーです。
太平洋戦争 戦没者の遺品・遺書などの資料を展示公開 静岡懸護国神社 遺品館 (静岡県静岡市葵区柚木366)
静岡県静岡市葵区柚木(ゆのき)の静岡懸護国神社(しずおかけんごこくじんじゃ)は、明治32年(1899年)11月13日に共祭招魂社として創建されました。昭和14年(1939年)に静岡懸護国神社と改称し、昭和17年(1942年)に静岡市北番町から現在地へ遷座。静岡懸護国神社には、明治維新
鎌倉時代の武将 梶原景時の三男 梶原景茂を討ち取った 吉川友兼の墓 「吉川氏の墳墓」 (静岡県静岡市清水区(旧清水市)吉川)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)吉川(きっかわ)の吉川氏館跡(きっかわしやかたあと)は、鎌倉幕府御家人 吉川氏の居館跡(きょかんあと)です。平安時代末期の寿永2年(1183年)頃、源頼朝から駿河国吉河荘を所領として与えられた豪族 入江(いりえ)氏が地名の吉河(吉川、吉香)を名
鎌倉時代 梶原景時の三男 梶原景茂を討ち取った吉川小次郎友兼の居館 吉川氏館跡 (静岡県静岡市清水区(旧清水市)吉川)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)吉川(きっかわ)の吉川氏館跡(きっかわしやかたあと)は、鎌倉幕府御家人で駿河国能島荘を支配していた吉川氏の居館跡です。吉川氏の本貫地(ほんがんち)で、代々160年間この地を支配。鎌倉時代前期の正治2年(1200年)におきた「梶原景時の変」(か
鎌倉時代の武将 梶原景時親子の墓と梶原堂 (静岡県静岡市清水区(旧清水市)大内841‐64)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)大内(おおうち)の梶原堂(かじわらどう)には、鎌倉時代前期の正治2年(1200年)に「梶原景時の変」(かじわら かげときのへん)で敗れ、自害した武将 梶原景時(かじわら かげとき)親子の墓があります。五輪塔(ごりんとう)1基と宝篋印塔(ほうきょう
古墳時代後期,終末期(6~7世紀) 横穴式石室を有する円墳 鹿島古墳群 (静岡県静岡市清水区(旧清水市)梅ヶ谷字宮上463 鹿嶋神社)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)梅ヶ谷(うめがや)の鹿島古墳群(かしまこふんぐん)は、古墳時代後期~終末期(6世紀後半~7世紀)頃の、横穴式石室を有する円墳数基で構成されています。鹿嶋神社が鎮座する小丘陵に分布していますが、何基の古墳があったのか不明です。須恵器が
丘陵斜面に掘られた横穴墓 ネット初公開 山田ヶ谷南横穴群A・B群 (静岡県御前崎市(旧小笠郡浜岡町)新野坂田)
静岡県御前崎市(旧小笠郡浜岡町)新野(にいの)の山田ヶ谷南横穴群(やまだがやみなみよこあなぐん)は、丘陵斜面に掘られたA群1基・B群2基の横穴墓(よこあなぼ、おうけつぼ)3基で構成されています。静岡県内に分布する約3,000基の横穴墓は、古墳時代後期末(6世紀末頃)から古墳
戦国時代の遺構がある連郭式の平山城 釜原城跡 (静岡県御前崎市(旧小笠郡浜岡町)新野字中尾)
静岡県御前崎市(旧小笠郡浜岡町)新野(にいの)の釜原城跡(かまっぱらじょうあと)は、菊川市(旧小笠郡小笠町)との境界付近の丘陵(標高66m)に築かれた連郭式(れんかくしき)の平山城(ひらやまじょう)です。昭和47年(1972年)に廃寺となった山田ケ谷の曹洞宗 聖道寺(しょうどうじ
戦国時代 武田晴信(信玄)の父 武田信虎が居住 有東砦 (静岡県静岡市駿河区有東1丁目 有東山)
静岡県静岡市駿河区有東(うとう)の有東砦(うとうとりで)は、室町時代中期頃(戦国時代)に駿河今川氏の家臣 福島氏が、今川駿府館の支城砦として独立丘陵の有東山(標高35.4m)に築きました。室町時代後期(戦国時代)の天文10年(1541年)、甲斐(山梨県)の守護大名・戦国大名 武
今川義元公慰霊塔(墓),墨崎延命地蔵尊 臨済宗妙心寺派 花屋山 富春院 (静岡県静岡市葵区大岩本町26-23)
静岡県静岡市葵区大岩本町(おおいわほんちょう)の臨済宗妙心寺派 花屋山 富春院(ふしゅんいん)には、今川義元公慰霊塔(今川義元の墓)があります。境内の地蔵堂は、今川義元ゆかりの伝説がある墨崎延命地蔵尊(高さ約80cm)を祀る駿河一国百地蔵尊 第52番札所です。今川義元公
弥生時代の集落 奈良,平安時代の郡役所跡 益頭郡衙跡 郡遺跡 (静岡県藤枝市立花)
静岡県藤枝市立花(たちばな)の郡遺跡(こおりいせき)は、弥生時代から平安時代までを中心とする複合遺跡です。律令期(奈良・平安時代)には、駿河国益頭郡(するがのくに ましずぐん)の郡役所 益頭郡衙(ましずぐんが)が置かれていたと考えられています。出土した弥生時代の高
奈良,平安時代 国指定史跡 志太郡衙跡の関連遺跡 秋合遺跡 (静岡県藤枝市南新屋14-1 青島北地区交流センター周辺)
静岡県藤枝市南新屋(みなみあらや)の秋合遺跡(あきあいいせき、あきあわせいせき)は、国指定史跡 志太郡衙跡(しだぐんがあと、御子ヶ谷遺跡(みこがやいせき))に隣接する奈良・平安時代の遺跡です。発掘調査で見つかった井戸跡が、青島北地区交流センター「にこにこ広場」に
江戸時代後期 『駿河大地誌』撰者 河野通世の墓碑 市指定文化財 河野蓀園碑文 十石坂観音堂 (静岡県藤枝市岡部町(旧志太郡岡部町)岡部)
静岡県藤枝市岡部町(旧志太郡岡部町)岡部(おかべ)の十石坂観音堂(じっこくざかかんのんどう)には、市指定文化財の河野蓀園碑文(こうの そんえん ひぶん)があります。江戸時代後期の文化8年(1811年)3月、駿府町奉行 服部久右門貞勝(はっとり きゅうえもん さだかつ)が『駿河
白鳳時代(7世紀後半) 古代の寺院跡 尾羽廃寺跡 (静岡県静岡市清水区(旧清水市)尾羽)
静岡県静岡市清水区(旧清水市)尾羽(おばね)の尾羽廃寺跡(おばねはいじあと)は、広義の飛鳥時代(592~710年)のうちの後半に相当する白鳳時代(7世紀後半)に建てられた寺院跡です。金堂跡(こんどうあと)・講堂跡(こうどうあと)・中門跡(ちゅうもんあと)などの遺構が発見され、
奈良・平安時代 国有の馬の牧場 白羽官牧跡 (静岡県御前崎市(旧榛原郡御前崎町)白羽 御前崎台地)
静岡県御前崎市(おまえざきし)は、離島を除き県内最南端の岬「御前崎」がある海の街として有名です。地名の由来は、御厩崎(うまやざき)から転化したという説があります。平安時代中期に編纂された古代法典『延喜式』(えんぎしき)には、白羽官牧(しろわのかんまき)が置かれ
巨岩の磐座(いわくら) 立石稲荷(波田のお稲荷さん) (静岡県島田市野田波田)
静岡県島田市波田(はだ)の立石稲荷(たていしいなり)は、岩陰(いわかげ)に稲荷社(いなりしゃ)が祀られた磐座(いわくら、神が降臨する場所とされる巨岩)です。「波田のお稲荷さん」とも呼ばれ、商売繁盛・大漁祈願・家内安全などに御利益があるとされています。御神体(ごしん
江戸時代? 一字一石経が出土 祖父ヶ谷経塚 (静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)勝田伏方祖父ヶ谷)
静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)勝田(かつた)の祖父ヶ谷経塚(そふがやきょうづか)は、近世(江戸時代)の築造だと推測される経塚です。お経を扁平(へんぺい)な河原石に一文字づつ墨書(ぼくしょ)した、一字一石経(いちじいっせききょう)が出土。天災・飢饉(ききん)・疫病(えき
唐人お吉をハリスに紹介 下田奉行支配組頭 伊佐新次郎峯(岑)満の墓所 曹洞宗 京満山 法林寺 (静岡県島田市阪本4120)
静岡県島田市阪本(さかもと)の曹洞宗 京満山 法林寺は、旧幕臣の伊佐新次郎峯(岑)満(いさ しんじろう みねみつ)の墓所です。幕末の安政3年(1856年)、タウゼント・ハリスがアメリカ駐日総領事として来日し、曹洞宗 瑞龍山 玉泉寺(静岡県下田市柿崎)にアメリカ総領事館を開
江戸時代 天明の大飢饉 民衆救済のため建立 市指定史跡 妙昌寺経塚 曹洞宗 海照山 妙昌寺 (静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)細江854⁻1)
静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)細江(ほそえ)の市指定史跡 妙昌寺経塚(みょうしょうじきょうづか)は、曹洞宗 海照山 妙昌寺境内に建立されています。別名は青池経塚。安土桃山時代の天正10年(1582年)、曹洞宗 日照山 円成寺(牧之原市細江)6世 伝室全鏡がこの地へ隠居した
未調査の後期群集墳 円墳20基以上 ネット初公開 東山南古墳群 (静岡県島田市阿知ケ谷字東山前)
静岡県島田市阿知ケ谷(あちがや)の東山南古墳群(ひがしやまみなみこふんぐん)は、天満天神社北側の山林(標高約90~110m付近)に分布する20基以上(23基?、25基?)の円墳で構成。『静岡県史』には、天神山古墳として記載。未調査ですが、古墳時代後期(6世紀)以降に築かれた横
呪われた盗掘者が建立した「古墳の碑」 古墳時代後期・終末期の群集墳 谷口原古墳群 (静岡県島田市阪本字谷口原)
静岡県島田市阪本(さかもと)の谷口原古墳群(やぐちばらこふんぐん)は、牧之原(牧ノ原)台地の東端に築かれた、古墳時代後期(6世紀中頃)から終末期(7世紀)の群集墳です。牧之原台地は東洋最大の茶園が広がるお茶の産地で、谷口原古墳群の20基以上(200基説もあり)あった古墳の
未発掘の横穴式石室 古墳時代後期(6世紀)以降の円墳 伏方古墳 (静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)勝田伏方235)
静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)勝田(かつた)の伏方古墳(ふせかたこふん)は、古墳時代後期(6世紀)以降に築かれた横穴式石室を有する円墳です。 牧之原市の古墳の多くは茶園の開墾で消滅しており、旧榛原町では唯一未発掘の石室だといわれています。 羨道は破壊されているよ
「ブログリーダー」を活用して、しずおかkさんをフォローしませんか?
静岡県磐田市向笠(むかさ)の新豊院山遺跡(しんぽういんやまいせき)A~D地点は、曹洞宗 鷲渓山 新豊院の北・南・西側の丘陵尾根に立地しています。発掘調査では、縄文時代の竪穴式住居跡(たてあなしきじゅうきょあと)、弥生時代の土器棺墓(どきかんぼ)・土坑墓(どこうぼ)・
静岡県磐田市匂坂上(さぎさかかみ)の馬坂上古墳群(うまさかかみこふんぐん)は、磐田原台地(いわたはらだいち)西縁辺上に分布する22基の小円墳で構成。天竜川左岸(東岸)の磐田原台地には、古墳時代に多数の古墳が築かれました。茶園開墾・道路建設・土採り工事などで古墳が
静岡県掛川市各和(かくわ)の旗差古墳群は、古墳時代後期(6世紀)以降の築造と考えられる円墳3基で構成されています。段丘上の旗差2号墳は削平され茶園になって消滅し、旗差1・3号墳が段丘端部の山林内に残存。旗差古墳群
静岡県菊川市(旧小笠郡小笠町)高橋(たかはし)の県指定史跡 舟久保古墳(ふなくぼこふん)は、標高約73mの丘陵上に築かれた古墳時代中期(5世紀頃)の前方後円墳です。船窪古墳、船久保古墳と表記された文献もあります。墳長は約49m、後円部の直径約26m、後円部高さ約3.5m、前方
静岡県菊川市(旧小笠郡菊川町)西方(にしかた)の掘田城跡(ほったじょうあと)は、曹洞宗 拈華山 正法寺(ねんげざん しょうぼうじ)西側の丘陵の細尾根に築かれた山城です。松下城跡とも呼ばれ、遺構(曲輪(くるわ)、土塁(どるい)、十数条の堀切(ほりきり))が確認できます。室町
静岡県島田市阿知ヶ谷(あちがや)の馬平遺跡(まだいらいせき)は、縄文時代晩期(約3,300~2,800年前)を中心とする集落遺跡です。明治35年(1902年)頃、道路建設のため丘陵を開墾したところ、縄文時代の石鏃(せきぞく)、石斧(せきふ)、石錐(いしきり、せきすい)、石剣(せっけん
静岡県島田市阪本(さかもと)の東照宮遺跡(とうしょうぐういせき)は、縄文,平安,鎌倉時代などの複合遺跡です。東洋最大の茶園が広がる、大井川右岸の牧ノ原(牧之原)台地に所在。茶園改植(茶樹の植え替え)に伴う発掘調査では、建物跡・柱穴(ちゅうけつ、はしらあな)などの遺
静岡県島田市野田(のだ)の鵜田古墳群(うだこふんぐん)は、野田山(標高143.3m)東裾部の舌状台地に分布する古墳15基で構成された群集墳(ぐんしゅうふん)です。古墳時代後期(6世紀代)に築造された、主体部(埋葬施設)が横穴式石室の円墳だと考えられています。島田市大津地区(
静岡県焼津市西小川(小川字小深田)の小深田西古墳群(こふかだにしこふんぐん)は、古墳時代前期前半(4世紀前半頃)の築造と考えられる方墳5基(4基?)で構成されています。大井川水系によって形成された、沖積地(大井川平野)の小川(こがわ)微高地上(標高約3m)に立地。昭和57年
静岡県静岡市清水区(旧清水市)宮加三(みやかみ)の市指定史跡 清水天王山遺跡(しみずてんのうざんいせき)は、縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡です。縄文時代後期・晩期の集落で、発掘調査では平地式住居跡3軒、集石墓、貯蔵穴などが見つかっています。静岡県中部を
静岡県牧之原市(旧榛原郡相良町)大江(おおえ)の臨済宗妙心寺派 吸江山 平田寺(きゅうこうざん へいでんじ)は、鎌倉時代の弘安6年(1283年)に龍峯宏雲(りゅうほう こううん)が開きました。平田寺の裏山には、西国三十三番観音霊場札所巡りにならったミニ巡礼コースがあります
静岡県藤枝市助宗(すけむね)の助宗古窯跡群(すけむねこようせきぐん)は、奈良~平安時代に須恵器、平安~鎌倉時代には灰釉陶器(かいゆうとうき)・山茶碗(やまぢゃわん)を焼いていました。別名は助宗窯跡群で、山茶碗の窯跡としては東海地域最東端です。100基以上の窯跡が、
静岡県静岡市清水区(旧清水市)草ヶ谷(くさがや)の庵原城(いはらじょう)は、戦国時代に今川氏の重臣 庵原氏が築城したといわれています。別名は城山(しろやま)、庵原山城(いはらやまじょう)。新東名(第二東名)高速道路建設のため、庵原城跡の南側半分で発掘調査が行われまし
静岡県袋井市(旧磐田郡浅羽町)諸井(もろい)の十二所居館跡(じゅうにしょきょかんあと)は、浅羽低地(あさばていち)の微高地(河川が運んだ土砂の堆積した自然堤防上)に築かれた中世居館跡です。諸井十二所居館(もろいじゅうにしょきょかん)、心宗院居館跡(しんそういんきょか
静岡県静岡市駿河区向敷地(むこうしきじ)の曹洞宗 大窪山 徳願寺には、駿河国守護 今川義忠(いまがわ よしただ)の正室 北川殿の墓(五輪塔)があります。北川殿は、今川義元(いまがわ よしもと)の祖母です。奈良時代の養老元年(717年)、徳願寺は真言宗の寺院として創建。
静岡県静岡市駿河区丸子(まりこ)の丸子城(宇津谷城、三角城)は、室町時代の応永年間(1394~1428年)に駿河国の守護大名 今川氏の家臣 斎藤安元が築造しました。室町時代末期(戦国時代)の永禄11年(1568年)、駿河(静岡県中部)に侵攻した甲斐(山梨県)の戦国大名 武田信玄(たけ
静岡県静岡市駿河区用宗(もちむね)の持舟城(もちふねじょう)は、戦国時代に徳川家康が攻略した武田水軍の拠点の山城です。用宗城(もちむねじょう)とも呼ばれます。江戸時代までの持舟城周辺は、北側は深田と沼地・西側は交通の難所の大崩海岸・南側の城下は駿河湾の入江に
静岡県袋井市川井(かわい)の曹洞宗 玉照山 円通寺(えんつうじ)には、歴代の川井代官の墓があります。江戸時代前期の寛永10年(1633年)頃、幕府が遠江国山名郡(とおとうみのくに やまなぐん) 袋井宿周辺の天領(幕府の直轄地)8万石余りを支配するため、円通寺の南側に川井代
静岡県袋井市春岡(はるおか)の本庄山砦(ほんじょうざんとりで)は、曹洞宗 安養山 極楽寺の北側にある春日山(標高約70m)に築かれた平山城です。砦の南方(小字天白)には、村松武大夫館跡と伝えられる場所があります。戦国時代の永禄年間(1558~1570年)に、宇刈七騎のひとりで
静岡県菊川市(旧小笠郡小笠町)川上(かわかみ)の代之谷古墳(だいのやこふん)は、古墳時代後期(6世紀)以降に築かれた横穴式石室を有する円墳です。八幡神社境内に単独で所在する古墳で、箱形石棺が見つかっています。代之谷古墳
静岡県島田市金谷(旧榛原郡金谷町)の島田市立金谷図書館 展示コーナーで、国指定史跡 諏訪原城跡(すわはらじょうあと)の発掘調査で見つかった出土品や関連資料を展示した企画展『諏訪原城の魅力―近世城郭につながる山城―』が開催されました。諏訪原城は、戦国時代の天正
静岡県島田市金谷(旧榛原郡金谷町)代官町(だいかんちょう)の島田市立金谷図書館 展示コーナーで、 企画展『これからどうなる!?諏訪原城―平成25年度の発掘調査の成果と史跡整備事業―』が開催されました。史跡整備のため発掘調査を実施した国指定史跡 諏訪原城跡の関連資
静岡県島田市金谷(旧榛原郡金谷町)代官町(だいかんちょう)の島田市立金谷図書館 展示コーナーで、 企画展『諏訪原城(すわはらじょう)と史跡整備された山城写真展』が開催されました。史跡整備のため発掘調査を実施した国指定史跡 諏訪原城跡の出土品や、絵図・推定復元図な
静岡県内の公共施設で開催された、静岡県埋蔵文化財センター巡回展『いつもそばに動物(きみ)がいた ~出土品から知るヒトと動物の歴史~』の様子を紹介します。県内の遺跡・古墳から出土した動物に関わりのある遺物(石器・土器・陶磁器・馬具・動物の骨)を展示する考古学展
静岡県浜松市中区東伊場(ひがしいば)の伊場遺跡(いばいせき)は、縄文時代から鎌倉時代にかけて断続的に集落が営まれてきた場所です。史跡公園として整備された伊場遺跡公園(いばいせきこうえん)には、古墳時代の竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)や律令期(奈良、平安時代
静岡県浜松市中区蜆塚(しじみづか)の蜆塚公園(しじみづかこうえん)には、縄文時代後期~晩期(約4,000~3,000年前)の貝塚集落である国指定史跡 蜆塚遺跡(しじみづかいせき)と、蜆塚古墳群(しじみづかこふんぐん)、浜松市博物館があります。浜松市博物館は、縄文時代の蜆塚遺
静岡県浜松市中区蜆塚(しじみづか)の蜆塚公園(しじみづかこうえん)には、縄文時代後期~晩期(約4,000~3,000年前)の貝塚集落である国指定史跡 蜆塚遺跡(しじみづかいせき)と、蜆塚古墳群(しじみづかこふんぐん)、浜松市博物館があります。浜松市博物館は、縄文時代の蜆塚遺
静岡県浜松市中区蜆塚(しじみづか)の蜆塚公園(しじみづかこうえん)には、縄文時代後期~晩期(約4,000~3,000年前)の貝塚集落である国指定史跡 蜆塚遺跡(しじみづかいせき)と、蜆塚古墳群(しじみづかこふんぐん)、浜松市博物館があります。浜松市博物館は、縄文時代の蜆塚遺
静岡県浜松市中区蜆塚(しじみづか)の蜆塚公園(しじみづかこうえん)には、縄文時代後期~晩期(約4,000~3,000年前)の貝塚(かいづか)・集落(ムラ)である国指定史跡 蜆塚遺跡(しじみづかいせき)と、蜆塚古墳群(しじみづかこふんぐん)、浜松市博物館があります。浜松市博物館は
静岡県浜松市中区蜆塚の蜆塚公園(しじみづかこうえん)には、縄文時代後期~晩期(約4,000~3,000年前)の貝塚集落である国指定史跡 蜆塚遺跡(しじみづかいせき)と、蜆塚古墳群(しじみづかこふんぐん)、浜松市博物館があります。浜松市博物館は、縄文時代の蜆塚遺跡、弥生時代
静岡県焼津市(旧志太郡大井川町)宗高(むねだか)の宗高権現(むねだかごんげん)は、市指定史跡 徳川家康公床机据え跡(とくがわいえやすこう しょうぎすえあと)です。安土桃山時代末期の慶長6年(1601年)と江戸時代初期の11年(1606年)、鷹狩りでこの地を訪れた徳川家康(とくが
静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)静波(しずなみ)の白百合遺跡(しらゆりいせき)は、弥生・奈良時代、中世(平安時代末期から鎌倉時代)にかけての複合遺跡です。 海浜平野の砂堤列上(標高約3m)に築かれた集落で、当時は今よりも海岸が近くにありました。地表から約1mの深さで
静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)静波(しずなみ)の白百合遺跡(しらゆりいせき)は、弥生・奈良時代、中世(平安時代末期から鎌倉時代)にかけての複合遺跡です。 海浜平野の砂堤列上(標高約3m)に、集落が営まれていました。発掘調査では、弥生土器(やよいどき)、胎児(たいじ)
静岡県焼津市鰯ヶ島(いわしがしま)には、再現された明治時代の石造り防潮堤(ぼうちょうてい)があります。明治時代後期まで簡単な波除けの堤しか無く、暴風雨の荒波によって民家・船が度々被害を受けていたため、静岡県へ防潮堤建設を陳情。明治32~40年(1899~1907年)、静
静岡県牧之原市(旧榛原郡榛原町)坂口(さかぐち)の「堂ヶ谷廃寺・堂ヶ谷経塚(堂ヶ谷遺跡)」(どうがやはいじ・どうがやきょうづか(どうがやいせき))は、富士山静岡空港建設に伴う調査で見つかりました。平成17年(2005年)5月から平成19年(2007年)3月に、発掘調査を実施。富士
静岡県袋井市は、江戸時代前期の元和2年(1616年)までに東海道 袋井宿(ふくろいしゅく)が整備されました。東海道五十三次の、江戸と京都のちょうど中間にあたる27番目の宿場です。袋井市立袋井図書館で開催された、企画展『袋井宿とまわりの風景展』の様子を紹介します。浮
静岡県静岡市駿河区谷田(やだ)の谷田古墳群(やだこふんぐん)は、静岡県立美術館がある有度丘陵(うどきゅうりょう)の谷田原に分布する古墳時代後期(6世紀)・終末期(7世紀)の大規模な後期群集墳です。昭和30年代には、静岡大学が谷田古墳群に含まれる下中林1号墳(しもなかば
静岡県静岡市駿河区登呂(とろ)の国指定特別史跡 登呂遺跡(とろいせき)は、静岡平野に立地する弥生時代後期(約1,900年前)のムラ(集落)です。周辺は登呂公園として史跡整備され、小さな区画に区切られた弥生時代の水田と、復元住居・高床式倉庫が並んだムラを再現。公園内の
静岡県静岡市駿河区登呂(とろ)の国指定特別史跡 登呂遺跡(とろいせき)は、静岡平野に立地する弥生時代後期(約1,900年前)のムラ(集落)です。周辺は登呂公園として史跡整備され、小さな区画に区切られた弥生時代の水田と、復元住居・高床式倉庫が並んだムラを再現。公園内の
静岡県静岡市清水区(旧清水市)庵原町(いはらちょう)の午王堂山古墳群(ごおうどうやまこふんぐん)は、前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)1基(3号墳)、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)または円墳(えんふん)1基(1号墳)、方墳(ほうふん)1基(2号墳)で構成。午王堂山1・2号墳は