香取神宮から東に少し行くと赤い鳥居が沢山あるお稲荷さんがあります。ここにも昔何度も来たことがありましたが、久しぶりでしたので立ち寄りました。上の写真の奥、写真にはほとんど写っていませんが、拝殿前に大きな狐の石像が置かれています。日本一の狐の眷属だとの説明があります。ここも、神社奥の牛の像などは見ずに次に向かいました。...
2025年7月
香取神宮から東に少し行くと赤い鳥居が沢山あるお稲荷さんがあります。ここにも昔何度も来たことがありましたが、久しぶりでしたので立ち寄りました。上の写真の奥、写真にはほとんど写っていませんが、拝殿前に大きな狐の石像が置かれています。日本一の狐の眷属だとの説明があります。ここも、神社奥の牛の像などは見ずに次に向かいました。...
先週銚子へ行く時に、匝瑳の方に行きたいところもあり、久しぶりに香取仁ぐ前を通った。ただ時間も無く、参拝は又の機会にしてトイレ休憩程度で。こちらの神宮は鹿島とは違って入口駐車場は無料である。朝早い時間で、まだ参拝客もあまり多くはない。駐車場わきに設けられたトイレも新設されたようできれいだった。男女別の入口に地元作家の切り絵で製作されたマーク絵があしらわれていた。こんなのもいいですよね。どこかほっこ...
2025年7月
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香取神宮から東に少し行くと赤い鳥居が沢山あるお稲荷さんがあります。ここにも昔何度も来たことがありましたが、久しぶりでしたので立ち寄りました。上の写真の奥、写真にはほとんど写っていませんが、拝殿前に大きな狐の石像が置かれています。日本一の狐の眷属だとの説明があります。ここも、神社奥の牛の像などは見ずに次に向かいました。...
先週銚子へ行く時に、匝瑳の方に行きたいところもあり、久しぶりに香取仁ぐ前を通った。ただ時間も無く、参拝は又の機会にしてトイレ休憩程度で。こちらの神宮は鹿島とは違って入口駐車場は無料である。朝早い時間で、まだ参拝客もあまり多くはない。駐車場わきに設けられたトイレも新設されたようできれいだった。男女別の入口に地元作家の切り絵で製作されたマーク絵があしらわれていた。こんなのもいいですよね。どこかほっこ...
常陸国の古代郡衙として「新治郡衙」「鹿島郡衙」「筑波郡衙」「那珂郡衙」などが分って来て、その発掘調査なども行われてきているが、常陸国国衙のある現在の石岡にあったと言われている「茨城郡衙」は何処にあったのだろうか?茨城廃寺(ばらきはいじ)跡の発掘調査などは行われ、その法隆寺式伽藍配置などが分ってきているが、7世紀後半に茨城郡の郡衙が那珂郡との境界割でここ石岡の地に移されたとされ、郡衙と国衙が石岡に...
(地名の研究・最終回です)境の山に矢立という地名の多いのは注意する必要がある。国境の境ならずとすればすなわち荘郷の榜示(ぼうじ)の地点であろう。磐城相馬郡玉野村大字東玉野字矢立沢磐城刈田郡七ヶ宿村大字渡瀬字矢立平甲斐東山梨郡神金(かみかね)村上萩原組字矢立石対馬(つしま)佐須村大字久根田舎(くねいなか)字矢立山<矢立地名>宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立 ミヤギケンカッタグンシチカシュクマチヤタテ宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立平 ミヤギケンカッタ...
遠州京丸(きょうまる)の牡丹(ぼたん)の話、あれは今の周智(しゅうち)郡気多(けた)村大字小俣(おまた)京丸の一部である。人の住む在所である。路が遠くて悪いのは人家の数が少なく経済力が弱いためである。たまたまその土地の名を奥山などと呼ぶために、不当な概念ができてしまった。京丸という地は多分は京往きの夫役(ふえき)を、世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろう。静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸 シズオカケンハママツシテンリュウ...
この「鉦打(かねうち)」地名は、以前鉦打(かねうち)部落の住んでいたためにできたものと思う。下総の三ヶ尾(現千葉県野田市)のことは前にも話が出ている(柳田、念仏団体の変遷、郷土研究二巻二号)がこれらの土地の現状はいかん。常陸筑波(つくば)郡鹿島村大字古川字鉦打下総猿島(さしま)郡弓馬田(ゆまだ)村大字弓田(ゆだ)字鐘打下総香取郡古城村大字鏑木(かぶらぎ)字蟹打台(かにうちだい)下総印旛(いんば)郡公津(こうづ)村大...
「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
茨城県を中心に関東にたくさんの店舗を構えるカスミストア(スーパーカスミ)の1号店は御存じですか?昭和36年(1961)株式会社霞ストアーとして、7月に茨城県石岡市金丸店を1号店として開店しています。この場所は現在の常陽銀行の裏側の通り沿いでした。現在のラーメン屋「珍来」さんに隣接した場所です。(写真集:昭和の肖像より拝借)写真のように「霞ストアー」となっており、店の右上に「霞」と書かれたマークがついてい...
年に1回から2回、このブログに紹介した内容を本にまとめることを計画し、今までに40冊ほど書籍としてまとめて来た。6月末として1冊をまとめ上げたので紹介しておきます。「芭蕉・一茶・子規 それぞれの常陸国紀行」 A5サイズx173頁子規句碑:藤代:旅籠屋の 門をいづれば 春の雨土浦:霞みながら 春雨ふるや 湖の上石岡:二日路は 筑波にそふて 日ぞ長き千波湖:この家も 鴨ものぞくや 千波沼好文亭:崖急に ...
潮来の古刹「長勝寺」の本堂脇に大きな菩提樹の木がある。そのわきに芭蕉が鹿島紀行時に訪れた潮来の本間道悦の「自準亭」で詠んだ句の石碑が置かれている。またこの菩提樹の麓に石の地蔵像と「無縁萬霊供養塔」が置かれている。そしてそこから左手は寺の墓所になるが、その入り口付近に大きな供養塔があった。「倶會一処」 形見とて何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉 良寛良寛和尚の句が書かれてい...
この梅雨時に出掛けてもあまり立ち寄るところも思い浮かばない。少し遅いが潮来の長勝寺に紫陽花と新緑でも愛でて行こうと立ち寄った。本堂手前の菩提樹の花が咲いているかとも思ったがもう咲いてはいなかった。カメラで少し枝の先を追ってみたが、見えたのは1匹の蝸牛(かたつむり)だ。最近はあまり見かけなくなったようにも思えるが、これも私の目が鈍くなってきたせいだろうか。でも気持ちよさそうに動こうとしない。梅雨時...
先日鹿島神宮へ行ったが、昼食時間になっていたこともあり、初めて御手洗池口へ車で向かった。この池の近くにお茶屋(一休:ひとやすみ)があり、蕎麦を出していて比較的評判が良かったので、折角ならと思い一番近いこちらの入口に行ってみたのだ。駐車場はこちらの大きな鳥居の手前に設けられていて、無料でおける。それにしても思ったよりずっと立派でこちらの入口周辺はきれいに整備され、とても気持ちが良い。調べて見るとこ...
鹿島神宮の正面から工事中の楼門の下をくぐって境内に入りました。6月ですので、正面に大きな茅の輪が置かれています。大型バスが駐車場に到着して、ぞろぞろと団体客がバスのガイドさんに案内されてやってきました。皆続々と楼門下をくぐり、茅の輪を三回くぐって、拝殿に向かわずにめのまえにある境内摂社の「高房社」に並んでお詣りし、其れから右側日本で拝殿側に向かっていきました。 あまり見向きもされていなかったと...
常陸国風土記の勉強会と称して鹿島郡を案内した。摂社である沼尾神社、坂戸神社、跡宮などを案内して、大船津の一の鳥居を経由して鹿島神宮へ向かった。鹿島神宮も文化庁から認可になった7年計画大修理の最中であり、奥宮、拝殿などの修理と祈祷殿・社務所などの建設もようやく今年春に終わり、見違えるほどきれいになった。現在は入口の楼門修理中であり、朱色の楼門はすっかり白い布で覆われて見ることはできなかった。これも...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...