香取神宮から東に少し行くと赤い鳥居が沢山あるお稲荷さんがあります。ここにも昔何度も来たことがありましたが、久しぶりでしたので立ち寄りました。上の写真の奥、写真にはほとんど写っていませんが、拝殿前に大きな狐の石像が置かれています。日本一の狐の眷属だとの説明があります。ここも、神社奥の牛の像などは見ずに次に向かいました。...
地名と地理(1) 地名研究の学術分野(注:本論文は日本地理学会が1925(大正14)年に発行を開始した機関誌「地理学評論」の昭和7年に載せた論文である。従って読者の対象者は「地理学」に携わる学生たちが主と思われる。) 地名を調査して一つ一つを解説し、一般的傾向を要約した書物は西洋では多くの国で出されており、これを独立した一つの学問分野と見ることはできない。地名の研究には、いろいろの文化現象に興味をもち、...
地名の話(3) 区割するための地名 開墾地ではまたその内を区割するための地名を必要とする。二つに切って上下東西に分ける場合はいうまでもなく、共同開墾人が五人八人で分けて持つべき場合には一々の地名がいるのである。大和朝初期の地租改正法は、明治九年のやり方よりもいっそう激烈なものであった。今まで居住者のあった村は古くからの字・小字も多かったろうに、それをドシドシと改めて行って、新たに条里の制をしいた。三...
地名の話(2) 開墾地の総称 第一期の地名:地名には一種の拡充性ともいうべきものがある。・最初は一地点または一地形に附与した名前を、これを包含している広い区域にも採用して行く風習がある。たとえば女夫(めおと)岩という二つの岩の屹立している所があると、それに接続している数町歩の田畑または村里の字をも女夫岩という。また、ドウメキ、ザワメキ、ガラメキなどはもと水の音を形容した地名であるが、瀬の早い川の岸に...
三年程前に、山上氏の手紙の中に、神保(じんぼう)氏の話と記憶するが、こんなことが書かれていた。「日本の地名には意味の不明なものがはなはだ多い。アイヌなどとは大いに違うと平生いっておられる。」この一言は予にとっては感謝すべき刺戟であった。自分はこの言葉をこう解した。『日本内地における地名の大多数は、まだ説明することができないものが多い。これをだんだん研究し説明して行くならば、将来地理学上・言語学上む...
本ブログでも茨城県・千葉県・埼玉県と三県にわたって「難読地名」を取り上げ、その地名の発祥由来などを調べてきました。しかし、やはり基礎知識が少ないこともあり、肝心なところで解釈にブレが生じており、すこし勉強を加える必要を感じ、民俗学の父とも云われる柳田國男の「地名の研究」について、少し真面目に読み下してみたいと思うようになりました。この書物は、明治終わりころから昭和の初期に柳田國男が各誌に発表した...
真壁地区の散策も、やはり雨が結構降ってきたので帰ろうかとも思いましたが、やはり予定通り薬王院(椎尾薬師)に立ち寄ることにしました。椎尾(しいお)の名の通り椎の木の古木が沢山あるこの古刹。筑波四面薬師としても12月に石岡市内の講演会でも紹介しましたので、昨年も訪れており、今年も少し前にも訪れています。やはり雨が結構降っており、他の参拝者もほとんどおりませんでした。社務所の方にも「足元にお気をつけて・...
桜川市真壁町の総鎮守とされる「五所駒瀧神社」は新緑に包まれひっそり佇んでいました。元々は真壁氏の創建とされ、鹿島神宮のタケミカヅチを祀っていた神社ですが、別に4社を合祀して、「五所」と名前に冠して今の名前になりました。秋には紅葉が境内を赤・黄に染めます。上曽峠を真壁に下る途中に鎮座しています。神社のすぐ上に「分水嶺」の大きな石碑が建っています。境内を流れる清らかな水が心に積るわだかまりなどもスッ...
13日の日曜日、小雨の中真壁の町へ。真壁氏の城跡が国の指定史跡に指定されたのは平成6年とある。筑波山系の山懐に囲まれた様に雄大な城跡の敷地が残されている。このあたりの中世の城は山城が多い中、東側の裏山を背にして、西に開かれた麓平野に町が広がる。桓武天皇の曾孫から民間に降った桓武平氏の流れをくむ北条多気山の多気氏から分かれた一族がここ真壁に居を構えて「真壁氏」と呼ばれたが、佐竹氏の家臣となって、佐...
桜川市真壁町に戦時中の小学校に置かれた「奉安殿(ほうあんでん)」が残されており、見てきた。戦後GHQの市道でほとんどが壊されて残存する物も少ないが、ここにはきれいに残されている。旧真壁駅のすぐ近くの通り沿いにポツンと置かれており、説明板などは一切ない。菊の御紋のある大火式の独立型の立派な建物だ。内部には、明治・大正・昭和の3代の天皇、皇后さまのお写真と、教育勅語などが額に入れて飾られている。各学校...
桜川市の雨引山で奇祭「マダラ鬼神祭」が4月第2日曜日の13日に行われました。毎年桜のこの時期に行われる奇祭です。マダラ神(摩多羅神 )は天台宗の常行堂の後戸に祀られて、人前にその姿をさらすことが殆どない神と云われ、能楽などの芸能の神とも云われていますが、ここ雨引山楽法寺の祭りの起源話としては「裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。 当山はこのため炎上...
昨日銚子に行くときに思いついて、浮島にある和田公園に立ち寄りました。浮島(稲敷市)も昔は霞ケ浦に浮かぶ島でしたが、江戸時代に灌漑も進んで陸地と繋がりました。霞ヶ浦沿岸を車で走ると、この時期は田植えの準備で田に水が張られて水面が輝いて・・・・出も既に田植えを終えたところもあり、田植中の所もありました。田植えも、いつもの年より少し早そうです。また、和田公園のチューリップ公園は13日の日曜日に「チューリ...
埼玉県の難読地名(51) 天目指峠、出牛峠、粥新田峠 (最終)
天目指峠【あまめざすとうげ】・・・飯能市 出牛峠【じゅうしとうげ】・・・皆野町/長瀞町 粥新田峠【かゆにたとうげ】・・・皆野町/東秩父村山の名や峠の名前には良く首をかしげたくなる名前がついていたりします。埼玉県も秩父地方を抱えており、西部の山には変わった峠の名前があります。ここにその一部を拾ってみました。 天目指峠【あまめざすとうげ】名栗と吾野を結ぶ県道395号線が通る峠で、かなり勾配がきつい峠(...
贄川【にえがわ】・・・秩父市 露梨子【つゆなし】・・・寄居町 樋籠【ひろう】・・・春日部市 贄川(にえがわ):荒川上流部にある支流に川の名として贄川があり、その一帯に「贄川村」が明治22年まであった。戦国期から地名として見られ、その後大字として贄川が残った。 現在は秩父市の地名として「荒川贄川」と表記されている。地名の由来は角川の地名辞典には次の2つを挙げている。①、贄の魚を捕る渓流の意(秩父郡...
今羽【こんば】・・・さいたま市北区 仁手【にって】・・・本庄市 仏子【ぶし】・・・入間市 今羽(こんば):荒川右岸の大宮台地上にあり、東と南に見沼の低地がある。江戸期より今羽村があり、明治35年に今羽町となり、大宮市の町名となり、現在はさいたま市北区の町名として残る。地名の由来についてはよくわかっていません。 仁手(にって):利根川中流右岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、戦国期から見える地名である...
小手指【こてさし】・・・所沢市 差間【さしま】・・・川口市 白井差【しらいざす、しろいざす】・・・小鹿野町武蔵国であった埼玉県南部は「指」「差」という字に「さし」「さす」といった読み方をする地名があります。以前あげた地名にも「指扇(さしおうぎ)」という地名もありました。どこか共通した地名のようです。これは武蔵(むさし)の「さし」にも共通する発音で、一般には「焼畑」の意味だとされています。新たに開...
八甫【はっぽう】・・・久喜市 八基【やつもと】・・・深谷市 三九【さんく】・・・三郷市八甫(はっぽう):「八浦」とも書くと、地名由来は「旧利根川流路に面し、8つの浦があったことによる(新編武蔵)が、不祥という。ただ場所は中世から河川交通の要所で重要な河岸場であったという。また、八ヵ村に囲まれた地から八方と言われて「八甫」となったという説もあるがはっきりしない。また洪水でしばしば被害を受けている。...
曲本【まがもと】・・・さいたま市南区 曲田【まがつた】・・・深谷市 曲師【まげし】・・・川島町 曲本(まがもと):「まげもと」ともいう。荒川下流左岸の平地に位置する。美女木のすぐ北側にあたる。荒川が曲がっているところではあるが、昔の荒川はどのような流れであったのかはよくわからない。 曲田(まがつた):角川の地名辞典では「まがりた」とあり、平凡社では「まがつた」とある。 郵便番号住所は「まがつた」...
吉妻【きつま】・・・春日部市 吉敷【きしき】・・・さいたま市大宮区 吉妻(きつま):角川の地名辞典では、「きつま」の「き」は城か柵を表し、「つま」は隅と解されることから地名は柵の隅と地の意という(地名誌)。と書かれている。この「き」が城や柵をあらわしているのは、東国地方には多く存在し、昔の蝦夷人たちとの境界に「柵=き」を作っていたことの表れだと思われる。古代朝鮮語(百済?)での「キ」は「城」を意...
上谷【かみやつ】・・・越生市 上谷塚【かみやつか】・・・草加市 上八ツ林【かみやつばやし】・・・川島町 上谷(かみやつ):「上谷戸」とも書き、上殿川の山間地に位置するという。村名も室町期から見られる。単純に「谷津、谷戸:やつ」の谷地形から付けられた地名と思われる。 上谷塚(かみやつか):越生郷の村の一つで、中谷塚、下谷塚があり、八つ塚(古墳など)の伝承がある。明治22年にこの3ヶ村を含む7ヶ村が合...
馬内【もうち】・・・加須市 鹿手袋【しかてぶくろ】・・・さいたま市南区 鹿室【かなむろ】・・・さいたま市岩瀬区 馬内(もうち):会ノ川の自然堤防上に位置し、地名の由来は牧草地が多く馬が多く飼われていたことによる。とされる。<県内の「馬のつく地名>埼玉県さいたま市西区西遊馬 サイタマケンサイタマシニシクニシアスマ埼玉県さいたま市緑区馬場 サイタマケンサイタマシミドリクバンバ埼玉県さいたま市岩槻区馬込 サイタマケンサイタマシイワツキクマゴメ埼玉県行田市...
名栗【なぐり】・・・飯能市 名細【なぐわし】・・・川越市 名栗(なぐり):名栗川、名栗渓谷、名栗湖などと今でも観光地として「名栗(なぐり)」の名前は残っていますが、都市としての「名栗村」の名前は2005年に飯能市に編入されて消えました。この名栗川や名栗渓谷などは私も子供時分に小学校の遠足などで行った事があります。名栗の名前の由来は① 古くから栗の名産地② ナ・クリ(刳)で浸食地③ 狸が多くいたため...
都幾川【ときがわ】・・・比企郡ときがわ町 都家郷【つけのごう】 大調郷【おおつきのごう】 都幾川(ときがわ):この「都幾川」も現在は市町村名では「ときがわ町」とひらがな表記になってしまいました。越辺川の支流に「都幾川(ときがわ)」という名の川があり、この名前があって都幾川村が村名となったと言われています。ただ、都幾山(ときさん)という山もあり、都伎山とも書いていたりもしますので「とき」という言葉...
埼玉【さいたま】【さきたま】 行田【ぎょうだ】 久喜【くき】今回は一般に使われていますので特に読みにくいという地名ではないですが、地名の由来なども気になりますので載せておきます。埼玉(さいたま):埼玉県の名前ですのでどなたも読めると思いますが、初めて目にしたら読めませんね。普通に読んだら「さきたま」でしょうか。こちらは行田市にある「埼玉」は「さきたま」と読みます。埼玉の名前は律令国の武蔵国の「埼...
越辺川【おっぺがわ】 身馴川【みなれがわ】 実熟川【みなれがわ】 樋遣川【ひやりがわ】・・・加須市川の名前は、地名と違って時代でかなり変化してきているように思う。古代、中世はその流れる土地の地名で呼ばれることも多かった。そのため、川の上流から下流まで何通りもの呼び名が有ったように思う。今回取り上げるものもそんな見方もしておかなければならない。越辺川(おっぺがわ):この川の名は、越生(おごせ)の地...
御正【みしょう】・・・熊谷市(江南村) 円良田【つぶらた】・・・美里町 金鑚【かなさな】・・・神川町 御正【みしょう】「新編武蔵」の見える中世末期ごろから見える郷名に「御正郷」が使われている。地名の由来は、古くからこの辺が上野(こうずけ)国新田(にった)岩松氏の所領で、荘園があり、「御庄」と一般に呼んでいたためという。(角川地名大辞典) 円良田【つぶらた】角川の地名辞典には『地名は「ツブラ」な田...
マイナンバーカードも作成してから5年で電子申請の期限が来て使えなくなる。この更新手続きの手紙が数か月前に来ていたが、余りよく見ずに放っておいた。誕生日まじかになったので、取り出して役所に行くのかとよく見たら、申請にID番号があって、次の3つの方法で申請するように書かれていた。①スマホで自分の顔写真を撮ってオンライン申請②パソコンで6か月以内に撮影した写真をつけてオンライン申請。申請にはメールアドレス...
埼玉県の「猿」のつく地名を集めて見ました。 猿田【やえんだ】・・・日高市 猿ケ谷戸【さるがやと】・・・さいたま市(大宮市) 猿喰土村【さるがいとむら】・・・深谷市(花園町) 猿田(やえんだ):全国に猿田(さるた)という地名は数多いが、(やえんだ)と読む地名はここだけでした。(現郵便番号簿)ここも「さるた」ともいうと地名辞典には書かれている。日本神話に出て来る「猿田彦(毘古)」は天狗のように鼻が長く...
庁鼻和【こばなわ】・・・深谷市室町期に地名として存在する。「ちょうのはな」「ちゃうのはな」などとも読むという。唐沢川右岸の台地上に位置する。この「こばなわ」地名は日本各地にあり、多くが「小塙」と書く。漢字の通り、「はなわ」は少し高く成った場所であり、逆に低く成った場所は「圷(あくつ)が使われる。この「塙」と「圷」という漢字もあとからの合成語であろうと思われます。「鼻」も「ハナ」は少し高くなった顔...
不老川【としとらずがわ】 野老沢【ところざわ】 老袋【おいぶくろ】・・・川越市 不老川(としとらずがわ):この川は入間川の支流で、冬季に渇水し、流水が年を越してながれないことから「年不越川(としこさずがわ)」と呼ばれ、次第に不老川(としとらずがわ)となったと言われている。現在は水量が減り、住宅も増え川の汚濁が著しいという。 野老沢(ところざわ):この野老沢は室町期(1486)の書物に書物に「ところざ...
入間【いるま】 入西【にっさい】 入東【にっとう】古代から中世にかけての入間(いるま)郡は武蔵国の中央に位置し、現在の埼玉県の南部中央部に位置している。しかし716年に南西部を割いて「高麗郡」が新設され、1799人の高句麗人がここに集められました。また758年には新羅郡が新設され、後に新座郡と改称されていますが、こちらも入間郡から割いたともいわれています。途中でこれらの地域を分けていますので領域が少...
利田【かがだ】・・・行田市 釣上【かぎあげ】・・・さいたま市岩槻区 志多見【しだみ】・・・加須市 利田(かがだ):岩波の地名辞典には『地名の由来は、平坦のな草地を意味する「カガ」によるという(地名誌)』とある。寛永12年(1635)の中村家文書に「加賀田」と書かれている。柳田国男の地名の研究にはこの「カガ」について次のように書いている。------------------- 東国奥羽にてはいまだこの名の地名を発見せぬけ...
入間【いるま】 入西【にっさい】 入東【にっとう】古代から中世にかけての入間(いるま)郡は武蔵国の中央に位置し、現在の埼玉県の南部中央部に位置している。しかし716年に南西部を割いて「高麗郡」が新設され、1799人の高句麗人がここに集められました。また758年には新羅郡が新設され、後に新座郡と改称されていますが、こちらも入間郡から割いたともいわれています。途中でこれらの地域を分けていますので領域が少...
村君【むらきみ】・・・羽生市 角川地名辞典には室町期から『村君郷(むらきみのごう)』という郷名があり、場所は県東北部の利根川中流域に位置する。という。利根川が少し屈曲している地区で、川に隣接している。江戸時代初期に、上・下の2村に分かれ、明治22年に近隣の5村が合併して「村君村」となり、昭和30年に三田ヶ谷村と合併して千代田村となった後は大字上村君、下村君が残った。地名の由来については、平凡社の地名体...
鹿下【かのした】・・・越生町 大満【だいま】・・・越生町 龍ケ谷【たつがや】・・・越生町越生町から地名を3つあげておきます。 鹿下(かのした):室町期から見える地名。また縄文中期の集落跡「谷遺跡」がある。「鹿ノ下」などとも書く。全国の「鹿」のつく地名は、古代の「鉄」製造に関係すると思われる場所が多くあるように思われます。ここもそうかもしれないです。 大満(だいま):大間とも書き、中世戦国期には「...
美女木【びじょぎ】・・・戸田市 女影【おなかげ】・・・日高市 妻沼【めぬま】・・・熊谷市今回は女性に関する地名を3件。少し由来が調べたくなりました。 美女木(びじょぎ):この名前は室町期(14世紀半ば)より見える地名です。角川の地名辞典には地名の由来として2つの説を上げています。1)「もと上笹目と云いしが・・・・・・古え京師より故ありて、美麗の官女数人当所に来り居りしことあり、其頃近村のもの当村をさ...
粕壁【かすかべ】・・・春日部市 長瀞【ながとろ】・・・長瀞町 甘粕【あまがす】・・・美里町 粕壁(かすかべ):角川の地名辞典では、「春日部(かすかべ)」の名前由来は『4世紀頃、安閑天皇の時に設けられた屯倉で御名代部(みなしろべ)であったことによる(旧県史)』と書かれている。ただ4世紀とあるのは少し違っていて6世紀始め頃ではないかと思われます。また御名代(みなしろ)は「ヤマト王権に奉仕することを義...
神米金【かめがね】・・・所沢市 吉田林【きたばやし】・・・本庄市児玉町 礼羽【らいは】・・・加須市 神米金(かめがね):この地名は明治になって、江戸時代の三つの村が合併した時に各村名から合成地名としてつけられたものだ。元の村名は「神谷新田」「平塚新田」「堀金(兼)新田」であるが、平塚新田は「久米新田」とも呼ばれていたという。 吉田林(きたばやし):「きったばやし」ともいうと言い、平安期に児玉郡の...
百間【もんま】・・・宮代町 垳【がけ】・・・八潮市 百間(もんま):室町期に地名として存在し、百間中、百間中島、百間東、など広く使われている。「もんま」の名前の謂れは、今の所アイヌ語(縄文語)説が有力とみられています。「mo」は「静かな」であり、「ma」は「わずかな水面」で沼などをあらわすという。「mo」についてはアイヌ語辞典などでも載っているが、「ma」については載っていない。ただ柳田国男の地名の研究...
新開【しびらき】・・・さいたま市桜区 神田【じんで】・・・さいたま市桜区 文蔵【ぶぞう】・・・さいたま市南区 新開(しびらき):荒川左岸東方の鴨川と高沼(こうぬま)排水にはさまれた低地に位置する。名前の由来は天正18年岩槻落城後、その旗本の武士がこの地に土着して1村を切り拓いたことによる(新編武蔵)とある。(旧浦和市)でも新しく開くと書いて、何故「しびらき」と読むようになったのかは不明。 神田(じん...
新座【にいざ】・・・新座市 難読漢字地名としては一般には取り上げないが、高麗と同様に特徴的な地名なのでここに加えておきます。新座(にいざ)は758年に新羅(しらぎ、しらき)郡が新設されたことに始まります。続日本紀に天平宝字二年(758)八月二四日条に「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人、武蔵国に移し、新羅郡を設置する。」とあります。高麗郡の設置は716年ですからこれより40年ほど後になります。また高麗郡...
蚊斗谷【かばかりや】・・・吉見町大豆戸【まめど】・・・鳩山町椚平【くぬぎだいら】・・・ときがわ町蚊斗谷(かばかりや):角川の地名辞典では地名はかつて蒲が多い原野を開発したので「蒲苅谷」と称したことによる(新編武蔵)とある。江戸前期の正保から元禄(1644~1704)頃に開発され、古来は大和田より分かれて「蒲苅谷」と云ったという。大豆戸(まめど):豆土・大豆土・馬見土とも書くという。中世の室町時代に比企郡大...
高麗本郷【こまほんごう】・・・日高市毛呂本郷【もろほんごう】・・・毛呂山町716年(霊亀2年)に、関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができました。この高麗郡に2つの本郷と名のつく地名があります。高麗本郷(こまほんごう):高句麗は、中国の東北部から朝鮮半島にかけて約700年間(紀元前37年頃から668年(天智7年))栄えた大きな国でした。 しかし、その高句麗は、唐や新...
飯能市【はんのうし】越生町【おごせまち】鴻巣市【こうのすし】今回は良く知られてて読めないと恥ずかしい地名かもしれない名前です。飯能(はんのう):角川の地名大辞典は、「地名の由来は武蔵七党の判乃氏が居住したことによるという。」とだけ紹介していますが、これは余りにも不親切です。平安鎌倉時代頃に、各地に武士たちの氏族が散らばってその地の地名を氏として名乗るようになりますが、この判乃氏もこの現在の飯能の地...
万吉【まげち】・・・熊谷市御稜威ケ原【みいずがはら】・・・熊谷市楊井【やぎい】・・・熊谷市今回は熊谷市の難読地名を3つ万吉(まげじ):角川の地名辞典には1)牧(まき)の当て字で「牧=万吉」から「マキチ」となり「マゲチ」になった2)条里制に基づく牧津里からおこったという説が紹介されている。中世(鎌倉期)には武蔵国大里郡の中に万吉郷があった。明治22年まで万吉村があり、その後大字名で残った。御稜威ケ原(み...
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香取神宮から東に少し行くと赤い鳥居が沢山あるお稲荷さんがあります。ここにも昔何度も来たことがありましたが、久しぶりでしたので立ち寄りました。上の写真の奥、写真にはほとんど写っていませんが、拝殿前に大きな狐の石像が置かれています。日本一の狐の眷属だとの説明があります。ここも、神社奥の牛の像などは見ずに次に向かいました。...
先週銚子へ行く時に、匝瑳の方に行きたいところもあり、久しぶりに香取仁ぐ前を通った。ただ時間も無く、参拝は又の機会にしてトイレ休憩程度で。こちらの神宮は鹿島とは違って入口駐車場は無料である。朝早い時間で、まだ参拝客もあまり多くはない。駐車場わきに設けられたトイレも新設されたようできれいだった。男女別の入口に地元作家の切り絵で製作されたマーク絵があしらわれていた。こんなのもいいですよね。どこかほっこ...
常陸国の古代郡衙として「新治郡衙」「鹿島郡衙」「筑波郡衙」「那珂郡衙」などが分って来て、その発掘調査なども行われてきているが、常陸国国衙のある現在の石岡にあったと言われている「茨城郡衙」は何処にあったのだろうか?茨城廃寺(ばらきはいじ)跡の発掘調査などは行われ、その法隆寺式伽藍配置などが分ってきているが、7世紀後半に茨城郡の郡衙が那珂郡との境界割でここ石岡の地に移されたとされ、郡衙と国衙が石岡に...
(地名の研究・最終回です)境の山に矢立という地名の多いのは注意する必要がある。国境の境ならずとすればすなわち荘郷の榜示(ぼうじ)の地点であろう。磐城相馬郡玉野村大字東玉野字矢立沢磐城刈田郡七ヶ宿村大字渡瀬字矢立平甲斐東山梨郡神金(かみかね)村上萩原組字矢立石対馬(つしま)佐須村大字久根田舎(くねいなか)字矢立山<矢立地名>宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立 ミヤギケンカッタグンシチカシュクマチヤタテ宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立平 ミヤギケンカッタ...
遠州京丸(きょうまる)の牡丹(ぼたん)の話、あれは今の周智(しゅうち)郡気多(けた)村大字小俣(おまた)京丸の一部である。人の住む在所である。路が遠くて悪いのは人家の数が少なく経済力が弱いためである。たまたまその土地の名を奥山などと呼ぶために、不当な概念ができてしまった。京丸という地は多分は京往きの夫役(ふえき)を、世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろう。静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸 シズオカケンハママツシテンリュウ...
この「鉦打(かねうち)」地名は、以前鉦打(かねうち)部落の住んでいたためにできたものと思う。下総の三ヶ尾(現千葉県野田市)のことは前にも話が出ている(柳田、念仏団体の変遷、郷土研究二巻二号)がこれらの土地の現状はいかん。常陸筑波(つくば)郡鹿島村大字古川字鉦打下総猿島(さしま)郡弓馬田(ゆまだ)村大字弓田(ゆだ)字鐘打下総香取郡古城村大字鏑木(かぶらぎ)字蟹打台(かにうちだい)下総印旛(いんば)郡公津(こうづ)村大...
「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
茨城県を中心に関東にたくさんの店舗を構えるカスミストア(スーパーカスミ)の1号店は御存じですか?昭和36年(1961)株式会社霞ストアーとして、7月に茨城県石岡市金丸店を1号店として開店しています。この場所は現在の常陽銀行の裏側の通り沿いでした。現在のラーメン屋「珍来」さんに隣接した場所です。(写真集:昭和の肖像より拝借)写真のように「霞ストアー」となっており、店の右上に「霞」と書かれたマークがついてい...
年に1回から2回、このブログに紹介した内容を本にまとめることを計画し、今までに40冊ほど書籍としてまとめて来た。6月末として1冊をまとめ上げたので紹介しておきます。「芭蕉・一茶・子規 それぞれの常陸国紀行」 A5サイズx173頁子規句碑:藤代:旅籠屋の 門をいづれば 春の雨土浦:霞みながら 春雨ふるや 湖の上石岡:二日路は 筑波にそふて 日ぞ長き千波湖:この家も 鴨ものぞくや 千波沼好文亭:崖急に ...
潮来の古刹「長勝寺」の本堂脇に大きな菩提樹の木がある。そのわきに芭蕉が鹿島紀行時に訪れた潮来の本間道悦の「自準亭」で詠んだ句の石碑が置かれている。またこの菩提樹の麓に石の地蔵像と「無縁萬霊供養塔」が置かれている。そしてそこから左手は寺の墓所になるが、その入り口付近に大きな供養塔があった。「倶會一処」 形見とて何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉 良寛良寛和尚の句が書かれてい...
この梅雨時に出掛けてもあまり立ち寄るところも思い浮かばない。少し遅いが潮来の長勝寺に紫陽花と新緑でも愛でて行こうと立ち寄った。本堂手前の菩提樹の花が咲いているかとも思ったがもう咲いてはいなかった。カメラで少し枝の先を追ってみたが、見えたのは1匹の蝸牛(かたつむり)だ。最近はあまり見かけなくなったようにも思えるが、これも私の目が鈍くなってきたせいだろうか。でも気持ちよさそうに動こうとしない。梅雨時...
先日鹿島神宮へ行ったが、昼食時間になっていたこともあり、初めて御手洗池口へ車で向かった。この池の近くにお茶屋(一休:ひとやすみ)があり、蕎麦を出していて比較的評判が良かったので、折角ならと思い一番近いこちらの入口に行ってみたのだ。駐車場はこちらの大きな鳥居の手前に設けられていて、無料でおける。それにしても思ったよりずっと立派でこちらの入口周辺はきれいに整備され、とても気持ちが良い。調べて見るとこ...
鹿島神宮の正面から工事中の楼門の下をくぐって境内に入りました。6月ですので、正面に大きな茅の輪が置かれています。大型バスが駐車場に到着して、ぞろぞろと団体客がバスのガイドさんに案内されてやってきました。皆続々と楼門下をくぐり、茅の輪を三回くぐって、拝殿に向かわずにめのまえにある境内摂社の「高房社」に並んでお詣りし、其れから右側日本で拝殿側に向かっていきました。 あまり見向きもされていなかったと...
常陸国風土記の勉強会と称して鹿島郡を案内した。摂社である沼尾神社、坂戸神社、跡宮などを案内して、大船津の一の鳥居を経由して鹿島神宮へ向かった。鹿島神宮も文化庁から認可になった7年計画大修理の最中であり、奥宮、拝殿などの修理と祈祷殿・社務所などの建設もようやく今年春に終わり、見違えるほどきれいになった。現在は入口の楼門修理中であり、朱色の楼門はすっかり白い布で覆われて見ることはできなかった。これも...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...