文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
先日銚子へ行く途中で、行方市の教育委員会のある北浦庁舎へ資料を頂くために立ち寄った。これはその前に沖洲地区高台側にある「石神遺跡」の場所が近くに行ってもわからなかったために問い合わせのメールをしていて、石神遺跡に関する資料をコピーしていただいたのをとりに伺ったものだ。石岡からはこの北浦の庁舎は結構遠いイメージがあり、街道周辺以外はあまりたちることが無い場所でもある。ただし、今回あちこちうろうろし...
昨日はまた朝から銚子へ・・・石岡から国道355号線で霞ヶ浦の湖岸道路へ。この国道沿いに「珈琲哲学」という喫茶・料理店がありました。小美玉市に入る少し手前です。トンガリ帽子の屋根が特徴のお店です。そのお店のチェーン店が倒産のニュースがつい最近流れてきていました。その店の前の信号で停止して、気になったのでみてみると、看板が大きな文字で「カモダ珈琲」と変わっていました。え? コメダでもなく、またカメダで...
過酷な暑さも一段落し、少し梅雨空に戻ったかと思いましたが、青空も広がっています。7月7日は七夕でしたが、父の命日でもあり墓参りに多摩湖へ。車で所沢経由で、墓参りを済ませて、首都高を通って新宿経由で戻ってきました。雨で洗われたかのように都内のビルもくっきりきれいに見え、山や川も空気が澄んできれいに見えました。9日(土)は風の会の会報(7月号)の印刷。出来上がった会報を持って、八郷からつくば市北条ま...
笠間(岩間)の奥(愛宕山のふもと)にある滝入不動尊に行ってみました。山から流れ落ちる水はとても冷たそうで、この暑さの中マイナスイオンが一杯でした。紫陽花も咲き、気持ちの良い空間でした。...
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文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...
ふるさと風の会では昨年に常陸国風土記を読み、行方地方を中心に2回に分けてまわりました。今年春に、鹿島地方を巡って見ようと計画しています。行先の候補として1)芭蕉の月見の寺(仏頂禅師)大儀寺2)白鳥の里 白鳥山大光寺 照明院3)沼尾神社4)坂戸神社5)鹿島神宮6)郡衙跡(神野向遺跡)7)跡宮8)一の鳥居(西)大船津9)息栖神社などを考えて居ます。上記には風土記と関係のない場所もありますが、折角行くのでしたらな...
355号線を玉造方面に走っていて、石岡脳外科病院近くを通ると、いつもまたあの石像を見ていこうか? などというおもいにかられる。しかし、殆んどの場合はそのまま素通りだ。今回は天気も良かったので、久しぶりに挨拶していこうと、信号を左に曲がった。左折、耳守神社へは行かずそのまま道を進むと通りの曲がり角にこの石造の仁王像が野ざらしに置かれている。かつてここには寺があったが、この造以外はみな無くなった。日本...
常陸国風土記の那賀郡に書かれている大男(ダイダラボッチ)の話し。当時はまだ貝塚などといった知識もなく、今から1300年以上も前にこの貝塚の話しが書かれたのは日本では最古といわれるけれど、世界でもかなり古いものかもしれない。当然大量の貝殻が積もって岡をなしていたのを、大男(ダイダラ坊)に話と結びつけて語られた。今では貝塚などは珍しくも無く、各地に見つかっているが、少し前までは、大昔に貝を食べてそれ...
<常陸国風土記 那賀郡> (最前は略く)平津の駅家の西一二里に岡有り。名を大櫛と曰ふ。上古、人有り。躰極めて長大く、身は丘壟(をか)の上に居ながら、手は海浜の蜃(うむき:はまぐり)を摎(くじ)りぬ。其の食へる貝、積聚りて岡と成りき。時の人、大くじり(又は朽ちる)の義を取りて、今は大櫛の岡と謂ふ。其の践みし跡は、長さ四十余歩、広さ二十余歩、尿の穴の径は二十余歩許なり。(以下略す)風土記の記述では、最...
常陸国風土記の那賀郡に「駅家の南の坂の途中に泉があり、清い水がたくさん出る。曝井といい、附近の村の女は、夏の月に集まって、布を洗って日に曝して乾す。」と書かれている。昨日紹介した愛宕山古墳のすぐ裏側にこの井戸があると言う。場所は水戸市愛宕町の滝坂と呼ばれる坂道の途中にこの泉がある。現在「萬葉曝井の森」という名の公園として整備され、きれいな竹林と泉がとてもこの時期美しい。ただこの道は下の方から上る...
常陸国風土記では潮来に攻め入ったタケカシマは那珂川(粟川)をさかのぼりこの地を治めた。そして最初の那賀国の国造(くにのみやっこ)となったと云われている。そして、タケカシマの墓がこの(水戸)愛宕山古墳ではないかと・・・。台渡里廃寺跡から比較的近いこの愛宕町にやって来ました。紫陽花で有名な保和苑なども近くにありますが、愛宕神社周りの道は狭く、一方通行も多く少し奥まった場所にあります。神社の社務所がある...
常陸国風土記に、現在の水戸を中心とした那賀郡の記載内容は意外に少ない。少ないのか、写本に省略されて残っていないのかは良くわからないが、とにかく余り多くは残されていない。そのため、まり訪れてみる機会もなく、今迄やり過ごしてきてしまった。この風土記の勉強をするに当って、もう少し知っておかねばならないことを痛感して、遺称地を訪ねてみる事にした。まず向かったのは、那珂郡の郡衙(郡家)があったとされる「台...
イギリス・ロンドンから来ている長女家族も今朝(8/18)成田を出立しました。先週末は1日東京デズニーランドで楽しんで、日曜には長男家族も3年ぶりの再会と云うことで我が家にやって来ました。そして、ファミレスで食事をした後に見頃を向かえているという常陸海浜公園にネモヒラを見に行って来ました。午前中は天気もまずまずで、午後から雷雨もあるというので心配していましたが、夕方3時頃なら空きはじめるかとも思って夕方...
銚子にも月に3回ほどまだ通っているが、最近は比較的交通量が少なく、また道路も広い神栖市側を通って、。銚子大橋をわたることが多くなっていたが、今回は利根川の土手沿いの道を通る事にした。その入口には国の史跡に登録された「横利根閘門」がある。霞ヶ浦と利根川を水路で結び、蒸気船をはじめ、物資輸送にも大いに利用された閘門である。一般的な水門は上下に動かすが、この水門(閘門)は真ん中をくの字にして前後にして...
昨日銚子へ出かけました。桜も散り、途中でどこ見ておきたいところは・・・などと考えながら車を霞ヶ浦北側を潮来のほうへ走っていました。もう、周りの田んぼは土起しがなされ、かなりの田には水が張られていました。一部の田では稲がすでに植えられているところもありました。茨城のこのあたりは長閑で良いのですが、新緑の美しさや湖は見られるのですが、この日は少し霞んでいて、遠くの方はぼやけていました。これも黄砂の影...
もう6日前ですが、潮来の裏山の稲荷山から、脇の道を下に下って潮来の市街に出ました。ここの頼朝ゆかりの古刹「長勝寺」に桜と新緑を求めて立ち寄ってみました。この参道沿いの桜も並木となって、咲いているときも、また花吹雪となっているときも美しいのですが。多くに桜花は散って、葉桜となっていました。この楼門も水戸光圀の命で、別な寺から移築されたものです。ほんどうも前にこのあたりを通過した台風で痛めつけられま...
麻生から東に進むと「潮来」地区になる。ここは市街地のすぐ裏手を国道51号線が通っているが、この高台に「稲荷山公園」がある。暫く訪れていなかったので、様子を見に山側の国道側から公園に入った。国道沿いに公園の入り口がある。中を右に進むと、市街地から稲荷神社への上り階段がある。ここから潮来の町をこのように見下ろすことが出来る。これが稲荷神社。公園の桜はもうすっかり葉桜となっていた。この稲荷神社もすっかり...
沖洲、小高ときて、次に立ち寄ったのは麻生、この町の街中商店街から直ぐの所に「羽黒山公園」があります。地元の方の憩いの場所となっているようです。でも初めて訪れた人はその入り口から少し迷いそうです。結構狭いところから山に登ります。上は公園や休憩所などと、旧麻生の城跡遺跡があります。麻生氏は行方四頭の一人ですが、戦国時代に隣にいた同じ身内の島崎氏(潮来)に攻められ落城しました。江戸時代になると、周りは...
沖洲の常福寺を後にして、次に立ち寄ったのは小高地区にある「皇徳寺」だ。この寺へも久しぶりである。国道355号線の道沿いに「皇徳寺」の矢印看板があるので、そこを左折してすぐである。ここは行方四頭の長男「小高氏」の菩提寺だ。小高氏も戦国末期に玉造氏や島崎氏と同様に、佐竹氏により滅ぼされたが、玉造や麻生などの名前は都市として残されたのに比べ、小高氏は行方氏の長男であったにもかかわらず、余り知られていない...
昨日は銚子へ仕事に出かける途中で、桜のまだ見られそうなところをまわりながら出かけた。ただ、朝方にやりかけの仕事1時間ほどした後になったので、遠くまで行くわけには行かないので、通り沿いで見物し易そうな場所を選んだ。まず、国道355号線を霞ヶ浦の北側沿岸沿いで、行方市に入り、国道から逸れて沖洲の町への旧道に進んだ。そこには1233年開山と伝わる「(真言宗)常福寺」がある。ここの桜が少し気になったので立...
コロナ禍で、行き来が出来ないでいましたが、3年ぶりにやっと孫もイギリスから日本に来ることができました。孫娘も、前に来たときは2歳と6歳、大分大きくなっていました。30日に我家に来ました。少しこちらにいて、来週から九州のほうまで旅行に行き、その後又戻ってくる予定。そして東京ディズニーランドに行くのがもっとも嬉しいようです。さて、昨日は大洗に遊びに行って来ました。しばらく波と戯れて大はしゃぎ。海浜公園も...
常陸国風土記を紐解き、関係のありそうな所を調べながら記事にしています。今回は行方郡の最後に記述されている大生の里にある古社「大生(おおう)神社」を紹介します。ここを最初の訪れたのは2014年でした。 今から9年近く前になります。いろいろなサイトで「元鹿島」といわれるとの紹介があり訪れてみたのです。当時の記事から少し引用します。元鹿島といわれる大生神社は、鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少...
事務所に置いたままになっている鉢植えのシクラメン。今年で6回目の冬を越えました。健気でかわいらしいが、手入れも殆んどしないずぼらな主人で少し可哀相になる。去年の夏は葉っぱを総て枯らして水を数ヶ月絶った。秋になって水をあげたが、年明けて蕾だった花も3月になってやっと咲いてきた。リンなどの栄養素もわずかに差した。殺風景な場所だけど、日当たりは結構いいんだよね。後数ヶ月きっと咲いてくれそうだ。ありがとう...
大生の里には元鹿島と呼ばれる大生神社があります。私も今までに数回訪れているのですが、まともにこの鹿島神宮の「元」の意味を紐解いたことが有りません。何しろ、鹿島神宮の創建よりこちらの大生神社は大分後に創建されているのですから、「元」という」意味が理解できずにいます。まずはこの大生原といわれる大地の上に広がる大生古墳群を見てみましょう。築造されたのは古墳時代中期と言いますので、大体5世紀頃と言います...
大生の郷については、常陸国風土記の行方郡最後に「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり・・・」と出てくるだけで、相鹿の里と大生の里は合体しているような書き方がされています。又説明も倭武の天皇(ヤマトタケルの命)が相鹿の丘前の宮にいたときに、飯を炊いた建屋を浦浜に建てたので「大炊(おほひ)」から「大生の村」という名前になったという謂れしか紹介されていません。そのため、角川の...
常陸国風土記の行方郡の最後に、「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘...