前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
日本に多々ある五重塔の中では10番目に古い塔です。そしてその美しさでは「三大名塔のひとつ」と言われています。他の2つは、法隆寺と醍醐寺とか。 私の好みでは、円…
応仁の乱で京が荒れ果てたとき、高級公卿は、こぞって「西の京山口」を目指しました。当時、多くの守護大名が在京しており、京の荒廃と運命を共にしていましたが、東の今…
此方も、一見は、普通の廃屋です。 しかし慶応3年(1867)、この建物の2階で、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが、木戸孝允、広沢真臣らと、薩長同盟を推進する…
歴史公園とも言える「香山(こうざん)公園」の中央やや西に「露山堂」という茶室があります。文久3年(1863)藩庁の山口移転に伴い、毛利候は、藩庁近くの一露山の…
県庁前から緩やかな坂を登っていくと、「香山公園」の西に「洞春寺(とうしゅんじ)」があります。当寺は見処が多いお寺です。 もとは、応永11年(1404)に大内盛…
関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は、日本海側の萩を居城地に定められたため、大内氏の時代に「西の京」とまで謳われた山口は、萩と三田尻を結ぶ萩往還に沿う「一寒村」に落ち…
宿泊した旅館「西の雅 常盤」の夕食をご紹介します。季節は、春です。この旅館、檜が香る露天風呂「山頭火の湯」など、趣が異なる6種の湯めぐりが看板のようです。 ●…
史蹟「瓦屋跡」です。 明治維新期、此処には「瓦屋」という旅籠があり、長州を訪れた志士たちが、多く宿泊しました。その志士たちのうちの山田市之允(後の顕義)が瓦屋…
湯田で生まれ湯田温泉を愛した詩人の中原中也の詩碑と、防府生まれですが全国を行脚した自由律俳句の代表的俳人の種田山頭火の句碑が並んでいます。 所は「錦川通り」。…
朱元璋の命により日本を訪れた「明使の趙秩」が大内弘世の依頼により、山口市内の美しい風景十カ所を詠んだとされる「山口十境詩」。その解説板が市内各所にあります。 …
詩集「山羊の歌」などダダイズムの詩で有名な、中原中也は湯田温泉の生まれです。現在、生誕の地に「中原中也記念館」が建っています。 中也は湯田温泉で生まれましたが…
湯田温泉を散策していると、彼方此方に、白狐を見かけます。 昔、湯田村の権現山の山麓のお寺の境内に、小さな池がありました。その小池に、夜な夜な1匹の白狐が、傷つ…
井上公園内には、勿論、井上馨の像があります。 通称:聞多(もんた、ぶんた)。藩主毛利敬親から、多くの人の意見を聞くように名付けられました。此の地(湯田村)で井…
山口郊外にある湯田温泉。風雲急を告げる幕末。長州藩は、日本海側の僻地の萩から山口に政庁を移しましたが、その頃、此処は重臣たちの屋敷地でした。高級役人の井上馨の…
かつての城下町には、郊外の温泉地がセットになっていました。何かあると。療養するとか懇親会を開くとか。例えば、仙台藩の秋保温泉、会津藩の東山温泉などです。 一方…
防府に戻ります。 駅前の再開発ビル「防府ルルサス」1階で見つけたカジュアルレストラン「Cafe STAND」です。店内は広くて清潔。ちょっとした休憩にピッタリ…
和風の味付け「サン・ミケーレ」ホテルモントレ ラ・スール銀座店
美味しいレストランが登場したので、場を変えて、銀座のイタリアンレストラン「サン・ミケーレ」へ。此処のシェフは和風の味付けが得意で、しかも2ヶ月毎にメニューを更…
「凄いぞ!防府」とは別に、「うまいぞ!防府」というパンフレットがあり、その中から、「割烹いちはな」さんへ。防府駅から近く、毎朝市場で仕入れた魚を会席料理に、と…
宮市本陣兄部家を少し西へ行くと、萩往還沿いに「定念寺」があります。往来を見守るのは「宮市観音」です。 落ち着いた山門の好感の持てる此の寺院「定念寺」は、明治4…
宿場町「宮市」は、防府天満宮の鳥居前町でもあります。天満宮の大鳥居の西約100mの処に、宮市「本陣」を務めた「兄部(こうべ)家」があります。 兄部家は、鎌倉時…
漂泊の俳人:種田山頭火は、明治15年、宮市で生まれました。防府天満宮から直ぐの処に「山頭火ふるさと館」があり、そこから直ぐの処に生家跡もあります。 山頭火は…
まずは司馬さんの文章(世に棲む日々)から。 いま防府という市に包含されてしまった三田尻港は、長州藩第二の商港であり、三百年来の藩の水軍基地であり、その港は、港…
防府天満宮の本・拝殿エリアの西門外に建つ「春風楼」です。江戸期文政年間に、長州藩第10代藩主:毛利斎煕公が「五重塔」として工事を始めるも、資金不足のために中断…
防府天満宮本殿の東門の外、まるで奥院のような風情で、「天神本地観音堂」があります。周防観音霊場第24番札所です。 菅公の御母堂が観音信仰をされていたからとも言…
高杉晋作の辞世の句「面白き こともなき世を 面白く 住みなすものは 心なりけり」の上の句は晋作が詠んだものですが、下の句まで詠む力が残っておらず、見かねた望…
防府天満宮の参道脇に鎮座する「酒垂神社」です。 建久6年(1195)東大寺の再建責任者だった僧:俊重坊重源が再建成就を感謝し、松崎天神(現:防府天満宮)のご加…
今は防府市と一括りされる此の地ですが、江戸時代の地名は、三田尻、宮市、富海、鋳銭司などで、司馬さんの小説では、当然ですが、こうした旧地名で登場します。防府天満…
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前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
奈良です。 奈良は古い街で、街中を「ぶらぶら」散策していると、思わぬ出逢いも多くあります。そうした出逢いを中心に、アップしていきます。 まずは、「ならまち高林…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…
安政元年(1854)「日米和親条約」が締結され、下田と箱館の開港が約束されました。やはり、函館の次は下田だろうと下田へ向かいます。 途中で熱海で下車。まずは「…