「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
毎年恒例の「干支人形」です。東京国際フォーラムで展示中です。 今年は良い年だった方も、イマイチだった方も どうか、良い新年をお迎え下さい。 1年間。どうもあ…
イルミネーションも、コロナ禍前よりも随分と大人しいものになりました。静かな歳末です。 今年の丸ビルのイルミネーションのテーマは、ディズニーとの協賛で「ウィッシ…
年末・年始の1週間は、東京の様子から掲載します。 まずは、今年3月にグランドオープンした「東京ミッドタウン八重洲」の庭園から。秋も深まり暮れゆく東京駅前です。…
富山城址公園から県庁側へ向かうと、旧神通川の舟橋跡があり、「松川遊覧船」が発着し「常夜灯」が残されています。 約100年前までは、現在の富山市街地は神通川の川…
富山城址公園内にある巨大な像は、富山藩第2代藩主:前田正甫(まさとし)公のもの。富山藩は石高10万石でしたが、越中国内の滋味良き土地は金沢本藩が抑えていたため…
富山市は文化・芸術面にも力を入れており、富山城址公園内にも、奇麗な城郭様式建築の美術館があります。「富山市佐藤記念美術館」です。 昭和32年に、佐藤工業㈱会長…
どの城下町もそうであるように、富山城も県庁の近くにあります。ただし現在は本丸と西の丸、二の丸の跡を残すのみで、最盛期の5分の1の広さです。 富山城は16世紀の…
地上70m。富山市役所の展望塔です。 立山連峰や富山湾、富山城、市街地などが一望出来ます。お薦めのポジションから見えた「立山連峰」です。 富山市民が自慢される…
かつての暴れ川「神通川」は明治30年代に北部へ直流に付け替えられ、市街地を流れる廃川部は今は「松川=約2.6Km」となっています。現松川(江戸時代は神通川)と…
富山の薬で有名な「越中反魂丹」などを取り揃えています。 昭和11年。初代池田実が現在地に「和漢薬種問屋」として創業しました。「越中反魂丹」などの和漢薬は、動物…
「藤居山富山寺(ふせんじ、真言宗)」。真言宗の古刹で、市内最古の寺院と言われています。「富山と言う地名」は、此の寺の寺号から生まれました。神亀元年(724)僧…
寛文16年(1639)に加賀前田家3代藩主の前田利常の3男前田利次が富山藩10万石を「分藩」され、「富山藩祖」として富山城を修復し入城しました。以後、13代に…
「富山梅沢町界隈寺院めぐり」というパンフレットに沿って寺院巡りを行うが、その前に、ランチを。 金沢の寿司もネタは富山湾で採れた魚介だし、新潟の寿司も富山にはか…
初夏に開催される山王祭は大勢のひとで賑わい、富山藩の「総産土神」として篤く信仰されてきた「日枝神社」です。 長く越中国新川郡に鎮座し、広壮な社殿・社地を備えて…
「かがやき」に乗ると(東京駅から)僅か2時間強。本当に富山は身近な観光地です。そして高岡も、「あいの風とやま鉄道」に乗ると富山から20分ほど。富山と高岡は、岡…
現在の山口文化を創始したのは、中世の大内氏です。大内氏は、市の中心を流れる「一の坂川」を鴨川に見立て、京洛に倣った街造りを行いました。 山口の盛夏を彩る「山口…
応仁の乱以降、大内氏は山名氏に代わり中国地方の雄となりました。大内氏の先祖は「百済聖明王」と称するほどに大陸との繋がりが深く、朝鮮や明との交易を盛んに行い、莫…
幕末維新期に藩士の宿泊所として、周布政之助、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允なども利用した「十朋亭」を中心に、吉田松陰の兄の杉民治の「杉私塾」そして大商家「萬代家…
「善の研究」の中核をなす純粋経験を結晶させ、「西田哲学」と呼ばれる独創的思想体系の樹立者:西田幾多郎の若き日の住居が、残されています。 明治30年から32年に…
大内政弘開基の「法界寺(浄土宗)」です。大内盛見が別荘として禅僧たちと集っていた処とも言われています。 此処には、「中谷正亮(しょうすけ)」が眠っています(…
山口県庁の少し南に亀山という小高い丘があり、その頂上に「ザビエル記念聖堂」があります。この時は、亀山の麓のカフェーで食事を執りました。 ザビエルは現在、月間「…
雪舟も山口の大内文化を語るうえで、欠かせない一人です。やはり、香山公園内に、その像があります。市内にある「常栄寺(雪舟庭)」へ行くとベストなのですが、やや遠方…
歴史公園とも言える「香山公園」に、司馬さんの文学碑があります。「街道をゆく第1巻:長州路」より。 (長州は、いい塔をもっている)と、惚れぼれするおもいであった…
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「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「法華寺(光明宗)」です。 もとは藤原不比等邸があった場所で、その娘の「光明子(聖武天皇后)」が相続し、「皇后宮」となり、天平17年(745)紫香楽宮から平城…
広さ:約130haもの「平城宮跡歴史公園」の東張り出し部に、「東院庭園」、宇奈多理神社、建部門(東院南門)などが復元されています。 「東院庭園」は、東西約80…
「平城宮跡(国の特別史跡)」は、近鉄奈良線の西大寺駅と新大宮駅の途中に、広大に広がっている広場に復元されています。 その広さは、約1km四方に「750m×25…
「平城宮跡歴史公園」は、奈良時代を今に感じる特別な場所です。公園内には、色々な施設がオープンしていますが、「平城宮いざない館」は、時空を超えて奈良時代に誘われ…
「庚申堂」は京都の「八坂の塔」の前にもありますが、此方は「ならまちの庚申堂」です。青面金剛を祀る「庚申信仰の中心地」です。 「庚申」は「庚申(かのえ…
豆腐造りに拘って70年。手間を惜しまず豆腐を造り続ける、当に「豆腐匠」。「近藤豆腐店」です。 ならまちに相応しい店構えです。 お店の豆腐・油揚げ…
奈良です。 奈良は古い街で、街中を「ぶらぶら」散策していると、思わぬ出逢いも多くあります。そうした出逢いを中心に、アップしていきます。 まずは、「ならまち高林…
新座市役所前にある「平林寺」は、その境内林が約43ha(東京ドーム約9個分)もの広がりを持つことで有名です。雑木林としては、唯一の国指定天然記念物でもあります…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…
「伊東遊季亭」です。JR伊東駅からタクシー送迎があるので、熱海や伊豆高原などの伊豆東海岸への旅では、此の宿で宿泊することにしています。 何より、食事が素晴らし…
「MOA美術館」は、創立者:岡田茂吉により第二次世界大戦後から本格的に蒐集された、国宝3点を含む総数約3500点もの膨大なコレクションを有しています。此の日も…
「大阪城天守閣」にも展示されている「黄金の茶室」ですが、MOA美術館にも、特別展示されています。当時の公卿、武将、茶人、外国人宣教師らの記載文献などの史料から…
MOA美術館内「茶の庭」の、「二條新町/そばの坊」と「和食/花の茶屋」の真ん中にある「光琳屋敷」です。勿論、当美術館の看板所蔵品「国宝/紅白梅図屏風(尾形光琳…
MOA美術館内の「日本庭園/茶の庭」には、「和食/花の茶屋」、「二條新町/そばの坊」と、2件の食事処があります。此の日は「和食/花の茶屋」が貸切中のため、「二…
安政元年(1854)「日米和親条約」が締結され、下田と箱館の開港が約束されました。やはり、函館の次は下田だろうと下田へ向かいます。 途中で熱海で下車。まずは「…