今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
JR横須賀駅前にある「ヴェルニー記念館」です。横須賀製鉄所(造船所)を建設し、日本の近代工業化の基礎を作り上げた仏人ヴェルニーの功績と横須賀製鉄所の意義を、後…
幕末、日本各地に多くの「造船施設」が設置されましたが、「横須賀造船所」は、本格的な設備と運営計画を有する、当時、最大の造船所でした。此の「横須賀造船所建設計画…
「横須賀シリーズ」を始めます。横須賀港は、5大軍港(横須賀、呉、佐世保、舞鶴、大湊)のひとつ。現在は、横須賀港の大部分を米海軍が管理しているため、横須賀と米海…
城下町の色彩を色濃く残す伏見。道路も真っ直ぐばかりではありません。城下町特有の「鍵型道路」を、あちこちに見かけます。 この鍵型道路の突き当りに、慶長年間に、東…
伏見七名水のひとつ「白菊水」です。鳥せい本店ヨコにあります。延宝5年(1677)創業の山本本家の酒造りに使われている名水です。 白菊を愛でる翁が、「この地に日…
酒蔵が有る城下町・伏見らしいレストラン「月の蔵人」です。月桂冠が、大正2年に建築した酒蔵を、和食・日本酒レストランに改葬しています。 豆腐・湯葉や四季の素材…
「伏見京橋」から「伏見港」を臨みます。宇治川派流の右手、四阿の下に「龍馬とお龍・愛の旅路」像があります。 「竜馬がゆく」の「霧島山」の項より。 寺田屋で幕吏に…
宇治川派流に架かる「伏見京橋」北詰です。「京橋」ですから、竹田街道を伏見から京へ向かうとき、最初に渡る橋でしょう。寺田屋や伏見港も、直ぐ近くです。此処に、「鳥…
引き続き、「竜馬がゆく」の「寺田屋騒動」の項より。 この時代、伏見の町は、京と大坂を結ぶ乗合船の発着場として栄えた。始発駅は、伏見の京橋。終着駅は、大坂天満の…
文久2年(1862)の「寺田屋事件」。そして、慶応2年(1866)には、坂本龍馬が幕吏に囲まれ、間一髪で逃れる事件も此処で起こりました。薩摩藩御用達・伏見で最…
伏見は、酒造の町でもあります。此処は、「キザクラ・カッパ・カントリー」。「黄桜記念館とカッパ・ギャラリー」があり、酒造の歴史と黄桜のキャラクターである河童に親…
龍馬の人気は、相変わらず強烈です。空港名にもなり、桂浜に像が立ち、高知には、全国唯一と言われる個人名のついた「龍馬郵便局」があります。 そして此処は、伏見の「…
「油懸(油掛け)地蔵尊」で有名な「西岸(せいがん)寺」です。 昔、山崎の油商人が、此の寺の門前で転び、担いでいた油桶をひっくり返してしましました。桶の油は、残…
正式には、「宝海山法然院源空寺(浄土宗)」です。院号のとおり、法然上人25霊場の第15番です。もとは木幡の郷にあった忍空上人の草庵でした。忍空上人は、法然上人…
近鉄「桃山御陵前」駅の直ぐ東に鎮座する「御香宮神社」です。創建は貞観4年(862)の古社で、境内から清水が湧き出し一面に良い香りが広がり、この水を飲むと病が癒…
居城を大坂と伏見に築いた秀吉は、大坂~伏見間の交通を整備します。淀川沿いに「文禄堤(大坂街道)」の整備も進めますが、主な交通は、舟便でした。天満の八軒家~伏見…
「伏見シリーズ」です。 秀吉が大坂と伏見に築城し、自らも、伏見城で執務しました。伏見は「不死身」に通じるとして、気に入った様です。亡くなったのも伏見城ですが・…
龍野城下町は江戸期には繫栄していましたが、現在は静かで、宿泊したり食事するのは、姫路にて。 姫路駅前の「アンティーコ・アルベルゴ」です。ミラノで100年以上愛…
播磨6坊のひとつ「龍野御坊圓光寺」です。多田満仲の子孫の多田祐全が、蓮如上人の命にて、文明16年(1484)に播州英賀に道場を開きました(文明道場)。 なお、…
醤油産業(醸造業)は、龍野の中心産業です。街のあちこちに、醤油蔵や醤油工場が見られます。 16世紀。龍野、野田、銚子、小豆島などで、醤油産業が発展します。龍野…
大正ロマン館を南下すると、浦川に沿って寺院や醤油蔵などが並び、城下町龍野の情緒溢れる一帯があります。大きな山門があります。脇坂家の菩提寺「如来寺」です。 山号…
龍野の一大産業である「醤油製造(醸造業)」について、発展の歴史や現状が良く分かる施設です。龍野醤油同業組合(現:龍野醤油協同組合)が、大正13年に建設した旧組…
童謡「赤とんぼ」の作詞者「三木露風」が、6歳まで両親と過ごした生家です。 今も丁寧に保存されています。 露風は、1907年に早稲田詩社を結成し、1909年に…
江戸時代の龍野城の歴史としては、姫路城池田輝政の子城(城代)に始まり、城主は、本多家、小笠原家、岡部家、京極家と、目まぐるしく変わり、天領とされた時代もありま…
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今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
JR奈良駅前のホテルに宿泊した場合、食事処は近場に殆どなく、三条通りやならまち辺りまで出掛けていく必要があります。 此処は、ホテル日航奈良内の和食処「よしの」…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…
伊豆急下田駅から「マイマイ通り」へ出ると、「稲田寺(とうでんじ、浄土宗)」があります。お吉の恋人/船大工「鶴松(川井又五郎)」が眠っています。 当寺は、幕末の…