今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
真言宗九州教団の別格本山。大同元年(806)に弘法大師空海が密教東漸進を祈願したと言われる、空海創建の寺としては最古の寺院です。 黒田家菩提寺としては「崇福寺…
「博多千年門」から「国体道路」へ抜ける、寺社町らしい清らかな通りの「承天寺通り」の両側に「承天寺(臨済宗東福寺派)」があります。饂飩、蕎麦に博多織、更には「博…
博多の街中に巨大な巨大な楠があります。何と此処は承天寺分境内で、謝国明の墓なのです。 謝国明の墓を、巨大な楠が覆っています。謝国明は、13世紀の中国(宋)の商…
「博多千年門」から直ぐの処に鎮座する「若八幡宮」です。古くから「厄災除けの社」として有名で「厄八幡さん」と愛称されています。大晦日には、祈願者で数時間の行列が…
「博多・大宰府シリーズ」を始めます。古代から中世にかけて、西の中心であり続けた「博多湊そして大宰府政庁」。福岡市は空襲もあったはずですが、歴史を大切にし、今も…
三渓園から300m手前に鎮座する「亀の子石神社」です。いつも三渓園へ急ぐこともあり、失礼しました。 由来が詳しく説明してあります。のどの病、特に百日咳に功徳が…
元町商店街「ポンパドウル」の奥に鎮座する「厳島神社」です。治承4年(1180)頼朝が挙兵するにあたり西伊豆土肥の弁財天に戦勝祈願しました。そして戦勝後、伊豆よ…
「ハマのアメ横」の愛称で親しまれている「洪福寺松原商店街」の象徴「洪福寺(臨済宗)」です。後醍醐天皇の1330年ごろ、建長寺第30世枢翁妙環和尚が薬師堂を草創…
相鉄本線「天王町」駅前に鎮座する「橘樹(たちばな)神社」です。祇園社を勧請・御分霊し、かつては「天王社」と称していました。地名・駅名に由来となっています。 …
環状1号線へ出ると「普賢山香象院」があります。門前にある「大きな鉄釜」が有名ですが、撮影を失念しました。正面が「本堂」。左が「延命地蔵尊」です。 創建年不詳な…
神明社の門前の「庚申塔(古東海道と相州道の石碑)」を少し下ると「天徳院」があります。天正元年(1573)に臨済宗寺院として創建されましたが、のち、宗鑑和尚が、…
11棟のビジネスビルが集中する「横浜ビジネスパーク(YBP)」です。オフィスビルが中心ですが、レストランやショップもあります。総開発面積は約13万㎡。総…
相鉄本線「天王町」駅前に、東海道4番目の宿「保土ヶ谷宿」の跡がのこされています。此の宿場は東海道では、武蔵国の最西端の宿場町でした。 「保土ヶ谷宿」は、慶長…
横浜最古の寺院「弘明寺」です。京浜急行と市営地下鉄の「駅名」に採用されています。京浜急行の駅が出来る際には、お寺の土地を提供したとも言われています。 まずは「…
漱石が松山中学の教師として赴任していたときの下宿が「愚陀仏庵」です。今の「萬翠荘」の裏手にありました。名称は漱石の俳号「愚陀仏」に由来しています。 戦災で焼失…
道後温泉にある「松山市立子規記念博物館」です。子規の世界を通して、より多くの人々が、松山の「伝統文化」や文学に親しめるようにと、昭和56年に開設されました。 …
道後温泉に隣接して、広大な「国史跡/湯築城跡」があります。面積は約8.5haと巨大で、外堀に包まれて資料館、武家屋敷、土塁展示館など、グラウンドや丘陵広場など…
道後温泉を見下ろす丘陵に鎮座する「伊佐爾波(いさにわ)神社」です。道後七郡の総守護で、延喜式神名帳にも記載されている古社です。 なお、「延喜式神名帳に含まれる…
道後温泉で人気の眺望スポット「空の散歩道」です。道後温泉本館から直ぐの小高い丘の上、「湯神社」境内ヨコに設置されています。「足湯」もあります。 此処にも、子…
道後温泉の守護神と言われる「湯神社」です。道後温泉本館直ぐの小高い丘の上に鎮座されています。 由緒正しき、第12代景行天皇の勅命社です。 地震などの天災によ…
古くは「日本書紀や古事記」にも記載がある「道後温泉」を象徴する「道後温泉本館」ですが、2019年から、「保存修理工事」の真っ最中です。 工事中でも、1階の「…
道後温泉別館「飛鳥乃温泉」です。2017年にオープンして以来、大人気の日帰り温泉施設です。「太古の道後」をテーマに、道後温泉に纏わる伝説や物語などを、「愛媛県…
松山市街地から30分も路面電車に乗れば、道後温泉に到着します。日本三大名湯にも数えられる、古くから栄えた温泉地です。 「坊ちゃん電車」も、お出迎えです。 …
「いよてつ高島屋」の9階屋上の「大観覧車くるりん」です。 約15分かけて一周します。一番上に到達すると、高さは約85mです。 正面は、松山城です。 …
伊予鉄道松山市駅直ぐ裏の「正宗寺」境内に復元されている「子規堂」です。此の家から、17歳の子規は、旅立ちました。明治16年のことでした。そして大学予備門に入学…
松山の2大繁華街の「大街道」と「伊予鉄道松山市駅前」。 大街道には「秋山兄弟生誕地(生家跡)」があり、此処、「伊予鉄道松山市駅」の直ぐ裏には「正宗寺(子規堂)…
県庁裏の丘陵に位置する「松山城史跡二之丸庭園」です。整備完了後、平成4年に開園しましたが、面積は約1.6haもあります。 松山城は、加藤嘉明により築城開始し…
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今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…