今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
松山地方の総鎮守として篤い信仰を集めている「阿沼美(あぬみ)神社」です。主祭神は「味耳命(うましみみのみこと。古い豪族の久米氏や伊予の久味国造の遠祖)」、大山…
松山15万石、久松松平家の菩提寺「大林寺(だいりんじ。浄土宗)」です。 寛永4年(1627)蒲生忠知が、兄の秀行とその子忠郷の菩提を弔うべく、「見樹院」を創建…
町じゅうが揃って俳句を楽しむ松山。久松松平家初代藩主「松平定行公」の頃から、藩主自ら身分を超えて御用商人と座を同じくして、滑稽とおかしみを詠んでいたと言われて…
司馬さんの「街道をゆく」からの引用を続けます。 「大洲城は脇坂家のあと、江戸期いっぱい加藤家が城主としてつづく。大洲のお城は四重四階と言われて、珍しがられた。…
司馬さんが「街道をゆく」で大洲を訪れた時、未だ「大洲城」は再建されていませんでした。「街道をゆく」から、引用してみます。 「肱川が城のあたりで大彎曲するために…
「日本陽明学の祖」、「近江聖人」の中江藤樹の旧居跡「至徳堂」です。地元の高等学校の敷地内に保存されています。 藤樹は、9歳のとき、加藤家家臣(祖父)の養子と…
昭和52年8月公開の「男はつらいよ」第19作「寅次郎と殿様」の舞台となり撮影現場だった「お殿様公園」です。映画は、マドンナが真野響子。殿様は、嵐寛寿郎が演じま…
伊予8藩で最初の大洲藩校「止善書院明倫堂」跡碑です。大洲藩加藤家第5代加藤泰温(やすあつ)公が開校を命じ、第6代加藤泰怜(やすみち)公のとき、延享4年(174…
昨年11月に掲載した記事ですが、伊予大洲の「いづみや」さんです。再登場させます。 伊予大洲は、松山から特急で35分。戦災が無かったこともあり、6万石の城下町が…
昭和41年の第1回「NHK朝ドラ」の「おはなはん」の撮影舞台となった「おはなはん通り」です。伊予大洲の藩政時代の城下町の中心地でした。当時の土蔵が並ぶ、風情あ…
フィリピン貿易やマニラでの百貨店経営で財を成した、大洲出身の松井兄弟が、故郷の大洲の景勝地に建設した別荘「盤泉荘」です。清流肱川や亀山や富士山の美しい峰を臨む…
19世紀から20世紀にかけてのことですが、松井傳三郎、國五郎の兄弟は、マニラで貿易会社などを経営し、日本人移民向けの百貨店も経営するなど、貿易・小売業で財を成…
元弘元年(1331)に、初代大洲城主「宇都宮豊房」が、大洲城築城にあたり、下野国二荒山神社から勧請して創建した「大洲神社」です。以後、戸田家、藤堂家、脇坂家、…
大洲藩6万石第3代藩主/加藤泰恒が、清流肱川河畔で最も優れた此の地に建設した別荘「臥龍山荘」です。幕末までは、加藤家の別荘として、こよなく愛されていましたが、…
松山から特急電車で約40分。清流肱川河畔に建つ「臥龍山荘」です。伊予大洲藩主加藤氏が粋を集めて建築した、約3000坪の風雅な山荘です。 撮影は10月で…
「大洲6万石」の城下町、「伊予大洲」です。司馬遼太郎が「街道をゆく(南伊予のみち)」で、「日本の旧城下町で、これほど美しい一角を持った土地はないと思った。」と…
昭和初期の温泉旅館の建築様式を今に伝える「東海館」です。温泉旅館としての役割を終え、今は、貴重な木造建築や伊東の温泉文化を、後世に伝承する観光施設として公開さ…
松川の畔にある「東郷記念館(旧別荘)」です。東郷平八郎が晩年を過ごした別荘で、国の登録有形文化財です。 東郷平八郎は、古くは、薩英戦争や戊辰戦争でも戦いまし…
「松川」と呼ばれる「伊東大川」の河口部です。右手には、伊東漁港や魚市場もあります。 その昔、此の松川の上流の「山蜘蛛ケ淵」に、頼朝と伊東祐親の三女「八重姫」の…
医者にして文学者、絵画も描けば評論、随想も「木下杢太郎」記念館
伊東を代表する有名人は、伊東祐親と木下杢太郎。その木下杢太郎の記念館です。 木下杢太郎(本名:太田正雄)は、まず医学者(東大の皮膚科の教授)です。家族は、正雄…
JR伊東駅の裏(0.6Kmの高台)に「松月院(曹洞宗)」があります。「花の寺」とも呼ばれる、美しいお寺です。 伊東七福神のうち「弁財天」を祀っています。 慶…
「伊予シリーズ」の途中ですが、「春の伊東」を先にアップさせて戴きます。1週間後に「伊予シリーズ」を、「伊予大洲」から再開します。 まずは、JR伊東駅の直ぐ裏に…
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今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
「休ケ岡八幡宮」の末社、「孫太郎稲荷神社」です。江戸初期に、姫路から此の地へ遷座してきました。更に古くは、下野・佐野からとも。 平安中期、藤原頼行公により、…
「薬師寺」へ進みますが、まずは、関連社寺から。 薬師寺の南門の手前に鎮座するのが「休ケ岡八幡宮」です。薬師寺の鎮守社です。 祀られているのは、僧形八幡神、神…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…
マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られ…
マイマイ通りに沿って稲田寺の南隣りの「海善寺(浄土宗)」です。まずは、此の山門の見事さ。思わず見惚れます。 江戸時代の寺院には珍しくなかったのでしょうか。思わ…