「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
江戸時代は将軍家の庭園だった「浜御殿」。明治になり「浜離宮恩賜庭園」と名を変えましたが、今も汐留の高層ビルを背景にしつつ、広大な敷地を誇っています。撮影は13…
江戸城の出城だった「浜離宮恩賜庭園」です。25万㎡以上の広大な敷地面積を誇り、今も江戸の潮風を感じる庭園です。 築地大橋から勝どき方面を臨みます。 慶応4…
福井シリーズの途中ですが、「特別名勝・特別史跡」の「浜離宮恩賜庭園」です。江戸時代には、江戸城の「出城」の役割を有していた「徳川将軍家の庭園」です。 慶応4年…
福井城「山里口御門」を出て、「御廊下橋」を渡ると、「福井神社」が鎮座しています。「福井神社」には、幕末の名君「松平春嶽公」が祀られています。 併せて、境内の末…
織豊時代に柴田勝家が築いた「北の庄城」の後に、慶長6年(1601)68万石の大大名となった家康次男の松平秀康が築城した、壮麗な「福井城」です。四層の天守閣を誇…
福井城天守台に復元されている「福の井」です。水が豊富な福井の象徴で、福井という町の名称の起源でもあります。 ヒノキ造りの上屋と福井の名石「笏谷(しゃく…
数年後に迫った「北陸新幹線の福井延伸」に合わせて、福井城址周辺整備も進められています。 城北方を守る「舎人門(復元)」です。外濠に設けられた門のひとつです…
福井藩松平家の別邸「養浩館庭園(旧御泉水屋敷)」です。江戸初期から造営が始まり、7代昌明の時代に完成したと言われています。 江戸時代を代表する大名庭園で、米国…
福井藩松平家。家康次男(つまり将軍秀忠の兄)「秀康公」を藩祖とする雄藩でした。外様である加賀百万石前田家を抑える意味合いも担っていました。 この「養浩館庭園(…
福井へ行くと、市内の彼方此方に「松平春嶽公」の像が見られます。此の写真は「福井市立郷土歴史博物館」前に建つ像です。 越前福井藩は、家康2男の結城秀康が、慶長…
松山へ戻り、「日本料理 すし丸」さんの「松山鮓」です。 此のお店は、どのガイドブックにも掲載されているお店です。松山の中心地「大街道」にあり、瀬戸内の旬を盛り…
「本能寺の変」は、天正10年(1582)6月2日早暁に勃発し、天下取りに手が届いていた信長は、非業の最期を遂げました。 其の頃「本能寺」は、今の「堀川通り」か…
空也上人が天慶2年(939年。将門討ち死の前年)に創建された「紫雲山光勝寺(天台宗)」です。「空也堂」と呼ばれています。「光勝」は、空也上人の戒名のようです。…
天慶3年(940)、自らを「新皇」と称し、今の関東エリアで大きく領土を増やしていた平将門が、平貞盛、藤原秀郷により討ち取られました。その首は都へ運ばれ「晒し首…
祇園のど真ん中に鎮座する「有楽稲荷」です。信長の弟「織田有楽斎」が再興した正伝院(現:永源寺)があり、有楽斎の墓も此処にありました。ために「織田稲荷」とも呼ば…
1月10日前後の「十日戎」では、西宮神社や今宮戎神社ともども凄い人出で賑わいます。関東では余り人気がない恵比寿さんですが、関西での人気は凄いものがあります。し…
平日でも大混雑している「鎌倉/小町通り」周辺。来年は、大河の放映もあり、益々込み合いそうです。「近藤」では、鎌倉野菜や地元で水揚げされた魚介類を使い、伝統料理…
建仁寺の境内の西南角にあります「禅居庵摩利支天堂」です。14カ寺ある「建仁寺の塔頭」のひとつで、「摩利支天」を境内仏堂として祀り、開運や七難除けの信仰を集めて…
「六道の辻」から松原通り(秀吉が五条大橋を架橋する前の五条通り)を東へ進むと「六道珍皇寺(ちんのうじ)」があります。此の寺には「冥府通いの井戸」があり、小野 …
「六道の辻(西福寺)」を少し南へ、やはり轆轤町ですが、「六波羅蜜寺(真言宗智山派)」があります。山号は「補陀洛山」、御本尊は「十一面観世音菩薩(国宝)」です。…
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「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…