「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」 一つ前号は、「日本国債の格下げ」 もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。 宜しくお願いします。
華やかな祇園から、それ程遠くない、建仁寺の少し南。此の辺りは「轆轤(ろくろ)町」と言いますが、町名は「髑髏(どくろ)転じて轆轤(ろくろ)」と言われています。 …
日本三大銘菓に数えられる「長生殿(前田利常公の創意と小堀遠州の命名が相まって誕生したと言われ、漱石も感動したと言われています)」で有名な金沢の老舗菓子司「森八…
道真公、将門公と共に「日本三大怨霊」の一人に数えられる崇徳天皇を祀る御陵が、華やかな祇園歌舞練場の裏にあります。崇徳天皇は「保元の乱」後に讃岐へ流罪となり、遂…
京都へ戻ります。(紅葉を挟んで)京都、福井、金沢と続けます。 東山にある「安井金比羅宮」です。悪縁を切り良縁を結ぶお宮さんですが、後背地に花街を控えることも…
京都のフレンチを掲出したので、金沢のフレンチを食べ比べてみます。「ジャルダン ポール・ボキューズ」。21世紀美術館の直ぐ前の「しいのき迎賓館」2階にあります。…
新たにリピーターに「La famille Morinaga」
長く続くコロナ禍。京都も、リピーターとして通ったお店が幾つも閉店してしまいました。そこで、また新たなリピート店を開拓する必要が生じ、そのひとつが「La fam…
JR本八幡駅前の繁華街から僅かに徒歩5分程度の千葉街道沿いに、古くから「決して足を踏み入れてはならない」、「一旦入ると神の祟りがあり、二度と出て来られなくなる…
下総国総鎮守「葛飾八幡宮」です。八幡という地名の語源でもあります。 寛平年間(9世紀後半)宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請し建立されました。武神のため、…
千葉氏の被官であった富木常忍と太田乗明が、強引な布教で迫害されている日蓮を保護し、自らの邸宅を寺院と成し創建させた「日蓮宗大本山の法華経寺」です。 山門です。…
日蓮上人が最初に教えを説いた地と言われる「中山法華経寺」です。日蓮宗の大本山で、「立正安国論」などの国宝を有し、境内の建物の多くが重文です。京成中山駅を下車す…
天文13年(1544)創建の「大蓮寺(浄土宗)」です。 どっしりした本堂です。 行基大僧正の作「勢至菩薩像」を祀る「開山堂」です。安産祈願に厚く信奉されて…
「清瀧神社」の隣りにあり、如何にも由緒ありげな「大蓮寺(浄土宗)」です。山門から、延々と参道が延びています。 天文13年(1544)つまり、未だ江戸開府前…
浦安の「清瀧(せいりゅう)神社」。建久7年(1196)創建と言われ、海路安全、漁業繁栄を守る海の神「大綿積(おおわだつみ)神」を御祭神としています。 小さい…
かつての繁華街である「堀江フラワーロード」沿いに建つ、どっしりした目立つ建物。明治2年に建てられた「旧宇田川家住宅(浦安市有形文化財)」です。はっきりと建築年…
浦安市内で最初の洋風建築物と言われる「旧濱野医院」です。昭和4年の建築で、医院として使用された2階建て部分は洋風の、居宅として使用された平屋部分は和風建築。和…
「豊受神社」に隣接する「花蔵院(新義真言宗)」です。創建年不詳ながら、鎌倉時代に創建されたとされる、浦安では一番の古刹です。 どっしりとした佇まいの本堂(御…
約2年振りに「寺社巡り」を再開しました。コロナ禍の中では、なかなか街歩きも出来ず、コロナ禍前に撮影していた写真を基に、ブログを綴って参りましたが……。ただ、撮…
四谷の「観音坂」。「真成院の塩(潮)踏観音(潮干観音とも)」にちなんだ坂名です。江戸時代は西念寺の表門に面していたので「西念寺坂」とも呼ばれていました。 そ…
四谷の観音坂に、服部半蔵(初代)が眠る「西念寺(浄土宗)」があります。半蔵は家康の長子「信康」切腹の折、介錯を命じられましたが、どうしても介錯をすることが出来…
新宿通りから「東福院坂」を下ると「東福院(真義真言宗)」があります。括弧内の「天王坂」とは、坂の正面に鎮座する「須賀神社」が、かつては「牛頭(ごず)天王社」と…
四谷の円通寺坂を「東福院坂」との交点まで下ると、右に「愛染院」、左に「東福院」があります。まずは「愛染院(真言宗豊山派)」から。 弘仁年間(9世紀初頭)に弘法…
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「中町筋」にある「旧米谷家住宅(重文)」です。 「米谷」の屋号をもち、広く金物商を営んでいました。 18世紀中頃の建物で、後に、内蔵や蔵前座敷を増築していま…
やはり中尊坊通りにある「河合家住宅(上品寺屋河合酒造、重文)」です。 江戸時代初期の頃上品寺村から移住し、古くから「上品寺屋」の屋号で酒造業を営んでいます。 …
今井町の街並みは、東西600m、南北310mのエリアの周囲を環濠土居で囲んだ集落で、城塞都市のように、内部の道路も、見通しを利かせず屈曲させています。 なかに…
今井町の成立は天文年間(16世紀)で、此の地に本願寺の坊/今井兵部卿豊寿が建設したとされています。 一向宗の門徒が「御坊(称念寺)」を開き、自衛上の武力を養い…
戦国時代には織田信長と戦った街、今井町。赤い橋の蘇武橋を渡ると、そこでは歴史ある街並みを散策できます。…… とパンフレット。 ワクワクする気分で、近鉄「八木西…
三条通りへ戻ると「浄教寺(浄土真宗)」の伽藍が目に入ります。 寺紋は南朝ゆかりの「九耀菊水」紋で、南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所でした。 まずは、国の登録…
近鉄奈良駅の西にあって南北に通じる賑やかな通り「やすらぎの道」に沿ってある「率川神社」です。 もともとは興福寺との関係が深い神社でしたが、明治になって、「大神…
奈良のお薦めイタリアン・レストラン「トラットリア piano」です。 近鉄奈良駅から直ぐで、繁華街にありながら店内が広く、落ち着いて食事出来るお店です。 …
「興福寺の五重塔」から52段の石段を下ると、「猿沢池」があります。 静かな池で、もとは、興福寺の「放生池(魚などを放って功徳を得る儀式のための池)」だったので…
「ならまち」を散策していると、「史跡:元興寺塔跡」碑がありました。 「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥に開いた日本最古の寺院「飛鳥寺」を前身とし、平城京に移されては…
ならまちにも「御霊神社」があります。やはり、桓武天皇の祈願所です。 794年、桓武天皇の即位に伴う「平安遷都」がありましたが、時代が大きく変わるときには、色々…
前身は「元興寺の子院」だったと言われている「法徳院(融通念仏宗)」です。「十輪院」の左隣りにあります。 17世紀初めに、倍巖上人が再興しました。 御本尊の「…
「ならまち」へ戻り、「興善寺(浄土宗)」です。前身は、元興寺の奥之院だったと言われる寺院です。 天正年間(16世紀)に、慶誉上人により、開創されました。 …
薬師寺から唐招提寺へ行く途中に発見した、風雅な蕎麦処です。予備知識なく散策の途中に出逢った、当に、一期一会の遭遇でした。 「蕎麦処 よしむら」です。 香…
天平宝字3年(759)に鑑真和上が、当時の新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜り創建した「唐招提寺」です。 各伽藍を見てみましょう。 まずは「金堂(奈良時代、国…
それでは「鑑真和上」とは。 和上は688年に、中国の揚州で誕生されました。14歳のときに、揚州の「大雲寺」で出家。21歳で長安の実際寺の「戒壇」で、弘景律師に…
薬師寺を出て北へ5分程歩くと、松林と土塀に囲まれた厳かな雰囲気の「唐招提寺」が見えて来ます。此処は律宗の総本山で、艱難辛苦の末、日本への渡来を果たされた「鑑真…
「大講堂」です。 多くの学僧が、仏教を学んだ古代の伽藍。規模は、金堂よりも講堂の方が大きい。平成15年の再建です。伝統工法による再建では、史上最大です。 本尊…
平城京の前の藤原京からの長い歴史を有する「薬師寺」は、天平2年(730)には、金堂の前に東塔と西塔を有する「薬師寺式の伽藍配置」を完了したと思われます。 しか…
近鉄「西ノ京」駅を出ると薬師寺の大きな境内があり、象徴的な東塔と西塔が目に飛び込んできます。 ただ、「西ノ京」駅に近い薬師寺北側の「與楽口」は、いわば裏口で、…
黒船が来航し浦賀が江戸湾防衛の最前線になると、浦賀へ来る人が多くなりました。しかし浦賀は宿場ではないので、船乗り以外の旅人の宿泊は禁止。 知人宅に宿泊を依頼し…
天然の良港である浦賀港。入り江が深く入り込んでおり、東西浦賀を行き交う人々の交通手段は重要です。 浦賀に奉行所が設置された頃から、此の「浦賀の渡し舟」は続いて…
浦賀は古くから港町として栄え、大きく入り江が入り込んでいるため、東西を「渡船」で結んでいます。僅か3分の航路ですが、その渡船で結ばれている2つの「叶(かのう)…
「東耀稲荷神社」から「東叶神社」へ至る途中、浄土宗鎮西派の2寺があります。 まずは「東林寺」から。 開山は、唱阿上人です。ペリー提督の応接を一手に引受け、地元…
干鰯の交易で栄えた東浦賀の繁栄振りが偲ばれる「東耀稲荷神社」です。創建は天明2年(1782)で食保命(うけもちのかみ)を祀ります。 「東耀稲荷」の名は、隣接す…
東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料と…
さて舞台は、久里浜から浦賀へ。京急本線の浦賀駅が起点の散策です。 まずは「東教山乗誓寺」です。当寺は、「曽我物語」でお馴染みの曽我兄弟の兄「曽我十郎祐成の子=…
京急「汐入」駅前の再開発ビルの「メルキュールホテル横須賀」の19階にある「ビストロ・ブルゴーニュ」でのディナーです。 窓からは横須賀軍港が一望出来ます。目の前…
嘉永6年(1853)6月3日に浦賀沖が現れたペリー艦隊。武力を背景とするペリーの強硬な態度=艦隊が戦闘態勢を解かず=に、幕府は6日後の6月9日(新暦では7月1…
「久里浜天神社」から真っ直ぐに海岸方面へ。「東京湾フェリーターミナル(浜金谷との航路)」の右に、住吉神社が鎮座しています。 約1000年前の創建と伝わる古社で…
「日米和親条約」の結果、開港された下田と箱館を見てきた処で、少し遡り、ペリーが最初に訪れた浦賀と久里浜を訪問します。 歴史的事実としては、嘉永6年(1853)…
「了仙寺」から「ペリーロード」を南下すると、突き当りが「旧澤村邸」です。旧「下田ドック」の創始者で戦前に旧下田町長も務めた澤村久右衛門氏により、大正4年に建築…
「ペリーロード」の脇道を少し上ると「長楽寺(真言宗)」があります。ロシア使節海軍大尉プチャーチンとの交渉の結果、「日露和親条約」が調印された場所です。 安政元…
「日米和親条約」及び「下田条約」により開港地となった下田ですが、江戸時代、「出船入船3000艘」と言われ、東西を往復する船の「風待ちや避難の寄港地」として繁栄…
下田マイマイ通りの突き当りに、「了仙寺(日蓮宗、国史跡)」があります。此の寺で、ペリー提督と日本全権(林大学頭)により「下田条約(日米和親条約の附則13カ条)…
「泰平寺(臨済宗建長寺派)」です。此の辺りは京都より鎌倉に近いので、建長寺派です。 下田5000石の初代領主:戸田忠次が開基となり、雪叟紹立を開山として創立し…
嘉永7年(1854)吉田松陰は、ペリー提督を乗せた米艦「ポーハタン号」へ弟子の金子重輔と「密航」を企図するも拒絶され、小舟を漕ぎだした柿崎の名主:増田平右衛門…
下田開港後の「欠乏所(下田市指定史跡)」跡の古民家で営業されている「平野屋」です。開港当時の下田の雰囲気を味わいつつ、ステーキやコーヒーを味わうことが出来るお…
安政元年(嘉永7年、1854)に「日米和親条約」が締結され、下田港が開港場となりましたが、外国船が必要な消耗品(=欠乏品=薪、水、食料、石炭など)を供給する場…
「宝福寺」の南隣り「下田八幡神社(御祭神:誉田別命)」です。正応年間(13世紀後半)の創建と言われ、古くから下田の人々の篤い信仰を集めています。 「迎神の松」…