宇喜多系図の現代語版(続)
少し不鮮明ですが現代語に訳したものを掲載します。宇喜多系図の現代語版
----系図について----「宇喜多系図」は宝永弐年(1705年)山口猪之八によって書かれ西川幸之助あてに出されたものです。猪之八の改名前は「秀一」です。系図の現代語版の一部を拡大して添付します。猪之八が改名した元禄七年(1694年)は第5代将軍徳川綱吉の治世下です。秀一の妹が西川助六に嫁いでいることから、西川幸之助は妹の嫁ぎ先の人と思われます。秀一の祖父保秀は9歳で岡山城を落ち、89歳卒となっているので1591~1680年に生きた人物となります。能家(よしいえ)、興家(おきいえ)の子孫が直家、秀家を含めてはっきり書かれています。系図には能家は病死、興家は乙子之城で討死と書かれています。(備前軍記では能家は砥石山城で自害、興家は病死となっています)系図には秀家の子供は書かれていません。この系図の末尾に「一家一門...八浜合戦
はじめまして本日より、戦国・宇喜多の系図について綴って参ります。はじめてのブログで不慣れではございますがどうぞご訪問くださいませ。平成21年3月、「宇喜多系図」が岡山県立記録資料館から「紀要第4号」で公開されました。この系図は戦国宇喜多一族の血脈系図と備前代々の記録で、300年間眠っていたものです。岡山県地域の戦国時代史は、ともすれば江戸時代に作られた軍記類によって描かれています。「宇喜多系図」は岡山に定着している歴史観と異なる内容が多く含まれております、「波風を立てるな」とのおしかりを受けるかも知れませんが、史実の復元に少しでも役立つことを願って、宇喜多系図の一部ですが分析、解説を付してゆく事とします。「紀要4号」では「宇喜多系図」の原文(古文書)を活字に変換したものと現代語版が掲載されました。このブログでは...戦国・宇喜多について綴ります
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