八浜合戦
----系図について----「宇喜多系図」は宝永弐年(1705年)山口猪之八によって書かれ西川幸之助あてに出されたものです。猪之八の改名前は「秀一」です。系図の現代語版の一部を拡大して添付します。猪之八が改名した元禄七年(1694年)は第5代将軍徳川綱吉の治世下です。秀一の妹が西川助六に嫁いでいることから、西川幸之助は妹の嫁ぎ先の人と思われます。秀一の祖父保秀は9歳で岡山城を落ち、89歳卒となっているので1591~1680年に生きた人物となります。能家(よしいえ)、興家(おきいえ)の子孫が直家、秀家を含めてはっきり書かれています。系図には能家は病死、興家は乙子之城で討死と書かれています。(備前軍記では能家は砥石山城で自害、興家は病死となっています)系図には秀家の子供は書かれていません。この系図の末尾に「一家一門...八浜合戦
2011/01/12 11:26