大きなアタッシュケースを両手に下げて訪れたテオバルトをハインリヒと共に迎え入れて。何やら真剣な顔で会話を始めた彼らから離れてキッチンに向かったアルフレードはコーヒーを淹れることにした。芳ばしい香りが部屋に広がり、今朝焼いたばかりのビスコッティを盛った小皿とカップをトレーに乗せてリビングに戻る。と、そこにはまるで映画のワンシーンさながらの物々しい光景が広がっていた。ソファの前にあるローテーブルの上。...
糖度高めなオリジナルBL小説(短篇~長篇)を扱っています。 ドイツ人広告代理店社長×イタリア人家具デザイナーが美味しいもの食べたり困難を乗り越えたりいちゃついたりする日々の物語。 #溺愛攻め #トラウマ持ち受け
受け溺愛主義かつ強火担の攻めが何が何でもハピエンにします。
窓から吹き込む海風の心地良さに瞳を細めれば、それを眩しいからだと思ったのかハンドルを握るハインリヒから「大丈夫か?」と声が掛けられる。限りなく黒に近いが、サファイアブルーを持つ彼の瞳は光に弱いようで、今も濃い色のサングラスをしている。それが妙に様になるのだから、同性が羨むのも分かる、と思いながらアルフレードは笑みで返した。「風が気持ちいいなぁって思って」「ダッシュボードの中にアルのサングラスも入っ...
来訪者を告げるブザーの音に起こされ、ハインリヒは気怠さを隠すことなく乱れた前髪を掻き上げた。朝早くから一体何だ、と思いながら時間を確認するために枕元のモバイルに手を伸ばす。その拍子に、腕の中に抱え込んでいたアルフレードの柔らかな金糸の髪が頬に触れる。擽ったいそれにそっと口許を緩ませ、心地良さそうな寝息を立てて眠っている彼の額に唇を落とす。その間もブザーの音は止まず、小さく舌打ちをしながら手にしたモ...
首都カリアリから国道で北へ約1時間。古代の火山地帯であるモンテ・アラジン自然保護区の看板が見えてくる。ハイキングや自然観察が楽しめるスポットであり、決して大きな町ではないが観光地としての人気は高い。だが、まだ時刻は商店やカフェがオープンする前で。人通りの少ない町の景観だけを楽しみ、ハインリヒが運転する車はさらに北上する。そうして直線が続く国道を20分ほど走った頃。オレンジ色の屋根の家々が見えてきた。...
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大きなアタッシュケースを両手に下げて訪れたテオバルトをハインリヒと共に迎え入れて。何やら真剣な顔で会話を始めた彼らから離れてキッチンに向かったアルフレードはコーヒーを淹れることにした。芳ばしい香りが部屋に広がり、今朝焼いたばかりのビスコッティを盛った小皿とカップをトレーに乗せてリビングに戻る。と、そこにはまるで映画のワンシーンさながらの物々しい光景が広がっていた。ソファの前にあるローテーブルの上。...
世界有数の自動車生産拠点のひとつに数えられる、ドイツ南西部の町ジンデルフィング。現代は工業の中心地として知られているが、中世の頃は織物産業で栄えた。職人文化の礎を築いた地であり、今では“勤勉”と“技術力”の象徴となっている。周辺には“ウルム大聖堂”で知られるウルムや中世時代を再現したクリスマスマーケットで有名なエスリンゲン、自動車の聖地とされるシュトゥットガルトがある。バーデン=ヴュルテンベルク州とバイ...
血相を変えて駆け込んできた2人の部下にぞんざいに押しのけられたハインリヒは、「自分は彼らの上司のはずなのだが」と肩を竦めた。だが、咎める気にならないのは、彼らとは単純な主従関係で結ばれているわけではないからで。何よりも、普段は己の影に徹している彼らのなりふり構わない様子はそれだけ心を動かされたということで。かつての彼らを知っているからこそ、その変化が微笑ましくも見える。口先だけの心配でも気遣いでも...
バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する歴史的な町、ジンデルフィング。その名前が登場する最も古い文書は神聖ローマ皇帝が記したもので、ミュンヘンが歴史的に記録された年の83年前の1075年のこと。ミュンヘンからは車でおよそ2時間弱の場所にあり、アルプスから吹き降ろす清かな風が丘陵地帯を越えたその先にあるこの町を包む。交易路の一部としても栄えたこの町は、巡礼者や商人たちが行き交う場所でもあった。その名残りは今...
最初のメールは、ごくごく普通のファンレターだった。作品に対する称賛とデザイナーとしての在り方に対する好意の言葉が並んでいた。その中に違和感はなく、活動を認められることは嬉しいなと純粋な気持ちで読んでいた。次に届いたメールも、その次に届いたメールも似たような文面で。どこそこで展示されたあの作品のあの部分が、使われたあの生地が、選んだあの材質が、とメール毎に違う作品を褒めちぎるもので。熱心に見てくれて...
空に近い場所。そんな言葉がふと思い浮かんだ。市内の数ある高層ビルの中でも群を抜いて存在感を放つマンションの最上階。そこはワンフロアすべてが居住空間として設計されている。ゆとりをたっぷりと持たせた贅沢な居室はしかし、徹底的に無駄を排したシンプルなもので。機能美を追求した直線的なラインが品格を際立たせ、計算され尽くした美意識が随所に光っている。もはやこの場所はただの住まいではなく、選ばれた者だけが手に...
仕事に使用しているメールアドレスは名刺にも記載されており、知ろうと思えば誰でも手に入れられる情報で。プライベートのものと使い分けていたとしても個人情報であることに変わりはなく、それが悪用される懸念点がある以上、公開しないことが最善だろう。しかし、アトリエや事務所を構えていない以上、それはどうしても必要になる。SNSのプラットフォームを活用すればダイレクトメッセージで交流することもでき、Webサイトに問い...
いつも通りに目が覚めれば、いつもより爽快感があって。ぐっすりと眠った感覚に足取りも軽やかになり、「今日の朝食は何にしようか」と鼻歌を口遊みながらリビングに向かったアルフレードを迎えたのはエプロンを身に着けたハインリヒとダイトだった。泊まって行ったダイトと明け方まで書斎にいたハインリヒがキッチンの中から「おはよう」と声を揃える穏やかな様子に相好を崩し、朝の挨拶とハグをして。過保護を公言している彼らが...
エントランスで見送るフルアとグラースに手を振り別れを告げて。すっかり顔馴染みになったコンシェルジュと夜の挨拶を交わして。エレベーターに乗り込めば、最上階の自宅まではあと少し。セキュリティの関係上、他の住民と顔を合わせることがないように居住階まで直通になっているそれの利便性をしみじみと実感しながら、アルフレードはハインリヒをちらりと見上げた。彼の端整な顔立ちは力強さや凛々しさを感じさせるもので、しか...
ドイツの警察は連邦制を採用しており、各州に独自の機関が置かれている。空港や主要な鉄道駅の警備を担う連邦警察の他に、地域の交通管理や飲酒運転の取り締まりを行う交通警察、河川や湖の安全を維持する水上警察、アルプス地域での救助活動を担う山岳警察など地域の特性に合わせた組織があるのだ。特にミュンヘンは国内有数の国際都市で、その治安を維持するために高度に組織化された警察機構が存在している。その最たるものが、...
湖に張った薄い氷の上に立っているかのような緊張感の中、紙の擦れる音が響く。プロジェクターの映像をスクリーンに投影するために窓にはブラインドが下ろされ、天井の照明も落とされる。暗がりの中、鋭く浮かび上がるプロジェクターの光はまるで白夜の月明りのようで。冷ややかで清冽なその輝きが壁や机の表面に淡く映り込み、悠然と玉座に腰掛けるハインリヒを照らす。オートクチュールのスーツは適度に鍛えられた彼の肢体を包み...
遠くの森の中でフクロウがホゥと一声だけ鳴く。風はなく、凍った葉を揺らす微かな音さえもない静寂がすぐに戻ってくる。湿地帯の広がる平野を覆う雪が吐息も食み、耳鳴りがするほどの静けさは恐ろしさを感じるほどで。空気は凛と澄み渡り、この世界そのものが人間の介在を拒むかのような冷たさを持っている。いや、それが自然の本来の姿なのかもしれない。始原の地球の姿。「吸い込まれそうな星空…」コテージの庭にあった木製のベ...
夜が明けるように、静かにその映像は始まった。モノクロームのそれに最初に映し出されたのは、古い本が山積みになっている書斎。徐々にクローズアップされていく書斎机の上には使い込まれた万年筆と開かれたままのノートがあり、カメラの焦点はそのノートに合わせられる。それには持ち主の思考がぎっしりと書き込まれており、いくつかの文字にスポットライトが当てられていく。滅んでしまった文明の名前、革命を主導した人の名前、...
創りたいのは、学術的な出版物ではない。歴史学者ベルナルド・エンツィオの情熱を、歴史というものに命を注いで向き合っていた友の人生そのものを形にしたいのだ。彼自身は見ることのできなかった未来を…“いま”を生きる人々にこそ知ってもらいたい。歴史とは、偉大な王や英雄が残した断片を繋いだものではなく、その全てが延長線上にあるもので。今、自分たちが歩いている道も、飲んでいる水も、語っている言葉も、数え切れない人...
想像していたよりもやることが多い、とアルフレードは目の前にずらっと並ぶ書類を前に後退ってしまう。専門的な単語で埋め尽くされた書類の数々は読むだけでも一苦労で、それを正しく理解しなければならないとなると容易にはいかない。全ての判断に責任が伴い、承諾のサインをする手が震えてしまう。(こんな毎日を当たり前のような顔で乗り切っているのだから、やっぱりこの人は“選ばれた人”なのだろうな)向かい側のソファに腰を...
不安はある。怖くないはずがない。それでも前向きでいられることは自信となる。臆病は簡単に治るものではないけれど、それでも。それを言い訳にして蹲っていたあの頃とはもう違うのだから、とアルフレードは軽やかな足取りのままベッドに近付く。こちらに向かって無言で両腕を差し出しているその人の随分と無防備な行動に小さく笑いながら。「ふふ、可愛いことしてる」昼間見せていた“王”の顔とは全く違う。それは1人の人間として...
通話を終えてアプリを閉じれば、必要最低限のショートカットキーが整列するデスクトップ画面に切り替わる。無駄を省き、効率を重視する彼らしいすっきりとしたデスクトップだ、とアルフレードはほくそ笑んだ。執務机の上も整理整頓されており、パソコンのモニターが2台とキーボード、今は閉じられているノートパソコンが1台、書類ケースと電話機…そして、フォトフレームが3つ並んでいるだけ。彼にとって本当に必要なものだけがそこ...
これぞ文明の利器と言うべきか。技術の進歩や発明によって人々の生活はより便利になり、新しい仕組みがつくられていく。インターネットの発展やコンピューター技術、ソフトウェアの進化はそれこそ目覚ましく、今では地理的な制約を超えてコミュニケーションを効率的に行えるようになった。世界中のどこからでもインターネットさえあれば簡単に交流ができるため、個々が移動する必要がなく、時間やコストの削減という経済的なメリッ...
広告とは何か。それは、商品やサービス、イベントや情報などを広く一般に知らせ、消費者や特定のターゲット層に対して行動を促すための情報伝達手段である。具体的には、テレビやラジオの放送媒体、新聞や雑誌、屋外の看板やポスターなどの印刷物がそれだ。現代においてはデジタル広告も重要な存在で、ソーシャルメディアや検索エンジンを通じて何千何万の人々に今この瞬間も膨大な量の情報が発信されている。だが、闇雲に情報を流...
バイエルン州の州都であるミュンヘンの南側にはアルプス山脈が控えており、標高1000メートルを超える山々にも近い。街自体も海抜500メートルの位置にあり、周辺地域と比較すると若干高めの地形にある。そのため、北西ヨーロッパからの冷たい大陸性の空気が山を越えて流れ込み、ミュンヘン周辺に留まって冷気が蓄積されることで急激に冷え込む特徴を持つ。特に夜間や早朝は厳しい寒さになり、気温が氷点下を下回ることも多い。降雪...
オーバーシュライスハイムからミュンヘンまでは車でおよそ40分。3日間の休暇の余韻に浸りながら残りの時間を惜しむようにゆっくりとティータイムを楽しんだ後、ハインリヒとアルフレードはグラースの運転で陽が暮れる前にはマンションに帰り着いた。顔馴染みのコンシェルジュがわざわざカウンターから出て迎えてくれたのを嬉しく思いながら、留守を預かってくれた彼に礼と帰宅の挨拶を交わす。事故のニュースを知った彼は、あの日...
目の前に並ぶ皿の量に、アルフレードは丸い瞳を更に丸くして。次いで困ったように眉を下げ、ハインリヒを見上げた。縋るような、助けを求めるその眼差しに苦笑し、ハインリヒも次から次へと出てくる料理に肩を竦める。「これはさすがに食い切れないだろ」「アルちゃんがお泊りしていってくれるのが久しぶりで嬉しくなっちゃったのよ」「まだ時間も早いからな、ゆっくり食べればいい」父のフリッツに促され、並んで椅子に腰を下ろす...
身じろぎひとつしないで眠り続けているハインリヒの髪を梳き、アルフレードはその手で前髪を払って彼の額に触れた。まだ目の下に隈はあるが、熱はないな、とほっと安堵の息を吐いてから少し伸びてきた襟足を指に絡める。その拍子に、項にある小さなホクロが見えた。普段は髪に隠され、近付いただけでは見ることができないもので。無防備な彼の姿に独占欲と優越感が充たされていることに気付いてしまい、オレも大概だなと小さく肩を...
ミュンヘン北部に位置する、オーバーシュライスハイム。自然豊かな小さな町で、歴史的な建造物や観光名所も数多い。1912年に設立された国内最古の現存する飛行場は今でも現役で、その敷地内にはドイツ博物館の分館にあたる航空宇宙博物館がある。展示場はコンパクトだが、第二次世界大戦に実際に使用された戦闘機や近代の航空機やロケットが展示されていることで有名だ。この博物館の隣にはバイエルン公ヴィルヘルム5世の隠遁の場...
熱を奪い合うように。一方で与え合うように。そして、共有するように。体温も鼓動もどちらのものか分からなくなるまで重なり、心の充足感がもたらした優しい微睡みに身を委ねて。睡眠時間は到底足りていないが、軽やかな気持ちで目覚めて。そうして、ベッドの上から見送ったハインリヒを玄関で出迎えたアルフレードはその早過ぎる帰宅に目を丸くした。彼を送り出してから、時計の針はまだ2周しかしていないのだ。そして、彼の後ろ...
ワイドキングサイズのベッドに敷かれているシーツの色は、ミッドナイトブルー。白やアイボリーなどの淡く柔らかな色を好んで使うアルフレードが選んだものとしては珍しい。それも無地で、寝室に相応しい落ち着きはあるが、一見すると地味な印象を抱かせる。寝室の四方ある壁のひとつは全面ガラスで、2面は白い壁紙だがベッドの頭側の壁はチョコレート色に塗られている。そのためシーツを暗色にすると寝室全体が遊び心のない空間に...
すごい1日になっちゃったね、と苦笑するアルフレードに淹れたてのミルクティーを差し出しながら、ハインリヒも肩を竦めた。「疲れただろう」「ハインもね、お疲れ様でした。さっきまで電話鳴りっぱなしだったけど、ひとまずは落ち着いたみたいだね」「あぁ、やっとだ。そろそろ叩き壊すところだった」「ホテルから病院に向かう前からすごかったもんね。あれってどこから情報が伝わるの?」事故のニュースの速報は出たかもしれない...
鼓動が煩い。息が切れる。指先は冷え、血の気が引く。擦れ違った看護師が「廊下を走らないでください」と叱責する声を背中に聞きながら、ダイトは処置室と書かれているプレートの中から目的の番号を探す。本来は静かなはずの廊下にも人が溢れ、ざわざわと空気が落ち着きない。だが、それに構う余裕もなく、ダイトは見つけ出した番号の部屋のドアを勢いよく引いた。「無事か!?」ノックもなく突然開いたドアとそこから転がるように...
「今回もカマーバンドじゃなかったかぁ…」ぽつり、と零されたアルフレードの声は周囲の音に搔き消されるほど小さなものだったが、ハインリヒの耳には届けられた。足を止め、どうしたと問う。「え?」「今、カマーバンドがどうのと言っていただろう?」「あ、口に出ていた…?」はっとした顔をして口許を手で隠すアルフレードにハインリヒは口端を緩めた。随分と幼い仕草だが、どうしてこうも艶っぽく見えるのか。その柔らかな金糸の...
ビジネスやネットワーキング、文化的な交流を目的とし、特定の社会的な階層や特権階級のメンバーが集まるイベント。それらを一般的に、社交パーティーと呼ぶ。親しい友人や家族とカジュアルな雰囲気の中で気軽な会話や交流を楽しむこともまたひとつの社交パーティーではあるが、それとは何もかもが違う、とアルフレードは煌びやかな会場を見渡した。所謂、上流階級と呼ばれる人間たちによるそれはまさに“社交”と呼ぶに相応しい。会...
と言うことが今朝あった、と話し終えたハインリヒはグラースから差し出されたコーヒーを受け取り、ゆっくりと口を付けた。かつてはその液体を流し込むばかりで、味わうことはなかった。いや、その行為に意味を感じなかったと言うべきか。吐き出してはいけない言葉を、表に出してはいけない感情を流し込むためだけにそれを利用していたに過ぎない。だが今は、こうして立ち止まり、香りと味を楽しむ余裕ができた。余裕ができた、と気...
手繰り寄せた布をもそもそと身に着け、アルフレードは睡魔の手を振り払うように目を擦った。小さく欠伸を零しながら半身を起こし、広いベッドから何とか抜け出す。ワイドキングサイズのそれには上等なスプリングが使われており、淡いクリーム色のシルクのシーツは肌触りが良い。それに誘われるままうっかり二度寝してしまったことも一度や二度ではなく、後ろ髪を引かれながらもアルフレードはまだ覚醒しきっていない身体をぐっと伸...
悪夢に魘されて飛び起きるのでもなく、浅い眠りのままぼんやりと覚醒するのでもなく。瞼越しに感じる光が徐々に身体を包み、日向の中で、穏やかな気持ちで、目を覚ます。溜め息から始まるのではなく、清々しい気持ちで迎えた朝。しっかりと休息を得た身体は軽く、心も弾む。思考もクリアで、アルフレードは早々にベッドに別れを告げた。ぐーっと両腕を上げて身体を伸ばし、夜着の上に薄手のカーディガンを羽織る。寝室を出る足取り...
国境を越え、いくつかの都市を抜けて。アウトバーンからの景色を楽しみながら、ウィーンからミュンヘンまでのおよそ4時間30分の道程をたっぷりと堪能して。美しいオレンジ色の屋根が建ち並ぶ中に聳え立つ近代的な高層がビルが見えてきた頃には、すっかり陽が暮れていた。ミュンヘンの空が夕日に染まる頃には帰り着いている予定だったが、つい寄り道を繰り返してしまったな、とフルアは口端をそっと緩めた。助手席には、先ほどから...
身体に染み込んだ習慣から呼吸のように自然に後部座席のドアを開ければ、不思議そうな眼差しを向けられる。ドアを開けられることなど初めてではないだろうにどうしたのだろう、とフルアも疑問を滲ませた視線をアルフレードに向けた。「アル君?」「えっと、前じゃダメですか?」「はい?」助手席に、とおずおずと指を差され、そこでようやく合点がいく。彼を乗せるときはプライベートな感情が優先されるとはいえ、上司であるハイン...
ヒュッと、息を飲む引き攣った音は悲鳴に似ていて。ハインリヒは足を止め、その音の先を見た。瞳は見開かれているが、その焦点は虚ろで。頭で考えよりも先にハインリヒは呼吸を忘れて微動だにしないアルフレードの肩を抱き寄せた。搭乗ゲートへ急ぐ者、次の目的地に向かう者、長旅を終えて帰って来た者たちが入り混じる国際空港のコンコースは鉄道の最終便が迫る時刻であっても賑わっている。大きなキャリーを引く者たちが訝しそう...
“魂の殺人”。それは、狂気と悪意によって身体も心も凌辱されることを意味する。一方的な暴力によって人としての尊厳を踏み躙られ、否定され、日常の全てを変えられてしまう。傷の痛みは簡単に消えるものではなく、酷い凍傷のように皮膚の下に残り続ける。想像してみてほしい。「また明日」と笑顔で別れた友と昨日のように笑い合うことができなくなり、昨日まで楽しみだったテレビ番組を見ることもできなくなり、あれほど心待ちにし...
大人が抱えても腕が回りきらないサイズの大きなテディベア。ふわふわと柔らかな毛並みは蜂蜜色、真ん丸の瞳はチョコレート色。あれはいつだったか、お前に似ていると思ったら買っていた、と言ってそれを脇に抱えて帰って来たその人は、今。ぐったりとソファに沈んで大きな溜め息を吐き出している。オートクチュールの上等なスーツが皺になることも構わずに横に脱ぎ捨て、首元でだらしなく緩めたネクタイを乱暴に抜き取って放り投げ...
何故、彼ばかりが。何故、と繰り返し溢れてくる言葉をハインリヒは奥歯で噛み殺した。骨が軋む嫌な音が頭に響いたが、それには構わずにベッドの縁に腰を下ろして拳を握りしめる。いっそ感情のまま喚き散らかし、壁か床に叩きつけてしまおうか、とその拳を振り上げた。歯痒さやもどかしさは焦燥と苛立ちを伴い、すでに冷静ではない。引き結んだ唇を解けば、そこから怒りや憎しみが止め処なく溢れそうになる。水が沸くようにふつふつ...
果たして危惧は危惧で終わったのか。いつもの夜が過ぎ、いつもの朝を迎え、いつもの日常が過ぎて行く。すでに2週間。アルフレードが「憂鬱なニュースを見てしまった」と引き攣った苦笑を見せたあの日から、2週間が経った。あの日、彼を1人にしてしまうことに不安が拭えずにダイトの医院に出向くように仕向けて。違和感に気付いたフルアに問い詰められ、彼から状況を聞いたグラースが慌てて執務室に飛び込んできて。自分たちもアル...