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  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (59)

    ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (58) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(8)

    〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (57) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(7)

    〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (56) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(6)

    〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (55) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(5)

    〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (54) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(4)

    〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (53) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(3)

    〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (52) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(2)

    〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (51) 晩餐後のキリストの祈祷 ヨハネ一七章(1)

    ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (51) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(6)

    〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (50) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(5)

    〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (49) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(4)

    〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (48) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(3)

    〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (47) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(2)

    〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (46) 聖餐後のお話 ヨハネ一六章(1)

    第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (45) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(5)

    〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (44) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(4)

    〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (43) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(3)

    〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (42) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(2)

    〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (41) 聖餐後のお話 ヨハネ一五章(1)

    第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (40) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(8)

    〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (39) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(7)

    次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富(一)我が平安 ヨハネ一四27(二)我が愛 ヨハネ一五10(三)我が喜び ヨハネ一五11(四)我が恩 コリント後一一9(五)我が力 コリント後一二9(六)我が安息 へブル四5(七)我が栄光 ヨハネ一七24オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (38) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(6)

    〔25、26〕主は在世中、常に弟子たちに教えられたが、どうしてもその思いが弟子たちの心に入らないことを認められた。それ故に、キリストは彼らに聖霊を降して教えるより他に道のないことをお知りになった。これがつまりキリストが霊となって降られたことであって、後に来る「慰める者」である。これによって父なる神の愛のいかに深いかを知る。一四節と対照して見よ。キリストの名によって我らに聖霊を降されるのである。キリスト...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (37) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(5)

    〔21〕聖霊を受けた人は、事実においては以前のようであるが、人々の中では互に異なるものがある。そして神の子ら、すなわち兄弟姉妹を愛して愛の戒めを守り、愛を実行する者(ただ始めだけ主よ愛します、と言うのではなくて、必ず実行がなければならない)は、父なる神に愛されるのである。父なる神は、もちろん罪人をも愛されるが、特にキリストを愛する者を愛されるのである。「我もまたこれを愛して」このような人は、またキリ...

  • 「キリスト伝講義」苦難の週間 (36) 聖餐後のお話 ヨハネ一四章(4)

    〔15〕キリストが我らに求めておられるのは、唯愛である。ヨハネ二一15以下を見よ。主は甦えりの後、どんなに愛を求められたことだろう。「汝すべてに勝りて我を愛するか、然らば我が小羊を飼え」と仰せられた。主は愛をもって我らに願うことは、小羊をかうことである。これがキリストの遺言である。イエスを愛する者は、イエスがのこして行かれた魂に目をつけるのは当然である。ところが多くの人々は、自分のことばかりをキリスト...

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