全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
「シオンの特徴」第二章 キリストの勝利の命における合一(6)
イエス・キリストの霊は、あなたと私の中にこの同じことをなすために来臨されました。それは私たちが、自分の失敗や不完全さ、そして私たちを疎外し、引き離し、分裂させるあらゆる類のことのゆえに、やすやすと互いに離れ去ることのないためです。私たちは、自分たちと同じように見ていないからといって、他の人々を去らせることはできません。啓示を受けていないからといって、主の民を去らせることはできません。私が言わんと...
「シオンの特徴」第二章 キリストの勝利の命における合一(5)
しかし、あなたと私が共有している命には、この宇宙のあらゆる破壊的な勢力を遥かに上回るなにかがあります。それらの勢力は主イエスの十字架に集中しました。破壊し、崩壊させ、分裂させ、散らそうとしていました。彼の復活において、この命はこれらすべての破壊的な勢力を遥かに上回ることが証明されました。ペンテコステの日に、その命が何を行ったのかを見ることができます。主が裏切られた夜、彼らはみな散らされました。ペ...
「シオンの特徴」第二章 キリストの勝利の命における合一(4)
神はこの家族の上に建造される 土台に関しては、神は何の上に建造されるのでしょう?何の上にしか建造できないのでしょう?その答えは大いに明確です。神は命の上にしか建造できません。命の上にしか家族を築けません。私が思うに、神の御言葉、神聖な真理の中で、とても尊い点の一つは、まさに次のことです。すなわち、神の土台の霊的本質はこの家族である、ということです。私たちは、多くの事柄によって、またそれらの上に、建...
「シオンの特徴」第二章 キリストの勝利の命における合一(3)
私は、詩篇四八篇の最後の句「この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる」が正確な訳ではないことに気づいて興味を持ちました。正確な訳は、「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。さて、「シオンを回り」、最後は「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。死に至るまでではなく、死を超え、死を渡らせ、死の向こう側に導いてくださるのです...
「シオンの特徴」第二章 キリストの勝利の命における合一(2)
死に勝利する命によって構成された家族 さて、この土台の別の面に移ることにします。というのは、この土台自体は一つですが、多様だからです。黙示録から、この土台がいかに多様かわかります。土台にはあらゆる種類の宝石が使われています。次に、土台に関して少しのあいだ考えてみたいのは、この土台は命によって構成される家族の問題であり、その命は死を征服した命であることです。これは漠然とした言葉であることは承知してい...
「シオンの特徴」第二章 キリストの勝利の命における合一(1)
「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・十二~十四)「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)「なぜなら、据えられている土台...
イエス・キリストの霊とは何でしょう?第一に、堅固さの霊です。それは私たちの堅固さではないことを、神はご存じです。もし私たちに任されていたなら、私たちはとっくに流されていて、ここにはいなかったでしょう。私たちは学びつつあります、そうです、往々にして自分自身の失敗によって、挫折、失敗によってであり、試練や攻撃の下でです。私たちはキリストを学んでいるところであり、キリストを発見しているところであり、「...
キリストの堅固さを御霊によって自分のものとする必要性 もし主イエスが土台だとするなら、どのようにして彼は土台なのでしょうか?もし、これが彼の土台に言えて、それが私たちにも言えるようにならなければならないのだとすると――どのようにしてでしょう?私たちはあまりにも皮相的でした。私たちは、確かに、「据えられている土台以外のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台は、イエス・キリストです」と...
キリストの堅固さの秘訣 しかし、その秘訣は何だったのでしょう?それはたんなる人間的落ち着きや、偉大な魂の強さ、偉大な意志の強さではありませんでした。ある秘訣があったのです。彼の生活は、天におられる彼の父に深く根差していました。彼のお気に入りの言葉は――「天におられる父」でした。彼の生活はことごとく、天におられる彼の父に深く根差していました。あるいは、いつもの比喩を用いると、天におられる彼の父に基礎づ...
土台であるキリストの堅固さ ここで一つ、これまで述べてきたことと関連してすぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じ...
土台の重要性 土台はきわめて重要なものです。遅かれ早かれ、すべてのものの真価は土台によって決まります。私たちがこの土台に決着をつけることは決してない、という感覚があります。もちろん、土台は一度かぎり永遠に据えられており、私たちは戻って土台を何度も何度も据えなおすべきではない、という感覚もあります。しかし、たとえ土台は据えられていても、私たちが土台に決着をつけることは決してない、という感覚もあります...
シオンの土台 さて、私たちが読んだ他の節は、エルサレムとシオンに関する問題の一つの面に言及しています――つまり、その土台に言及しています。アブラハムについて述べているへブル十一章のこの節は、彼は土台のある都を求めていた、と述べています。次に使徒パウロは、唯一の土台はイエス・キリストであり、他の土台はない、と述べています。また、詩篇作者は「彼の土台は聖なる山々にある」と述べています。神の土台は聖なる山...
「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきである。シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである(中略)シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私た...
シオンの特徴T. オースチン-スパークス目次第一章 キリストの堅固さ第二章 キリストの勝利の命における合一第三章 キリストの命の不滅性第四章 キリストの尊さ第五章 神聖な開始における栄光第六章 隠れた働きにおける栄光第七章 最終的顕現における栄光オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
私たちは、私たちを対処する神の御手の下に来ているのではないでしょうか?主がある時になさりたいことを感じ取るために狭い道に入りつつあるのではないでしょうか?主が望んでおられることや望んでおられないことを、あなたは心の中で知ります。それを主が望んでおられる時を知ります。それは御霊によってあなたに臨んだのです。それは霊的識別力であり、霊的知識たる霊性です。しかし、私たちは自分の頭で物事を考え、神聖な知...
霊的知識の性質と力 知識の問題を考えてみましょう。人は「知識は力なり」と言いますが、それは天然的な知識のことです。知的な知識のことです。人々の間では、それは力かもしれませんが、天然的知識よりも遥かに強力な霊的知識があります。パウロは、この世の知識は命の主を十字架につけたほど愚かなものである、と再度述べています。それは、最高度に発達したこの世の知識です。支配者たちはこれを行いましたし、賢い人々もそう...
霊性の証明は、全く証拠がない時でも神と共に歩めることです。神がご自身を隠される時、信仰のみで歩まなければならない時でも、そうすることです。アブラハムのように、すべてが神を否定しているように思われる時でも、神を実証するものを求めないことです。神は、ご自分の子供たちを、ご自身の臨在を感覚的に示す多くの証拠がなくても、信仰によってご自身と共に歩むことができる、と信用できる地点に導こうとしておられます。...
霊性とは何か 霊性とは、天が意味するところのものであり、統治するものです。霊性の度合いが、神の観点から見た終局性・確実性・確定性・力の度合いです。 霊性とは何を意味するのでしょう?霊的であることについて話す人のことを、この世離れした空想的で夢想的な人物と思う、大勢の人と私たちは会ってきました。彼らは、そのような人物のことを、抽象的になってしまって、実際的なものをすっかりなくした人と思うのです。そう...
神の中心的関心事 この「新しい人」に神は関心を寄せておられます。神の関心はすべてそれにあります。神が追い求めておられるのは、それを成長させて、成熟した状態にもたらすことです。それによりその人の残りの部分を取り扱うことができることを、彼はご存じです。魂と体は、主イエスにある贖いにおいてそれなりの役割がありますが、神は霊すなわち新創造の人から始めて、それを通してその人の残りの部分に働きかけて、その天然...
主の子供である私たちですら、その観念、判断、評価、物事の受け止め方や評価法は、非常に物質的です。私たちは、自分のこうした魂的感覚によって大いに支配されており、影響を受けています。物事が他人にどのような影響や印象を自然に及ぼすことになるのか、それらに対する彼らの反応がどのようなものか、それが人々の間でどれだけ重んじられるのか、ということによって、支配されているのです。大事なのはただ、それが世人に与...
聖書朗読:一コリント二・六~十五。「律法が肉のゆえに弱くて、なし得なかったので、神は、ご自身の御子を罪深い肉の様で、罪のために遣わし、肉において罪を罪定めされました。それは律法の規定が、肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩く私たちにおいて、満たされるためです。なぜなら、肉にしたがっている者は、肉の事柄を思い、御霊にしたがっている者は、御霊の事柄を思うからです。肉の思いは死ですが、御霊の思いは...
神の今の御旨は、行政上の手段を確保して、その手段を統治のために訓練することです。人々は、主はなぜ宇宙から悪魔を一掃しないのか、なぜ苦しみや苦悩を止めないのか、と不思議に思っています。というのは、御言葉は私たちに、私たちの主イエスは「悪魔のわざを滅ぼすために現れた」と告げているからです。このようなことがすべて許されてきたのは、教会を個人的にも団体的にも試練を霊的に克服する立場に導くためです。神の御...
この現在の時、イエス・キリストの主権と権威は、この地上における政治的なものではありません――人々の間に現れていません――「わたしの王国はこの世のものではありません」。しかし、彼の主権は霊的な主権です。彼は密かに統治しておられ、それには強烈な衝撃力があります。天上の中に入ることは、あなたが霊的・道徳的優位性を得ることを意味します。神と共に脱出する道は何でしょう?困難から、苦難から抜け出すことでしょうか...
主イエスに関するなんらかの真理を知的に把握することは一つのことですが、聖霊の啓示によってキリストに属する事柄の中に経験的に入り込む時、あなたは上に立つ強固な立場――あらゆる支配を超越する立場――にあずかるようになります。ある真理、健全で正統的で聖書的な真理を得て、それを真理として提供することと、自分の心の中にその真理の内的な意味を啓示してもらって、それを提供することとは、大違いです。二人の人を例にあ...
福音は主権の福音書であるマタイによる福音書と共に登場します。そして、この書には主イエスの主権の様々な象徴があります。「天」という言葉が出て来る回数は、マタイによる福音書では七十五回を下りません。また、この福音書では御使いもたくさん出てきます。というのは、御使いに出くわす回数は十七回を下らないからです。超越性、高揚、優位性を常に物語るもう一つの要素は、山々への言及です。山はマタイによる福音書の中に...
福音書は、天にあって人を支配し事物を支配しているものと共に導入されます。これは興味深いことであり、大きな意義があります。私が言っているのはマタイによる福音書の冒頭のことです。もちろん、私が星のことを述べていることはおわかりでしょう。この福音書は、天に見えるものによって導入されます。そして、それが人々の世話を引き受けて、彼らの進路を導きました。そして、天によって支配された進路により、彼らをキリスト...
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全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
新約聖書に於て信仰といへば勿論十字架につけられしイエス・キリストを信ずる事である。希望といへば大抵キリストの再来とそれに伴ふ凡ての恩恵とを待ち望む事である。そして罪の世にありながら此信仰と此希望とを共にし従てその為の患難をも共にする者の間には自ら特別の愛が湧き起らざるを得ない。使徒時代の信者たちがさうであつた。今日の我等も亦さうである。かくて我等も亦、「キリストの言をして豊かに我等の衷(うち)に住...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...
第一五章一~一一 キリストと信者との関係一二~一七 信者相互の関係一八~二七 世と信者との関係〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君...