なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
第二に、信者たちは超自然的に変容させられます。この祝福された望みは、栄光を受けたキリストだけでなく、その聖徒たちの栄化をももたらします。眠っている者たちは、キリストの全能の力の超自然的・瞬間的な顕現によって、死者の中からよみがえらされ、生きている者たちは、その直後に変化させられることになります。両者に臨むこの変化により、彼らは栄光を受けたかしらの完全な似姿に全く変容させられます。 この出来事は並...
さて、聖霊がこの輝かしい希望を啓示されるとき、その超自然的性格のいくつかの点が現れます。 第一に、それはキリストを超自然的に啓示します。主イエスが超自然的な人としてかつてこの地上に住まわれた事実を受け入れているなら、彼がこの地上を再び訪問し、その至高の主としてさらに長くそこに住まわれることを、どうして奇妙に思うのでしょうか。すべてのクリスチャンはこう信じています、かつてこの地上の舞台を歩まれたこ...
パウロは、テサロニケ人への二つの手紙を書いたとき、この偉大な真理に言及しました。また、すべての手紙の中でそれについて、さいわいな霊感と期待を与えるものとして、何度も言及しています。 ペテロはこの「祝福された望み」について多く述べています。また、彼らの中で最も実践的で神秘主義やいかなる夢想からも最も遠かったヤコブですら、当時の苦闘している虐げられたクリスチャンたちに、労働組合やストライキによってで...
主イエス・キリストの務めは、将来の来臨を示す荘厳な実物教材で、その頂点を飾りました。ガリラヤでの素晴らしい働きから転じようとしておられた時のことです。彼は弟子たちを連れてヘルモン山の高台に行き、一時の明るい輝きの中、ご自分の神性の表から覆いを外して、来臨の栄光の輝きをことごとく現わされました。彼ご自身の変貌した御顔と御姿の中に、弟子たちは再来される時の彼を見ました。他方、モーセとエリヤの中に、弟...
アブラハムも同じように、この来るべき時代の力の下で生きました。彼は約束の地を契約によって受けたものの、彼自身はその地ではよそ者であり、後に受け継ぐことになる嗣業を信じつつ亡くなりました。彼がカナンにおける唯一の所有地であるマクペラの洞穴をあれほど大事にした理由は、そこが彼の愛する妻の埋葬地であり、輝かしい復活のときに将来その地を受け継ぐことになるという神の契約の保証だったからでした。彼に対する神...
エデンの門の奥にいたケルビムの神秘的な姿の、まずはその輝かしい頭と、そして最終的にはそのすべての肢体は、贖われた人間の予型でした。獅子の顔は王者の風格を、雄牛の顔は力を、人の顔は完全な人間性を、高く舞い上がる鷲の顔は気高さと神との合一を物語っていました。これはみな、まずキリストにおいて、次に彼に贖われた者たちにおいて成就されるべきものでした。それはエデンの門に置かれた写真のようなものであり、失わ...
さらに、私たちの人間生活の体制は、現在はさらに偉大でさらに長続きするものの不完全な予表にすぎないことを、こぞって証ししています。私たちが今日感じ、目にし、知るものはみな、無限の未来の胚子にすぎません。私たちの本性の最深部にある本能は、より広大な領域、より荘厳な生活、より安住できる故郷について私たちに告げます。地上で私たちは、愛する者の上で墓が閉じる時になっても、まだほとんど愛することを学んでいな...
「祝福された望み、すなわち、大いなる神また私たちの救い主イエス・キリストの栄光の出現を待ち望むようにさせています。」(テトス二・十三)「神の日の到来を待ち望み、また早めなさい」(二ペテロ三・十二) 第二ペテロ三章の冒頭で使徒はある思想家の学派について述べています。その学派は終わりの時代に現れて、「彼の来臨の約束はどこにあるのか?先祖たちが眠りに就いて以来、万物は創造の初めからそのままである」と言う...
たんなる天然的健康や物質や器官には、生まれながら利己的で天然的な欲求への傾向があります。しかし、キリストが私たちの心を満たされる時、聖くないものに対する欲求は取り除かれます。そして私たちは、死すべき肉体に神の接触を受けたことのない人々の強い感覚的命から発する、無数の悪の暗示から救われます。 神癒は、その最も深遠で最も高度な意味においては、自己耽溺や地的な考え・感覚・行為に向かう多くの傾向性から救...
結論として、この超自然的な体の偉大な真理は、不信仰に反論するためのきわめて実際的な現在の真理です。それはこの時代の不信仰に対する反証です。ティンダル教授は、キリストの弟子たちに肉体的奇跡を実際に起こすよう要求しました。賢明な人でそのような僭越な要求に挑む人はいませんでしたが、神はそれを引き受けられました。その日以降、文字通り数千の神癒の事例があり、それらの事例は多くの点で使徒たちの記録と同じよう...
さて、神癒にまつわる多くの不可解な経験はこれで説明がつきます。あなたの体の実際の状態は常に治してもらえるとはかぎりませんが、イエスを仰ぎ見続けさえするなら、あなたに与えられている内なる力、あなたの存在の深みにある超自然的な泉、活力と生命力を、あなたは見いだすでしょう。この活力と生命力によりあなたは、自分の上にのしかかるあの重苦しい症状を克服し、肉体の命に対するあらゆる圧迫をその症状にもかかわらず...
この崇高な思想を仔細に追うことは紙面と時間の都合で許されません。これに関するもう一つの例を追加するだけにします。それは、彼が述べている肉体の棘についてです。これは多くの研究者や注解者を困惑させてきました。 さて、これまで説明してきた原理により、この難問を解くことができます。さしあたってパウロの棘は肉体の病気だったとしても――それに関して私たちは深刻な疑念を抱いていますが――、また、彼の祈りに応えて文...
しかし、この深遠な真理は、使徒パウロの務めと模範を通して、後の聖霊の教えの中で、きわめて深くかつ壮大に解き明かされています。この真理は、彼の教えと経験全体を、天の泉から発する金色のパイプのように貫いています。 非常に生き生きと、彼は私たちの生けるかしらであるイエス・キリストとの合一の教理を展開しています。「私たちは彼のからだ、彼の肉体、彼の骨の一部なのです」と彼は述べています。主は私たちの体のた...
私たちの祝された主は、この深い霊的真理をきわめて深遠な講話の中で私たちに教えてくださっています。そして、偉大な原理をキリスト教時代全体を通して私たちのために残してくださいました。この原理は、その上に主ご自身が自らの生活を建て上げて、ご自身の体において敵の攻撃に勝利されたものです。その講話は、その教えがあまりにも際立っており、その範囲があまりにも深くて心を探るものだったため、弟子たちの多くはそれを...
しかし、新約聖書に目を向けると、私たちの偉大な教師であり模範である主イエス・キリストについて最初に目にするのは、これと関係しているものです。彼は荒野に立ち、サタンとの最初の戦いをくぐり抜けて、私たちの人生に対する偉大な見本を私たちのために示してくださいました。その誘惑の最初のものは肉体的なものであり、肉体の力を人間的源から得るよう誘惑するものでした。彼はそれにどう対処されたのでしょう?――すでに申...
これはこの国全体に言えたように、その国の最も優れた個々人にも言えました。ですから、モーセの人生は明らかに超自然的でした。彼は、たいていの人なら遺書を書き、葬式の準備をしているであろう八十歳の時に、偉大な働きを始めました。そして、百二十歳になっても、彼の目はかすまず、体力も衰えなかった、と記されています。それどころか、彼は険しい山に悠然と登り、成熟した姿で神の戦車に乗り込み、勝利の力と自発的明け渡...
神聖な啓示を辿っていくと、次にアブラハム、イサク、ヤコブの物語で、私たちの体における神の超自然的命の明確な現れに出あいます。ここでは、約束の子が生まれる前に、天然の力は失われました。これは、神の御子の誕生は天然的な方法ではなく超自然的な方法によることを示す予表のようなものでした。約束の子であり、来るべき方の最初の型であるイサクは、両親の天然の命が尽き果てて、神が超自然的に直接触れて彼らの体に新し...
「イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたたちの中に住んでいるなら、キリストを死人の中から復活させた方は、あなたたちの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたたちの死ぬべき体をも生かしてくださいます。」(ローマ八・十一) 体の贖いはキリスト教の真理として受け入れられています。クリスチャンの間の主な違いは、その適用範囲に関するものです。多くの人は、私たちの贖いのこの部分は、現在の時代の終わりに、私...
教会には超自然的な運命があります。教会の召命は栄光の教会になることであり、いつの日かキリストは、しみやしわや、そのようなものが何もない教会をご自身にささげられます。教会は、黙示録が示す新しいエルサレムの全き栄光をもって輝きます。教会の花婿でありかしらである方の光と麗しさを反射しつつ、燦然と輝きます。教会は宇宙の驚異となります。訪問者がすべての星からやって来て教会を見つめ、その一方で、付き添いの御...
教会は超自然的力を賦与されています。教会に聖霊のバプテスマが与えられています。教会にはキリストの生ける心が宿っており、その一方で、かしらは仲介のために御座に座して、教会の益のために万物を支配しておられます。 キリスト教はこの点で、他のどの組織とも異なります。どの組織にも一人の頭がいますが、その心は死んで冷えています。キリスト教の心は聖霊であり、聖霊は依然として神の全能のかぎりを尽くして教会の懐の...
教会には超自然的な目的があります。教会は地的王国ではなく、天的民です。教会の主と同じように、教会は「私の王国はこの世のものではありません」と言うことができます。教会は、莫大な寄付金、社会的優位性、宗教議会、市長選、王室の後援と、何の関係があるのでしょう?愛する方の腕に寄りかかって荒野から上って行くのが教会です。偽物の、地的な、堕落した教会の目印は、地上の権力という獣に乗って、肉の腕と同盟を組み、...
教会には超自然的な命があります。私たちは教会の中へと生まれなければなりません。それに加えられることはできません。私たちは主に加えられ――使徒行伝のこの節(五・十四 訳注)は文字通りにはこう訳されなければなりません――それによって教会に加えられるのです。 「一つ御霊によって(by one Spirit)」もっと正確に言うと「一つ御霊の中で(in one Spirit)」ユダヤ人も異邦人も、奴隷も自由人も、私たちはみな一つからだ...
教会は神聖なかしらを戴いています。「据えられている土台以外の土台を据えることはだれにもできません。その土台とはイエス・キリストです」。キリストは教会と大いに密接に関係しているため、教会についての偉大な章である第一コリント十二章では、教会はまさに御名で呼ばれているほどです。キリストの教会ではなく、キリストと呼ばれているのです(一コリント十二・十二)。「体が一つであっても多くの肢体があり、体のすべて...
「キリストもまた教会を愛して、そのためにご自身を捨てられました。それはキリストが教会を聖化し、言葉による水の洗いによって教会を清めるためであり、またそれは、しみやしわや、そのようなものがなにもなく、聖くて傷のない栄光の教会を、彼がご自身にささげるためです。」(エペソ五・二七) 私たちの人間生活には社会的・集団的要素があります。したがって、キリスト教は超自然的な人だけでなく、神聖な社会も含んでいます...
信者の生活で、祈りの神秘と務めほど、超自然的で神聖な不思議はありません。力ある政治家のダニエルは、公務や自分を待っている宮廷からの訪問者たちから離れて、丸三週間、クロスよりも偉大な王の御座の前で顔を伏せて祈り続けました。彼が祈っている間、地上最強の征服者は眠ることができませんでした。彼は自分の国の保存文書とユダヤ人に関する記録を求め、夜が明けて朝になると、書記官を呼んで、次のような勅令を口述しま...
神の導きはクリスチャン生活の超自然的特権の一つです。聖別されたすべての魂のために、神は明確な計画と神聖な予定を持っておられ、それを一般生活全般から引き上げ、際立たせ、崇高なものにしてくださいます。それはとても単純な生活で、とても地味な所でなされるかもしれませんが、神がそれを形造り、成形し、持ちいておられるという事実により、言語を絶するほど高い威厳を帯びます。ヨセフの生涯、エステルの生涯、パウロの...
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なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエスがガリラヤ地方で始めて福音を宣べ伝へ給うた時の言葉は「天国は近づけり、悔改めよ」であつた。そして此短い言葉こそは基督教の正味であると私は信ずる。天国とは教会のことではない。又進歩の終局に達した社会のことでもない。さればとて信者の心の状態でもない。天国とは聖書に明かに示してある通り、神自ら人の間に宿り給ひ、人まのあたり神を拝し、罪なく死なく、悲みなく痛みなく、宇宙万物に大調和ありて、愛といのち...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、す...