我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
聖霊のバプテスマは、私たちの生活における五番目の超自然的事実です。その効果は本質的にキリストの内住と同じであり、私たちがキリストとの合一にあずかるのは聖霊を通してであるのですが、それでもそれはクリスチャン生活における別個の特権であり経験です。預言者エゼキエルは、回心した魂の経験を描写するとき、主が彼らの内に置かれる新しい心と新しい霊について告げた後、次のようないっそう高度な約束を付け加えました、...
クリスチャン生活における次の超自然的事実は子たる身分です。私たちは直ちに天の家族の一員になります。このこともまた、神の統治の先例に全く反する、きわめて驚くべきことです。天使たちはとても高度な存在でしたが、あえて神の家族に加わろうとはしませんでした。しかし、罪深い人が天の宮殿の敷居をまたぎ、放蕩者が御父の懐に戻って、大天使ですらあずかり知らない地位を要求したのです。「見よ、なんという愛を、御父は私...
クリスチャン生活の二番目の超自然的事実は再生です。再生は義認とは全く異なるものです。後者は、私たちの神との関係を正しくします。前者は私たちの性質を正しくするものです。再生とは、神から直接伝達される、神ご自身の存在のように純粋で聖なる新しい命を、神が人間に分与されることです。これは道徳的向上、自己改善、より良いことをすること、より良くなることではなく、恵みの奇跡、新創造です。それはあまりにも驚異的...
「私は生きています。しかし、私ではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ二・二〇) 聖書の最良の版は聖なる生活です。神はご自分の超自然的な書を、ご自分のすべての子供たちの生ける経験に翻訳することを願っておられます。 ある人がウォルター・スコット卿に「私は本を書こうと思います」と言ったところ、彼は「一冊の本であれ」と答えました。 使徒たちの敵どもは、癒された人が彼らのただ中に立っ...
頭脳で聖書が理解できない時、それをあなたの胸にしまい、あなたの心に刻み込んで、あなたの悲しみ・罪・必要に適用しなさい。そうすれば、それが真実であることがわかります。聖書はあなたを探り、回心させ、満足させてくれるからです。 ある盲目の少女が瀕死の状態で横たわっていました。彼女の麻痺した指では、大切な聖書の点字を触って読めなくなりました。悲しい叫びと共に、彼女は聖書を落とし、「私の大切な聖書、あなた...
この書が真実であることを知りたければ、この書を額面通り受け取りなさい。それを心に受け入れて、単純・率直に読み、従うことによって試しなさい。そうすれば、この書が主張するとおりのものであることがわかるでしょう。 かつて私が牧師をしていたある町に聡明な弁護士がいました。その弁護士には、私の牧会に参加している若い妻がいました。彼女は熱心なクリスチャンでした。彼は悪名高い懐疑論者であり、その地域の代表的な...
この本の影響力。この本は人間社会を変革しました。受け入れた国々を文明化しました。プロテスタント諸国の偉大さと力の秘訣はこの本にあります。それが異教徒の集団の中に入り込むと、見よ、フィジー諸島の人食い族は優しいクリスチャンになり、野蛮なインド人は平穏なキリストの弟子となり、利己的な中国人は英雄的な殉教者となり、劣悪なアフリカ人はきわめて気高い大人になります。一夫多妻制の人は妻たちを手放し、魔術師は...
主イエス・キリストの生涯と人物像。イエスの物語は福音書が真実であることの最も強力な証拠です。このような物語は、それが文字通り真実でないかぎり、全くなんの説明もつきません。このような人物像は私たちにとって奇跡です。それを思いつき、考え出し、このような記録というかたちで展開する精神の持ち主はだれでも、素晴らしい文学的業績のゆえに、神聖な者として不滅の栄誉を受けるに値するでしょう。 誰がこの素晴らしい...
予言の二番目の区分はユダヤ人に関するものです。大昔のモーセの時代から旧約聖書全体にわたって、一連の明確な予言の系譜があります。それらの予言は、彼らの民族史的大事件、国々の間における彼らの優位性、彼らが異邦人征服者たちの力の下に陥ること、罪のために捕囚にされること、メシヤを拒絶すること、すべての国々の間に散らされること、他のすべての国民との区別が保たれること、最終的に彼ら自身の土地に回復されること...
予言。人間の鋭い知性は、将来についてある程度の確度で推測することに成功するかもしれません。しかし、異教徒の神託や賢者・賢人のきわめて大胆で賢明な推測と、聖書の明確な決定的予言との間には、無限の隔たりがあります。 予言の基準はきわめて単純かつ明白です。 第一に、予測された出来事は十分遠い未来のことでなければなりません。 第二に、予測は明示的なものでなければなりませんし、地域、状況、名前など、間違い...
しかし、満足いく証拠によって実証された事実こそ、それは神によってなされたという証しの正しさを示す決定的な印であり証拠なのです。キリストはご自身が行った業をご自身の神聖な性格とご自身の教えの正しさを示す証拠として明確に主張されました。もし神が聖なる神であるならば、その主張が真実でないのに、それに応じて、その証しを承認されるとは考えられません。 ストラスブール大聖堂の大時計の製作者兼管理者が、大聖堂...
神の御言葉の超自然的性格と至高の権威を示す五人の証人を連れてくれば十分でしょう。 奇跡。この書は超自然的試練によって私たちに訴えかけます。その証人たちの超人的な力を証拠として主張します。この書は無限の創造主に対して、いかなる被造物の力も超えていることがわかるような御業によって、そのメッセージを証明するように訴えかけます。デイビッド・ヒュームの著作で有名になった奇跡に対する標準的な反論は、奇跡は自...
この聖なる書物の擁護者・教師たるべき人々の多くが、この書物を完全に否定しないまでも、その至高性を損ない、その無誤謬の権威に疑問を呈する人々の仲間入りをして、少しでも安っぽい人気を得、高い教養を身につけようとしている傾向を見るのは、とても悲しく残念なことです。聖書は、すべてか無かのいずれかです。鎖の強さはその最も弱い箇所によって決まりますが、もし神の御言葉が絶対的かつ完全に真実でないなら、それは私...
「あなたたちが再生されたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の生きている、存続する言によるのです。なぜなら、『すべての肉は草のようで、人の栄光はすべて草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に存続する』」(一ペテロ一・二三~二五)。 今日、神の御言葉の霊感性と最高の権威ほど、人の心に強く訴える必要のある証しはありません。悪意あるサタンと傲慢な人間文化は、かつ...
最後に、私たちの心と生活の中に啓示される神の啓示は、あの輝かしい神の出現――これを時代は待ち望んでいます――の前味わいにほかなりません。私たちはあの祝福された望み、偉大な神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの輝かしい出現を待ち望んでいます。キリストは待ち望んでいる花嫁の心にご自身の性格を投影しておられます。ご自身をその人々に対して大いに現実的なものとしておられます。そして彼らのために、ある日...
結論として、神がご自身の至高性を強調されるのは、人間の無知で愚かな高ぶりのためなのです。私たちは、人間が自己満足している時代に、奢った人間が「さあ、行って、その頂が天に届く都と塔を建てよう」と言っている時代に生きています。それに対して神はあわれみとさげすみをもって、「さあ、下って行って、彼らの言葉を混乱させよう」と言っておられます。 しかし、神が常にご自身を主張されるのは、私たちとは違って、ちっ...
ハガイ書には美しい約束の数々があります。それらの約束の中で神は、ご自身の奮闘している小さな群れに向かって――彼らは困難な時にわずかな力しかないのに回復の偉大な働きを成し遂げようとしていました――「私はあなたたちと共にいる。私の霊があなたたちの間にとどまっている。あなたたちは恐れる必要はない。強くあれ、そして、成功を確信しつつ働きなさい」と告げておられます。この美しい段落では、預言者が「万軍の主はこう...
神のビジョンによってイザヤは務めに召されました。また、それによって強められて、同胞の拒絶に耐え、反抗的な民のただ中でただ神と共に立つことができました。 聖書の中で、エレミヤに対する神の壮大な約束ほど素晴らしいものはありません。「主はこう言われる、それを造った者、それを形造って確立した主、主がその名である。私を呼べ、そうすれば、私はあなたに答え、あなたが知らない大いなる素晴らしい事をあなたに示そう...
神がモーセのもとにやって来て、途方もない働きに送り出そうとされた時、神がモーセの心に一つだけ印象付けようとされたのは、ご自身の超自然的な臨在が彼と同行するということでした。モーセのすべての恐れと疑いに対して、神はただ「私は在りて在る者である」とお答えになりました。神はただご自身の大いなる小切手を振り出して、それに署名し、モーセがなんでも好きなことを書き込めるようそれに空欄を残されました。神はこう...
私たちは時々、その人の個性よりも、その人が帯びている神の臨在の方に強い印象を受ける人物に出会います。これがエノクの特徴でした。彼について一つだけ述べられている素晴らしい点は、彼が神の臨在の中を歩んだことです。サムエルやエリヤについては、各々、「神の人」と認められていたことが記されています。 私たちが人生で望んでいるのは、神を知ること、神と共に歩むこと、神の人となること、そして次に他の人々に神を供...
聖書の最初の文章は、私たちを人間や自然ではなく、神と向き合わせます――「初めに神」とあります。確かに、「創造された」という動詞がその後に続きますが、それに至るずっと前に強調のための間があり、無限の神が私たちの前に立って、無限の空間を満たし、ご自身の内に全被造物と、後に全能の御手から発することになる無数の存在とを抱かれます。聖書は神と共に始まります。すべての本、すべての人生のすべての章が、同じように...
「現在の真理」(二ペテロ一・十二)。 霊感された真理はすべて必要であり重要ですが、神がある時に強調されるある真理があります。神は常に時代と世代に語りかけておられますが、決して闇雲に語るのではなく、常に的を射たことを時代に即して語られます。 時代の思潮が一人の人間の至高性になびいて、主権者たる法王を天の総督また地上におけるキリストの直接的代理人と認めよという教えがなされた時、神はジャン・カルヴァンを...
現在の真理すなわち超自然についての真理A. B. シンプソン目次序文第一章 超自然的な神第二章 超自然的な書物第三章 超自然的な生活第四章 超自然的な教会第五章 超自然的な体第六章 超自然的な希望第七章 超自然的な働きオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
今日、私たちは聖書を教えることに失敗していることに短く触れたので、決定的真理を生物学的観点から、公理的明確さをもって、また、聖書の科学的記述にしかるべく注意を払いつつ、教えることによって実現された成功について述べることにしましょう。この方法が用いられる所はどこでも、(1)生命の起源について、(2)命の諸々の水準について、(3)贖いの真理の全体像について、(4)神の御言葉の決定的真理を適用される聖...
命の二つの水準 長年にわたる一定期間の調査により、ある事実が明らかになりました。その事実は、驚くほど少数のクリスチャンしか実際に知っておらず、再生の瞬間に人の霊の中に入る命の性質に関するものです。命よりも経験がクリスチャンたちの前に示されており、その結果、永遠の命の性質に関して彼らの心の中に多くの混乱が生じています。そのため、型への同形化はほとんど不可能になっています。この問題はさらにずっと深刻で...
私たちが認識する必要があるもう一つの弱点は、聖書の科学的正確性を示すことに私たちが失敗していることです。それにより、近代主義者は進化論という巧妙な毒を人々の心に注入する絶好の機会を得ています。クリスチャンの教師たちが、「聖書は科学的であると期待してはいけないのでしょうか?」「聖書は科学の教科書ではありません」と言うのを、私たちは何度聞いてきたことでしょう。 このような話の結果は極めて悲惨です。そ...
罪とは何か? クリスチャンの大多数に問いかけてみさえするなら、客観的真理に関する知的理解の大きな欠如がわかります。一つの例として、罪の問題を取り上げることにしましょう。大多数のクリスチャンは、罪の性質に関して、かなり不適切な認識を持っています。罪とは悪い行いを特にすることである、と彼らは思っているようです。しかし、行動を生じさせる姿勢について彼らは見落としています。有名な宣教士訓練施設を卒業したあ...
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我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
預言者をして今日あらしめば、彼は恐らく同じ言を以て万国の民を誡むるのではあるまい乎。今の人の崇拝しつつある時代の声、之も亦死者の声ではない乎。例へば民主主義といひ社会主義といふ、みな鼻より息の出入する人間の製造物である。罪に死にたる人の思想である。此一事は時代の声なるものが幾度び其内容を変ふるも決して誤まらない。何となれば時代の声之を換言すれば多数の声である。而して人類は全体として其深き罪を悔改め...
時代の声!世界戦争の生んだ果の一つは之である。大戦争に伴ひし国際関係の近接と、数個の強大国を内より倒せし民衆の政治的運動と、各国に於ける経済組織の変動と、殊に基督教に対する信頼の著るしき動揺と、之等幾多の原因が相率ゐて遂に「時代の声」を恐ろしく権威あるものにして了った。今や人の崇むるものは神ではない、正義でもない、さればとて又王でもない、今や何人もただ一の怪物に向て頭を下げ我れ勝ちに之を歓迎しつつ...
「ああ神よ、鹿の渓水を慕ひ喘ぐが如く、わがたましひも汝を慕ひあへぐなり。わがたましひは渇ける如くに神を慕ふ、活ける神をぞしたふ。何れの時にか我往きて神のみまへに出でん」(詩四二の一、二)。ああわがたましひは活ける神をぞ慕ふ。知識は浅し、富は卑し。歓楽は淡く短く、名は余りに空し。人は我に取りて重荷である。誰かわがたましひの燃ゆるが如き渇きを癒すものぞ。自然ではない、芸術ではない、 恋ではない、悟では...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎...
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。(2)神が選ばれた目的...
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである...