おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
彼は苦しみましたが、罪を犯されませんでした!こうして、彼は私たちの大祭司になられました。私たちが試みの中にあるときに私たちを助けるのにふさわしく、私たちのために御座に座すのにふさわしい大祭司になられたのです。「彼は苦しんだことによって従順を学」ばれました。彼は戦いの中で勝利されました。彼は勝利を勝ち取り、ゲッセマネでのあの恐るべき時から、破られることのない平穏さの中で、私たちのためにまっすぐカル...
七節では、キリストの苦難が再び記されています。彼は「激しい叫びと涙をもって、祈りと嘆願をささげ」られました。泣かずに感情を示さないことを勝利だと思っている人々もいます。主イエスと何と対照的でしょう。彼は「肉体にあった日、激しい叫びと涙をささげられ」たのです!この「肉体にあった日」は、彼にとって大いに現実的なものでした。彼は神のかたちの中におられましたが、「神と等しくあるのを尊いこととは見なさず、...
また、へブル四・一四~一五にはこうあります、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情することのできない方ではなく、罪がないことは別にして、すべての面で私たちと同じように試みられたのです」。ギリシャ語の「弱さ」という言葉は、肉体的弱さを物語っており、痛みや苦しみから尻込みすることを意味します。ああ!代価を払って主イエスは私たちのために人となられました。代価を払って彼はシモンを叱責されました。彼は孤独...
「子供たちが肉と血にあずかっているので、同様に彼ご自身も同じものにあずかられたのです」。主イエスの人性を見てください!何のためでしょう?「彼はすべての事で、彼の兄弟たちのようにならなければなりませんでした。それは彼があわれみ深い、忠信な大祭司となるためです」(十七節、改訂訳)。「すべての事!」でです。贖った者たちを栄光に導く者となるには、苦難の道以外になかったのです。彼は模範を示されました。彼は...
勝利者誌 一九一三年 五巻 四月号 掲載。メッセージの覚え書き。「私たちにはそのような大祭司がおられ、彼は天で威光ある方の座の右に着き……」へブル七・一。「あわれみ深い、忠信な大祭司(中略)試みられている者たちを助けることができます……」へブル二・十八。「私たちの弱さに同情してくださる(文字通りには、同情することのできる)大祭司……」へブル四・十五。「無知な誤っている者を思いやることのできる大祭司……」へブル...
また、次のことにも気をつけてください。どの段階にある人々も、それ以前の段階にある人々を助け導くことはできますが、だれかを自分の段階より先の段階に押し込むことはできませんし、自分より先の段階にある人々を十分に理解することもできません。先の道には、その段階にある人々にしかわからない状態や、知識の領域や、危険な箇所があります。そして、それより低い段階にある人々は、それを見ることも理解することもできませ...
ここで、十字架の道を知っている多くの人々の生活の中に生じかねない危険の原因について指摘しなければなりません。彼らは聖霊の力と十字架の道を学びました。「小羊に従う」べきこと、神のみこころに服すべきことを学びました。彼らはその道で忠実に従い続けました。そして今や、とうとう知らず知らずのうちに行き過ぎてしまっているかもしれません。「服従」は「受動性」――つまり、心や、ことによると能力全体が受動的な状態――...
暗闇の勢力と現在のその働きについての光は、特にどこに必要なのでしょう?世界中に、今、キリストにある救いの全き保証をはっきりと明確に宣べ伝えている信者が大勢います。次に、聖霊のバプテスマを真に知っており、「復興」の段階、聖霊を知る「段階」にあって、彼と共に働いている信者の数が増えつつあります。また、他の人々は――数は少ないですが――聖霊を知り、御霊の力の中で、カルバリの小羊に従って、十字架の道を実際に...
御霊のバプテスマと十字架の道をすでに知っている人々に対する喫緊の必要は、サタンとの戦いについての光です。しかし、もう一つのさらに大きな必要は、聖霊のバプテスマについての経験的知識です。なぜなら、とても多くの信者はこれを知らず、十字架の二つの面を知らないからです。そのため彼らは、私たちが「戦い」という言葉で言わんとしていることや、霊を見分ける必要性を理解できません。暗闇の勢力に対する勝利を宣言する...
しかし、今なすべき緊急の働きは、キリストの教会の中の成長した人々の必要に応じることです。彼らは自分の霊的感覚を「用いて」行使することができ、成人のための「堅い食物」を吸収することができます。また、赤子らのために、彼らが成長できるよう、この同じ食物を「乳」の形で与えることができます。 他の人々を助けるとき、もし信者たちが祈りの戦いの意味を理解していないことに気づいたら、「あなたたちはそもそも、十字...
信者がこれらの「段階」を通り抜けて――多かれ少なかれ数年の問題です――暗闇の勢力に対する「権威」の段階に完全に達する時、信者は「使徒的」段階に入り、十分な能力、備え、知識を得ます。そして、義の言葉(へブル五・十三)についての自分自身の経験から、執事として神の御言葉を自在に取り扱って、それを様々な段階にある他の人々に供給できるようになります。成熟・円熟に達する時、あなたは自分自身がその時に経験している...
信者が神と共に段階から段階へと進み続けて、戦いと権威の領域に達する時、信者は他の人々を彼らが必要としている祝福に導くことができてしかるべきです。しかし、通常、人がある特定の水準の段階にいて、その全き完成に到達していない場合、その人が現在の光と経験から語ることによって助けることができるのは、その同じ段階にある人々だけです。完成点に到達するときはじめて、その信者は、自分自身が後にした段階にいる他の人...
しかし、覚えておいてください、神があなたに理解させるためにあるメッセージを与えるとき、たとえあなたがそれを失ったかのように見えても、彼はあなたを保持してくださるのです。あなたに与えられた彼の御言葉が、あなたを保持します。その御言葉の中には神聖な命とエネルギーがあります。それはあなたを握って、あなたをそれに保つことができます。もちろん、神にはあなたの協力が必要であり、あなたは積極的に信仰によって御...
個々の信者は、クリスチャン生活で神と共に前進するとき、まさにこの順序で導かれます。第一に、救いを受けます。第二に、聖霊を受けます。第三に、十字架の道に沿って導かれます。第四に、戦いと勝利の道を歩んで、その結果は、敵のすべての力に対する「権威」もしくは「力」です。個々の働き人も、この奉仕の四段階で用いられることがわかります。第一に、他の人々をキリストに導くために用いられます。第二に、彼らを御霊の豊...
勝利者誌 一九一一年 三巻 四月号 掲載。働き人たちとの大会の注記。 信者の霊の命、そして、クリスチャンの働き人の霊の命には――大まかに言って――四つの段階があります。第一の段階を「福音」の段階と呼べるでしょう。つまり、人が新生を経験し、キリストにある永遠の命を経験する段階です。この段階で人は魂を勝ち取る者となり、罪の刑罰からの救いを説き、他の人々をキリストに導くために用いられます。そこでの目的は全く、キ...
「十字架につけられたイエス・キリスト」三.死による一体化の継続性 (6)
さて最後に、キリストとのこの死の交わりに関して「御座の生活」について一言述べることにします。天の御座の中央には「新たに屠られたような小羊」(黙示録五・六)がおられることを忘れないようにしましょう。あなたは「キリストと共なる死」について、そのゴルゴタの面しか考えていないかもしれませんが、この死の力は天の御座の中心で絶えず生き生きと働いているのです。それは人の死であるだけでなく、「キリストにある神」...
「十字架につけられたイエス・キリスト」三.死による一体化の継続性 (5)
きわめて深刻な重要性を持つ二つの結果が、神の教会に、そして、信者本人に生じます。第一の結果は十二節に見いだされます。「こうして、死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働きます」。なんと底知れぬ深みを、ここで私たちは垣間見ることでしょう。「死」は私たちの中に、「命はあなたたちの中に」働くのです。これこそキリストご自身の死のまさに核心ではないでしょうか?「死」は彼に、命は私たちに与えられました。...
「十字架につけられたイエス・キリスト」三.死による一体化の継続性 (4)
さて、この「体にイエスの致死力を帯びる」ことが実現される方法と、信者自身におけるその他の結果について見ることにしましょう。私たちが引用したこの節は、使徒がこれを書いた当時の彼の状況・環境を垣間見せてくれる数節の頂点です。それによると、キリストとの死による一体化による合一を知っている信者は、自分に対するあらゆる外部の出来事を主との死による合一の光の中で読み解かなければなりません。「悩まされ」「困惑...
「十字架につけられたイエス・キリスト」三.死による一体化の継続性 (3)
私たちの死による一体化のこの面とよく似ている神の法則、自然法則があります。肉体の中で死の過程と命の過程が継続的に進行中であること、健康を正常に保つには一方が他方を上回ってはならないことを、私たちは知っています。そこで、この同じ法則を認識して、メイビーは十字架の原則の「複合的な死・復活のエネルギー」と称しています。霊・魂・体に対して「新創造」が意味するところをすべて把握しようとしすぎるあまり、必要...
「十字架につけられたイエス・キリスト」三.死による一体化の継続性 (2)
キリストとの継続的な死による一体化をおいて他に、「復活の命」が実際に分与されることはありません。ここでもまた、メイビーの言葉は啓発的です、「死と復活を分けることはできない。それらは一つの事実の両面なのである」。「キリストの死は復活を帯びている」。ローマ六章の面を理解して、その言葉がアオリスト時制であって、キリストと共なる私たちの死は成就された事実であることを見、さらに続けて、私たちの「地上の肢体...
「十字架につけられたイエス・キリスト」三.死による一体化の継続性 (1)
彼の死における信者のキリストとの死による一体化の三番目の面を、いま熟考しなければなりません。この面には、今日、私たちの復活・昇天した主にとって、また、彼のからだである教会にとって、きわめて深い重要性があります。 この面を示す節を、私たちの大部分はよく知っています。それでも、それに向かうたびに、自分は十字架に関してその底知れない深さの縁に触れたにすぎない、と思わされます。二コリント四・十~十二のコ...
「十字架につけられたイエス・キリスト」二.死による一体化の適用 (4)
さて、キリストの死の実際的適用とそれがなされる方法について。再び、ローマ七・四と併せてローマ八・十三に向かうことにしましょう。というのは、この二つの節では同じギリシャ語が使われているからです。すでにはっきりと見ましたが、この一体化の事実が私たちの存在の中心で経験される時、「体」とその「肢体」の対処が常にそれに続きます。 ローマ八・十三は私たちに、「体の行い」を「死に渡し」なさい、しかしそれは「御...
「十字架につけられたイエス・キリスト」二.死による一体化の適用 (3)
ローマ七章の五節以降はすべて、自分自身の中にある信者の実際の状態に関する霊感された絵図です。信者が御霊にあって歩くのをやめるとき直ちに、常に自分自身の中に陥ります。「ローマ七章が六章と八章の間にあるのは、両者の間のある種の行路としてであり、信者がローマ八章に入る時、ローマ七章は過去の歴史になるのである」と考える人々もいます。しかし、アンドリュー・マーレー博士は、ローマ七章とローマ八章は併存する、...
「十字架につけられたイエス・キリスト」二.死による一体化の適用 (2)
しかしまず、パウロが「肉」について述べていることについて。この言葉で彼が言わんとしているのは、アダムのすべての命のことです。私たちはその中に生まれました(ヨハネ三・六、エペソ二・二、コロサイ二・十三)。「肉」が神に対して何なのか、ローマ八・七~八からわかります。それは本質的に「神に対する敵意」であり、「神を喜ばせることができません」。「肉」が人に対して何なのか、ガラテヤ五・十九にその要約が見つか...
「十字架につけられたイエス・キリスト」二.死による一体化の適用 (1)
さて、キリストの死の二番目の面、すなわち、主観的な面に向かうことにしましょう。この面は、贖われた信者の性質の中にある「肉」すなわちアダムの命にキリストの死を実際に適用することについてです。ローマ七・四を読んでください。「あなたたちもキリストの体によって(中略)死んだのです。というのは、私たちが肉の中にあった時、罪の情動が(中略)私たちの肢体の中に働いていたからです……」。 この節の「死んだ」という...
「十字架につけられたイエス・キリスト」一.死による一体化のメッセージ (6)
一体化による合一の現実 キリストの死における彼との一体化による合一を理解できるのは、聖霊の啓示と協働の御業によってのみであることを、私たちははっきりと見ました。さて、聖霊がどのように協働の力をもって働かれるのかを見ることにしましょう。ローマ六・五は、これを二、三の短い言葉で述べています。「もし私たちが彼の死の様の中に共に植えられてきたなら」(欽定訳)。これは、数瞬で水の下に沈んで出て来る「様」以上...
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おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...