おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
3.十字架は私たちの隣人に対する愛を鼓舞します。十字架は価値なき者や敵に対する愛です。十字架によって贖われた者として、私の愛にそれ以外の規則はありません。第二の戒めは第一の戒めと同じく重要です。心を尽くしてあなたの神である主を愛しなさいという戒めは、あなた自身のようにあなたの敵を愛しなさいという戒めよりも神聖である、ということはありません。地上での務めのまさに最初から、山上の垂訓の中で、彼はこれ...
2.十字架は兄弟たちに対する愛で私たちを鼓舞します。すでに見たように、神の中にまた私たちの中にある神聖な愛は愛することを喜びます。それがまさにその性質だからです。太陽のように、それは善人の上にも悪人の上にも輝きます。信者の心からそれは流れ出ます。神から生まれたすべての人の上に神から臨んだものとしてです。「生んでくださった方を愛する者はみな、彼から生まれた者も愛します」。 愛する力を与えるのは十字...
1.十字架は神に対する愛で私たちを鼓舞します。もう一度言わせてください――十字架は動機づけるだけではありません。私たちはこれほどまでに私たちを愛してくださった神を愛すべきこと、感謝して愛すべきことを、みなが認めます。しかし、そうはいきません。ある動機によって、強い願いが生じるかもしれませんが、力を与えることはできません。神に対する私たちの愛が神が求めておられるもの、心を尽くした喜びに満ちた愛となる...
勝利者誌 一九一〇年 二巻 五月号 掲載。一八九九年の南アフリカ開拓者誌より。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪のために、御子をなだめの供え物として遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たちよ、神がこのように私たちを愛してくださったのですから、私たちも互いに愛し合うべきです。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの中に住んでおられ、そして彼の愛が私たちの中で全うされ...
3.この高価な真珠のために払うべき代価を覚えていてください。十字架はその代価がいかなるものかを告げます。永遠の愛は、すべてを手放して放棄する以外に、愛ではないものを捨て去る方法、勝利して私たちを神の全き愛の中へと導く道を切り拓く方法を、見いだせませんでした。この神聖な愛の命が私たちの中にあるすべてのものを所有し、満たし、支配するためには、どれほど徹底的に物質的命を憎んで失わなければならないのかを...
神の心の願いが成就されて、人が神の愛の力の下で彼のみこころどおりに生きるよう導かれる道がいかなるものか、私が再び簡単に述べようとしている間、どうか来て耳を傾けてください。 1.十字架と共に始めなさい。来て頭を垂れて、ここで二つの学課を学びなさい。この愛の豊かさを把握したり受け入れたりすることが自分には全くできないという学課と、神は大いに喜んでそれをあなたの中に与えてくださるという学課です。すべて...
その性質上、愛は、自分自身を知らせることを願います。愛する対象を得ることを願います。その心を勝ち取って、見返りにその愛を受けないかぎり、それは安息できません。今、考えてみてください。驚くべき栄光の中におられる神は、罪人を罪に定められましたが、それでも御子を与えて、御子を憎んで十字架につけた人々のためにその罪定めを担わされたのです――これは知識を超越した愛ではないでしょうか?この愛は十字架によって私...
勝利者誌 一九一〇年 二巻 四月号 掲載。一八九九年の南アフリカ開拓者誌より。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪のために、御子をなだめの供え物として遣わされました。ここに愛があるのです。」――一ヨハネ四・十。 宇宙には、神の愛ほど素晴らしく、美しく、さいわいなものはなにもありません。神は愛です。「愛は自分の利益を求めません」。神たる方の栄光は、彼と彼が持っておられるものは彼ご...
なぜ弱い人がいるのか こういうわけで、ある人々は弱く、ある人々は「眠」った、つまり、死んだのです、とパウロは述べています。それは、彼らが「みからだをわきまえ」(一コリント十一・二九)なかったからです。自分たちが吸収すべきキリストのからだは霊的実体であることを彼らは見ていませんでした。どんな方法で私たちは「食べる」のでしょうか?信仰によってです――信仰によって「取って、食べなさい、これはあなたたちのた...
頂点である携挙 携挙は成熟に達した新創造の頂点です。その時、新創造は自らが出てきた所、また、属している所に昇ることになります。 エノクは昇るために苦闘した、とあなたは思うでしょうか?彼は大いに神の中に住んでいたので、地上にとどまっていられなくなり、それで昇って行ったのです。あなたの中に植え付けられている神の性質を通して、あなたの中に力が働いています。神の時が来たら、それは昇って行くことになります。...
カルバリでの新創造 さて、カルバリを見つめる時、「最初のアダムの堕落した種族はそこで終わったのです」と自分に言い聞かせてください。カルバリで神は、新創造を、新しいアダム――天からの主――のかたちを持つ新しい種族を、造ること再び開始されました。天にいる人はみな、第二のアダムであるイエス・キリストのかたちを帯びているでしょう。 あなたは今、個人的に、カルバリについてこう言わなければなりません、「無力な罪人...
愛されざる天 これは決定的に重要です。なぜなら携挙は、神がある瞬間、奇跡的に御業をなして、「土くれ」を「霊」に変え、この今の世を愛している人々を彼らが愛していない天にもぎ取られる、というものではないからです!教会は全般的に用意が整っていません。というのは、十字架をほとんど知らないからです。しかし、神は、用意が整えられるよう祈る多くの人を、明らかに備えつつあります。あなたが次のことを認めることが大事...
古いアダムの携挙はない さて、「古いアダム」は携挙されえないことを明確に理解しましょう。私はかつて会った一人のとてもとても大きな福音の奉仕者を思い出します。彼はとても大きかったので、ボクサーのように見えました。ある日、彼は私に言いました、「僕は時々思うんだけど、かりに自分が『すっかりバラバラにされ』たとしたら、どれくらい天使的なものがあるだろう!」。彼が言わんとしたのは、彼の大きな巨体が彼の道の邪...
福音の知らせ 福音の大いなる完全な知らせは次のようなものです。一、カルバリの十字架で、主イエスは私たちの身代わりとなって、木の上で私たちの罪をご自身の身に負われただけでなく、堕落した人類の代表人――彼はご自分の無罪性を完全に維持しつつ、堕落した人類と一つになられました――として死なれたこと。一、神の御子はご自身のパースンの中で私たちを十字架に連れて行き、私たちの代わりに死なれたこと。一、「古い人」――古...
姿勢の力 姿勢の力の例としてローマ六章を見ましょう。なぜなら、おそらく、この集会の大多数は、携挙の基礎――つまり、十字架上でキリストが成就された御業という基礎――についてはっきりしていないかもしれないからです。ローマ六章は、あなたのために主イエス・キリストによってなされた御業に基づいて、罪に対して取るべき姿勢について描写しています。あなたが罪に対して取るのと同じ姿勢――ローマ六章に示されているように――を...
勝利者誌 一九一四年 六巻 七月号 掲載。マトロック大会でのメッセージ。 霊の事柄を理解・経験するには「霊にしたがって」生きなければならない、というのは真実です。しかし、神の子供たちはそれでも、姿勢の途方もない力を学ばなければなりません……。彼らは理解していないのです、一日中毎瞬、自分の周囲の事柄に対して自分の「姿勢」を実際に決めていることを。そして、霊的生活でもし「経験」のみに頼るなら、自分の感情の変...
上への召し 主イエスは「天を通って行」かれました。もし私たちが自分の霊的存在の全力を、言わば上に向けて「傾け」ていたなら、霊・信仰・祈りに力があったでしょうし、上への召しに向かって突き進むパウロの姿勢と同じ姿勢を取っていたでしょう。彼のようにあなたも、「キリスト・イエスの中で私を上に召してくださった神の召し(中略)目標に向かって突き進んでいます」と言っていたでしょう。 これに関する感傷は少しも役に...
よそ者であり巡礼者である こうしたすべてのことから、へブル十一章に描かれている信仰の英雄たちについて述べられていることが思い出されます。彼らは諸々の約束を受けて、「それらを遥かに仰ぎ見」て、それらの現実性について大いに確信するようになったため、それらを「喜び迎え」、握り締めて、「自分たちは地上ではよそ者であり巡礼者であることを告白」しました。彼らは自分の希望と願いをすべて天のふるさとに堅く置いたの...
4.新しい時代に関する祈り。「聖徒たちの祈りが立ち上った(中略)その御使いは香炉を取り、それを火で満たして地に投げた。すると、雷鳴と稲妻と地震とがあった」(黙示録八・三~五、欽定訳)。これは天の観点から見た祈りの効力を垣間見せており、いかに祈りが神の経綸上の諸々の御旨と関係しているのかを示しています。神は、イスラエルのために行うと言われたことを実行するために、ダニエルに祈らせました。あの強情な国...
天の市民権 5.私たちの天の市民権。「私たちの市民権(国、改訂訳欄外)」は天にあります。そこから救い主(中略)私たちは待ち望んでいます……」(ピリピ三・二〇)。「私たちの会話は天にあります」が欽定訳の訳であり、通常の「会話」という意味で述べています。できるだけ多く天の事柄について話して、できるだけ少なく地の事柄について話すこと、と言ってもかまわないでしょう。何某嬢が先週どこに行ったのかに、あまり大き...
新しい時代の力 言わば、このように前に向かって生きて、来たるべき時代の力を握って生きるために、私たちは喜んで古いものから離れ、新しいものをつかまなければなりません。私たちは天上におけるキリストにある自分の地位について学んできましたし、彼との合一による統治の生活を彼の勝利の中で握ってきました。しかし、これは自分の現在の状況や自分自身を統治することでした!しかし今、主は、千年期にご自身と共に統治する民...
新しい経綸 4.新しい経綸の到来。「古くなり、また衰えていくものは、すぐに消え去ります」(ヘブル八・十三、改定訳)。もしかすると、教会が携挙に向けて成熟しつつある時、私たちはペンテコステの時の教会と似た立場にあるのかもしれません。当時、神はラッパを吹き鳴らして、「ユダヤ教の経綸は今や終わり、クリスチャンの経綸が始まります」とは言われませんでした。そうではなく、新しいものが始まった後、古いものは徐々...
阻止している者が取り除かれる 3.聖霊が取り除かれる。「不法の奥義がすでに働いています。ただしそれは、今、阻止している者が取り除かれる時までのことです」(二テサロニケ二・七、改定訳欄外)。この節とその文脈からわかるように、聖霊が阻止しておられ、この阻止により「不法の奥義」はその範囲内に保たれていますが、それは聖霊が取り除かれる時までのことです。聖霊はキリストの奥義的教会の中におられて、それを形造り...
昇天と戦う龍 2.来臨の時の戦い。これは黙示録十二・四からはっきりとわかります。「龍は立って(中略)生まれたらすぐに彼女の子供を食い尽くそうとしていた(中略)そして彼女の子供は、神に、神の御座に携え上げられた」。この節の文脈についてとてもよく知られていることを要約することはせずに、引用した御言葉に戻って、ただ次の事実を強調するだけにします。すなわち、この男の子である教会が携挙で携え上げられる時、龍...
勝利者誌 一九一四年 六巻 八・九月号 掲載。一九一四年六月四日のエクルストン会議場でのメッセージ。 マトロック大会で与えたメッセージの短い要約をあなたたちに与える負担があります。大会の主旨は、主の近づいている来臨を喜んで待ち望むことでした。そしてその主旨により私たちは、主の来臨との関連で見た戦いについて、携挙の希望の基礎である十字架について、来臨に備えて霊にしたがって歩む生活について、また、真理の他...
へブル六・二〇のもう一つの節、「幕の内側に(中略)先駆者としてイエスは私たちのために入られました」。彼が入られた所に私たちは行かなければなりません!かしこに今日、神の子供であるあなたのためにおられる彼を見なさい。彼は「無限の命の力」の中で御座に座しておられます。彼は変わることのない祭司職に永遠にとどまられます。自ら苦しまれたので同情することができます。極みまでも救うことができます――ご自身によって...
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おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...