おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
「十字架につけられたイエス・キリスト」一.死による一体化のメッセージ (5)
他の箇所で、メイビー博士は再び、キリストの死は「放射性」である、と書き記しています。先日、私はある医者に、ラジウムについて少し教えてください、とお願いしました。すると、彼は言いました、「ラジウムは世界で最も強力な凝縮された力を持っており、その近くにあるものすべてに自らのエネルギーや力を賦与する能力があります」。「確かに」とある宣教士は言いました。「その光線を直接浴びると死んでしまいます。燃やされ...
「十字架につけられたイエス・キリスト」一.死による一体化のメッセージ (4)
この一体化の生命力 「あなたたちも、キリスト・イエスを通して、自分は罪に対して死んでいるが、神に対して生きていると認めなさい」(ローマ六・十一)。キリストの死における彼との一体化による合一は――姿勢ではあるのですが――「姿勢」以上のものであり、――立場ではあるのですが――「立場」以上のものです。これは、罪の重荷からの解放と同じくらい、信者の経験上、実際的事実とならなければなりません。これを理解しそこなった...
「十字架につけられたイエス・キリスト」一.死による一体化のメッセージ (3)
一体化の瞬間 しかし今、ここで、フィリップ・マウロが彼の本の中の一つで明らかにしている重要な点が明らかになります。彼の死における信者のキリストとの「一体化」は実際にいつ始まったのか、という疑問が生じるのです。マウロが言うには、それは「キリストの死の瞬間に始まった」のであって、「その前ではない」とのことです。信者は、世の罪を取り除く神の小羊であるキリストの宥めの御業の苦難に、決してあずかることはあり...
「十字架につけられたイエス・キリスト」一.死による一体化のメッセージ (2)
しかし、あなたたちは言います、「私は何年もの間これを知っていましたし、理解していましたが、これが私の生活に何らかの違いを生じさせているようには見えません」。ここで、啓示の霊である聖霊を認識する必要が生じます。この最後の時代の神の子供たちの多くは、キリストと共なる死の「真理」を受け入れてきましたが、それは聖霊の啓示によって彼らに臨んだものではありませんでした。彼らは、自分は「キリストと共に十字架に...
「十字架につけられたイエス・キリスト」一.死による一体化のメッセージ (1)
キリストの死の中で私たちは彼と一体化されたという基本的事実を求めて、ローマ六章に向かうことにしましょう。「彼の死」という言葉に注目してください。「死んだ私たちが、どうして」(二節)。「彼の死の中へとバプテスマされた」(三節)。「死んだ者」(七節)。「私たちが死んだのなら」(八節)。辞書によると、ここの「死ぬ」という言葉は、ギリシャ語では、この動詞を明確にする強調的表現になっており、完成・成就され...
この集会のための私の特別な主題は、「キリストの死のいっそう深い面の今日的意義」です。これには今日、大きな意義があります。なぜなら、十字架の根本的意義に取り組んで、実際に生き生きと経験しないかぎり、私たちは、現在の世界情勢におけるこの世と肉と悪魔の圧力に抵抗して立つことはできないからです。 最初に言わせてください。私のメッセージの最初の部分は、あなたたちがよく知っている基礎をおさらいしているように...
十字架につけられたイエス・キリスト「スワンニック」集会での三つのメッセージの要約ジェシー・ペン-ルイス目次はじめに一.死による一体化のメッセージ二.死による一体化の適用三.死による一体化の継続性勝利者誌 一九二六年 七巻 七月号 掲載。オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
終えるにあたって、この物語の二つの主要な面に注目することにしましょう。一.すべての上におられ、すべてを貫いておられる神が、ヨセフの人生のためにビジョンを成就されつつあります。次の点に注目してください。 (a)神は彼の命を救われました(三七・一)。 (b)神はポティファルの家に導かれました(三九・一)。 (c)神はヨセフを栄えさせて訓練されました(三九・五)。 (d)神は牢獄への道を許されました(...
権威と権力が彼に与えられました(創世記四一・四一~四四)。そして、彼が失ったものはみな、神ご自身の御手によって戻されました。「秘密を啓示された者」を意味する新しい名が彼に与えられました。また、孤独と悲しみの年月の果てに、家と愛する者たちが与えられました。さらに気前よく神は彼に応じられたので、彼は自分の苦しみと、若い頃に引き離された家を忘れることができました(五一節)。すべてを失った彼は今や豊かな...
勝利者誌 一九〇九年 一巻 十月号 掲載。(a)天のビジョンの成就 ヨセフが「苦悩の地」(創世記四一・五二)の牢獄にいた、彼の人生でまさに最暗黒の時に、彼の解放の瞬間がやって来ました。この苦難はあまりにも厳しい深刻なものになったため、詩篇作者は「彼の魂は鉄の中に入った」(詩篇一〇五・十八、欽定訳欄外)と述べています。彼の霊は、言わば、圧迫されて閉じ込められていました。彼の魂という鉄の檻の中で、自分の道...
(c)牢獄生活と苦難 偽りの訴え、名声の喪失、続いて不当な投獄が、この道の次の段階でした(創世記三八・七~二〇)。ここで、「彼の魂は鉄の中に入った」(詩篇一〇五・十八、改訂訳欄外)と述べられています。このような事になったのです!多くの、多くの、多くのことによって、私たちは打ちのめされますが、この点には及びません。しかし、そこで私たちはゲッセマネとカルバリの意味を知ります。晴れ渡った良心(創世記四〇...
(b)惨めな奴隷状態 ヨセフはポティファル――パロの役人――に売られましたが、神は依然としてヨセフに対する御旨を遂行しておられました。このようにエジプト人の家庭に入ったことで、彼は宮廷とのつながりを持つようになりました。彼はその宮廷の長官になる運命にありましたが、彼はそれを知りませんでした。それは彼にとってどれほど陰鬱に思われたことでしょう、彼の霊はどれほど悲しかったことでしょう!神は忘れてしまったの...
勝利者誌 一九〇九年 一巻 八月号 掲載。(a)選ばれた器の分離 すでに述べたように、「天のビジョン」の後には、必ずその成就への道が続きます。ヨセフの事例では、誰がその道具として用いられたのでしょう?彼自身の兄弟たちです。この若者に対する神のビジョンにより、彼らの苦々しい敵意が引き起こされました。彼らは彼を排除することを決意しました。「彼らは彼を殺す陰謀を企てた」(創世記三七・二〇)。彼らには彼を害す...
私たちは御霊の素晴らしい満ち溢れを受けて、それにより、「開かれた天」と「神の幻」の中に導かれます。神の霊は、ご自身が私たちにしようとしているあらゆることの輝かしい可能性を、私たちに啓示してくださいます。すると私たちは、それはみな直ちになされる、と思い込みます。その時その場で、絶えざる力と実り豊かさの生活が始まると期待してしまいます。 しかし、私たちは、ヨルダン川で主キリストに対して天が開かれた後...
(C)「天のビジョン」の危機(創世記三七・五~八)。 神の御旨に関する啓示をヨセフが話したことで、突然、彼の兄弟たちはこの潜在的敵意を実行に移すよう駆り立てられます。ヨセフが見た夢の意味は、彼の周囲の人々にはまぎれもなく明らかでした。ヤコブはそれらを「見守って」、神がなさることを見ようと待ちました。しかし、ヤコブの息子たちは弟を「妬み」ました。この「小さき者」は――あまりにも若く、あまりにも純真だっ...
勝利者誌 一九〇九年 一巻 七月号 掲載。 神は御言葉の中に、祝福への道に関する多くの視覚教材を私たちに与えてくださっています。そして、ヨセフの人生以上に明確なものはありません。その物語は、神のキリストが地上に来臨される時の彼の生活をみごとに予告しているだけでなく、一人の人の霊的歴史と、その人が「私と共に私の王座に着くであろう」(黙示録三・二一)という御言葉の意味を知るようになる前の霊的行程を描写して...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (11)
私はあなたたちだけに話しているのではありません。自分自身に、そして、すべての牧者に話しています。牧者たちよ、一匹の悪魔が私たちの中の二人を支配できるとは、私たちはいったい何をしているのでしょう?何が私たちの問題なのでしょう?講演の大会をやめてでも、自己吟味と祈りの大会を開くようになる時が来るとは思わないでしょうか?全教会を四つの海の間から集めて、神を待ち望ませることができれば、私たちは神との関係...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (10)
男性の方々、女性の方々、これが大事な点です。注目すべきことに聖書全体にわたって、この世界の悪の多くは悪霊どもの活動のせいだとされています。彼らがこの暗い世の暗闇を支配しています。この悪霊どもはみな私たちの周りにおり、社会の中に、私たち自身の家庭生活の中に、あの飲んだくれの息子の中に、汚れた霊に取り憑かれているように思われるあの少女の中に、この若者たち――彼らはまるで魅了されているかのように、神から...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (9)
あの七人がその人に取り組み始めた時は、そうではありませんでした。彼は彼らの方を向いて、「おまえたちちっぽけな小人ども、おまえたちリリパット人よ、おまえたちはいったい何者だ?おまえたちはいったい何者だ?おまえたちのことは知らないし、前に聞いたことも一度もない。おまえたちの名は地獄では一度も話題になったことがない。このエペソとやらの小さな土地の外では、だれもおまえたちやおまえたちのことなど知らない」...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (8)
この悪鬼どもは、パウロが神や人に対してとがめのない良心を持つ生活を送って実践していることも知っていました。毎晩、床に就く前に、パウロが自分のハンモックの横に座って、その日を振り返り、誘惑の病原菌が自分の血中に入り込んでいないかどうかを調べているのを、彼らは知っていました。悪魔を知っている人ならだれでも、悪魔は一度に私たちに襲いかかることは決してないことを知っています。悪魔はたいてい、一つの小さな...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (7)
さて、次に、彼らは祈る彼を見ました。ここに来る前、私は自分の新約聖書に再度目を通しました。そして、自分の祈りの生活について述べていない、パウロの手紙を一つだけ見つけました。ほとんどどの手紙でも、彼は御父に向かって膝をかがめることについて述べていると思います。 パウロは彼の筆でなした以上のことを、ひざまずいてなしました。私たちが口論によってなす以上のことを、パウロは祈りによってなしました。パウロは...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (6)
さて、次に、この悪鬼は続けて、「パウロについてもわかっている」と言いました。悪鬼はパウロをとてもよく知っていました。パウロが「とても立派な人」だった頃の彼を、悪鬼どもが彼には何でも好きなことをできると考えていた頃の彼を、彼が自分たちの働きをしていた頃の彼を、この悪鬼は知っていました。悪鬼どもは仰天して立ち尽くしました。なんと、ダマスコへの途上、栄光のインマヌエルがパウロを地に打ち倒すと、突然パウ...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (5)
この同じ章の後半によると、イエスはその同じ安息日の晩に悪鬼どもを追い出して、「彼らに語ることを禁じ」られました。「悪鬼どもは彼を知っていたから」です。まるで、悪霊どもが自分たちの知っていることをすべて話すことを――悪霊どもはそうしたかったのですが――彼は願っておられなかったかのようです。 事実はこうです。サタンがヨブ記の中で「ヨブについて検討した」ように――「あなたは私の僕ヨブについて検討したか?」――...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (4)
パウロは悪霊ども――彼らによって人々の体と思いと魂は苦しめられ取り憑かれていました――を対処することに大成功を収めました。それで、悪鬼どもを実際に払うことによって、あるいは、そのように見せかけることによって生計を立てている人々は、自分の商売が危ないと感じました。そして、自分たちの悪鬼払いが失敗すると、彼らは次にイエスの御名を使うことを決意して、「パウロが宣べ伝えているイエスの御名によっておまえに命じ...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (3)
神の霊が十二人の上に臨んだ時、この人々は実際に御霊に満たされて、ただ神のためだけに立ったので、十二人からなる小さな核でも、広大な多くの人が住むこの州全体が揺り動かされて激変するほどでした。アジア中が神の御言葉を聞いたのです。 まさにこの時、聖霊降臨が悪霊どもを刺激したとしても驚くにはあたらないのではないでしょうか?聖霊が強力な力で人々の上に降られるときは、世界中どこでも、常に悪霊どもが立ち上がっ...
「イエスについては知っている。パウロについてもわかっている。だが、おまえたちはいったい何者だ?」 (2)
使徒の周りに集まったこの十二人は、彼によって、イエス・キリストを通して御霊を受けるよう導かれました。この御霊は、キリストのバプテスマの時に彼の上に、ペンテコステの時に教会の上に、コルネリオの家で異邦人たちの上に降ったのと同じ御霊でした。「御霊が最初の時と同じように」。これを語り尽くすのは不可能です。御霊がペンテコステの時のように、最初の時のように、この十二人の上に降り、革命を起こしました。もし神...
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おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...
第一六章一~四 迫害に対する覚悟五~七 キリストの去る利益八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのであ...