おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
3.神に対して生きる「同じように、私たちの主イエス・キリストを通して、あなたたちも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていると見なしなさい。」ローマ六・十一。 このように「見なす」ことができるのは再生された人だけです。罪の中で死んでいる人は、自分は罪に対して死んでいると見なすことができません。まず、主イエス・キリストを通して死から命へと移らなければなりません。「私はそうしようとしてきま...
六章十一節は、「私たちの主イエス・キリストを通して、あなたたちも、自分は罪に対して死んでいるが、神に対しては生きていると見なしなさい」と私たちに命じます。私たちはこれが意味するところと、パウロが二コリント五・十四節で述べている、「ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです」という言葉が意味するところを、完全に受け入れているでしょうか?ここには身代わりがあるだけでなく...
2.「彼と共に十字架につけられた」 「私たちは次のことを知っています。私たちの古い人が彼と共に十字架につけられたのは、罪の体が滅ぼされて、私たちがもはや罪に仕えることがないためです。」ヨハネ三・七。ローマ人への手紙で、パウロは一度も会ったことのない人々に向かって話しています。私たちは神の配剤に感謝しなければなりません。この神の配剤により、彼らに福音を伝えたことのない使徒は、彼らに書き送って、その記...
最高のものを目指しましょう。それより劣っているものを目指す働きはたくさんあります。この世を教育、啓蒙、道徳化できたとしても、依然として悪魔の手の中にあります。キリストは新しい命をもたらすことを目指されました。あなたはそれを得たでしょうか?あなたは新しく生まれたでしょうか?古い性質は罪に定められたでしょうか?さて、十字架について話すことにします。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられな...
いわゆるキリスト教の奉仕の多くは、キリストの働きの道筋に沿って進んでいません。主イエスの御旨は、今日のキリスト教の教会が目的としているところと一致していません。彼は来て、内なる徹底的変化を強調されました。私たちは症状を取り扱っていますが、彼は病を取り扱われます!私たちは枝を取り扱っていますが、彼は根を取り扱われます!私たちは習慣を取り扱っていますが、彼は性質を取り扱われます!私たちは外側を取り扱...
勝利者誌 一九一〇年 二巻 八月号 掲載。メッセージの短い注記。講演者による校正はされていません。1.新生「あなたたちは新しく生まれなければなりません。」ヨハネ三・七。 「これは初歩的な真理であって、私たちはそこから先に進んでいるのである」とだれも思わないでください。私たちは基礎に立ち返る必要があります。基礎に立ち返ることによって、他の真理がいっそう明らかになるのです。 宮の外庭で、人々は供え物の小羊...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第四章 教会と生き物(6) 完
私たちはこの課題と訴えかけに応えなければなりません。私たちは生きているでしょうか?この命の中を進んでいるでしょうか?この命は私たちの中で自由で完全な道を得ているでしょうか?私たちはそれを妨げ、阻み、邪魔しているのでしょうか?それとも、この命にその完全で自由な道を得させて、その法則に従っているでしょうか?もしそうなら、それは私たちを王座に導きます。そして、この約束は私たちに実現され、私たちは二十四...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第四章 教会と生き物(5)
冠と報い キリストにある人の心に、まさにこの書が示す「あなたの冠をだれにも取られてはなりません」という御言葉は訴えかけます。それは、全き御旨に至るまで進み続けなさい、という訴えかけです。神と共に治めることが神の御思いですが、それには常に前提があります。「もし苦しむなら、彼と共に統治するようになります」。「勝利を得る者を、私と共に私の王座に座らせよう」。もしだれもが自動的に勝利者になるのなら、このよ...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第四章 教会と生き物(4)
福音の偉大さ もう言うことはありません。御旨は私たちの前に示されています。神の霊は、神の偉大な御思いに沿って行動しなければなりません。しかし、確かにこれは途方もなく心に訴えかけます。まず第一に、これは、主イエスの御業、その十字架が意味するところ、その血が流された意味を強調します。神の御旨に地獄はこぞって立ち向かいます。神の御旨は、災難や失敗に巻き込まれているように思われますし、罪深い時代全体にわた...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第四章 教会と生き物(3)
死は廃棄された この黙示録は預言的な書です。四章がどのように始まっているのかに注目してください。「ここに上って来なさい。これらの事の後に必ず起こる事を、あなたに見せよう」。それは結末を、究極的完成を仰ぎ見ています。時ではない時――もはや時はないからです――を視野に入れています。そのとき、死はすべて廃棄されます。これは、たんに肉体が死んでこの世から去ることではありません。死は最後の敵であり、人に対する神...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第四章 教会と生き物(2)
御座 歴代誌に戻ると、この祭司たちは契約の箱を神託所・至聖所に運び込んで、それをケルビムの下の神の臨在の中に置きました。そこはまさに天上を表していました。というのは、至聖所は天上の型だからです。ご存じのように、その幕(それはキリストの肉体でした)が裂かれたことで、神の臨在の中に入る道が開かれ、天的合一と神との交わりの中に入る道が開かれました。ケルビムは、証しの箱を運び込む祭司たちのこの動きと関係し...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第四章 教会と生き物(1)
聖書朗読:黙示録四、五章。 今、ケルビムに関する真理の究極的完成である最後の描写に移ることにします。この黙示録でケルビムは、「生き物」という名の下で、二十四人の長老と関連して登場します。彼らは大いに密接に関係しているため、共に動きます。その活動は一つであり、その発言は一つであり、その立場は一つです。これを念頭に置いて、ひとまず置いておくことにします。 偉大な叫び、偉大な宣言が、長老たちと生き物に関...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(8)
主は私たちの内に、「自分はあるものの中にある」という積極的な目的意識を新たに与えてくださいます。そのあるものとは、あらゆる抵抗をくぐり抜けて道を切り開き、邪魔するなら帝国さえも打ち倒すものです。彼を妨げようとするものはみな火に包まれます。彼は前進し続けておられます。神の御旨が挫折することはありえません。決定したことを、彼は実行されます。車輪は進み続けます、まっすぐに進み続けます。御霊が車輪の中に...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(7)
私たちは、「ご自身のみこころの熟慮にしたがってすべての事柄を行う方の熟慮にしたがって」、私たちの務め、私たちの霊的使命に構成されます。私たちは、「御旨にしたがって召されて」います。私たちは、この世界が存在する前に神が決定し、この宇宙に投影された事柄に関して、神との交わりの中に導き入れられました。神の御旨は、アダムがこの交わりの中に入って、ご自身の同労者となることでした。アダムは失敗しましたが、神...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(6)
天的使命 次に、天的使命に進むことにします。そこには大空、天の領域があります。そこでキリストとその民は使命を果たしつつあります。「今や、天上にいる主権者たちや権力者たちに……」とパウロは述べています。私たちの務めは、まったくこの地上のことだけに縛られているわけではありません。霊的な試練や苦しみの時に、これは私たちの心に慰めや慰安を少しも与えないかもしれませんが、それにもかかわらず、次の事実は残ります...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(5)
ケルビム 次にケルビムに移ることにします。ケルビムは、それらすべてに関する団体的・複合的な手段です。すでにケルビムについては説明したので、繰り返すことはしません。ケルビムには四つの面があります。獅子、雄牛、鷹、人です。各々、主権、奉仕と犠牲、天的奥義、神の表現を表しています。これは受肉したキリストです。しかし、これは教会、彼のからだでもあります。教会は彼との交わりの中にもたらされて、彼の贖いの益に...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(4)
火の意義 次に第三の点は、逆に辿っていくと、火です。エゼキエルの務めの場合――彼の務めはここでこのビジョンによって構成されました――もちろん、火は不忠実な民に下される神の裁きの火でした。エルサレムは滅ぼされ、その土地は荒れ果て、人々は捕囚になり、神の栄光はエルサレムから去りました。神の裁きが不忠実な民に下されつつありました。火はここでは神の取り扱いを物語っています。神は、みこころに関するご自身の永遠の...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(3)
車輪の意義 エゼキエルのビジョンを逆に辿って行くと、車輪に出くわします。これらの車輪は何を表しているのでしょう?車輪は統治の型であることに、疑いの余地はほとんどないと思います。代々の時代にわたる神のみこころによる統治における、神の御旨です。これらの車輪は進行中であり、地の四方すべてに向けられています。普遍性がその大きな特徴です。どの方向にも進めますが、常に前進し続けます。 再びエペソ人への手紙が、...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(2)
さて、この真理が大いに発展したエゼキエルの事例に移ることにします。私たちの目の前にあるのは、神との交わりであり、神への奉仕であることがわかります。エゼキエルの預言書の第一章には、預言者の務めの基礎・土台となったものがあります。それは、言わば、彼を預言の務めに入らせるきっかけになったものです。エゼキエルは、あるビジョンによって、彼の預言の務めに導かれました。このビジョンにはいくつかの要素・特徴があ...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第三章 車輪――神の熟慮と御旨(1)
聖書朗読:エゼキエル一章 聖所と至聖所の間にかかっていた幕屋の幕には、ケルビムの姿が刺繍されていました。ご存じのように、この幕は受肉、肉身を取られたキリストの型です。使徒はヘブル人への手紙で大いに明確にはっきりとそう述べており、この幕は彼の肉体であると述べています。彼が地上におられた間――つまり、十字架で裂かれるまで――神に通じる道はなく、神から排除されていました。十字架でその肉体の幕が裂かれた時、神...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(11)
これは信仰の生活です。これらの霊的事柄を新聞で報道することはできません。真の霊的成長と、奉仕における真の霊的成果は、常に書き記して他人に見せることができるとはかぎりません。それは目に見えないものであり、天的なものです。過去十年の私の霊的成長を、見てもらうためにあなたの目の前に示すことはできません。霊的成長をある程度認めることはできるかもしれませんが、あなたはその価値の全容を判断することはできませ...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(10)
自己を打つこと どこかで打たれなければなりません。カインは打たれました。モーセは打たれました。パウロは(あの領域で)打たれました。別の部類では、アナニヤとサッピラは、自分自身の考え、自分の知性の働きを、神の聖なる事柄の中に持ち込んで、打たれました。そこには守護者――ケルビム――がいます。「彼が死ぬことのないように」。私たちの命は、その根源において罪深く、呪われています。それを神の事柄の中に持ち込むなら...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(9)
もしかすると、この問題に関してあなたにも経験があるかもしれません。私自身の人生において、恥と後悔と心の悲しみの原因となった顕著な事柄、苦悩や苦しみ(実りある苦しみではありません)という結果にしかならなかった事柄を見てみると、それらは、なにかをしよう、どこかへ行こうと心に決めて、それを実現しようとした時に生じたものでした。私はそれを実現するために、決意し、それに手を付けました。それは神が望んでおら...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(8)
モーセを見てください。なんという忠実さ!なんという献身!なんという犠牲!多年にわたるなんという苦難!それから彼自身の力、彼自身の情熱から発したたった一つの行為……時として、それは知性――考察、理屈、計画、計略、企画――から発する場合もあります。人の知的側面からのものであり、人の天然の命によって活気づけられています。時として、それは心、情熱、感情から発します。モーセが言ったのは、結局のところ、「今、聞け...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(7)
少しのあいだ、警告のために別の面に向かうことにします。私たちはこの命のことをエネルギーと呼びました。人々の生活や奉仕に活力を与えるものです。すべては、長い目で見ると、何が私たちの生活や奉仕に活力を与えているのかにかかっています。私たちは自分自身の天然の命を引き出して、霊的な事柄や神の事柄に向かい、生活や働きをしているのでしょうか。あるいは、彼ご自身の神聖な命を引き出しているのでしょうか。これは大...
「生活と奉仕との関連におけるケルビム」 第二章 ケルビムの意義(6)
さて、一つか二つの点に注意することにしましょう。ケルビムがキリストの表現、もしくは、受肉したキリストの霊的諸原則の化身であり、命の問題がケルビムと不可分に結びついるとすると、これは新約聖書で何回も明確に述べられている偉大な事実を示しています。すなわち、この命はキリストから切り離せないという事実です。この命はキリストの中にあり、キリストの中でのみ、しかも贖いという根拠に基づいてのみ、持つことができ...
「ブログリーダー」を活用して、オリバーさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...