おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
(2)「グノーシス」は他の人々を傷つけかねない 一コリント八章で、偶像に供えられた物について、パウロはこう述べています、「私たちは、唯一の神のほか、別の神はないことを知っています(中略)私たちにはひとりの神、父がおられるだけです(中略)しかし、すべての人にこの知識があるわけではありません」。このコリント人たちの間には、あまり知識に進んでいない人々もいました。彼らは「偶像にやましさを感じつつ」、偶像...
(1)「知識は人を思い上がらせる」 パウロが言うには、「グノーシス」もしくは客観的知識は、「人を思い上がらせ」ます。なんとこれは真実でしょう。霊的事柄を客観的に知れば知るほど、ますます人は思い上がります。万人の教師になること、彼らを正すこと、自分が知っているところによって彼らを測ることを欲します。これは大間違いです!この「思い上がらせる」という句でパウロは何を言わんとしているのでしょう?パウロは賢...
勝利者誌 一九二八年 九巻 十月号 掲載。一九二六年二月四日にペン-ルイス夫人によってエクルストン・ホールで与えられたメッセージです。「偶像に備えられた物については、私たちは知っています、なぜなら、私たちはみな知識を持っているからです。(中略)知識は人を思い上がらせますが、愛は建造します。もし誰でも何かを知っていると思うなら、その人は知るべきほどのことをも知っていません……」一コリント八・一~二(ダービ...
聖霊があなたの霊の中に住んでおられ、神の霊の人の側における現われがヌースにおいてである以上、聖霊はあなたの思いを十分に用いなければなりません。決してあなたの霊の衝動のみに基づいて行動してはなりません。自分の霊の中に衝動を感じたら、ひざまずいて、神に、「これを私の思いに、私の知性に伝達してください。それについて私自身の思いの中で十分に確信できるようにしてください」と求めなさい。霊は「感じ」、思いは...
「キリストの思い」を持つとはどういうことでしょう?聖霊があなたの中にキリストの知的・霊的器官、罪によって損なわれていない器官、彼の思いの器官を生じさせられることです。「キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたたちの内側でも思いとしなさい」(ピリピ二・五)。この思いは機械的な方法で私たちに伝達されるのではなく、聖霊による刷新によって私たちに与えられます。つまり、聖霊はあなたの思いを新しくして...
肉は「内なる人」のヌースに逆らいます。「私は、内なる人によれば神の律法を喜びますが、自分の肢体の中には別の法則があって、私の思いの法則に逆らって戦っており、私の肢体の中にある罪の法則のとりこにしているのを見ます」(ローマ七・ニニ~二三)。私たちが贖われた体を得るまで、この罪の法則が私たちの肢体の中に常に存在しています。たとえ聖霊が霊を満たしていて、思いが新しくされていても、罪の法則があなたの肢体...
これは導きに関するあなたの諸々の問題に終止符を打ちます。どうすれば神のみこころを知ることができるのでしょう?「私は自分の霊の中に導きを受けましたが、行動するのが怖かったのです」とあなたは言います。聖霊なる神があなたの霊の中におられて、あることをあなたに啓示したい時、彼はそれをあなたの思いを通して示して、それを知的に理解して知的に行えるものとされます。霊の導きは自分たちを動かして、自分たちの協力と...
勝利者誌 一九二八年 九巻 一月号 掲載。注記――以下は、ペン-ルイス夫人がエクルストン・ホールで一九二七年一月七日に与えた最後のメッセージの報告です(講演者による校正はなされていません)。その場に居合わせて、このメッセージから大いに実際的な助けを受けた人々からの、出版を望む多くの熱心な要求に応えて、ここに掲載します。「兄弟たちよ、私は神の慈しみによって、あなたたちに勧めます。あなたたちの体を生きた供え...
6.神が完成してくださる信仰。私たちはそれを「神の信仰」と名付けてきましたが、実際には、神がそれを完成してくださらないかぎり、それは神の信仰ではありません。からし種の粒は死んで、その後、現れて具現化されなければなりません。完成されるには、まず実体がなければなりません。もしあなたが体から分離された霊にすぎなかったなら、あなたは人として完全ではなかったでしょう。ですから、完全な人であるには、あなたは...
5.神を受け取る信仰。からし種は死にます。そして死ぬ時、別の過程が始まります。あの内なる胚芽が自然界の諸々の力や活力から飲み始めて、素晴らしい復活の変化を経過するのです。自然界から飲む時、それは高く伸びて、地面から一フィート、二フィート、三、四、五フィートの高さになります。東洋の国々では、からし種の木は二十フィートの高さにまで成長します。それは自然界からその栄養をすべて得ます。その健康と力を得ま...
おそらく、あなたたちの中の何人かは神秘主義者タウラーの説教や、彼の生涯について読んだことがあるでしょう。この称号は非難の言葉として述べられることが時々ありますが、真のクリスチャンはみな神秘主義者です。とはいうものの、神秘主義者がみなクリスチャンとはかぎりません。あなたたちは神の霊の神秘的な内なる働きを信じています。これを信じているなら、あなたは神秘主義者です――この意味で私たちは神秘主義者です。私...
4.神に死に渡される信仰。からし種の粒の秘訣は、地に落ちて死ぬか、あるいは、一粒のままなのか、ということです。あなたは、地面の中にしばらく放置されていた穀粒を掘り返したことはあるでしょうか?第一に、それは湿気によって膨張し、さらに長く放置しておくなら、その外側の殻にひびが生じて、死に始めます。その一部は腐敗した状態にあります。この過程が進行しているあいだ、その小さな生命の胚芽の中でも素晴らしい変...
3.神に服する信仰。からし種の粒の中には、いかなる種類の信仰があるのでしょう?母なる大地の力に喜んで服し、喜んで土の中に隠されて遂には死ぬ信仰です。そうです、喜んで隠されて遂には死ぬのです!しばらくのあいだ埋まったままですが、その後芽生えて成長し、高さ十、十五、二十フィートの木になります。このからし種の中に、この過程に服することのできるなにか、死んでなおもよみがえることのできるなにかがなかったな...
マルコの節の文字通りのギリシャ語は、「神の信仰を持ちなさい」です。あなた自身の信仰ではなく、神の信仰です。私たちの多くはこれを何年ものあいだ知っていましたが、神の信仰がいったい何なのか理解していませんでした。ルカのこの節は、神の信仰についての注解です。神の信仰は一粒のからし種のようである、とそれは述べています。それは、「一粒のからし種のような信仰を持ちなさい」と述べているのですから、それを、「一...
勝利者誌 一九一〇年 二巻 六月号 掲載。「神を信じなさい」(ギリシャ語、「神の信仰を持ちなさい」)マルコ十一・二二。「……からし種一粒ほどの信仰」ルカ十七・六。 私たちはこの二つの御言葉を両方とも知っていましたが、最近初めて私はそれらを全体として知りました。聖書は自らの最高の注解書です。私たちの目が開かれるとき、その中に、御言葉と御言葉を比較することにより、必要な助けがすべて見いだされます。「神を信じ...
個人的勝利 この主題についてもっと多くのことを述べることもできます。たとえば、千年間の統治、支配する聖徒たちの昇進、王国の設立と王国を統治するための法律の制定についてです。しかし、それらのことはみな、さしあたって私たちの目的の範疇外です。私たちの目的は、主の再来を待ち望んでいる人はみな、今の自分の機会を勤勉に活用して、自分の生活のあらゆる点で個人的勝利を心掛けるべきことを示すことです。 主の来臨を...
千年期の地位 また、裁きの御座で千年王国における地位も割り当てられます。以下のような地位について述べられています――1.王の右と左の地位(マタイ二〇・二〇~二七)。 これらは備えられた人々のためのものである、と主は言われました。その条件は明らかに、キリストの杯を飲むことと、彼のバプテスマでバプテスマされることです(二三節)。2.町に対する支配権(ルカ十六・十六~十九)。 この支配権は明らかに、地上の...
裁きの御座における褒賞 では、「褒賞」がいかなるものなのか、そして、それらが与えられる条件について、見ることにしましょう。1.火に耐える「働き」(一コリント三・十二~十五)。 褒賞がいかなるものなのか、ここには明示されていません。なぜなら、それは火に耐えた「働き」のかさと重さに見合うものでなければならないことは明らかだからです。2.忠実に活用された「タラント」もしくは能力(マタイ二五・十四~二三)...
4.私たちが接触する「魂」(ヘブル十三・十七) これについてはとても短く暗示されているだけですが、はっきりしています。「彼らはあなたたちの魂を見守っています」とパウロは述べています。「彼らは申し開きをしなければならないからです」。これは、この「一家」の僕たちの魂のことであり、商人たちが取り扱った魂のことであり、信者が接触するすべての人の魂のことです。信者は「魂を見守」らなければなりません。注意して...
3.「執事職」もしくは信任(マタイ二四・四四~五一) ここでは、信任された信者が示されています。しかるべき時に信者は、この立場に伴う義務をどのように果たしたのかについて申し開きをしなければなりません。この「僕」は自分の主人の一家の上に立てられました。それは「定められた時に人々に食物を与えるため」でした。霊的に、これは、神の教会を養う任務を受けた人々にあてはまる、と一般的に言われています。しかし、こ...
信者の生活――これについて信者は裁きの御座で申し開きをすることになります――のいくつかの面を短く見ることにしましょう。1.一般的な広い意味における「働き」(一コリント三・十二~十五)。 ここで、あらゆる種類の「働き」が火によって試される、と述べられています。もしそれが火に耐えるなら、信者は報いを受けます。もしそれが「木、草、刈り株」であることが判明するなら、それは燃え尽きます。信者は損失――自分のすべ...
勝利者誌 一九二七年 八巻 一月号 掲載「なぜなら、私たちはみな、キリストの裁きの御座の前に現れなければならないからです。それは善であれ悪であれ、めいめいが体で行った事柄を受けるためです……。」(二コリント五・十) この節の文脈からわかるように、使徒がここで述べているのは信者についてだけであり、報いの観点から信者の「働き」が検査されることについて述べています。スコフィールドは彼の注釈の中で、聖書は七つの...
数年前の集会のことです。一人の年配のウェールズ人が立ち上がって祈りました。彼は英語で祈ろうとしました――ちらほら言葉を発しましたが、その圧迫はとても大きく、あふれる思いのはけ口はありませんでした。涙がどっとあふれて、自分の母国語で、「ああ、私の父よ!」と叫んで座りました。他方、大勢の聴衆は感動して涙しました。聖霊からの衝撃的流出により、祈りは御父によってかなえられました。そして、人々の心は柔らかく...
祈るのが難しいのは、私たちの思いと頭脳を従わせるのが難しいからです。祈ることができるのは、私たちが世人の必要を見て、キリストが持っておられた世人に対する愛の霊を持っている時だけです。私たちは王なる祭司です。とりなし手になることができるのは、私たちがその必要を見る時だけです――そして、その必要を見ることができるのは、私たちが神と接触している時だけです。 警戒していることが祈りと同じように重要です。祈...
私たちは何を求めるべきかわかりません。祈る方法を知らないからです。祈るために祈りに一時間費やしなさい。祈りは祈りへと導きます。聖霊は私たちの弱さを助けてくださいます。自分の部屋の扉を閉めて、神の御前でひれ伏す気はあるでしょうか?聖霊のさいわいなそよ風は、どこにあるでしょう?私たちの魂は乾いており、かたくなで、無感覚であり、祈るのは不可能だと私たちは感じます。 祈るのが難しいのは、祈りは戦いだから...
なぜ祈りはこれほど難しいのでしょうか?この世の雰囲気は神の願いを抑え込んで、祈りの霊とは反対だからです。有害な大気の中で生き、動くなら、私たちの霊の命は毒されます。弟子たちは主のもとに来て、祈ることを教えてください、と彼に求めました。イエスは、「中に入って(中略)扉を閉じなさい」と言われました。神と共に歩むことを願っている人でも、神と親しく交わらないかぎり、自分の役目を果たすことはできません。偶...
勝利者誌 一九一四年 六巻 三月号 掲載 祈りは新創造の呼吸です。祈りを窒息させることは、霊の呼吸をことごとく窒息させることであり、窒息させられると、まもなく、行動は損なわれて停止してしまいます。クリスチャンが怠慢になるときは必ず、それは真っ先に、祈りの力の喪失となって表れます。密室の祈りで強いなら、私たちは公衆の面前でも強いです。祈りで強いなら、私たちは人生の道でも強いです。 祈りは神との私たちの合...
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おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...