おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
キリストのパースンにおいてこの旧創造は十字架に釘付けられたことを見ること、旧創造を十字架につけたこの行為を是認すること以外に、解決法はありません。私たちは、一人一人、くじによって選別されなければなりません。それは、ザブジの子、カルミの子であるアカンが取り去られるまでです。私たちは、めいめい自分で、自分の悪い自己がキリストにあって十字架に釘付けられたことを見なければなりません。そして、喜んでそれを...
「彼と共に死んだ」がパウロの手紙の常套句です。それはコロサイ人への手紙中に反復句のように鳴り響いています。「あなたたちはキリストと共に死にました」……「あなたたちは死にました」……「あなたたちは彼と共に葬られました」。これは神の御旨ではそうだっただけでなく、当時、神聖なバプテスマの儀式が示していたように(ローマ六・四、コロサイ二・十二)、個人的取得によるものでもありました。もちろん、この個人的な取得...
勝利者誌 一九二八年 九巻 十月号 掲載。 十字架が中心です。屠られた小羊は御座の中央におられます。彼の周囲に、輝かしい、堕落していない、光の軍勢が同心円状に整列しています。外の円は、天と、地と、地の下と、海の、すべての被造物から成っています。ヨハネの油塗られた耳によると、彼らは祝福と、誉れと、栄光と、力を、小羊に帰しました。内側の次の円は、無数の天使から成っています。彼らは大声で、小羊はすべての権力...
「毎日起きる時」と故アール・ケアンズは言いました。「神が私を愛して顧みてくださっているという甘い感覚を感じます。神はキリストのゆえに私のすべての罪を赦してくださいました。私は不安を抱くことなく、将来を楽しみにしています(中略)もしこれがすべて私の幻想であると私に確信させることができたとしたら……真っ暗闇だったでしょう」。たしかに、まことに「真っ暗闇」です!感知可能な暗闇です。幽閉と死を意味する北極圏...
3.十字架は暗闇に打ち勝つ光のエネルギーである 「神は命です」「神は愛です」「神は光です」。これが、その中で神が人々に啓示される三つの偉大な面・属性です。しかし、十字架は神の至高の自己顕現なので、続いて、十字架によってこの三つの属性を明確に啓示してもらう必要があります。すでに見ましたが、神の命と愛は人の魂を十字架を通して力づけます。今、神の光が同じ目的のために暗闇を征服することによって働くのを見る...
2.十字架は敵意を征服する愛のエネルギーである 「神は愛です」は、今日の説教者にとって、ごくありふれた主題です。それでも、この言葉は人によって異なる受け取られ方をします。ある人はその説教者に、「神は愛であることを、どうやってあなたは知ったのですか?」と質問するかもしれません。「彼が愛であることを私が知っているのは、彼が私の魂を生かして新しくしてくださったからです」と言えば十分なのでしょうか。質問者...
しかし、主イエス・キリストは何者でしょう?聞いてください!「この方は見えない神のかたちであり、全被造物の中で最初に生まれた方です。なぜなら彼によって万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も、主権も、支配も、権威も、創造されたからです。万物は彼によって、彼のために創造されました。また、彼は万物より先に存在し、彼によって万物は成り立っています。そして彼は、教会であるからだ...
勝利者誌 一九一一年 三巻 一月号 掲載。「十字架の言葉は神の力だからです。」――一コリント一・十八。 ここで使われている「力」という言葉は積極的です。科学の概念の中には、潜在的力、余力、不活発な力といったものがあります。ここで述べられている力は活動中の力のことです。それは活動中の神聖な力であり、神聖であるので、このうえなく偉大である必要があります。聖書は、それを描写することに、ほぼ費やされています。そ...
しかし、カルバリの後に復活が臨みます。最も深いクリスチャン生活は、キリストの十字架にあずかることを意味するだけではありません。彼と共に私たちはよみがえらされるのです。私たちの贖い主と共に天上に座らされるのです。 この澄み渡った大気の中、天上の生活がクリスチャンにとって自然なものになります。役割や、あまりよく学んでこなかった道に関して、神経を尖らせなくなります。良くなろうとしなくなります。ただ生き...
勝利者誌 一九四四年 二五巻 四月号 掲載 イスラエル人は、死の型であるヨルダン川に下って、その湿った墓の中に十二の石を残さなければなりませんでした。それは、十字架につけられた生活を象徴するものであり、そうしてはじめて約束の地に入ることができたのです。なにか容易な道を見つけられて、それを指摘することができたなら、私は大喜びしたでしょう。しかし、そのような道は嘘っぱちです。新約聖書は、十字架に基づかない...
勝利の五つの法則 最後に、勝利について述べます。「試みられても打ち負かされない」が私たちの主題です。五つの法則を示すことにします。 第一に――私たちは喜んで事実に直面して、罪を罪と呼ばなければなりません。私たちの立派な伝道上の小さな罪といえどもです。偉大な医者なる方のメスが最後の潰瘍に達するのを、私たちが喜んで受け入れない限り、完治はありえません。宗教的恐れは私たちの苦痛を長引かせるだけです。このう...
(6)私たちは、敬虔ぶるよう試みられます。神は私たちを偽善――形式主義者が唯一頼りとしているもの――から救ってくださいます。酔っ払いを飲酒から救う救い主だけが、私をごまかしや見せ掛けから救える方です。後者の方が前者よりも救い主にとってずっと難しいかもしれないかどうかは、だれにもわかりません!キリストの霊は敬虔さを自然で自発的・容易なものにされますが、もし私がキリストの霊を真に持っていないなら、私は大...
(3)私たちは、救い主のために働きすぎるあまり、救い主ご自身をおろそかにするよう試みられます。働きは、たとえクリスチャンの働きであっても、偶像になるおそれがあります。もしあなたがあまりにも忙しくて霊的活動に必要不可欠な静かな時をおろそかにしているなら、確かにあなたは忙しすぎます。救い主があなたの生活の中で第一位を得られるようになるには、あなたは多くの余計な荷物を下ろさなければなりません。私の働き...
しかし、これはクリスチャンの働き人たちのための主題ではない!と言う人もいるかもしれません。私の意見は異なります。おそらく、私たちは酔っ払いや盗人のようには試みられないでしょうが、自分は試されることはない、と言うのは愚かなことでしょう。もしそうだったなら、何と悲惨なことだったでしょう。実のところ、クリスチャンの働き人だけが受ける、ある特定の性質を帯びた試みがあるのです。兵士ならではの試みを兵士が受...
勝利者誌 一九四二年 二三巻 十月号 掲載 試練という言葉ほど、心に深く響く言葉はありません。私たちは始終試みられています。なんらかの試練を伴わない時はほとんどありません。聖書に記されている、人類史における最初の大きな経験は、神がご自身のかたちに人を造ってエデンの園に人を置かれた時に、人が受けた試練の物語です。人なる方が経験された最初の大きな経験は――この人は神が受肉された方でしたが、真実な完全な意味で...
遅かれ早かれ、経験から人はこの事実を学びます。十字架か、さもなければ、結果的にあらゆる悪を伴う高ぶりか、のいずれかです。戦争は何でしょう?民族対立は何でしょう?数百万の人が窮乏の中にあるというのに、この気ちがいじみた富の蓄積は何でしょう?あらゆる形を取って現れる闘争は何でしょう?地を嘆き呻かせている社会的不義は何でしょう?いわゆる人の高ぶりというこの呪われた木が必然的に結ぶ実にほかならないのでは...
勝利者誌 一九四五年 二六巻 七月号 掲載「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます(中略)つまずきの石。」(一コリント一・二三) 十字架につけられた贖い主の周りに群がったユダヤ人たちは、嘲り、罵って、大声で叫びました、「もしイスラエルの王なら、今、十字架から降りて来い。そうすれば信じよう」。「彼と共に十字架につけられた強盗たちも同じように罵った」と記されています。 近年、この大昔の叫び声の反...
「しかし、あわれみに富んでおられる神は、私たちを愛してくださったその大いなる愛のゆえに(中略)私たちをキリストと共に生かし(中略)私たちを共によみがえらせてくださいました」(エペソ二・四~五)。信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さは、キリストの復活の力に劣りません。なぜなら、信者の内に働く力は、神がキリストを死者の中からよみがえらせた時に彼の中に働かせた力である、と御言葉は私たちに告げてい...
「ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです」(二コリント五・十四)。 これはパウロ神学の特徴であるだけではありません。これは宇宙的な偉業なのです。これが人の高ぶりを対処する神の方法です。これはその全き目的の観点から見た十字架です。キリストの経験にあずかるように神は私たちを召されました。また、人の子なる方を信じる私たちの信仰により、私たちはキリストの経験にあずかるよ...
しかし、キリストとのこの合一は十字架に導きます。イエスの人性は十字架につけられた人性です。彼にあって、人生の行程は大逆転します。私たちはもともと高ぶっています。どれほど恥じるべきでも、どれほど屈辱的な環境でも、私たちは依然として高ぶっているのです。高ぶりが私たちの血の中を流れています。高ぶりが私たちのすべての心拍の中にあります。私たちは自分の想像上の謙遜さを誇っています。自己が王となっています。...
勝利者誌 一九四七年 二八巻 十月号 掲載 パウロは一コリント一・九で、私たちは御子、すなわち、私たちの主イエス・キリストの交わりに召されたのである、と私たちに告げています。ギリシャ語では交わりという言葉は「コイノニア(koinonia)」であり、一方から他方に流れる共通の経験を意味します。この思想は、御子の経験が私たちの経験にならなければならない、ということです。私たちはキリストの中に根差して、彼の経験にあ...
(4)「グノーシス」の賜物の効力は、キリストに対する輝き渡る愛です。「イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の輝き」(二コリント四・六)です。あの客観的知識はみな、それが内的知識になるなら、良いものです。次に、それは愛に根差していて、その中心はひとりの御方です。「彼」――「それは私が彼を知るためです」。次に、それは他人を打ちひしいだり、罪に定めたり、落胆させたりしません。それはイエス・キリスト...
知識の賜物 「グノーシスの賜物」があります。御霊の賜物の一つです。「ある人には知識の言葉が与えられています」――それは聖霊によって臨む真の知識です。聖霊によるカルバリに関する客観的な啓示もある、と言えるでしょう。しかし、それには常に内的な意識的知識が伴います。御言葉からそのしるしを示したいと思います。 (1)「グノーシス」の真の賜物は、自身の知識不足を意識させます。「もし誰でも何かを(内的に)知って...
「かの日には、多くの者が私に言うでしょう、『私はあなたの御名によって予言し、あなたの御名によって悪鬼どもを追い出しではありませんか?また、あなたの御名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか?』」。そこで主は再び、「私はあなたたちをまったく知らない」と言われます(マタイ七・二二~二三)。あなたたちは不法の働き人です!こうしたことがみな、今日、魂の力によってなされるおそれがあります。心霊主...
(3)このような知識の個人生活に対する結果 「たとえ私が人や天使の異言で語ったとしても、愛がなければ、私は鳴り響く鐘や騒がしいシンバルになってしまいます。たとえ私がすべての奥義とすべての知識(グノーシス)を理解しているとしても、たとえ山々を移すほどの十分な信仰を持っているとしても、愛がなければ、私は無です」(一コリント十三・二)。これが自己に対する結果です!内的意識である真の知識がなければ、私たち...
しかし、私はこうした問題よりももっと巧妙な問題について心配しています。キリストの教会の一つ(unity)を傷つけ、弱い人々をつまずかせている、多くの事柄があります。それは、知っているつもりの人々の「知識」のせいです。これが「進んだ真理」の危険性です――書き記されていることを踏み越えて思い上がってしまうのです。書き記されていることを踏み越えて、決して思い上がってはなりません。唯一安全な道は神の単純な御言...
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おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
二彼が神のために一切を捨てて心は軽く喜びに満され歌を歌いながらまだ春浅いアシジの山のほとりを通ってゆくと山賊にあった。「お前は何者だ」と尋ねたので「私は大王の使者である」と答えると彼を捉えてその着物を剥ぎとり「大王の使者安かれ」といって雪解けの冷い沼につき落して去った。その時フランシスはその雪解けの水の中に入ってもなお歌いつづけていたということである。又、ある時は彼が托鉢に行った留守に三人の強盗が...
一アシジのフランシス(フランチェスコ)は最もキリストに似た生涯を送った人といわれ、世界のキリスト教会において何れの教派の人々からも尊敬され且つ愛されている聖者である。彼は文筆の人でもなく、又所謂雄弁家でもなかったが、その単純さと愛の実践とをもってキリストの足跡を踏んで死に至る迄、徹底した謙遜の生涯を続けた事は彼を知る者にとって大いなる霊感である。まだ詳しい伝記を読む機会のなかった人々のために簡単に...
フランシス訳者 金井為一郎目次訳者序緒言一、訓誡の言二、諸徳への称讃三、フランシス教団の規則からの抜粋四、全ての忠実なる者への手紙五、神への讃美六、太陽の頌歌七、主の祈りの瞑想八、フランシスの祈りオリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるる...
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのよ...