(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
(2)効果ある祈りは弟子たちにいつ約束されたのか? 「その日には」(ヨハネ一六・二三)。 日付のついた約束なのです!ペンテコステの日の日付です。約束された慰め主が彼らを占有されるその日、彼らは「求め」、「受け」て、彼らの「喜びは満ち溢れ」(二四節)ます。 祈りの力は、ですから、御霊の豊かさを知る知識と結び付いています。 「今までは、あなたたちは私の名の中で何も(ギリシャ語は強調否定、『何も、一つた...
「その日には、あなたたちは私に何も尋ねないでしょう(『私に何の質問もしないでしょう』、欄外)。まことに、まことに、私はあなたたちに言います、あなたたちが父に求めるものは何であれ、彼は私の名の中であなたたちに与えてくださいます。今までは、あなたたちは私の名の中で何も求めませんでした。求めなさい、そうすれば、あなたたちは受けます。それは、あなたたちの喜びが満ち溢れるためです(中略)私があなたたちに父...
内住するとりなし手 「御霊もまた私たちの弱さを助けてくださいます(中略)彼は神のみこころにしたがって聖徒たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ八・二六、二七)。すべての真の祈りは信者の霊の中で、その中に住んでおられる聖霊から生じます。あなたの霊の中におられる聖霊は神のみこころを知っておられます。彼の御業は、天におられるあなたの父のみこころが何であるのかを地上で表す叫びを、あなたの霊の中に生じ...
祈りにおける利己的動機 かなえられる祈りのもう一つの条件は、「自己中心的」であることをやめることです。「ヨブが自分の友人たちのために祈った時、主はヨブの捕囚状態を元に戻された」。つまり、自分自身や自分の苦難の周囲を巡るのをやめて、他の人々のために祈り始めた時です。個人的な事柄は神に任せて、あなた自身とあなたの必要について彼に信頼しなさい。往々にして、あなたが他の人々の必要のために祈っている間に、あ...
祈りにおける意志の地位 「あなたたちが望むものを求めなさい」――あなたたちが感じることを求めるのではありません!ここで、祈りにおける意志の地位がはっきりと分かります。あなたの意志は神の側に定まっているでしょうか?あなたは、何をなすべきか分からなくて、葛藤を経験したことがあるでしょうか。様々な方法で祈るのですが、ほとんど絶望的な状況になってしまいます。その時、遂に、聖霊の御業により、あなたの口は「確か...
「もしあなたたちが私の中に住んでいるなら」。キリストの死の中に住まない限り、復活のキリストの中に「住む」ことはできない、とあなたの霊的知性はあなたに教えます。「もし私たちが、彼の死の様によって彼と結合されるなら、彼の復活の様の中にもあるでしょう」(ローマ六・五、改訂訳)。つまり、「もし私たちが、接ぎ木された枝のように、密接に結合されるなら」(コニーベア)。木の幹に接ぎ木された枝は、その場所から出...
死の土台――十字架の基礎――を避けて通ることはできません。「キリストのものである者たちは肉を十字架につけてしまったのです」さもないと魂の命、肉の命、「古いアダム」の命がたちまち現れて、霊を曇らせ、祈りの力を邪魔します。ですから、効力のある祈りのために、あなたは十字架につけられているという、キリストにある自分の立場を理解する必要があります。その立場であなたはこう言うことができます、「主よ、あなたの死の...
効果的祈りのための基本的立場 祈りのための信者の基本的立場がヨハネ一五・七に見つかります。「もしあなたたちが私の中に住んでいるなら……」。これは私たちを、効果的祈りの生活のために立つべき立場である十字架にもたらします。「もしあなたたちが私の中に住んでいるなら」――「求める」ことができる立場は、キリストの中にある立場です。これには「彼の死の中へと植えられる」(ローマ六・五)ことによってのみ到達できます。...
また、日毎に罪に対して勝利しなければなりません。勝利の生活を送ることに失敗することほど、「願い求め」と願い求めの力を速やかに阻止するものはありません。個人的勝利の必要性は、かなえられる祈り条件として、どれほど強く明確に強調しても強調しきれません。あなたを支配している何かがあなたの中にあります――ほとんど常に何か一つのことに集中しています――ただまっすぐにあなたの救い主、御顔に傷のある人のもとに行きな...
「もし私が心の中に不義を抱いているなら、主は聞いてくださらない。」(詩篇六六・一八) 「あなたの罪があなたから御顔を隠したので、主は聞いてくださらないのだ」とイザヤはイスラエルに言いました。ですから、祈りがかなえられない時、あなたは「神が私の祈りをかなえてくださるのを妨げるものが、私の生活の中に何かあるのでしょうか?私は心の中に不義を抱いているのでしょうか?」と尋ねる必要があります。なぜなら、神の...
私たちは祈りの二つの面について考えてきました――供給が必要なもののための祈りと、敵に対して両手を上げる祈りです。この上げられた両手の祈りを、あなたは実証したでしょうか?モーセは戦場でヨシュアに加わって戦った、とあなたは思うかもしれません。モーセはおそらくこう言ったでしょう、「ヨシュアは肉や血を対処していますが、私はさらに強力な力を対処しています。そこでは、肉や血は何の役にも立ちません」。「私たちの...
あなたはこの働きの可能性を垣間見ているでしょうか?一日中、キリストとの合一の中で、あなたはこの絶えざる祈りの働きをすることができることを、垣間見ているでしょうか?祈る衝動を待っていてはなりません。むしろ、「冷静に」、あなたの意志で選択して祈り、熟考した上で、静かに神に求め、神は御言葉にしたがってこたえてくださると信頼しなさい。多くのクリスチャンが祈りの集会に出席するのは、神に対して正しくなるため...
「型にしたがって」 これは私たち全員が学ぶべき奇妙な学課です。そして、最初から最後まで、カルバリがその型です。神の勝利は敗北のように見えるのです。それは目に見えない領域では勝利なのですが、目に見える領域では、まったくどん底のように見えます。カルバリではそうでした。パウロの生涯ではそうでした。ペテロの生涯ではそうでした。どこでも誰でもそうでした。彼らは「死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働き...
二コリント一・八~一一に、圧迫からの解放のための祈りを求めるパウロの依頼があります。きっとこれは間違いにちがいない――きっとパウロはそれほど圧迫されていなかったにちがいない!――とあなたは言うでしょう。しかし、彼は「耐えられないほど」圧迫されていたのです。生来の彼が耐えられる限界を超えそうだったのです。それで、彼は生きる望みさえも失いました。そこで、彼は仲間の信者たちに祈りを求めます。そして、「あな...
書簡の中には、キリストの全教会のための祈りが見つかります。信者たちのためにどう祈ればいいか知りたければ、パウロの諸々の祈りを読んで、今日の神の民のためにそれらの祈りを祈りなさい。エパフラスは何を祈ったでしょう?コロサイ人たちが「神のすべてのみこころを完全に確信して立つ」(コロサイ四・一二)ようにと、彼は祈りの中で「熱心に労し」ました。これが彼が祈りの中で労した、到達すべき目的でした。そして、これ...
この「効果ある祈り」をどうすれば学べるのでしょう?「守りが必要なことをすべて覚えているのは、多分むりです」とあなたは思うかもしれません。この点こそまさに、聖霊の助けを求める必要がある点です。なぜなら、彼は私たちのためにとりなして、「神のみこころにしたがった」(ローマ八・二六、二七)祈りをあなたの霊の中に注ぎ込んでくださるからです。彼の助けによって、あなたは思い出して、包括的な祈りを祈ることができ...
次に、勝利する祈りのもう一人の勇者であるモーセによる、縛ったり解いたりする働きについて分析しましょう。ここでもまた、エリヤの場合のように、彼が水を解いて渇いている民と彼らの牛の渇きをしずめた時、大いなる祝福が国民に臨みました(民数記二〇・一一)。また、イスラエルがアマレクに攻撃された時、彼は、上げた両手と祈りの霊で、敵を縛りました(出エジプト一七・一一)。彼が主に向かって叫ぶと、水が流れ出ました...
「あなたたちのうちの一人であるエパフラスは(中略)いつも祈りの中で、あなたたちのために熱心に労しています。」(コロサイ四・一二) クリスチャンの人々は、祈りを感情や願いがたまたま流れ出たもの、あるいはその炸裂と見なすことに、あまりにも慣れ切ってしまっています。しかし、コロサイ四・一二では、祈りは「働き」と称されています。エパフラスの挨拶を伝えた後、パウロは彼について「祈りの中で熱心に労しています...
祈りと福音伝道ジェシー・ペン-ルイス目次一.祈りの働き二.かなえられる祈りの個人的条件三.祈りの力四.祈りと宣べ伝えのための勝利の立場五.まず強い人を縛れ六.「切り抜けよ!」オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
御名の権威 御名は普遍性、一つ、権威を意味します。使徒三章にそれが示されています。御名には権威がありました。それはキリストが権力と権威の地位にあることを物語ります。駆け集まってきた人々に対するペテロとヨハネの証しはまったく、主イエスが権威の地位に昇られたことに関してでした。これがすべて御名の中に集約されています。この御名という真の土台・基礎が据えられるとき、つまり、まさにこの御名が意味する立場の中...
しばらく前に、私たちはイスラエルに関するこの章のさらに重大な意義について述べました。それがここで示しているのは、遥かに重大な何かに関する途方もない暗示です――それは、この人によって示されている、とても長い間、手足が不自由で、麻痺している、無力な国家です。このイスラエル国家は不能であり、足萎えであり、無力です。なぜでしょう?主の御名があがめられていなかったからです。次に、主イエスが御名と共に登場して...
次のことをよく覚えておいて下さい。クリスチャンたちの間の緊張関係は、私たちの社会的関係、私たちの個人的問題における、ちょっとしたもめ事や、ちょっとした混乱よりも、遥かに広範な影響を及ぼすものなのです。それはまさに主イエスの御名にまで至って、その状態が存在する限り、すべてが停滞させられてしまいます。御名はその誉れ、その意義、その力を奪われてしまいます。ああ、ですから、イエスの御名に対する私たちの敬...
しかし、この御名の誉れは、この御名が示す一つとも密接に結びついています。地獄が何ものにもまして反対するものが一つあるとするなら、それは主の民の一つです。なぜなら、この一つは御名に対する途方もない証しだからです。この御名は主の民の一つ、一体性によって誉れを受けます。この御名は主の民の間の分離、分裂、不一致によって不名誉を被ります。ですから、御名に関するこの偉大な祈り――絶えず御名を伴っています――は、...
御名の一体性 主イエスの御名は一体性を表します。このヨハネ一七章では、それがこれと密接に関係していることがわかります。「父よ、彼らをあなたの御名の中に保って下さい」。「私は彼らにあなたの御名を知らせました」。「それは、彼らがすべて一つとなるためです。父よ、あなたが私の中におられ、私があなたの中にいるように」。主イエスの御名が物語るこの一体性こそ、このように途方もない力、可能性、効力なのです。 常に...
御名の普遍性 さて次に、これに加えて主イエスの御名です。この一連のメッセージで私たちが主に考えているのは、イエスの証しの基本事項の回復です。私たちは血と共に始め、十字架と共に進み、今や御名に至りました。そして、すべてはこの御名の中に集約されます。私はあなたたちに状況を見てほしいと思います。日中のあいだ、神が必要としておられるのは預言の務めの器、つまり、諸事を神の全き御思いとの関係の中に保つ道具であ...
「ブログリーダー」を活用して、オリバーさんをフォローしませんか?
指定した記事をブログ村の中で非表示にしたり、削除したりできます。非表示の場合は、再度表示に戻せます。
画像が取得されていないときは、ブログ側にOGP(メタタグ)の設置が必要になる場合があります。
(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...