二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...
(2)効果ある祈りは弟子たちにいつ約束されたのか? 「その日には」(ヨハネ一六・二三)。 日付のついた約束なのです!ペンテコステの日の日付です。約束された慰め主が彼らを占有されるその日、彼らは「求め」、「受け」て、彼らの「喜びは満ち溢れ」(二四節)ます。 祈りの力は、ですから、御霊の豊かさを知る知識と結び付いています。 「今までは、あなたたちは私の名の中で何も(ギリシャ語は強調否定、『何も、一つた...
「その日には、あなたたちは私に何も尋ねないでしょう(『私に何の質問もしないでしょう』、欄外)。まことに、まことに、私はあなたたちに言います、あなたたちが父に求めるものは何であれ、彼は私の名の中であなたたちに与えてくださいます。今までは、あなたたちは私の名の中で何も求めませんでした。求めなさい、そうすれば、あなたたちは受けます。それは、あなたたちの喜びが満ち溢れるためです(中略)私があなたたちに父...
内住するとりなし手 「御霊もまた私たちの弱さを助けてくださいます(中略)彼は神のみこころにしたがって聖徒たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ八・二六、二七)。すべての真の祈りは信者の霊の中で、その中に住んでおられる聖霊から生じます。あなたの霊の中におられる聖霊は神のみこころを知っておられます。彼の御業は、天におられるあなたの父のみこころが何であるのかを地上で表す叫びを、あなたの霊の中に生じ...
祈りにおける利己的動機 かなえられる祈りのもう一つの条件は、「自己中心的」であることをやめることです。「ヨブが自分の友人たちのために祈った時、主はヨブの捕囚状態を元に戻された」。つまり、自分自身や自分の苦難の周囲を巡るのをやめて、他の人々のために祈り始めた時です。個人的な事柄は神に任せて、あなた自身とあなたの必要について彼に信頼しなさい。往々にして、あなたが他の人々の必要のために祈っている間に、あ...
祈りにおける意志の地位 「あなたたちが望むものを求めなさい」――あなたたちが感じることを求めるのではありません!ここで、祈りにおける意志の地位がはっきりと分かります。あなたの意志は神の側に定まっているでしょうか?あなたは、何をなすべきか分からなくて、葛藤を経験したことがあるでしょうか。様々な方法で祈るのですが、ほとんど絶望的な状況になってしまいます。その時、遂に、聖霊の御業により、あなたの口は「確か...
「もしあなたたちが私の中に住んでいるなら」。キリストの死の中に住まない限り、復活のキリストの中に「住む」ことはできない、とあなたの霊的知性はあなたに教えます。「もし私たちが、彼の死の様によって彼と結合されるなら、彼の復活の様の中にもあるでしょう」(ローマ六・五、改訂訳)。つまり、「もし私たちが、接ぎ木された枝のように、密接に結合されるなら」(コニーベア)。木の幹に接ぎ木された枝は、その場所から出...
死の土台――十字架の基礎――を避けて通ることはできません。「キリストのものである者たちは肉を十字架につけてしまったのです」さもないと魂の命、肉の命、「古いアダム」の命がたちまち現れて、霊を曇らせ、祈りの力を邪魔します。ですから、効力のある祈りのために、あなたは十字架につけられているという、キリストにある自分の立場を理解する必要があります。その立場であなたはこう言うことができます、「主よ、あなたの死の...
効果的祈りのための基本的立場 祈りのための信者の基本的立場がヨハネ一五・七に見つかります。「もしあなたたちが私の中に住んでいるなら……」。これは私たちを、効果的祈りの生活のために立つべき立場である十字架にもたらします。「もしあなたたちが私の中に住んでいるなら」――「求める」ことができる立場は、キリストの中にある立場です。これには「彼の死の中へと植えられる」(ローマ六・五)ことによってのみ到達できます。...
また、日毎に罪に対して勝利しなければなりません。勝利の生活を送ることに失敗することほど、「願い求め」と願い求めの力を速やかに阻止するものはありません。個人的勝利の必要性は、かなえられる祈り条件として、どれほど強く明確に強調しても強調しきれません。あなたを支配している何かがあなたの中にあります――ほとんど常に何か一つのことに集中しています――ただまっすぐにあなたの救い主、御顔に傷のある人のもとに行きな...
「もし私が心の中に不義を抱いているなら、主は聞いてくださらない。」(詩篇六六・一八) 「あなたの罪があなたから御顔を隠したので、主は聞いてくださらないのだ」とイザヤはイスラエルに言いました。ですから、祈りがかなえられない時、あなたは「神が私の祈りをかなえてくださるのを妨げるものが、私の生活の中に何かあるのでしょうか?私は心の中に不義を抱いているのでしょうか?」と尋ねる必要があります。なぜなら、神の...
私たちは祈りの二つの面について考えてきました――供給が必要なもののための祈りと、敵に対して両手を上げる祈りです。この上げられた両手の祈りを、あなたは実証したでしょうか?モーセは戦場でヨシュアに加わって戦った、とあなたは思うかもしれません。モーセはおそらくこう言ったでしょう、「ヨシュアは肉や血を対処していますが、私はさらに強力な力を対処しています。そこでは、肉や血は何の役にも立ちません」。「私たちの...
あなたはこの働きの可能性を垣間見ているでしょうか?一日中、キリストとの合一の中で、あなたはこの絶えざる祈りの働きをすることができることを、垣間見ているでしょうか?祈る衝動を待っていてはなりません。むしろ、「冷静に」、あなたの意志で選択して祈り、熟考した上で、静かに神に求め、神は御言葉にしたがってこたえてくださると信頼しなさい。多くのクリスチャンが祈りの集会に出席するのは、神に対して正しくなるため...
「型にしたがって」 これは私たち全員が学ぶべき奇妙な学課です。そして、最初から最後まで、カルバリがその型です。神の勝利は敗北のように見えるのです。それは目に見えない領域では勝利なのですが、目に見える領域では、まったくどん底のように見えます。カルバリではそうでした。パウロの生涯ではそうでした。ペテロの生涯ではそうでした。どこでも誰でもそうでした。彼らは「死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働き...
二コリント一・八~一一に、圧迫からの解放のための祈りを求めるパウロの依頼があります。きっとこれは間違いにちがいない――きっとパウロはそれほど圧迫されていなかったにちがいない!――とあなたは言うでしょう。しかし、彼は「耐えられないほど」圧迫されていたのです。生来の彼が耐えられる限界を超えそうだったのです。それで、彼は生きる望みさえも失いました。そこで、彼は仲間の信者たちに祈りを求めます。そして、「あな...
書簡の中には、キリストの全教会のための祈りが見つかります。信者たちのためにどう祈ればいいか知りたければ、パウロの諸々の祈りを読んで、今日の神の民のためにそれらの祈りを祈りなさい。エパフラスは何を祈ったでしょう?コロサイ人たちが「神のすべてのみこころを完全に確信して立つ」(コロサイ四・一二)ようにと、彼は祈りの中で「熱心に労し」ました。これが彼が祈りの中で労した、到達すべき目的でした。そして、これ...
この「効果ある祈り」をどうすれば学べるのでしょう?「守りが必要なことをすべて覚えているのは、多分むりです」とあなたは思うかもしれません。この点こそまさに、聖霊の助けを求める必要がある点です。なぜなら、彼は私たちのためにとりなして、「神のみこころにしたがった」(ローマ八・二六、二七)祈りをあなたの霊の中に注ぎ込んでくださるからです。彼の助けによって、あなたは思い出して、包括的な祈りを祈ることができ...
次に、勝利する祈りのもう一人の勇者であるモーセによる、縛ったり解いたりする働きについて分析しましょう。ここでもまた、エリヤの場合のように、彼が水を解いて渇いている民と彼らの牛の渇きをしずめた時、大いなる祝福が国民に臨みました(民数記二〇・一一)。また、イスラエルがアマレクに攻撃された時、彼は、上げた両手と祈りの霊で、敵を縛りました(出エジプト一七・一一)。彼が主に向かって叫ぶと、水が流れ出ました...
「あなたたちのうちの一人であるエパフラスは(中略)いつも祈りの中で、あなたたちのために熱心に労しています。」(コロサイ四・一二) クリスチャンの人々は、祈りを感情や願いがたまたま流れ出たもの、あるいはその炸裂と見なすことに、あまりにも慣れ切ってしまっています。しかし、コロサイ四・一二では、祈りは「働き」と称されています。エパフラスの挨拶を伝えた後、パウロは彼について「祈りの中で熱心に労しています...
祈りと福音伝道ジェシー・ペン-ルイス目次一.祈りの働き二.かなえられる祈りの個人的条件三.祈りの力四.祈りと宣べ伝えのための勝利の立場五.まず強い人を縛れ六.「切り抜けよ!」オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
御名の権威 御名は普遍性、一つ、権威を意味します。使徒三章にそれが示されています。御名には権威がありました。それはキリストが権力と権威の地位にあることを物語ります。駆け集まってきた人々に対するペテロとヨハネの証しはまったく、主イエスが権威の地位に昇られたことに関してでした。これがすべて御名の中に集約されています。この御名という真の土台・基礎が据えられるとき、つまり、まさにこの御名が意味する立場の中...
しばらく前に、私たちはイスラエルに関するこの章のさらに重大な意義について述べました。それがここで示しているのは、遥かに重大な何かに関する途方もない暗示です――それは、この人によって示されている、とても長い間、手足が不自由で、麻痺している、無力な国家です。このイスラエル国家は不能であり、足萎えであり、無力です。なぜでしょう?主の御名があがめられていなかったからです。次に、主イエスが御名と共に登場して...
次のことをよく覚えておいて下さい。クリスチャンたちの間の緊張関係は、私たちの社会的関係、私たちの個人的問題における、ちょっとしたもめ事や、ちょっとした混乱よりも、遥かに広範な影響を及ぼすものなのです。それはまさに主イエスの御名にまで至って、その状態が存在する限り、すべてが停滞させられてしまいます。御名はその誉れ、その意義、その力を奪われてしまいます。ああ、ですから、イエスの御名に対する私たちの敬...
しかし、この御名の誉れは、この御名が示す一つとも密接に結びついています。地獄が何ものにもまして反対するものが一つあるとするなら、それは主の民の一つです。なぜなら、この一つは御名に対する途方もない証しだからです。この御名は主の民の一つ、一体性によって誉れを受けます。この御名は主の民の間の分離、分裂、不一致によって不名誉を被ります。ですから、御名に関するこの偉大な祈り――絶えず御名を伴っています――は、...
御名の一体性 主イエスの御名は一体性を表します。このヨハネ一七章では、それがこれと密接に関係していることがわかります。「父よ、彼らをあなたの御名の中に保って下さい」。「私は彼らにあなたの御名を知らせました」。「それは、彼らがすべて一つとなるためです。父よ、あなたが私の中におられ、私があなたの中にいるように」。主イエスの御名が物語るこの一体性こそ、このように途方もない力、可能性、効力なのです。 常に...
御名の普遍性 さて次に、これに加えて主イエスの御名です。この一連のメッセージで私たちが主に考えているのは、イエスの証しの基本事項の回復です。私たちは血と共に始め、十字架と共に進み、今や御名に至りました。そして、すべてはこの御名の中に集約されます。私はあなたたちに状況を見てほしいと思います。日中のあいだ、神が必要としておられるのは預言の務めの器、つまり、諸事を神の全き御思いとの関係の中に保つ道具であ...
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二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)これは同様に火曜日の説教である。〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によ...
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)(火曜日の朝)祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)マタイによる福音書に基づいて講義する。〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人に...
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録され...
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であ...
イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを...
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。〔3〕「己が頭髪にてそ...
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と...
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であ...
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)場所 エリコの近所。マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そう...
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して...
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟...
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う...
若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は...
イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んで...
パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人...
ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わ...
神の国に関する説教(ルカ一七20~37)ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を...
十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである...
富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は...
不義な家令の譬話(ルカ一六1~13)このような出来事は、世の中によくあることである。〔3〕「主人、我役目を奪いなば何を為さん。我鋤を執るには力なく」わたしたちの学ぶべき教訓は、家令の知恵である。すなわち、自分の能力を知ることである。わたしたちは時々自分の出来ないことを出来ると自負して、自分の能力を知らないことがあるが、これは愚かなことである。〔8〕「しわざの巧みなることを以てこの不義なる番当を誉めたり...
私は、詩篇四八篇の最後の句「この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる」が正確な訳ではないことに気づいて興味を持ちました。正確な訳は、「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。さて、「シオンを回り」、最後は「彼は私たちを導いて死の深淵を渡らせてくださる」です。死に至るまでではなく、死を超え、死を渡らせ、死の向こう側に導いてくださるのです...
死に勝利する命によって構成された家族 さて、この土台の別の面に移ることにします。というのは、この土台自体は一つですが、多様だからです。黙示録から、この土台がいかに多様かわかります。土台にはあらゆる種類の宝石が使われています。次に、土台に関して少しのあいだ考えてみたいのは、この土台は命によって構成される家族の問題であり、その命は死を征服した命であることです。これは漠然とした言葉であることは承知してい...
「シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私たちを死に至るまで導いてくださる。」(詩篇四八・十二~十四)「彼は土台のある都を求めていました。その建設者と製作者は神です。」(へブル十一・十)「なぜなら、据えられている土台...
イエス・キリストの霊とは何でしょう?第一に、堅固さの霊です。それは私たちの堅固さではないことを、神はご存じです。もし私たちに任されていたなら、私たちはとっくに流されていて、ここにはいなかったでしょう。私たちは学びつつあります、そうです、往々にして自分自身の失敗によって、挫折、失敗によってであり、試練や攻撃の下でです。私たちはキリストを学んでいるところであり、キリストを発見しているところであり、「...
キリストの堅固さを御霊によって自分のものとする必要性 もし主イエスが土台だとするなら、どのようにして彼は土台なのでしょうか?もし、これが彼の土台に言えて、それが私たちにも言えるようにならなければならないのだとすると――どのようにしてでしょう?私たちはあまりにも皮相的でした。私たちは、確かに、「据えられている土台以外のほかに、だれも他の土台を据えることはできません。この土台は、イエス・キリストです」と...
キリストの堅固さの秘訣 しかし、その秘訣は何だったのでしょう?それはたんなる人間的落ち着きや、偉大な魂の強さ、偉大な意志の強さではありませんでした。ある秘訣があったのです。彼の生活は、天におられる彼の父に深く根差していました。彼のお気に入りの言葉は――「天におられる父」でした。彼の生活はことごとく、天におられる彼の父に深く根差していました。あるいは、いつもの比喩を用いると、天におられる彼の父に基礎づ...
土台であるキリストの堅固さ ここで一つ、これまで述べてきたことと関連してすぐに浮かび上がってくることがあります。それはおそらく、土台としてのキリスト、そしてすべての正常な土台の第一の、最高の特徴です――すなわち堅固さです。土台はそうでなければなりません――堅固で安定していなければなりません。ああ、彼はなんと堅固だったことでしょう。この地上におられた時、主はなんと静かで、確信に満ち、毅然としていて、動じ...
土台の重要性 土台はきわめて重要なものです。遅かれ早かれ、すべてのものの真価は土台によって決まります。私たちがこの土台に決着をつけることは決してない、という感覚があります。もちろん、土台は一度かぎり永遠に据えられており、私たちは戻って土台を何度も何度も据えなおすべきではない、という感覚もあります。しかし、たとえ土台は据えられていても、私たちが土台に決着をつけることは決してない、という感覚もあります...
シオンの土台 さて、私たちが読んだ他の節は、エルサレムとシオンに関する問題の一つの面に言及しています――つまり、その土台に言及しています。アブラハムについて述べているへブル十一章のこの節は、彼は土台のある都を求めていた、と述べています。次に使徒パウロは、唯一の土台はイエス・キリストであり、他の土台はない、と述べています。また、詩篇作者は「彼の土台は聖なる山々にある」と述べています。神の土台は聖なる山...
「主は偉大であり、私たちの神の都、彼の聖なる山で、大いにほめたたえられるべきである。シオンの山は、北の端にあり、大いなる王の都であって、高くて麗しく、全地の喜びである(中略)シオンを回り、その周囲を行き巡って、そのやぐらを数えよ。その城壁を注意深く調べ、その宮殿について考えよ。それは、あなたたちが後の世代に語り伝えるためである。なぜなら、この神こそ、永遠にわたって、私たちの神だからである。彼は私た...
シオンの特徴T. オースチン-スパークス目次第一章 キリストの堅固さ第二章 キリストの勝利の命における合一第三章 キリストの命の不滅性第四章 キリストの尊さ第五章 神聖な開始における栄光第六章 隠れた働きにおける栄光第七章 最終的顕現における栄光オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館...
私たちは、私たちを対処する神の御手の下に来ているのではないでしょうか?主がある時になさりたいことを感じ取るために狭い道に入りつつあるのではないでしょうか?主が望んでおられることや望んでおられないことを、あなたは心の中で知ります。それを主が望んでおられる時を知ります。それは御霊によってあなたに臨んだのです。それは霊的識別力であり、霊的知識たる霊性です。しかし、私たちは自分の頭で物事を考え、神聖な知...
霊的知識の性質と力 知識の問題を考えてみましょう。人は「知識は力なり」と言いますが、それは天然的な知識のことです。知的な知識のことです。人々の間では、それは力かもしれませんが、天然的知識よりも遥かに強力な霊的知識があります。パウロは、この世の知識は命の主を十字架につけたほど愚かなものである、と再度述べています。それは、最高度に発達したこの世の知識です。支配者たちはこれを行いましたし、賢い人々もそう...
霊性の証明は、全く証拠がない時でも神と共に歩めることです。神がご自身を隠される時、信仰のみで歩まなければならない時でも、そうすることです。アブラハムのように、すべてが神を否定しているように思われる時でも、神を実証するものを求めないことです。神は、ご自分の子供たちを、ご自身の臨在を感覚的に示す多くの証拠がなくても、信仰によってご自身と共に歩むことができる、と信用できる地点に導こうとしておられます。...
霊性とは何か 霊性とは、天が意味するところのものであり、統治するものです。霊性の度合いが、神の観点から見た終局性・確実性・確定性・力の度合いです。 霊性とは何を意味するのでしょう?霊的であることについて話す人のことを、この世離れした空想的で夢想的な人物と思う、大勢の人と私たちは会ってきました。彼らは、そのような人物のことを、抽象的になってしまって、実際的なものをすっかりなくした人と思うのです。そう...
神の中心的関心事 この「新しい人」に神は関心を寄せておられます。神の関心はすべてそれにあります。神が追い求めておられるのは、それを成長させて、成熟した状態にもたらすことです。それによりその人の残りの部分を取り扱うことができることを、彼はご存じです。魂と体は、主イエスにある贖いにおいてそれなりの役割がありますが、神は霊すなわち新創造の人から始めて、それを通してその人の残りの部分に働きかけて、その天然...
主の子供である私たちですら、その観念、判断、評価、物事の受け止め方や評価法は、非常に物質的です。私たちは、自分のこうした魂的感覚によって大いに支配されており、影響を受けています。物事が他人にどのような影響や印象を自然に及ぼすことになるのか、それらに対する彼らの反応がどのようなものか、それが人々の間でどれだけ重んじられるのか、ということによって、支配されているのです。大事なのはただ、それが世人に与...
聖書朗読:一コリント二・六~十五。「律法が肉のゆえに弱くて、なし得なかったので、神は、ご自身の御子を罪深い肉の様で、罪のために遣わし、肉において罪を罪定めされました。それは律法の規定が、肉にしたがってではなく、御霊にしたがって歩く私たちにおいて、満たされるためです。なぜなら、肉にしたがっている者は、肉の事柄を思い、御霊にしたがっている者は、御霊の事柄を思うからです。肉の思いは死ですが、御霊の思いは...
神の今の御旨は、行政上の手段を確保して、その手段を統治のために訓練することです。人々は、主はなぜ宇宙から悪魔を一掃しないのか、なぜ苦しみや苦悩を止めないのか、と不思議に思っています。というのは、御言葉は私たちに、私たちの主イエスは「悪魔のわざを滅ぼすために現れた」と告げているからです。このようなことがすべて許されてきたのは、教会を個人的にも団体的にも試練を霊的に克服する立場に導くためです。神の御...
この現在の時、イエス・キリストの主権と権威は、この地上における政治的なものではありません――人々の間に現れていません――「わたしの王国はこの世のものではありません」。しかし、彼の主権は霊的な主権です。彼は密かに統治しておられ、それには強烈な衝撃力があります。天上の中に入ることは、あなたが霊的・道徳的優位性を得ることを意味します。神と共に脱出する道は何でしょう?困難から、苦難から抜け出すことでしょうか...