(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
さて、この点を離れて別の特別な点に移りたいと思います。その特別な点は預言の務めに関して包括的なものです。見直してみると、預言の機能は主の御名と独特・特別な関係にあったことがわかるでしょう。主の御名が預言の務めにおいて主要なものだった、という感覚があります。重要なのは御名の誉れ、栄光、特異性でした。御名のあらゆる意義、純粋さ、威光、栄光、特異性を、悪の勢力は絶えず攻撃しました。預言者たちはこの御名...
聖書朗読:創世記一一・一~九、使徒三・一~一六、一九~二四、ヨハネ一七・六、一一~一二、一六~一七 私たちは預言の機能、預言の務めの機能の問題に大いに専念してきました。私たちは次のことを見てきました。すなわち、預言の務めの機能は、特に潮流が神の全き御思いと御旨から離れている時に、諸事を神のこの全き御思いと御旨との関係の中に保つことである、ということです。これは職務というよりはむしろ機能です。何らか...
これが血の証しのすべてではないことを、私は承知しています。私は一点だけ選んでいます。神が私たちの内で御子を証しされるのは、新しい性質、新しい性質のエネルギーという手段によります。新しい性質による神の御子に対する内なる証しと、イエス・キリストは神の御子であることに関するたんなる正統的信条との間には、とても大きな違いがあります。正統的な信条を保持していて、イエス・キリストは神の御子であると信じている...
血の証し 最後に血です。「御霊と水と血」。ご自身の子である御子に対する神の証しは血によります。ここでは、この一連のメッセージですでに述べたことを、あなたたちに思い出してもらうだけでいいでしょう。すなわち、この血は命を、神の御子の命を物語っている、ということです。また、それは性質と同義であると私たちは述べました。彼の血は彼の命であり、彼の命は彼の性質です。彼は言われました、「あなたたちはみなこれから...
要点はこうです。すなわち、私たちはイエス・キリストが神の御子であることを内なる証しによって知るのです。その内なる証しとは、彼にあって罪は対処されたこと、裁きを彼が担われたこと、義を彼はご自身の死により満足されたということです。ああ、この内なる保証の力によって私たちは真に生きているでしょうか?私たちに関する限り、私たちはキリストの中にあるので、神は義の問題に関してすっかり満足しておられるのです。 ...
これはとても馴染み深い教理である一方で、この一連の黙想で強調してきたように、これは主の民がますます実際的に理解すべきことです。最近、これを私の心は新たな方法、とても素晴らしい方法で理解しました。そのため、それが私にとって何を意味したのか、あなたたちに言えないほどです。キリストの死による義認の意味について幾らか知っている、と私は思っていました。しかし、ごく最近、恐ろしい戦いの暗闇の中、昼も夜も敵は...
水の証し 「御霊と水」。神は水という手段によって、御子をご自身の子として証ししておられます。これには様々な解釈があることを私は承知しています。私としては、これは彼のバプテスマと関係していることは大いに確かであると感じています。「この御方は水によって(by water)来られた方です」。あるいは、水の中で(in water)です。そして、この水は彼の子たる身分を神が証しされる道具です。もちろん、彼ご自身のバプテスマ...
万事十分であると常に感じること、自分はできる、自分は有能であると感じることは、真の霊的生活の道ではありません。大いに有能な人々が常に霊的に極めて生産的とはかぎりません。聖霊は、一方において、天然的・人間的に無能にするために働かれます。それはまさにイエス・キリストの子たる身分を自ら証しする道を開くためです。聖霊は、消極的な立場、無理な状況の上に臨んで、それをくぐり抜けるために命を与えて下さいます。...
例えば、ローマ八・一〇~一一の議論を取り上げましょう。「体は罪のゆえに死んでいても(中略)イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたたちの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたたちの中に住んでいる彼の御霊を通して、あなたたちの死すべき体をも生かして下さいます」。これは何を意味するのでしょう?これは次のことを意味します。すなわち、聖霊の御手の中にあるの...
御霊の証し 第一に、まず、御霊は主イエスの神聖な子たる身分に対する内なる神の証しです。これは次の点に帰着します。すなわち、聖霊が働いておられる所では、その結果、主イエスを神の御子として内なる方法で知るようになるのです。聖霊の働きの結果、彼を命の観点から内的に知るようになります。もちろん、聖霊は主イエスを証しすることにまったく注力しておられます。私たちはこれを外面的方法で知っています。主ご自身が、「...
聖書朗読:一ヨハネ五・五~一二「証しするものが三つあります。それは御霊と水と血です。そしてその三つは一つとなります。」 これは神の御子である主イエスに対する三重の証しであり、単一の証しに集約されます。この三つは証しして一つになります。そして、この三重の証しの支配的点は、イエス・キリストは命であること、この命はイエス・キリスト、神の御子の中にあること、そしてそれを神は彼にお与えになったこと、そして彼...
さて、この神の豊かさを得るには、イエスを絶対的に主とすることが必要です。それ以外ありえません。それには彼の尊い血、彼の命という基礎が必要です。この新しい命がこのぶどう酒、最後まで取っておかれた最上のぶどう酒、並外れたぶどう酒、驚くべきぶどう酒、すばらしいぶどう酒、彼の命、彼の復活の命の栄光です。 さて、この諸々の特徴がわかるでしょう。このたとえはとても単純です。ここで私たちは、ですから、霊的解釈...
神の豊かさ 三日目:この箇所に記されていることはみなこのしるしの範疇に入ると思います。聖書では数字の三は、ご存じのように、神の豊かさを意味します。そして、これが実際に、この件全体にわたって大いに前面に出ています。 この水に来る時、あなたはお手上げの状態になります。大きな水がめがいくつもありますが、その中には水がある程度しかありません。いっぱいではありません。そして、注意して下さい、それらは清めのた...
キリストの主権 私はここのマリアに大いに感心します。ぶどう酒がないことを彼に告げるという結論に彼女がどのように至ったのか、私にはわかりません。なぜ彼女は彼に告げる必要があったのでしょう、また、なぜさらに僕たちにも、「彼があなたたちに言うことは、何でもして下さい」と言ったのでしょう。しかし、次のことは全く明らかです。すなわち、彼女は彼を主とする立場に立っていたのであり、この問題をすっかり彼の主権の下...
さて、これは多くの方法で、主イエスに対する私たちの関係と、主との結婚が意味するところとを、解き明かせるものであることがわかります。これは何度も何度も、私たちが進むにつれて、独立した判断、独立した道、道中における彼との衝突の多くの原因という問題について解き明かします。彼は何度も何度も戻って来て言わなければなりません、「これを見て下さい、私たちの契約はどうなっているのですか?私たちの関係の根拠はどう...
しかし、別の面もあります。つまり、神の観点からすると、信仰の従順による徹底的明け渡しが一方の側に要求されますが――これは教会である花嫁によって示されており、私たちはその肢体であり、その中に含まれています――他方、「キリストは教会を愛して、そのためにご自身をささげられました」(エペソ五・二五)。「彼が彼ご自身の血で買い取られた神の教会」(使途二〇・二八)――この別の面もあるのです。人間的に述べることにし...
聖書朗読:ヨハネ二・一~一一、一三 「このもろもろのしるしの始め」、最初の奇跡、この基礎的な事柄を構成する諸々の点(というのは、疑いなく、このもろもろのしるしの始めの意義は、他のすべての基礎だからです)、この基礎的な事柄を構成する諸々の点は:三日目、婚姻、水、ぶどう酒、イエス・キリストの主権です。婚姻関係 この結婚から始めることにしましょう。これについては私たちの前の黙想で述べました。そして、新契...
私たちへの主の委任 しかし、この契約には他の面があります。契約には常に二つの面があります。私たちが、自分たちの側で、信仰によって彼の血による契約の中に入る時、それは彼への私たちの徹底的明け渡しを意味しますが、彼はご自身の側から、この契約の他の面からこう仰せられます、「あなたが私に尽くす時、私もあなたに尽くします。私はあなたに自分自身を委ねます。そして、私のすべての資源をあなたは自由に使えます」。 ...
それはまったく信仰によることは何を意味するのでしょう?それはとても単純だと思います。婚姻関係では信仰による大きな一歩が踏み出されるのです――一方の側は特にそうです。妻の側では、それは信仰の途方もない一歩です。それはまさに次のことを意味します。すなわち、相手への完全な委任です。良いことであれ、悪いことであれ、優ったものであれ、劣ったものであれ、自分自身をそのために委ねるのです。そして今、私は単純に信...
信仰による主への私たちの明け渡し さて、注意して下さい。聖書の中で契約、血による契約が示される時は常に、信仰の要素も常に示されるのです。「信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげました」。その時、ある契約が立てられて、導入されました。少し後でアブラハムの箇所に来ても、この同じものがあります。信仰がアブラハムと立てられた契約の基礎です。神は一つの契約をアブラハムと立てられ、その契約は...
取って、食べなさい。取って、飲みなさい。そうするなら、ある結果、ある霊的な結果が生じるでしょう。あなたの存在、あなたの命の基盤は、あなたが摂取するものになるでしょう。もしあなたがキリストを摂取し、キリストを吸収するなら、あなたの中で奇跡が起きるでしょう。あなたがキリストを思うようになって、キリストを表現するようになるという奇跡です。無形ではあるものの、大いに現実的な数々の方法で、キリストが現れる...
主によって生きる 私たちの飲食は謎めいています。どうなっているのか、誰もわかりません。その諸々の過程は描写できますし、状況の解析もできますが、誰も説明できない一つの点があります。その点とは、私たちが摂る食物はどこで私たちが考える思いや、私たちの音声になるのか、ということです。あなたがこれまで摂ってきた食事のおかげで、あなたは音声を発することができます。飲食を長い間やめるなら、あなたは自分の声を失い...
婚姻関係 婚姻関係が主とその民の目的であり、それは彼の血によって制定されます。教会とキリストの間のこの関係は彼の血、新契約の血によって確立されます。私たちの前の黙想では、この血の意義をいくらか見ました――その性質と、したがって、その途方もない力を見ました。次に、この婚姻の契約関係の中でなされるのは、ある関係を実際に確立することです。その関係は一つの命を共有することであり、一つの性質、一つの命、一つの...
聖書朗読:出エジプト一二・一~八、エレミヤ三一・三一~三二、ローマ七・四、一コリント一一・二五、エペソ五・二五~二八、黙示録一九・七、九 「これは私の血による新しい契約です。」 「私が彼らの父祖を、その手を取ってエジプトから導き出した日に、彼らと立てた契約(中略)私は彼らの夫であった。」 神がイスラエルと立てられた旧契約と、主イエスの血による新契約の両方に関する聖書の御言葉から、次のことは大いに...
「もし私たちには罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いています(彼を偽り者としています)」(一ヨハネ一・一〇)。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、彼は信実で義であられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」(一ヨハネ一・九)。ああ、この述べ方が私は好きです。なぜこのように述べられているのかを理解すればするほど、私はますますこれが好きになります――「彼...
血による絶え間ない清め さて、これによりある状況をもたらす何かがなされました。その状況により、サタンは無力化され、彼の根拠は彼から取り去られ、彼の権威は損なわれます。しかし、その絶望的状況の中でも、彼は諦めません。私たちの主に対して働いたのと同じように、彼は私たちに対しても働いて、この立場――そこでは彼は無力です――から私たちを引き離そうとします。さて、主イエスに関しては、彼はそこにない何かを持ち込も...
神に対して正しい良心とは何でしょう?人々は、多くのことを行わず、多くのことを行っているがゆえに、自分自身に対して正しい良心を持っているかもしれません。これは神に対してとがめのない良心ではありません。神に対して正しい良心は一つしかありません。すなわち、清められた良心です。言い換えると、絶対的義の神の水準にかなう良心です。つまり、罪なき完全です。さて、これをその文脈から抜き出さないで下さい。私の話は...
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(※ 編者の所持している原本では最後の2ページが欠落しているため、そこに収録されていると思われるフランシスコのいわゆる「平和の祈り」を以下に掲載します。)神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜...
おお主よ、汝の愛の火の如く且つ喜ばしい御力が私の霊魂を天が下の凡ゆるものより離して汝に集注せしめ給う。忝じけなくも私如きものを愛してそのために死に給うたように私にも愛のために死ぬる心を深くさせ給え。全能にして、最も聖く、最も高く、最高善にして、全ての善、凡ゆる善の源なる神よ、汝のみただ一人善にて在し給う。全能にして、永遠なる、義にして、憐み深き神よ、哀れなる我々に汝を知り、常に汝の喜び給うところを...
我らの父よ、最も聖き我らの創造者、贖主、又慰主よ。天にいます。御使の中に又、聖徒の中にあって彼らに知識を得させる輝きを与え給う、そはおお主よ、汝は光にして汝を愛するように心を燃やし給う、主よ、汝は愛にて在し給う、彼らの中に宿り、祝福をもて彼らを満し給う、おお主よ、汝は最高の善にて在し永遠の善にして汝を離れては何処にも善はありません。御名を崇めさせ給え、我らが汝の恩恵の広さと汝の約束の長さと汝の威厳...
おお、いと高き、全能にして、善にいます神よ、称讃と、栄光と、誉れと、全ての祝福とは汝のものであります!全ての造られたものにより汝は讃美され、殊に兄弟なる太陽によって崇められますように!彼は我らに昼をもたらし光を与う、彼は美しくいと大いなる輝きをもて照りかがやく。おお主よ、彼は汝の御すがたを示す!わが主よ、姉妹なる月と星とのために汝は讃えられます!汝は彼らを天において清らかに愛らしく造り給いました。...
聖なる、聖なる、聖なるかな、昔在し、今在し、後来たり給う、全能の主なる神、我らをして永遠に凡ゆる者の上に汝を賞め又、讃えしめ給え。おお主、我らの神よ、汝は称讃と栄光と誉と祝福を受けるにふさわしく在す。屠られ給いし羔羊こそ能力と神性と智慧と誉れと祝福とを受けるにふさわしく在す。我らをして永遠に万物の上に彼を賞め讃えしめ給え。我らをして父及び子と供に聖霊を祝せしめ給え、永遠に全てのものの上に賞め讃えし...
祈り我らの父よ、我らは豊けき救いが汝の御子、我らの救主によって可能とせられましたことにつき心から御礼申し上げます。彼の御生涯が我々を彼の足跡に従わせる一つの模範として送られたことにつき、又彼の死が汝の愛と我々を罪から贖い給うことを表わし、又彼の復活が現在と未来に豊かなる生命の確実性を我等に与え給うことについて、又更に変らざる臨在が常に我々の霊的な必要に応じ満し給うことについて本当に感謝申し上げます...
我々は決して上にあるもの以外を求むべきでない、むしろ神のために全ての被造物の僕となり仕え人となるべきである。そして主の霊はこれ等のことを実行し、また終りに至るまで耐え忍ぶ全ての者の上に留るであろう。神は御自身の住所を作り、彼らの中に住い給うであろう。そして彼らはそれらの業をなす時に天の父の子供、又我らの主イエス・キリストの配偶者、兄弟、母となるであろう。聖霊によって真実な魂がイエス・キリストと一つ...
なお又、我らをして悔改めにふさわしい実を結ぶもの、また己自らの如く我らの隣人を愛せしめよ。もし誰かが己自らの如く彼らを愛することを好まずあるいは出来ないならば少くとも彼らを害せず彼らに善いことをなさしめよ。もし我らが他人を審く所の権威を受けたならば憐みをもってその権能を行わしめよ。それは我らも又、主からの憐れみを受けんがためである。我らは悪と罪とのゆえに我ら自身を憎むべきである。何故ならば主は福音...
全世界に住む全ての基督者なる敬虔なる者、教職者、平信徒なる男達よ、女達よ汝らの僕なる兄弟フランシスが天からの真の平和と主にある真実の愛とを望んで恭々しい尊敬を送る。全ての者の僕として私は全ての者に仕え、又主の御言の芳ばしい香を取次ぐように定められた。それゆえに私は自分の体の弱いことを考える時に個人的に訪ねることの出来ないのを知りこの手紙をもって我々の主イエス・キリストの御言とその音信とを送る。彼は...
祈り、讃美及び感謝、我らの全ての者は全魂をもって全心をもって、全力をもって愛し又、忍耐強くあるべきである。我らの全理解と全力と全精神と全情愛と我らの内なる凡ゆる部分、全要求と意志とをもって我らにこれらのものの全てを与え給うた神を愛し、賤しくみすぼらしく悪にして汚れ恩を忘れ、また邪まなるものをも憐れみ給う神を讃美せよ。それゆえに我らは、造主、贖主なる救主、唯一の真の神以外に何事をも要求せず喜ばず求め...
兄弟達の悪いことを語り、あるいは攻撃をせず互に相愛すべきこと、兄弟らに対して誰もその欠点を誇張したり言葉をもって非難し争わないようにすべきである。神が彼らに恵みを与えてい給う間、沈黙をもって忍ぶことを学べ、これらの人達と争ったり又は共に他の人と口論をすべきでない。寧ろ反対に謙遜をもって答え、我等は無益の僕であるということを常に準備すべきである。彼らをして怒らせるな「誰でもその兄弟を怒る者は審きにあ...
ああ、女王なる智慧よ!願わくは主、汝の姉妹なる清く純潔な単純さと共に汝を祝し給わんことを!おお、清貧淑女よ!主が汝の姉妹なる聖謙遜と共に汝を祝し給わんことを!おお、聖愛の淑女よ!主が汝の姉妹なる聖従順と共に汝を祝し給わんことを!おお、凡ゆる聖き徳よ!汝らのいで来たりしところの主が汝を祝し給わんことを!初めに己に死ぬことなくば唯一人として世界の中に汝らの中の一つをも所有しうることは決してありえない。...
主がその人に示し給うた善きことをその心の内に保ち、その業によって人々に表わそうとしない人又、報いを望んで言葉によって人々に知らせようとする人は禍である。彼は今、報いを受け、聴く人に僅かの影響のみしか与えない。その兄弟が病気であって他の人を助けることが出来ない時にも健康で他の人を助けることが出来る時と同じように愛する人は幸である。その兄弟が共にいることを望むに拘らず彼から遠く離れておりそして彼の背後...
多くの人はその敵又は隣人を屡々非難することによって罪を犯している。しかしそれを気付かない。しかし人は彼自身の力、即ちその肉体の中に自らの敵を持ち、それによって彼は罪を犯すのである。ゆえに彼の中にあるところの敵を捕虜にし賢く自らを守る者は幸である。その人がこのように生きる限り如何なる見える敵も見えない敵も彼を害うことが出来ないからである。如何に多くの内心の忍耐と謙遜とが神の僕らにおいて人々に知られず...
おお、人よ、主が貴方を如何に偉大にして優れたものとして造り給うたかを深く考えなさい。肉体においては神の愛子の御姿に像どり、霊においては御自身に肖せて造り給うたのである。又、世界の凡ての造られたものは彼等各々の道において貴方よりもよくその造主に仕え従うことを知っている。もしも貴方が賢くて凡ゆる科学を知り、全ての国語を通訳することが出来、凡ゆる天のことをも正確に究めることが出来たとしてもこれによって貴...
聖フランシスは、祈りと瞑想を通しての確固たる宗教的経験が発展する事の必要性を、極く最初の働きの時から常に強調していた。彼の福音の本質的な真理を伝える説教者としての魅力ある模範、又人々の霊肉の要求に応える調和のとれた伝道、又キリストとの親しい交りから来る喜びと能力の不断の推進とはただ名のみのクリスチャンを真の基督者として全心的にキリストの救を受け容れさせるのに驚くべき能力を発揮した。フランシスの書い...
フランシスはイエスの御命令に絶対に又文字通りに服従しようとして彼の生涯を献げることを決意し、その所有をも家族関係をも投げ打ち、又先に抱いたこの世の成功者となる夢をも捨ててしまった。これより後、彼はその花嫁として清貧をめとった。何者をも所有せず、惜しみなく彼自身を与え、巡回しつつ説教する伝道の道において肉体的に又、霊的に人間の要求に対して全部を以て応ずることにおいて衣食は与えられていった。一二○四年...
アシジの聖フランシスは中世キリスト教の最も美わしい開花を代表している。歴史上のどの時代よりも、多く形式的又、組織的になってきていた時代に生きて彼はイエス・キリストの誡めに全く献げ又服従した生涯の優れた力を現わした。中世の教会に完全に服従していながらも活けるキリストへのより高い忠誠を堅く保持し続けた。彼自身が修道院の理想に自らを捧げつつもその形式の中に新しく、よりよい所の実質を与えこの世から逃避する...
我々は単なるパンでなく、生命のパンを必要とする私は印度にいる一人の神の人を知っている。彼は自分の経験を私に語った。一人の乞食が毎日彼のところに来て一片のパンを乞い、それを受け取るとすぐに去ることを常としていた。ある日、その祈りの人には与えるものが何もなく、人々が食物を取って来るまでの間、数分間彼と共に坐って話すよう乞食に求めた。一時間もしないうちに、此の乞食は信じて祈り始めた。彼はすっかり変わった...
三彼は人間のみならず、動物も植物も太陽も月も星も水も土地も兄弟姉妹といって愛した。ある時、野原に出るとたくさんの小鳥が木に留っているのをみてこれに話しかけ「姉妹なる小鳥達よ、あなた方は特に神に感謝して御名を讃美しなければならない、あなた方は蒔く事も刈る事もせず、倉にも納屋にも貯えないのに神は何時も食物を与えて下さる。殊にあなた方は羽を与えられてこの大空を自由自在に翔けることが出来る。あなた方に賜っ...
ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益...
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッ...
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。〔62〕「……証拠は如何に」〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。この...
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。〔...
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを...
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗...
イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)(マタイ二六47~)〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨ...
マタイ二六36以下。「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。し...
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)ヨハネ一八1。弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそ...
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわ...
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。〔21〕主が信者のために祈...
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。〔15〕「われ汝に彼らを世よ...
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がも...
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には...
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなもので...
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、...
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、...
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。〔27〕これは前...
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとす...
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来...