道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
銀座四丁目の交差点に国産自動車メーカーのショールームがあるのは、自動車メーカーが日本経済を担っている証左なのだろう
銀座四丁目の交差点には日産のショールームがあり、同じビルにはソニーストア銀座も入っている。ここにショールームや店舗を構えている企業に日本を代表するような有名企業が多いのは、それらの会社が日本経済を担っている証左なのだろう。
日本人が中国に入国するのにビザ申請が必要なのだけれど、中国ビザの取得は「死ぬほどメンドくさい」らしい
2024年6月末現在、日本人が中国に入国するのにビザが必要なのだけれど、ネットで完結するインドのe-VISA(実際簡単にマルチプルのビザが取れた)とは違って、中国ビザの取得は「死ぬほどメンドくさい」らしい。例えばビザ申請に先立って航空券が必要だったりしてハードルは高い。
寺院の通称になっている九品仏の中には本堂に鎮座している釈迦牟尼仏は含まれていない
境内に本堂と対峙するかのように3つの阿弥陀堂が建てられていて、それぞれに3体ずつ合計9体の阿弥陀如来像が安置されている。この9体の阿弥陀如来像が九品仏という寺院の通称の由来なのだけれど、本堂に鎮座している釈迦牟尼仏は含まれていないのがちょっと意外だ。
神田にある神田明神にいた神馬は神秘的な白馬でもなければ、見目麗しい馬でもなく、愛くるしいポニーだった
神田明神の神馬である明ちゃんは、神秘的な白馬でもなければ、見目麗しい馬でもなかった。フェンスで囲まれた狭い空間でゴロゴロとくつろぐ姿は神々しいと言うよりも親しみを感じるものだけれど、気位は高いようで人びとがフェンス越しに愛嬌を見せても、それに応じて愛想を振りまいてはくれない。
宇宙船を思わせる円形の土台の上にアンテナのような煙突が伸びている旧下野煉化製造会社煉瓦窯は古いものなのに外観は近未来的だった
1972年まで煉瓦を焼いていて、WIKIPEDIAによるとここで焼かれた煉瓦は東京駅や日光金谷ホテルにも使われたという旧下野煉化製造会社煉瓦窯は、赤レンガで組まれた宇宙船を思わせる円形の土台の上に天へ続くアンテナのような煙突が伸びていてレトロフューチャーな外観をしている。アクセスは悪いものの、一見の価値のある近代化産業遺産だと思う。
理由はわからないけれど、12座あった舞のうち、五行の舞だけが100年ほど前から行われていなかった
理由はわからないけれど野木神社の12座あった舞のうち、五行の舞だけが100年ほど前から行われていなかったところ、1999年に隣接する小山市の神社で行われているものを元に復元されて再び奉納されるようになったのだという。100年前に途絶えていたのだから、写真記録はおろか、動画を記録したものもほとんどないに違いない。そのような中、復活させるのは大変な作業だっただろう。
円形劇場とは古代ローマで剣闘士競技などの見世物が行われた施設のことを指す言葉だ
円形劇場とは古代ローマにおいて剣闘士競技などの見世物が行われた施設のこと。つまり剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられたところを指す。WIKIPEDIAによると東京オペラシティのサンクンガーデンはその円形劇場を模しているという。本来は血なまぐさい場所に、表情のない巨人が立っていては尋常ならざる雰囲気を感じてしまっても仕方がない。
「寺田コレクション」と呼ばれる東京オペラシティアートギャラリーの収蔵品は、寺田小太郎という人物が寄贈したものだ
東京オペラシティアートギャラリーに「寺田コレクション」を残している寺田小太郎という人物は、メディアに登場するような有名人ではないけれど、500年続く名家の人間で東京オペラシティ辺りの大地主だったという。メディアに登場しなくとも、由緒あるお金持ちって存在しているのだと思わされる話だ。
分かったような、分からないような言葉だった「町中華」も、実際に行ってみたらちょっとだけわかったような気がした
「町中華」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは分かったような、分からないような曖昧なものだったけれど、藤沢駅近くにある老舗中華料理店「味の古久家」を訪れたら、その曖昧模糊としたイメージが少しだけハッキリしたような気がした。
三井本館は当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコストがかけられているらしい
1929年に竣工した日本橋室町に建つ三井本館は、当時の社長の「関東大震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」との命で、当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコストを掛けて建設されているという。コリント式のオーダーが乗る列柱が整然と並ぶファサードはまるでロンドンかニューヨークに建っているビルのようだ。
由来を考えると歴史のありそうな静岡市葵区は意外なことにその歴史は浅い
由来を考えると歴史のありそうな静岡市葵区は意外なことにその歴史は浅い。誕生したのは2005年4月1日だから、まだ20年も経過していないのだ。その名前の重さに歴史がある名称だと思っている人は多いだろう。これと同じように新しいくせに古株のような顔をしているものは、世の中に結構多い。
登呂遺跡で復元された建物の用途はどうやって判定しているのだろう
登呂遺跡は弥生時代の水田遺構が日本で初めて確認された遺跡で、弥生時代=水田稲作というイメージが定着する契機ともなった遺跡だ。だから教科書にも載っていて、僕も耳にしたことがあったのだ。8万平方メートルを超える水田跡が発掘された登呂遺跡は、今では公園として整備され、復元された水田と建物群が往時の様子を今に伝えている。でも建物の用途はどうやって判定しているのだろう。
刺すような視線を返してきた随身は神を守護するというよりも、逆に世知辛い世の中から優しく守られているように見えた
久能山東照宮で拝観料を払って進むと、朱塗りの大きな門が現れる。この楼門には後水尾天皇の宸筆の扁額が掲げられており、由緒あるものだ。鎌倉の英勝寺と同じように久能山東照宮は徳川家と縁が深く、そのため天皇や上皇に扁額を依頼することができたのだろう。
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道教寺院というのは、一歩足を踏み入れると、そこが単なる一室の信仰空間ではないと気づかされる。鹿港天后宮も中央に媽祖を祀る本殿がありながら、その周囲には多種多様な神々が、それぞれの小さなお堂に鎮座している。文昌帝君、関聖帝君、城隍爺──名前も役割も異なる神々が、それぞれのご利益と共に祀られていて、境内…
外を歩いているはずなのに、ふとした瞬間、屋内をさまよっているような気分になることがある。香港の湾仔で歩いていた路地も、まさにそんな場所だった。左右からせり出した色とりどりのテントが、空を覆っている。青や赤のビニール屋根が視界の上部を埋め尽くし、その下にはびっしりと並ぶ屋台。靴下、帽子、スマホのアクセ…
ムンバイを歩いていると、どこにも属さず、ただ道端に腰を下ろしている人びとをよく見かける。何かをしているわけでもない。ただそこにいて、通りを眺めたり、誰かと談笑したり、ときには黙って風に吹かれているだけ。日本ではあまり見かけない光景で、最初は何をしている人たちなのか分からず戸惑った。でも、そんな僕の思…
ハノイ旧市街を歩いていると、絶え間なくバイクの音が耳に届いてくる。クラクション、エンジンのうなり、時には叫び声。四方八方から押し寄せてくるバイクの波に、僕はしばし立ち尽くしてしまう。目の前を通り過ぎるのは、老若男女、二人乗り、三人乗り、買い物袋をいっぱいぶら下げた人、スマートフォンを片手に運転する人…
鹿港天后宮のような道教寺院を訪れるたびに、僕は少しだけ戸惑う。日本の寺に慣れ親しんだ身にとって、この空間はどこか異質で、けれどそれが不思議と心を惹きつけてやまないのだ。回廊には柱が並び、軒下には金色の飾りが揺れている。どこを見渡しても色彩が濃い。その中で人々は香を焚き、願いを込め、祈りを捧げている…
香港では、空がやけに狭く感じられる。高層ビルがぎっしりと並び立ち、視界のほとんどを覆ってしまうからだ。見上げても、わずかにのぞく青空があるだけで、それさえも四角く切り取られてしまっている。湾仔の露店が並ぶ通りを歩いていると、その感覚はいっそう強くなる。そんな通りの片隅で、ひとりの男性が店先の商品をじ…
ムンバイの街を歩いていると、突然、壁に向かって設えられた即席の鏡台と、ちょっと背の高い椅子が目に入った。青空の下、歩道にぽつんと構えられた床屋だ。ごく自然な様子で椅子に座っている男性と、真剣な眼差しで顔剃りをしている理容師。ふたりの間には、言葉にしない信頼のような空気が流れていた。こうした青空床屋の…
ハノイ旧市街の一角。通り沿いにずらりと並んだカラフルなおもちゃたちが、小さな玩具屋の前を賑やかに彩っていた。キャラクターのぬいぐるみ、ピカピカと光る剣、リアルに作られたミニカー。どれもが棚からこちらに手を伸ばしてくるようだった。その前に立っていたのは、小さな男の子。目を輝かせておもちゃを見つめる姿は…
鹿港の静かな通りの先に、威厳ある屋根の反りが姿を現した。媽祖を祀る鹿港天后宮だった。立派な装飾が施された屋根の下には、赤い幕が垂れ、香炉の煙がゆっくりと天へと立ちのぼっている。天后宮という名が示す通り、ここには海の守護神・媽祖が祀られている。かつて鹿港が港町として栄えていたころ、多くの船乗りたちがこ…
香港・湾仔の路地に小さな肉屋があった。間口は狭く、奥行きも深くない。店先にはローストされた鶏が無造作に吊るされている。冷蔵ケースなどは見当たらず、常温での陳列だ。生々しいが、どこか生活感があって、妙に惹きつけられる。店先では男が無言で作業を続けていた。大きな丸太のようなまな板の上で、手際よく鶏肉をさ…
ムンバイの道路脇にツートンカラーのクラシックなタクシーが停車していた。前席と後部座席のドアがどちらも大きく開け放たれて、歩道にまでせり出していた。その開き具合は、もはや歩行者の進路を遮っているようでもあったが、周囲の誰も気に留めていない様子だった。男の子はよけるでもなく、その隙間をすり抜けるように通…
旧市街の一角、封筒の束が山のように積まれた店先で、ひとりの男が小さなプラスチック椅子に腰を下ろしていた。彼が手にしているのはスマートフォンだが、その背後には、整然と束ねられた無数の茶封筒が静かに存在感を放っていた。日本ではすっかり電子化が進み、郵送という行為が年賀状くらいでしか思い浮かばなくなった今…
鹿港老街を歩いていると、ふと視界の端に色鮮やかな舞台が現れた。まるで絵本から飛び出したかのような極彩色の装飾が目を引く。龍や鳳凰、蓮の花などが勢いよく描かれたその舞台は、人形劇のための移動式ステージだった。「大自然掌中劇團」と書かれた看板が掲げられている。台湾の伝統芸能である布袋戲、つまり掌中劇の舞…
湾仔を歩いていたとき、ふと立ち止まった。目の前に現れたのは、赤々とした肉塊が無造作に吊るされた精肉店だった。まるで屋台のようなお店は小さいものの、店先にずらりと並んだ肉はまるでこの街の生命力そのものを象徴しているかのようだった。蛍光灯の赤い光が肉の色をいっそう濃く染め上げている。骨付きのまま吊るされ…
ムンバイの午後の陽射しは強く、空気の粒が光の中でじわじわと揺れているように見えた。そんな中、通りかかったバス停のベンチに座っていたひとりの女の子が、こちらを見てふっと微笑んだ。前髪がまっすぐに切り揃えられていて、その輪郭のくっきりとしたラインが、どこか昔の映画に出てくる少女のような印象を与える。左手…
ハノイの街を歩いていると、ふと立ち止まりたくなるような食堂に出くわす。銀色に鈍く光るステンレスのテーブル。プラスチックの椅子が無造作に並び、中央には箸が束になって立てられている。どのテーブルにも共通して置かれているのは、唐辛子入りの調味料の瓶、紙ナプキン、そして赤いプラスチック製の箸入れ。ベトナムで…
赤い提灯がゆらめき、線香の煙が天井へと昇ってゆく。鹿港天后宮の境内は、平日にもかかわらず参拝客でにぎわっていた。媽祖信仰の中心地として知られるこの廟は、鹿港の歴史そのものといっても過言ではない。鹿港はかつて、清朝時代に港町として隆盛を極めた。大陸からの船がこの地に寄港し、物資とともに文化も行き交った…
火龍果とは、ドラゴンフルーツのこと。果肉の白や赤に、黒いつぶつぶの種が無数にちりばめられた、どこか異世界の植物のような果物である。その派手な見た目に似合わず、味は意外と淡白だが、香港の市場では人気者だ。湾仔の街角に立ち並ぶ果物屋では、そんな火龍果が山のように積み上げられていた。赤紫色の果皮が照明を受…
ムンバイの通りを歩いていると、どこからともなく甘くて爽やかな香りが漂ってきた。香りの先を辿ると、そこには小さなジューススタンドがあった。派手な装飾もなく、看板には英語とマラーティー語が混じって並んでいる。だが、そんな飾り気のなさがかえって、街の空気とよく馴染んでいるように思えた。スタンドには何人もの…
ハノイ旧市街の路地を歩いていると、ひときわ目を引くのが行商人の姿だ。観光地の中心にありながら、そこには不思議と生活の匂いが残っている。行商人の多くは、手押しのワゴンや肩にかけた籠で、静かに街を巡っている。売っているものは華やかさよりも実用性が重視され、地元の人々の台所に直結するような品ばかりだ。この…
理由はわからないけれど野木神社の12座あった舞のうち、五行の舞だけが100年ほど前から行われていなかったところ、1999年に隣接する小山市の神社で行われているものを元に復元されて再び奉納されるようになったのだという。100年前に途絶えていたのだから、写真記録はおろか、動画を記録したものもほとんどないに違いない。そのような中、復活させるのは大変な作業だっただろう。
円形劇場とは古代ローマにおいて剣闘士競技などの見世物が行われた施設のこと。つまり剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられたところを指す。WIKIPEDIAによると東京オペラシティのサンクンガーデンはその円形劇場を模しているという。本来は血なまぐさい場所に、表情のない巨人が立っていては尋常ならざる雰囲気を感じてしまっても仕方がない。
東京オペラシティアートギャラリーに「寺田コレクション」を残している寺田小太郎という人物は、メディアに登場するような有名人ではないけれど、500年続く名家の人間で東京オペラシティ辺りの大地主だったという。メディアに登場しなくとも、由緒あるお金持ちって存在しているのだと思わされる話だ。
「町中華」という言葉を聞いて思い浮かべるイメージは分かったような、分からないような曖昧なものだったけれど、藤沢駅近くにある老舗中華料理店「味の古久家」を訪れたら、その曖昧模糊としたイメージが少しだけハッキリしたような気がした。
1929年に竣工した日本橋室町に建つ三井本館は、当時の社長の「関東大震災の二倍のものが来ても壊れないものを作るべし」との命で、当時の一般的な事務所ビルの約10倍のコストを掛けて建設されているという。コリント式のオーダーが乗る列柱が整然と並ぶファサードはまるでロンドンかニューヨークに建っているビルのようだ。
由来を考えると歴史のありそうな静岡市葵区は意外なことにその歴史は浅い。誕生したのは2005年4月1日だから、まだ20年も経過していないのだ。その名前の重さに歴史がある名称だと思っている人は多いだろう。これと同じように新しいくせに古株のような顔をしているものは、世の中に結構多い。
登呂遺跡は弥生時代の水田遺構が日本で初めて確認された遺跡で、弥生時代=水田稲作というイメージが定着する契機ともなった遺跡だ。だから教科書にも載っていて、僕も耳にしたことがあったのだ。8万平方メートルを超える水田跡が発掘された登呂遺跡は、今では公園として整備され、復元された水田と建物群が往時の様子を今に伝えている。でも建物の用途はどうやって判定しているのだろう。
久能山東照宮で拝観料を払って進むと、朱塗りの大きな門が現れる。この楼門には後水尾天皇の宸筆の扁額が掲げられており、由緒あるものだ。鎌倉の英勝寺と同じように久能山東照宮は徳川家と縁が深く、そのため天皇や上皇に扁額を依頼することができたのだろう。
公式サイトによると、久能山東照宮の登山に要する時間はたった20分程度。でも実際に歩くと長く感じる。登山道の作られている斜面は傾斜が急で、道はつづら折りになっていた。少し進むと踵を返して方向転換する。教科書に載せたくなるような見事なつづら折りだった。
天満宮はもともと、怨霊と化した菅原道真の魂を鎮めるための神社であったはずなのに、今ではそのイメージは薄い。現在では学問の神様として広く信仰されていて、受験シーズン前に合格祈願に訪れたことのある人も多いだろう。実際、菅原道真は優れた学者であったという。そのため「怨霊」というよりイメージが薄まるにつれ、「学問の神様」としての信仰が根付いただろう。
経ヶ峯公園には仙台藩祖・伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿をはじめ、2代忠宗の感仙殿、3代綱宗の善応殿、9代周宗や11代斉義の墓がある。また、斉義の妻の墓や、5代吉村以降の藩主の夭折した子女の墓もある。経ヶ峯公園一帯は伊達家の重要な墓所なのだ。いくつもある霊廟の中でも、伊達政宗の瑞鳳殿は特別な存在で、他の霊廟とは異なり涅槃門と拝殿が設けられていて、別格の扱いなのだ。
広瀬川を渡ると住宅街が広がり、その先に伊達政宗の墓所である瑞鳳殿がある。瑞鳳殿は仙台市の中心部から少し離れており、1945年の仙台空襲で焼失したが、戦後に再建された。再建された建物は色鮮やかで、黒を基調とした美しい文様が特徴である。400年近くも保存されていたオリジナルだったら、これほど鮮やかではないだろう。
仙台にある「せんだいメディアテーク」は建築家・伊東豊雄の代表作で、フランスのル・モンド紙でも紹介されたほどの知名度を持つ。全面ガラス張りの開放的なデザインが特徴で、6枚の床と13本のチューブという独特の構造を持つ。この建物には仙台市民図書館やイベントスペース、ギャラリー、スタジオがあり、市民に開放的な空間を提供している。特に開放的な図書館で行う読書は心地よいだろう。普段なら読んでも理解できないものも、ここなら理解できるかもしれない。
仙台の輪王寺は戦国大名伊達氏と縁のある寺院だ。明治維新後に一時没落したものの、1910年代に復興され、池の中心に三重塔が映える禅庭園もその際に作られた。でも僕が惹かれたのは山門から本堂へ伸びる参道だった。新緑に覆われていた道を歩くと緑のトンネルの中を進んでいるような気分に浸れ、俗世から聖域へと足を踏み入れる感覚を与えてくれる。
日枝神社がこの地に遷座したのは1659年で、それ以前は松平忠房の邸宅であり、さらに遡ると星ヶ岡城という城郭があった。城郭の名残はほとんど残っていないが、地図を見るとその地形が城郭に適していることがわかる。日枝神社の北側には土塁と思しき遺構も残っているとはいえ、城郭だった名残はほとんど残っておらず、記録も乏しい。星ヶ岡城は謎に包まれた城郭なのだ。
都内にある国宝の建造物は少なく、東村山の正福寺地蔵堂と赤坂迎賓館の2つだけだ。そのひとつである赤坂迎賓館は1909年に建てられ、バッキンガム宮殿やヴェルサイユ宮殿を参考にした西洋風の建物である。日本風の意匠も混じっているが、外観は西洋式で統一されている。広々とした前庭の石畳はヨーロッパの旧市街を思わせ、日本にいることを忘れさせる。訪れても面白いと思う。
手賀ハリストス正教会は、茅葺屋根の古民家風外観ながらも、内部はイコンが掲げられた聖堂だ。1879年に建立され、関東でも有数の歴史を誇る聖堂を訪れれば、その外観と内部のギャップに訪れる人々は驚くに違いない。
東京にある庭園には高低差のあるところが多いのは、そのような地形が庭園造りに好まれたからとされる。高低差があると、眺望も良いし、滝も作りやすいなのだという。国分寺崖線沿いに作られた殿ヶ谷戸公園にもやはり庭園内にかなりの高低差があった。
買ってきた生竹の節を切り取って大勢で流しそうめんを楽しんだこともあるけれど、竹の種類についてよくわからない。自分の竹リテラシーの低さを思い知らされたのだった。
印刷工場は郊外に移転したものの、市谷工場の表玄関だった「時計台」がDNP本社ビルの脇に復元されていて、中には印刷工場の一部が再現されている。そこでは活版印刷の流れを体験できるようになっている。