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2010/08/09

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  • 第3555日目 〈ただいま(がんばって)作業中!〉

    昨日、『恋愛名歌集』を読みながら自分と『万葉集』の相性の悪さを嘆いた。ここに選ばれてある好きな短歌をきっかけに、幾らかなりとも改善の兆しが芽生えれば良いな、と希望した。 その流れで今日、個人史の “if” を考えた。“if” とは、もし自分が学生時代、『古事記』ではなく『万葉集』を習っていたら、自分は果たしてそれを好きになっていたか、八代集と同じように自分の肥やしにできたか、である。 現在は第二稿の作業を進めているが、この段階で大きな欠陥を発見。講師の担当講義を誤って記憶し、それに基づいて論を展開、結論づけたのである。これは失態だった。第一稿は手持ち資料一切なし、記憶頼みでいつものスターバックスで書いていたからなぁ……と言い訳。イケナイ、イケナイ。記憶でものを書いちゃあ駄目だよ。 予定では本日、ここに「個人史の “if”」をお披露目する予定でしたが斯様な次第で現在大規模改稿、..

  • 第3554日目 〈『万葉集』との相性の悪さが、この短歌で解消したら嬉しい。〉

    2日のブランクのあとでふたたび萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読み始めています。各集選歌のパートとなった途端に糸が切れたようになって2日の間、手を伸ばすことがなかったのだけれど病院への往復のお伴に、と再度リュックに詰めてお出掛け。 各集選歌のパート、そのトップバッターは当然『万葉集』である。 奈良時代に成立した日本最古の歌集である。本書の執筆にあたって朔太郎が拠り所とした『万葉集』が、いったいどこの出版社から出たものなのかは未詳である。全集を繙くなどすれば解決するのかな。 朔太郎は本書総論「『万葉集』について」のなかで、現代人の感性にいちばん近いであろう古典歌集というた(P179)。同じ文章の別の箇所ではこんな風に述べる。曰く、── 今日現代の吾人読者は、他のあらゆる歌集にまさって、「万葉集」に最高の興味を感ずるのである。……「万葉集」の方に魅力を感じ、肉感的に親しく惹き付..

  • 第3553日目 〈トイレ読書のお伴は?〉

    時々ふと、あれは誰だったかな、と考える。 その人物は自宅のトイレでカントの『純粋理性批判』を、何年も費やしてとうとう最後まで読んでしまった、という(『実践理性批判』だったかもしれないが)。驚きである。あのカントの代表的著作を、まさかトイレで読み通した人がいるとは!? 気になりだしてから2年か3年になるが、未だそれが誰だったのか、なにで読んだのか、全く思い出せない。可能性のありそうな本を開いても、すべて空振りに終わっている。見落としているのか、探す本を間違えているのか、定かではない。 とまれ、トイレでカントを、何年も掛けて読了した、というのが大事なのである。 いやぁ、カントというのがまた良い。遠大な内容ながら或る程度こま切れで読めて、そうしてがっつり取り組む価値あり、読んだことを周囲に自慢もできる書物。こんなことを思い立ち、継続し、継続させられる強固な意思と、家族からも..

  • 第3552日目 〈義務と責任を果たしながら、1冊でも多くの読了本を!〉

    津野海太郎『最後の読書』(新潮文庫 2021/09)を読了。──今秋購った本を片っ端から読み倒してゆく企ての、何冊目かの読了本だ、たぶん次に読みあがるのはキリスト教信仰の面からリンカーンの人生を辿ったジョン・クゥアン『ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン』になるだろう。 ここまでは順調な歩みである(と思いたい)。が、まだ何冊も、読まれる時の来るのを待つ本がある。……25冊ぐらい? 流し読み、興味ある部分のみ拾い読み、ゆっくり読む、すこしく精しく読む、を対象に応じて使い分け、あと2週間で何冊の本を「読了」として片附けられるか。 もはやむかしのわたくしではない。のんびりと、自由気儘に暮らして、会社員としての職務を無難にこなしていさえすれば良しという時代は、とっくに過ぎている。義務と責任を負う立場になったのだ。ひねもす読書に耽ることのできる日なんて、1年に何日もあればじゅうぶ..

  • 第3551日目 〈大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』を読みました。〉

    残り3ページをなにに使うか迷っていた抜き書きノート、2冊目が先程終わった。新しく読んだ本からの抜き書きではなく、6年前の刊行時に読んで爾来何度となく読み返してきた大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』(東京創元社 2016/12)から、読解力を中心とした抜き書きになっていた。 読解力を養い向上させるには昔からいう、読書百遍義自から見(あらは)る、にすべてが込められており、本を読み馴染んだ人なら誰しも何度か経験あるだろう繰り返し読み耽る行為が、読解力を養う土台になる。流し読みや速読に馴れた、それが常態となった人は意識してか無意識に読み飛ばしなどして折角の読書という行為を、量を消化するだけのものにしてしまっている。 著者は翻訳家なので上記読解力の文章も翻訳に絡めての話になっているが、読解力の優れた人になるためには、頭のなかに蓄えられた正誤、判別不能の情報を精査して知識に昇華させる必要が、まずある。..

  • 第3550日目 〈新聞記事をスクラップしていて、前言撤回を決めたこと。〉

    約1週間分の新聞スクラップをしていたら、いつもの時間を疾うに過ぎてしまっていました。いや、お恥ずかしい限り。ただのスクラップだったら2時間以上も掛けないけれど、この約1週間、わが家は色々ありましたので落ち着いて新聞を読む時間もなかったのですよ、ゆえに……と言い訳しておいて、では本日の。 以前はカッターマットを敷き、カッターと定規を使って綺麗に当該記事を切り抜いていたのが近頃はすっかり横着になって、というよりも積もれば時間の短縮になると気附いてからは、1メートルの物差し(むかし懐かしの竹の物差しですよ)をあてて威勢よく切り取る(破り取る?)ことが専らとなり、お陰で同じ時間を費やしてもスクラップできる新聞の量が格段に増えました。もっとも、スクラップできる新聞の量が格段に増えることは同時に、台紙に貼りつける記事の数も増えることを意味します。 しかしそんな風に時間の短縮化を図っても、なか..

  • 第3549日目 〈近世怪談翻訳帖の作品選びをしながら。〉

    急に寒くなった。幸いと祝日である。家中に留守にできぬ障りありひねもす蟄居して、ぼんやりと朝から、空いている時間は読書に耽るてふ贅沢三昧の今日を過ごした。溜まりに溜まった未読本を消化するつもりだったのが、気附けば積みあげた岩波文庫黄帯の山を崩してカビの生えた文学にすっかり遊んでおったことである。 とはいえこれはけっして目的なき読書ではない。近世怪談翻訳帖の作品探しを兼ねている。高田衛編・校注『江戸怪談集』上巻を巻頭から読み進めて、結局『宿直草』は終わらせられなかったけれど、そのなかに幾篇かの下心そそられるハナシのあったことが収穫だ。 『宿直草』は「とのいぐさ」と読む。延宝5(1677)年開版。荻田安静編著。未だ全編に拝すの機会を得ぬが、岩波文庫所収の各編に目を通してみると、最後に荻田の感想や道義的解説が付されるハナシが散見する。これは後代の怪談集に於いても踏襲されるパターンなので、..

  • 第3548日目 〈ただいま、音楽。〉

    病気が完癒したわけではない。未だ後遺症(?)はある。が、これを感謝したく思わずしてどうしようか。 この3週間ぐらいのことかしら。流す程度ではあるが、iTunesやiPodに取りこんだ音楽を、聴いている。自殺行為に等しいゆえイヤフォンではなく、iMacに繋いだスピーカーもしくはBluetooth接続した別のスピーカーから。 耳鳴りが耐え難い程大きいときもあれば、殆ど意識せずに過ごせる日もある。馴れのせい、あるやもしれぬ。否、無関係ではあるまい。為、音楽を聴くことのできる日もある。そうでない日もある。然れどもう諦めていた音楽を再び聴けるようになったことを、わたくしは喜ぶ。新しい主治医をまるで役に立たぬと切り棄てて自己療養にこれ努めた結果だ。ハレルヤ。 が、流石に好んで耳を傾けるジャンルには変化が生じた。クラシックは元より愛好すれどオーケストラは無意識に遠ざけている。以前にも増して..

  • 第3547日目 〈大いなる幸せに恵まれた人となり、喜びの声をあげよう。〉

    昨日、本ブログも終活を始めたよん♪ と書いた。それへ追記した稿は既にお披露目済みと思うのですべてはそちらへ譲り、今日はそこから派生したお話をば。 〈終わりの始まり〉はもうとっくに幕を上げているのかもしれない。ひょっとするとそれは錯覚で、まだ先のことなのかもしれぬ。「しかし人生は一々の事件にたいして覚悟ができているかどうかを、あらかじめわれわれに聞きあわせてはいない」(※)のだ──わざわざ、♪ジャジャジャジャ、ジャーン♪ って扉を叩いて知らせてくれやしないよね。 ただそのような時来たる意識することで、却って書いておきたい、書いておくべきテーマはなにか、明らかになったところがある。それに従って今後は筆を執ってゆこう、というのだ──勿論、毎回毎回じゃあないけれど。 わたくしだけが娘に、父の知ることを伝えられる。ずっと以前、本ブログの記事一々は毎日着実に増えてゆくわが墓誌である、と書..

  • 第3546日目 〈終わりの日が来る前に、挨拶を一言。〉

    熟慮の末、本ブログもそろそろ終活を始めることにしました。 ティクルスの計画はすべてこれを放棄。新聞に関するエッセイは、まとめてお披露目を予定するも全編上がりのメドが立たぬため、永遠破棄に決めました。集めた資料は処分し、執筆の過程で作成したメモ(PC内アプリケーションにて作成も含む)と08月に完成していたエッセイはdock内のゴミ箱へ。さよなら。 とはいえ、いつまで続けるか、概ねの目算はできているとはいうものの、こんな性格ですからいつ翻意するか不明ではありますが……。いつか本ブログに終わる日が来ることも、それに備えて終活せねばならぬことも、否定できぬ事実ではありましょう。 最終日の作品は既に今世紀初頭に書きあがっており、それを当該日に初お披露目致します。流用という名の手抜きではなく、それが掉尾を飾るに相応しい〈別れの言葉〉に相応しいからであります。このような内容の詩を書く程に、..

  • 第3545日目 〈詩歌集は人生の友である。〉

    『恋愛名歌集』を読みながら、ふと或る疑問が脳裏をよぎりました。萩原朔太郎の詩集、まだ持っていたかな? 岩波文庫と新潮文庫の歌集、詩集は意識的に集めるようにしてかなりの数が集まっていたけれど、火事やら引越やら、スペース確保や換金目的やらで随分と手放してしまった。 或るとき、必要になって岩波文庫の中原中也詩集を捜したが、どこにも見当たらなかった。諦めて翌日、新刊書店で購入したてふ経験もあったので、中也と同じく学生時代に読んだ朔太郎詩集はどうだったけな、と不安になったのです。──結果? いや、それが無かったんですよ。『郷愁の詩人 与謝蕪村』と『猫町 他二篇』はあるのにね。 検めると結構な数を処分していた事実が、今更ながら発覚。詩歌集に限らず、かれらの随筆集や評論集のあることも。与謝野晶子の評論集や三好達治、斎藤茂吉の随筆集が、どこにもない。有るのに無いのではなく、無いものは無い、なので..

  • 第3544日目 〈慰めのカテキズム、『ハイデルベルク信仰問答』を読みました。〉

    『ハイデルベルク信仰問答』は良い本だ。非キリスト者であっても、しん、と胸打たれる瞬間が幾らもあるのだ。殊真夜中、人も草木も寝静まった一刻にこれを読んでいると、たまらなく切なくなり、異教徒ながらその〈慰め〉の恩恵にすがりたく思う。 『ハイデルベルク信仰問答』はカテキズムの代表的書物で、多くの言語に翻訳されて用いられている。キリスト教関係の書物では、聖書と『キリストにならう』に次いで読まれているのは、内容が優れていることの証しだろう。 「カテキズム」は「教理問答」と訳される。キリスト教の教理を平易な言葉で記した、信仰伝授の入門教育の書物を、今日では一般的に指す。 宗教改革の頃に成立したこの信仰問答だが、世に出て間もない頃から幾多の苦難に直面した。その度『ハイデルベルク信仰問答』が非難と策謀を退けてきたのは、これを護る側にもこの信仰問答自体にも強くて深い信仰が備わっており、慈しみと..

  • 第3543日目 〈萩原朔太郎の痛罵が心地よい1冊──『恋愛名歌集』を読んでいます。〉

    萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読んでいる。若き頃は短歌の実作を試みた、詩史に名を残す詩人が44歳のときに書き下ろしで発表した、万葉から新古今集までを対象に、書名通り恋歌を中心に据えてコメントを付し、また総論として歌風の変遷や特徴など簡潔明瞭に述べた1冊である。昭和6(1931)年05月、第一書房から刊行された。 朔太郎は冒頭「解題一般」で、巻末にまとめられる総論を読んでから、各集選歌のパートを読んでほしい、と読者に向けている。 素直なわたくしは作者のお願いに従い、昨日からそのようにしている。こちらも万葉集から新古今集まではみっちりと学び、独りし読書に励んで9つの歌集を1首の洩れもなく飛ばすことなく完読した者だ。ゆえに朔太郎が万葉集と八代集に対してどのような歌を選び、そのような評価を下しているか、とても興味深いのだが……、 ……興味深いのだが、実際に読んでみるとこれがまた手厳しく、..

  • 第3542日目 〈黄金の1ヶ月、来たる。〉

    もはや死に体の岸田内閣がかつて夢見た〈黄金の3年〉とは異なり、〈黄金の1ヶ月〉がわが身に訪れること、これは既に確定事項であり、実はもう始まっている。 いったんは着任したものの管理者不在を主たる理由として、正式赴任が1ヶ月先延ばしになったのだ。わたくしはこれを満喫する。購入した本の整理は当然として、家のこと、家族のこと、他諸々諸事雑事を、脇目も振らずに片附けてゆくつもりだ。時々バッテリー切れで半日ばかり糸が切れたように呆けて過ごす可能性は極めて濃厚なれど、そんな一刻がなくてはやっていられぬ。 着手したのは新聞記事のスクラップ。視界の外には未整理の新聞が山を成しているが、先の目処はついているので1週間もあればすっかり片附くはず。……はず、というのがミソで、悩ましい不安材料なのだけれど、まぁ、なんとかなるだろう(と思う。と思う、ってのもミソで以下略)。 現在は買いこんだクラシックや..

  • 第3541日目 〈必要な本(聖書)は、だいたい揃ったかなぁ、という話。〉

    まさに表題通りのお話でして。 折に触れて、その気になったとき、まァ1年に1冊程度ではありますが、現在日本語で読めて、通常に流通している各種聖書を購入してきました。そう、ポツリ、ポツリ、とね。 「塵も積もれば」なんとやらといいますが、今年の秋、これだけ揃えてあれば当座の用は為すだろう、というぐらいには聖書各訳を手許に置くことができました。これまで口語訳とバルバロ訳は架蔵していなかったけれど、昨日神田の本屋さんで購いまして、「うむ、だいたいこれでよろしかろう」と独り言ちているわけです。 とはいえ酔っ払って帰宅深更となり、いつも通りに出社しているので、訳文の吟味などできていないのですが、購入直前にパラパラ店先で目繰っていて、文章に生硬な箇所や不自然な日本語の混ざっていない、そうして全体的にやわらかな印象を、口語訳にもバルバロ訳にも抱いたことは報告しておきたく思います。ただやはり馴染..

  • 第3540日目 〈バルバロ訳トマス・ア・ケンピス『キリストにならう』を読みました。〉

    トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』は講談社学術文庫版で持っています。『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』が正式な書名で、訳者は呉茂一と永野藤夫(2019/12)。 岩波文庫にも『キリストにならいて』は収められて(大沢章・呉茂一訳 1960/05)、長く読み継がれていまも現役の書目ですが、活字の大きさと訳文の好み、今道友信の解説(序文)の密度、この3点を以て東京オアゾにある丸善丸の内本店にて講談社学術文庫版を購入したのです。 あれはもう3年程前でしょうか。田舎の墓仕舞いのことで親戚と陰湿なバトルを繰り広げて、心身共に疲弊しきっていた時分でしたから。セネカを買ったのも同じ時だったと記憶します。 ずっとそちらで読んできましたが、つい昨日(一昨日ですか)ぶらりと入ったブックオフでバルバロ訳『キリストにならう』を見附けて、三好達治と津野の文庫と一緒に買ってきた。酔いも..

  • 第3539日目 〈旧約聖書〈前夜〉、再始動の狼煙。〉

    けっして岩波書店刊旧約聖書・新約聖書註解書を購うた為のみではあるまいが、昨日(一昨日ですか)「エステル記」〈前夜〉の第一稿を書くことができた。先達ての文化の日に中途半端になった稿をベースにしたとはいえ、殆ど参考資料を手許に置くことなく集中して約2時間程でとりあえずの第一稿を纏めることができたのは、幸先の良い〈前夜〉執筆再起動の兆しと考えたい。 このあと推敲してお披露目できるレヴェルのものになったら、続けて「ヨブ記」「詩篇」にとりかかり、絵に描いた餅で終わるやも知れぬが今年中に柱となる部分だけでも書いておきたい。まァ、それに安心してまた1年近く執筆を放棄する可能性も皆無ではないけれど……なんというてもこの「エステル記」が、Pagesにメモを認めてから1年と数日越しに書かれていますからね。前例はある、それゆえに己を戒めつつ適度にゆるめつつ、〈前夜〉執筆を先に進めましょう、という次第。 ..

  • 第3538日目 〈年子の捉え方は色々だけれど。〉

    奥方様の希望には添わねばならぬ。2人目を作る、ということである。 年子になるとはいうけれど、長い目で見た場合メリットの方がデメリットを遙かに上回ると確認。出費が一度に重なることについてはパパ了承済み。体力的精神的にきついかもしれぬとは奥方様了承済み。授乳時期が重なる点については奥方様、重々承知の上のこと。 であれば、母のためにも、娘のためにも、頑張らねばならん。既にご懐妊している可能性、否定はできぬけれど。 赤ちゃん返りが少なくなるとか、姉が妹もしくは弟と一緒に遊ぶとか、そちらメリットについてわれらはウェイトを置く。幸いと幼稚園は目の前である。学年が一緒になる可能性は否定できないが、それはそれで良しと考える。何事もポジティヴに、自分に都合の良いように考えよう。 年子育児はデメリットよりもメリットに目を向ける。ネガティヴ思考はいっさい切り離す。世人が労苦と思うことを楽しみに..

  • 第3537日目 〈秋の古本狂詩曲[結語];本棚にすべての本を並べたい。〉

    シリーズが一段落して気が抜けてしまいました。それにしても、ぎょうさん買いこんだものや。自分、アホちゃうか。討ち死にじゃあっ! と内心叫んで理性を抑えこみ、散財した結果がいま、わたくしの前で新たなる山脈を築く。 奥方様が、あなたの部屋にはいるのイヤだ、と可愛らしくお冠なのも頷ける。正直なところを告白すれば、獣道を歩くのはわたくしも怖いのだ。縫うようにして歩く、ってこういうことをいうんだろうな。 が、わたくしはまるで後悔していない。先日購うた本の雑誌編集部『絶景本棚』正続(2018/02,2020/08 更なる続刊予定もあるだろう)を覗いてみると、部屋のなかに本棚が何棹も林立して、その間に、人の身長よりも高いかほぼ変わらぬぐらいに山積みとなった本の山が奥から手前まで幾つも幾つも列なり、ピサの斜塔よろしく傾斜している写真がページをどれだけ目繰っても続くのだ。咨、これに較べればわたくしの..

  • 第3536日目2/2 〈週一更新の件、最新報。〉

    まるでどこかの国の政権与党、内閣のようで申し訳ないのですが、本日午前02時に更新した「第3536日目 〈家族と過ごすために、自分のために、しばらく週一更新に変更します。〉」での発言を一時的に撤回致します。 というのもやや状況が変わり、あと何日かはこれまで通りの毎日定時更新を続けられる見込みが立ったからです。明日午前02時からお披露目の第3537日目からいったい、あと何日更新をこれまで通り続けてゆけるか、わかりません。 しかし、こうして良くも悪くも前言を一時撤回し、先延ばしにすることができました。遅かれ早かれ週一更新に切り替わるのは決定事項なので、「一時撤回、先延ばし」というのです。 まだしばらくの間、どうぞ宜しくお願い致します。◆

  • 第3536日目 〈家族と過ごすために、自分のために、しばらく週一更新に変更します。〉

    標題通りのお知らせになります。 当面本ブログは毎週火曜日、午前02時更新に変更します。 アクセス数を中心とする過去3ヶ月の推移を検討、熟慮の結果、毎日定時更新ではなく週一ペースで更新することに変更しても支障なし、と判断致しました。 家族と過ごす時間を大切にし、自分自身を守ることを優先するために、必要な判断になります。もう時間は余り残されていないのだ。 みくらさんさんかを直接知る人にも間接的に知る人にも、まるで知らぬという人にも、何卒ご寛恕願いたく存じます。 それでは失礼致します。◆

  • 第3535日目 〈秋の古本狂詩曲[総括篇];告白療法の実施と、理解ある配偶者を持つということ。〉

    熟慮と衝動が渾然としたわが秋の古本祭りは、ここにつつがなく終了する。注文した本は概ね届き、すべて開梱されて部屋へ運ばれ、廊下の一隅に積まれた。これをどう読み、どう仕舞うか、いよいよ現実的に考えねばならなくなった時期の訪れである。仕事がなければこのまま年末年始まで、読書三昧の日々を送れるのに。 さて、〈秋の古本狂詩曲〉と戯れに題した本シリーズも、本編5編、番外編1編、総括編1編を以て本日完結する。今回の総括編は、いやあまり期待しないでくれ、ただの購入した本のリストに過ぎぬわけだから。しかも、これまで話題にした古本は省くのだから(無理でした)。 顧みればそれは今年の夏、「日本の古書店」で徳富蘇峰『近世日本国民史』全巻揃いを見附けたことから始まった。本編全100巻を指して「全巻揃い」というのではない。時事通信社から戦後に復刊、刊行された『近世日本国民史』は第100巻で完結後、平泉の手に..

  • 第3534日目 〈秋の古本狂詩曲[番外編];『奢灞都館 刊行全書籍目録』をお奨めします。〉

    『奢灞都館 刊行全書籍目録 コンプリート・コレクション』(エディション・イレーヌ 2022/10)と題された、夢のような本が届いた。1972年に初めて世に出た奢灞都館の刊行物、ジョルジュ・バタイユ『死者』に始まって、最後の刊行物となる2003年07月のアルフォンス・イノウエ銅版画集『ベル・フィーユ』まで全122点(同一書目の限定版・特装版などを含む)を、その過半に書影を付けて1巻の書とした、まこと珍重・握玩に値する目録である。 ページを開くとゆったりとした版面に、美麗な書影が数点ずつ載る。わたくしはこれまで生きてきて、斯くもうっとりとした気分にさせられる書籍目録にお目にかかったことは、久しくない。しかもここに載るすべてが1人の人物の所蔵になるというのだから、羨ましく思うやら妬ましく思うやら、複雑な心境である。 というのも、まだ生田先生ご存命の頃に奢灞都館の出版物に触れてその造本の..

  • 第3533日目 〈秋の古本狂詩曲[終];『丸山薫詩集』の入手、そうして更なる──。〉

    0 今日もやっぱり長くなる。 長いものはアクセス数が劇的に落ちる傾向あるこの4カ月であるが、どうやら読者層の変化が7月中旬から生じていると思しい。が、アクセス数稼ぎでエッセイなど書いたり、ブログを続けているわけではないから、そんな現実には目もくれずにこれからも、書きたいことを、書きたいように書いてゆくことにした。 今日もやっぱり長くなる。読む人も減少する。そんなことは気にしない。定家卿の言葉である。「世上乱逆追悼耳に満と雖も之を注さず。紅旗征絨は吾が事に非ず」 1 5回目の今日で「秋の古本狂詩曲」は終わりにする”つもり”。神田古本まつりの開催にあわせて購入ボタンをクリックしまくって注文した古本が、2冊を除いて概ね手元に届いたからである。 ならば書くべきはむしろこれからではないか、と思うが、明日からチトそうもゆかなくなるのでね、終わりと銘打ってみたのだ。S1最終エピ..

  • 第3532日目 〈秋の古本狂詩曲;素敵な活字中毒者たちによる、素敵な読書への讃歌。〉

    昨日の『折口信夫対話』と同じように、古書店の通販目録を眺めているとなつかしい本を見附けると、矢も楯もたまらず注文を出してしまう。特に珍しい本ではない。大量生産の文庫本だ。古書店とて見向きもしないような類の。でも〈なつかしさ〉とは却ってそうした本の方に多いように思う。 一昨日の昼に届いた椎名誠選・日本ペンクラブ編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983/09)はまさにそんな〈なつかしい〉文庫なのだった。 文筆に携わる諸家による、書物に関する随筆、回想、評論、小説が全21編。収録作家でいちばん古いのは内田魯庵、他は夢野久作や植草甚一などわずかを除いて山口瞳や井上ひさし、開高健など出版当時の現役作家が並ぶ。アクの強い演技、文体で知られる殿山泰司のエッセイもある。 わたくしがこの文庫を初めて手にした高校生時分は、『素敵な活字中毒者』のような読書にまつわる文章を集めたアンソロジーが幾..

  • 第3531日目 〈秋の古本狂詩曲;池田彌三郎他『折口信夫対話』の旧蔵者を妄想して。〉

    〈狂詩曲〉は続く。お楽しみは、終わらない。 ぼんやりと古書店のサイトを眺めていたら、なつかしい本を見附けた。学生時代とそれに続く数年間、憑かれたように購い、読み、時に然るべき人物に会って種々聞き取りした、折口信夫の本である。書題を『折口信夫対話』全3冊という。角川選書、1975年01月及び1978年08月刊。 たしか端本で持っていたと思うが、捜してみてもどこにもない。折口信夫や折口学の本はただの1冊も手放したことはないのに、どうして架蔵するうちにはないのだろう。端本ということもあって、やっぱり処分したのかなあ。だとすると、あのころわたくしが持っていた(と記憶する)端本は、その後どんなルートを辿って、どんな人がいま所蔵しているのかな。資源ゴミとして廃棄された、という想像はしないこととする。 話が遠回りしたけれど、古書店のサイトで見附けた『折口信夫対話』全3冊は刹那の躊躇いもなく..

  • 第3530日目 〈秋の古本狂詩曲;岩波書店版『旧約聖書』と『新約聖書』を使って。〉

    あまり状態に期待していない東京都下の古本屋から、岩波書店版『旧約聖書』『新約聖書』全巻揃を売りに出していると知ったのは、蝉の鳴き声に悩まされて不眠症になりかけていた頃だ。 なかなか決心がつかなかった。買ってもどこに置くんだ? 最早自宅内にそれだけのスペースを捻出できる余裕はない。書庫としてアパートの1室を借りるなりマンションの1室を買うなりするにしても、自宅周辺に空室・売住戸はなく。 何だ彼だで2カ月が過ぎた。世は読書週間に突入した。神田古本祭りも開催された。誰も買う様子はない。が、油断はできない。明日買うつもりの古本が翌る日には売れてしまっていた、なんて経験、webサイトでも実店舗でも何度となく経験してきた。──この値段で旧新約聖書註解書が全冊揃で出る、なんてこの先、果たして有りや無しや。 結論を述べれば、わたくしは遂に耐えられなくなり、購入ボタンをクリックして、支払い手続..

  • 第3529日目 〈秋の古本狂詩曲;徳富蘇峰『近世日本国民史』が届いた。〉

    スターバックスでコーヒーを飲みながら考えるのは、一昨日昨日と到着した古本のことである。 奥方様から、本に関してはお小遣いの縛りから解放する旨あらかじめ宣告されているとはいえ、それでも調子に乗ることなく慎ましく、慎ましく、爪先に火を灯すように買うていたのだが、咨、今年の秋は無理だった! 春先から目を着けていたものがどんどん売れてゆくのを目の当たりにして、本命が誰かにかっさらわれる恐怖に焦りを感じて、遂に先月末の夜中、ポチリ、ポチリ、ポチリしてしまったのである──いつかわが手に買われるべき書物たちだったのだ、わたくしはたまたま此度それらをお迎えするに過ぎぬ、と心のなかで言い訳しながら。 その結果が、一昨日昨日と五月雨式に到着した古本たちなのである。計126冊。内訳;山田朝一『荷風書誌』、池田彌三郎・岡野弘彦・加藤守雄・角川源義編『折口信夫対話』全3巻、旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書』全..

  • 第3528日目 〈生ける屍、休みを宣言する。〉

    二日酔いである。しゃっくりも出ている。そんな訳だから、今日はお休みをいただこうと思っている。どこまで読者諸兄に甘えるか、と叱責のお声が遠くから聞こえてくる。が、いまは本当に、苦しいのである。なにをするにも気力が追いつかず、病院への往復にもふらふら歩いて駅まで行き、電車のなかでは生ける屍のように、ぼうっ、としていた。 なので今日は大事を取って、なんにも書かないでお休みしようというのである。本当は昨日に続いて旧約聖書のことでも書こうかと企んでいたのだが、ちょっと無理らしい。 そういえば旧約聖書といえば、わたくしは、ようやっと岩波書店から出ていた旧新約聖書の註解書全20巻を手に入れることができた。勿論古本である。今日、届いた。起きていてもなにをする気にもなれないから、仕方ない、今日は古本の点検に勤しもう。そうして漫然と、状態確認を兼ねて中身に目を通すこととする。 休むといいつつ、こ..

  • 第3527日目 〈「ヨブ記」再読へ向けて。〉

    思いつくことがなにもないので、聖書を開いて、目に留まった一節から話を展開させてみようと思う。上手くいったら喝采の程を。滑ったりしたならば……読者諸兄の優しさに甘えたい。 伴侶のように常にそばにあった新共同訳聖書を、適当なところで開いたら、「ヨブ記」第36章であった。引用する節に下線が引かれている。曰く、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない」と。第19節である。前後関係がわからずとも、この文言の意味するところは薄々わかる。 わたくしは、これを、「苦労するなかで得た様々な経験や知恵、教訓は、苦労したからこそ人生に役立てられるものとなり、苦労なくして歳月を過ごしてきた人の経験や知恵、教訓は、その前では塵芥に等しい」と解釈した。塵芥に等しい、とは言葉が過ぎようか。ならば、こういい換えよう、「同じ出来事を体験していても、そこから得られる様々な知恵や教訓..

  • 第3526日目 〈父が娘に願うこと。〉

    あなたには、ひとたび結ばれた人との縁を大切にしてほしい、と願います。 関わり合った人すべてと交友関係を結び、維持しなさい、というのではありません。人間関係の見直しと整理というのは、大人になるにつれて必要になりますから。 父が望むのは、大切な人との縁を自ら失うような軽挙は避けてほしい、そのためにも芯の部分で正直に、誠実であったほしい、ということです。 あなたが成長してゆく途中で、このことをいつか話そう。◆ 青々たる春の柳、家園に種ることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹に耐めや。軽薄の人は交りやすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染れども、軽薄の人は絶て訪ふ日なし。 上田秋成『雨月物語』「菊花の約」より 赦されることの少ない者は、愛することも少ない。 「ルカによる福音書」第7章第47節 愛は忍耐強い。愛は情け深い。..

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