chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
みくら さんさんか
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2010/08/09

  • 第3609日目 〈〈喪のプロセス〉に異常を来さぬように──清水加奈子『死別後シンドローム』を読みました。〉

    正直なところをいえば、またこうしてブログを書く日が、ううん、ちがうな、文章を書けるようになる日が自分に訪れるとは、思いもしなかった。こんな日が来た、そんな気になった、と云うことは、すこしは自分のなかで悲しみが癒えて、日常に立ち帰る準備が出来てきた、ということかしらん。──その一助となっているに相違ない、一冊の本がある。 ちかごろ寝しなに、精神を安定させるためという目的あって、清水加奈子『死別後シンドローム』(2020/08 時事通信社)を読んでいます。大切な人をなくして残された人たちが如何にして喪のプロセスを経験してゆくか、それがどのように終わるのか、著者が治療現場で経験したケースも紹介しながら解説した良書。母が亡くなる2ヶ月くらい前かな、その頃に買って、全然読めずに(手を伸ばすことが出来ずに)その日まで机上にあった本でした。 人の死は悲しい出来事で、それが親しい人、大切な人、で..

  • 第3608日目 〈想像力は、悲しみに暮れる人を支える「杖」。〉

    想像力には人間を治癒させる力がある。 想像力には人間を守る力がある。 想像力には人間を回復させる力がある。 ──そう思うのであります。 絶望の淵を覗きこんだような時でも、悲しみのどん底に叩きこまれた時でも、辛い現実に打ちひしがれた時でも、想像力はその人の、これからの未来に福音をもたらす。まだ朧ながら、まだ形を成さぬながら、そんな風なことを考え、信じられるようになったのです。 時に禍々しい、福音を引き裂くような悪の色に塗られた想像力が、その人のすぐ隣りに立って、その人が誤った方向へ足を踏み出すのを待ち構えるような場合だって、あるかもしれない。 しかし、だからというて健全な想像力──人間を治癒し、守り、回復させる、福音としての想像力がその場から消え去っているわけではありません。それはかならず、人を悪に誘いこむ想像力のすぐ隣りに立っている。その人の心のなかに灯火が焚かれ..

  • 第3607日目 〈自分の回復のために、原稿を差し替えます。〉

    謹んで読者諸兄にお知らせ申しあげます。今月1日と4日にお披露目した記事は、02月07日午前2時を以て公開停止と致します。 従前より準備していた本来の原稿を差し置いて、公開中の第3607日目〈願い。〉、第3608日目〈どこに?〉をその場で書きつけ、ままお披露目しました。いずれもその時、その瞬間の想いの吐露ではありましたが、立ち直りや回復を遅延させ、遷延性悲嘆症の長引きを誘発する恐れを孕んでおりますゆえ、上の如き判断を下す次第です。 既に書きあげている、本来の第3607日目と第3608日目に関しては、今週後半あたりからそれぞれお披露目するつもり(2日続けて、にはならないと思います)。◆ 追記 後日のお披露目原稿で正式な告知となりますが、今後は毎日定時更新の原則にとらわれることなくブログ更新を続けてゆきたい、と考えております。□

  • 第3608日目 〈どこに?〉

    分かち合いたい。一緒に荷を背負い、共に歩いてゆける人。 愛し合いたい。片隅で、小さくともあたたかい灯し火を囲んでくれる人。 その人は、どこにいる?◆

  • 第3607日目 〈願い。〉

    菜緒。 この世に何の幸があるのか。滝口入道になりたい。

  • 第3606日目 〈みな去りしいま、最後に逢いたい人。〉【改】

    未だ現実を現実と見定めるのに抵抗を感じます。あれからもう2週間が経とうとし、現実的な事柄にも手を着け始めているのにね。 ……平日はやることが山積で(=To Doリストが満載で)、それをこなしてゆけばあっという間に1日が過ぎて疲労でバタンキュー、となれるのですが、日曜日は考える時間がありすぎて、気持や思考がどんどん闇へ落ちこんでゆくのがよくわかる。もうホント、自分の精神状態が危険水域に達しているのを実感していますよ。 昨日の日曜日も午後から、夕食の仕度にむりやり取り掛かるまでの数時間、電気も点けない家のなかで独りしじっと、外がだんだん暗くなって庭の電気がぼんやりとカーテンの向こうに灯る様を横目にしながら、過去の自分の行いを悔いて天罰というものや悪行の報いというものに思いを致したり、みなは天国にいるけれど自分はどう考えても地獄行きだな、とか、どうやったら死ねるかなぁ、この時期なら凍死..

  • 第3605日目 〈母が逝去しました。〉

    昨日朝、最愛の母が逝去致しました。体調苦しくて辛いなか、頑張って生きました。 本ブログ読者のなかに母を直接知る方はありませんが、わずかながら私を直接知る方へご連絡させていただきます。 もうブログの更新はできそうにないです。◆ 2023-01-19 03:24:58(ブログ直接入力)2023年01月21日 22時53分(上記文字色ダークにしてPCでは死人極めて困難を知り、訂正)

  • 第3604日目 〈しばらくお休みのおしらせ。with夏の不在で心が折れそう。〉

    しばらく休みます。 天罰だ。報いが来たのだ。 夏、俺の嘘がお前を辞めさせてしまったのか。 いまはあなたがいないことが、本当に淋しい。 いま程あなたを必要とする時、事はなかった。 全てを話して悔い、家族の事を話したいのだ。◆

  • 第3603日目 〈こんな夢を見た(その12):雨の午前、春の夕暮れ。〉

    会いたい人、会いたくない人が多々登場した夢であった。 第一景 或る雨の午前。会社のレセプションが、28階ホールで行われた。ホールで行う程度のレセプションである。その内容、その規模、推して知るべし。 そのなかにかつて世話になり、わたくしが裏切ったことになっているUがいた。正対する位置にいる。めざとくこちらを見附けたUは、傍らのMの耳許に口を寄せ、囁いた。2人の向ける眼差し、そこに現れたるは広義の悪意である。 レセプションが終えて散会となった途端、何の意図あり何の云うことあるか不明ながらUとMはこちらへやって来る。床は、かれらが一歩足を運んで着地する毎に沈んで足跡を残す。人垣から失笑が洩れる。が、かれらは床が沈んで自分たちの足跡が残ってゆくのも、周囲から洩れ来る小さな笑いも、気が付かぬ様子だ。かれらはあと数歩のところまで来た。 そのとき、ビルは雲に呑みこまれ、細長い影..

  • 第3602日目 〈この世で一番大切なもの。〉

    椎名へきるのシングル曲にこんなタイトルがありました。この世でいちばん大切なもの──それは人によってまちまちでしょう。 わたくし? 家族です。家族に次いで大切なのは、思い出と記録です。これがあれば、幸せな時代へ帰ることができる。これらがある限り、わたくしのなかで思い出は死なない、そこで息づく大切な人たちの記憶も消えない。本当の〈死〉は、誰の記憶からも思い出からも、その人の声や姿、行いが消滅し去ったとき訪れるのではないでしょうか。わたくしは、誰のことも忘れない。 現実逃避とはじゅうぶん自覚しているので、悪意ある者らの茶々呵呵誹謗は通用しない。しかし、覚えておくといい。人は現実逃避によって自己を治癒して回復し、ふたたび世界へ出てゆくようにできているのです。◆

  • 第3601日目 〈朔太郎『恋愛名歌集』メモ書き写し終了に伴い浮上した懸念。〉

    存外とあっさり萩原朔太郎『恋愛名歌集』メモの書き写しが終わった。1月5日から14日まで、その過半を自宅リフォーム工事立会の要あり在宅して過ごし。為にこそ毎日1章ずつ、機械的に書き写せたのだろうけれど。 ついさっき(30分程前)、「新古今集」選歌の章を終えた。書写了んぬと雖も心残り有り。「万葉集」、「古今集」、六代集、「新古今集」選歌の各章は朔太郎が『万葉集』と八代集から選んだ短歌と、朔太郎の評語で構成される。斜線を引いたのはわたくしが感銘を受けたり共鳴したりした歌である。幾首かはメモに引いたがそれ以外の歌……引用した何倍になるか……を、さてどうするか。心残りとは即ち是である。 既にメモは羞恥心を克服して本ブログにてお披露目を決めているが、斜線を引いた歌をそれに続けて載せるは是なるや非なるや。……たぶんコレ、1日じゃあ終わらんと思うんだよな。ゆえの迷い、である。ざっと80首近くの斜..

  • 第3600日目 〈念頭に置く読者、について。〉

    「読者の存在を忘れるな」、「読者を意識して書け」……まァ、よく聞かされる話です。「読者のことを考えないで書かれた文章は、絶対に読まれない」……いやいや、耳の痛い話です。 物を書いてお金をもらう。これがプロの物書きの定義ならばわたくしも、長いことプロとして食ってきたことになる。専業でいた時期もあれば、副業で続けてきた時期もある。ああ、後者の方がずっと長いか。 そんなわたくしの問題点は、あまり読者を意識していないこと。これに尽きる。 よく四半世紀以上も物書きでいられた。仕事をくれる編集者には本当に感謝しきり。とはいえ、毎回毎回、読者を意識せずなわけでは無い。そんなことしてたら疾うのむかしに廃業、もしくは失業していますよ。呵呵。 無報酬の本ブログに於いても、(正直なところ)あまり読者は意識していない。いいたいことをいい、書きたいことを書いているだけである。公開された日記、という..

  • 第3599日目 〈弘文荘と森銑三、弘文荘と池田亀鑑。確認のための読書。〉

    きのう森銑三の本のことを書いていたら、反町茂雄の著作の内容がなんども脳裏を過ぎった。戦後、森と偶会して弘文荘で働いてもらうようになった経緯のことである。と同時に、かつてリブロポートから出ていた『森銑三 書を読む”野武士”』(柳田守 1994/10)へ抱いた不満を思い出した。戦後の森の活動についてかなりあっさりと触れたのみで、弘文荘での働き、その内実については一言も触れていなかった(と記憶する)ためだ。 あわせて、池田亀鑑の蒐書の徹底ぶりや桃園文庫の行方、戦前九条家蔵書売り立ての頃の池田の台詞など、やはり反町の著作にあったのをもう一度確認したくて、リフォーム工事の進捗する音を扉の向こうに聞きながら、『定本 天理図書館の善本稀書』と『一古書肆の思い出』第4巻を部屋から持ってきて読んだ。 この件については後日、あらためてお話しするとして、今日はもうお休みさせていただく。眠くて眠くてたま..

  • 第3598日目 〈森銑三『落葉籠』を読んでいます。〉

    中公文庫から出た森銑三の『落葉籠』上下2冊揃を見附けて、矢も楯もたまらず買いこんで連休の朝から読んでいる。まとまった時間を用いての読書というよりは、生活の諸事の合間にできた時間を使って、少しずつ読んでゆくのが良い書物。実際、炊事掃除洗濯の間に読んでいる。 かつて『日本古書通信』に連載された随筆を著作集を底本にして、2009年5-6月に文庫化された。文芸史的には無名の作者たちが遺した作物から逸話を紹介するのみならず、書物に残された誤謬を正したり見向きもされない書物の紹介が専らで──要するにいつもの森銑三の作物なのだ。 文庫裏表紙の惹句に云う、「中世から明治期にいたるまでの膨大な古書から、落葉を集めるかのごとく無造作に書きとめられた逸話、蓄積の数々」(上)、「市井の古書研究者として名高い森銑三が、有名・無名を問わず人物、書物に関する該博な知識を披瀝していく」(下)、と。 まるで関..

  • 第3597日目 〈かわらぬ日々。〉

    読み進めねばならぬ本がある。が、そんな本に限ってなぜかいっこうに読書ははかどらない。 確定申告の準備を進めている。が、Windows端末を立ちあげる気分にはどうしてかならない。 かわりばえのない日々である。が、そんな日々のなかでも赤ちゃんはどんどん成長してゆく。 かわりばえのない日々である。が、そんな日々の続くのがいちばんの幸せと噛みしめている。 かわりばえのない日々である。そんな日々がずっと続きますようにと氏神様に祈っている。◆

  • 第3596日目 〈三好達治の、あの本が欲しい。〉

    三好達治は気になる詩人の1人である。野呂邦暢の小説に刷りこまれたためか、労働者のための詩人という影を払拭できずにいるせいもあるけれど。 『測量船』をほるぷ出版の復刻版で持っているだけで気持の上ではじゅうぶん幸せだ。丸山薫の解説目当てで買った旺文社文庫版と、いまでも流通する新潮文庫版の他は特に望む詩集もない。全詩集とか愛蔵版とか、ましてや全集を欲す程でもないですしね。 強いて挙げれば白凰社から出ていた「青春の詩集」シリーズの三好達治集、か。収録される詩は重複ばかりかもしれないけれど、こちらは高校生のときボードレールとゲーテの詩集を買ったことで詩への扉を開いてくれた、いわば恩あるシリーズゆえに愛着深く、ここに収まる詩集があるなら購入したい、という一種のノスタルジーに起因している。 ただ、三好達治の本では1冊だけ、『詩を読む人のために』が欲しい。現行の岩波文庫版ではなく、昭和27(..

  • 第3595日目 〈Twitterを離れて。〉

    イーロン・マスク氏の買収以後、Twitterは様々な問題を外へ露呈してきました。そんな報道を見るたび半ば真剣に、そろそろTwitterから完全撤退を検討しても良いかなぁ、と考えます。失うものを思えばあり得ぬ選択肢かもしれないけれど、そう思うことあっても仕方ないのがマスク氏買収以後のTwitterを利用する一個人の現実であります。 とはいえ、完全撤退ではないながらも以前よりは利用を控えてきたのは事実であります。⎯⎯考えてみれこれまでの、Twitterの主たる利用はブログの更新通知であった。その他は、読了ツイートと後日すぐに削除するような文字通りの「つぶやき」が精々で(リツイート等は除く)。 そのブログ更新通知をTwitterでしなくなって1ヶ月程になる。何年も(SSブログ新規作成ページでデフォルト選択されている)Twitter通知してきたので突然それを止めたらアクセス数がどうなるか..

  • 第3594日目 〈あの女性は覚えているだろうか?〉

    粛々と『恋愛名歌集』メモの書き写しを行っていますが、まだまだ序盤。先は遠い……。 斯様に「書写」という作業をしてると、自分の文章ではなくテキストを横に置いてその文章を書き写していると、あの人はどんな気持で書き写していたんだろう、途中でめげたりしなかったのかしら、最後まで書き写すことができたのであろうか、と思い起こすこと、しばしばである。──あの人? どこの誰かも覚えていない。そも面識のない人だ。雑誌の投書欄でしか知らない人である。 1990年代、一旦休刊(か?)して復活した”本の情報誌”で『オーパス』という雑誌があった。新刊情報は勿論、著者インタビューや書評欄、その他読書、書籍にまつわる話題をライトな文章で埋めていた雑誌である。橋本治と清水ミチコが文豪のコスプレをして表紙を飾る、いま考えてみても、うむむ、と唸らざるを得ないカオス的な雑誌だった(そんなことを朧ろ気に覚えている)。 ..

  • 第3593日目 〈予定とは破綻するためにあるのか?〉

    昨年読み終えた萩原朔太郎『恋愛名歌集』、感想文は書かないよ、と決めていました。が、モレスキンに認めた各章メモをノートへ書き写しているうち、ちょっとだけ考えが変わったのです。 感想文を書いたら長くなってしまいそう。ならば、このメモをお披露目すれば良いんじゃね? そんなことを企んだ。メモとは名ばかりで書きながら、心のどこかでブログに載せて読まれることを想定している自分がいる。 書き写しを始めたのは一昨日から。終わるまであと……最低8日。難儀する箇所ありと雖も、10日後には書き写しを終わらせたい。今月後半から分載できれば万歳三唱したいものです。 蘇峰のメモ、朔太郎のメモ書写、ブログ用エッセイの執筆。並行して、読書(と家庭内諸事と仕事)。──あれ、わたくしはこれだけのことを毎日そつなくこなしてゆける性格の主であったかな? 咨、早くも破綻の予感……。◆

  • 第3592日目 〈 「昨年読んだ本のベスト……」を考える気持になった。〉

    正月の喧噪も落ち着いてきたが、わたくしは昨年とまるで変わらずである。ぼんやりと日を過ごしていたら、いつの間にか年が改まっていた、という感じ。 若い頃はこうじゃあなかった。年が暮れる、年が改まる、ということに頗る敏感で、相応の行動をしていた、大掃除をしたり、おせち料理の支度をしたり年賀状を書いたりね。勿論、コミケに行って同人誌を買い漁ったりもした。 ところが近頃は、そうしたあれこれからはすっかり御無沙汰である。単に腰が重くなっただけ、無精を決めこんだだけかもしれないけれど。まぁ、過日の話ではないが、「今日は昨日の続きでしかない」てふ考えに比重が置かれるようになっただけかもしれない。いずれにせよ……、なのである。 斯様なことはありと雖も本を読むことだけは、どんな日だろうと失われることのない習慣だ。いったいいつ読み終えるんやろか、なる答えの出ない質問が頭を過ぎる本もあるが(就中寝る..

  • 第3591日目 〈【再掲】これから書いておきたい聖書・ユダヤ教・キリスト教関係のエッセイ。【一部加筆等あり】〉

    正月の喧噪も落ち着いてきました。昨年にあった諸々の整理も、確定申告関係と1つのことを除けば概ね終わりました。そろそろ、かねてから検討していた古典と聖書にまつわる種々のエッセイの筆を執る時が来たかな、と思うております。 そこで今日は、第3230日目1/2でお披露目した、聖書やユダヤ教/キリスト教で今後書いておきたい(書いてみたい)エッセイの企みを、少しく手を加えた上で再掲することに致しました。別稿間に合わざるがゆえではありますが、どうかご寛恕願いたく思います(今後、聖書〈前夜〉で同じく再掲も多くなりましょうし)。 その企み、すなわち、── 静かな年末年始の時間の流れるなか、久しぶりに聖書を耽読した。すると、書いてみたい聖書・ユダヤ教・キリスト教関係のエッセイのネタが、幾つも浮かんできた。 ──と思うて過去のエッセイを検めてみたら、まるで変わるところがないのには吃驚仰天。..

  • 第3590日目 〈分かち合う、ということ。分福、ということ。〉

    今年も箱根駅伝、往路と復路の沿道観衆に映りこんで良い気分でいたら、その夜、階段の踊り場で壁に激突して眼鏡を壊したみくらさんさんかです。Oh,good grief……. 随分と盛大な音がしたそうで、寝ていた家族が起き出し、ぐっすり眠っていた娘も途端に大泣きし始めた程。 いやぁ、元日からなにをやっているんだっていうね……今年は気をつけなくっちゃ。 さて、気を取り直して今日のお話だが、…… ○ 寝る前に読んでいる本からの一節です。曰く、── マザー・テレサは、インドの街の貧しい民衆の中でわずかなお米をいただいて、うれしかったので貧しいヒンズー教徒の母親にそれを半分分け与えた。するとその女性も喜んだが、またその半分をイスラム教徒の貧しい母親に分けに行ったのです。その時マザーは「ここに神の国がある」と言いました。キリスト教教育の目標、イエス・キリストの福音の目的が、こ..

  • 第3589日目 〈片柳弘史『何を信じて生きるのか』を読みました。〉

    キリスト者には勿論であるが、非キリスト者にこそ手にしてほしい、読んでほしい1冊。「キリスト教がどうのというのではなく、もっと普遍的な所で、「生きる」事の意義を見出せる導きの1冊。そうわたくしは読んだ」、Twitterの読了ツイートのほぼ全文である。 著者は山口県宇部市にあるカトリック教会の神父。幼稚園の先生や刑務所の教誨師も務める。大学在学中に家族の不幸に遭ったことがきっかけで洗礼を受け、インドのコルカタでボランティア活動中にマザー・テレサから神父になるよう助言された人である。 全4章から成る本書は、神父と、Twitterをきっかけに教会へ通い始めた学生の対話で構成される。それぞれに核となる部分を、敢えてわたくしが摘出すれば以下のようになる。つまり、── 「一、自分を信じる」の核は、秀でた能力を持ったり、良いものをたくさん持っている人間だから愛される価値があるのではなく、かり..

  • 第3588日目 〈きょう読んだ怪談3冊。〉

    年末年始の読書が久しぶりに小説中心となったのは、脳味噌がふやけて蕩けた結果でありましょう。そんな頭を抱えて読むにノンフィクションや教養書の類は、どうも相応しくない。この時期くらい絵空事の物語に耽溺したいですよ。それが実話を元にした作物であったとしてもね。 娘が遊び疲れて寝てしまったら、その傍らで炬燵に入って本を読む。母も、奥方様も、それぞれのことで忙しい。呼ばれぬ限りは炬燵に潜りこんでミカンかどら焼きを食べながら、部屋から運んできた文庫の小説を読む。──時間がゆったりと流れてゆくのを感じながら、不安や恐れは心の片隅に、この間だけでも追いやって、いま生きてあることの幸福を噛みしめながら。 小説を読んでいるとはいえ、天板に積みあげたのは「なんだかなぁ」と呟きたくなるジャンルばかり。皆々、怪談、なのです。橘外男『蒲団』、赤川次郎『幽霊の径』、M.D.クック『図書室の怪』……どれもい..

  • 第3587日目 〈元日から気を取り直して本稿を書くこと。〉

    大過なく令和4年を迎えられました。去年に感謝、今年に幸を。 正直に申せば、今日の日のための原稿をまったく準備していなかった。うっかりさんもここまで来たら、呆れると云うより讃仰の域に近附いた、と申すべきか。 気を取り直そう。書こう。然れど、極めて短く……。 蘇峰「赤穂義士篇」のメモを取りながら、必要あったり無かったりの用にかこつけて、他の史書やら小説に目を通していた。すると、ふと思うたのです。 単に「そう思うた」だけで逐一検証等はしていないけれど、ふと思うてしまうたのです──三島由紀夫の「憂国」って、構造は紛うことなき『忠臣蔵』だよな、と。 この前「憂国」を読み返したとき、ちらちら脳裏を過ぎっては霧消したデジャ・ヴに似た感覚は、たぶんこのことに起因するのではないか。 でも確か、三島は『忠臣蔵』を批判した文章を書いていたような覚えがあるけれど……これも検証と..

  • 第3586日目 〈今日は昨日の続き、明日は今日の続き。その影に埋もれる無くなりつつある生活の古典について。〉

    年齢を重ねると、新しい年を迎える、もう今年も今日で終わりだ、という実感は薄れてゆく。今日は昨日の続きであり、明日は今日の続きである。 若い頃はそんな風には思いませんでした。12月31日は12月30日の翌日という意味しか持たず、01月01日は12月31日の翌日でしかない。ただ年が改まるから……今年から来年へ、去年から今年へ……、なんとなく区切りになっているだけのこと。とはいえ、地元の神社に参詣して、おせちを食べて、年賀状を見て、等々正月にやるべきことは当然やりますけれどね。 子供時代のように祖父母の家に親戚一同が集まることがあれば、大晦日やお正月の意識も多少はされて胸も弾むのだろうけれど、そんな年来の習慣を継続できている<家>が果たしてどれだけあるのでしょう。晦日──30日に仏壇から位牌や写真をおろして綺麗にし、神棚をおろして神宮や氏神のお札を新しくして注連縄をさげて、台所の竈神の..

  • 第3585日目 〈近世怪談、試訳。〉

    摂州大阪に、富裕で知られる男があった。妻ある身でありながら別の女を深く想い、体を重ねること幾度もあったので、女が子を宿すのは当然の帰結といえた。 それを知って黙っていられぬのが、男の妻だ。夫が家を空けた時、妻はかねてからの計略を実行に移した。不倫相手を呼び寄せて、狭い部屋に押しこめたのである。然る後、下僕数人を使って不倫相手の大きくなった腹に真っ赤になって湯気を立てる焼き鏝をあてて、肉をただれさせ、肉を溶かし、腸が見える程になった。不倫相手はもはや虫の息である。そんな不倫相手を母親のところへ返すため、男の妻は駕籠を呼んで追い返した。実家に到着して駕籠を降りると不倫相手はそのまま息絶えた。 母親は嘆いた。大いに嘆いた。自分でもそれとわからぬまま遠近を彷徨い歩き、諸々の神社に詣で、喚き泣き叫んだ。物の怪が憑いたかのようにあちこち飛び跳ね回った。そうして、「わが子の仇を取ってください」..

  • 第3584日目 〈時間をかけてじっくり取り組みたい本、蘇峰の次はカレルを。〉

    時間をかけてじっくり取り組むに足る本、というのはあると思う。読み急ぐことなく腰を据えて一行一節、一言一句を読み落とすことなく、不明点があれば労を惜しまず文献を繙いて、自分を高めつつ怯むことなく対峙する本──そんな本は必ず、ある。読書人であれば、そうした本を必ず持っている。 いまは御多分に洩れず蘇峰『近世日本国民史』だが、それ以前には『古事記』があり、『論語』があり、『聖書』があった。メモやノートを取る或いは論文を書くのと密接に関わった本だ。後者はともかく前者に則していえば、メモやノートが必要になる程、挑み甲斐のある/読み甲斐のある本なのだった。 然り、時間をかけてじっくり取り組むに足る本はある。いまは『近世日本国民史』だけれど、それが終わったら次は是非、積年の宿願を果たすという意味もこめて、今度こそカレル『人間 この未知なるもの』に挑戦したい。近年刊行された(訳者の教え子によって..

  • 第3583日目 〈イギリスの歴史が複雑怪奇に映るのは、自分だけか?〉

    荒俣宏編『平井呈一 生涯とその作品』にある。晩年の平井はディケンズ作品の翻訳に備えて、海外から多量のディケンズ研究書を購入した、と。 妙にその記述が心に残っている。シェイクスピア読書に向けた研究書や註釈書を買い集めているからだ。書店で「これは!」と思う本を見附けて、こちらの背の丈に合うものであれば、懐具合と置き場所を考慮した上で購う。 そうやって集まってきた和書洋書は、並べてみればそろそろ1メートル半にもなろうか。全部を最初から最後まで読んだわけでは無論ないけれど、必要と思うたページに貼った付箋や、間に挟んだ紙片のせいで満艦飾の様相を呈している。 いちばん賑やかなのは英国史の本2冊だ。シェイクスピア時代の英国史と、作品の背景となった時代の英国史。これを通読していると、シェイクスピアは英国史の良き入門書のように思えてくる。シェイクスピアを読むことは英国の歴史を繙くことだ。「時代..

  • 第3582日目 〈誤ちを正す。〉

    表題、過ちを正す、とは、どうやらこれまで長いこと勘違いしていた記憶を正しくする、の謂である。いうなれば、誰も待望していない、わたくしも想像していなかった第3577日目の姉妹篇であり、第3576日目から出典に疑いありそれゆえ論旨不明のため最終的に削除したる部分の、発展的補足である。 チューニングの話なのだ。 『近世日本国民史』のどの巻を繙いてもツマラヌ本を読まされている意識は微塵もない、たとい斯様に思う一巻に当たったとしても本の内容と自分の間でチューニングが済めばいつしか面白く、夢中になって読んでしまうのだろう──なる意味の文章を一度は書いたが、前述の理由で最終的にチューニングの箇所はバッサリと、削り落としたのである。 ──と、ここからが表題につながる本題。 当該箇所を削る前に帰宅後、チューニングの話を確かめんと山村修『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫 2011/10)を読..

  • 第3581日目 〈肉筆浮世絵コレクター、今西菊松氏の夢。〉

    商店街にあったO書店で立ち読みして、後日神保町のS書店でようやく見附けて購入したのが、長山靖生『コレクターシップ 「集める」ことの叡智と冒険』である(JICC 1994/04)。鳥類学者や美術品コレクター、博物学者たちのコレクション形成や「集めた」蒐集品からどのような業績が生まれていったか、沢山の先人の足跡を羅列・紹介した1冊だ。 O書店はバブル崩壊から程なくして店終いした。『コレクターシップ』はおそらく新刊として入荷したのだろう。棚にささったままの本を偶々手にして、夢中になって立ち読みしたのは1992年の秋頃でなかったか。その1992年といえばわたくしはまだ学生で、必要なテキストや研究書を爪に火を灯すようにしてすこしずつ買い集めていた時期である。そんなわたくしが『コレクターシップ』を読んで最も共鳴し、そのコレクターシップに感銘を受け、すこぶる崇敬の念さえ抱いたのが、肉筆浮世絵コレク..

  • 第3580日目 〈「ヤコブの手紙」第3章に自分への戒めの言葉を読む。〉

    昨日はクリスマス・イヴということもあって、久しぶりに聖書を話題にしました。続きを企むわけではありませんが今日は“当日”でもありますので、再た聖書のお話をすることに致します。同じく新約聖書から、〈公同書簡〉の1つ、「ヤコブの手紙」を。 ヤコブはイエスの縁者、兄弟で、原始キリスト教会の指導者。62年にエルサレムの城壁から突き落とされて殉教した、と伝えられる人です。そのヤコブが、「離散している十二部族の人たち」(ヤコ1:1)へ宛てて書いた、とされるのが、「ヤコブの手紙」であります。「とされる」というのは聖書によくあることで、ヤコブに仮託して後代のキリスト者が書いた手紙、という意味で、執筆年代は80年頃ともされます。実際の執筆者が誰であるか、ここで詮索したり想像したりはしません。 しかし、手紙の宛先である「離散している十二部族の人たち」とは、誰をいうのか? フランシスコ会訳聖書の傍註に拠..

  • 第3579日目 〈「ルカ伝」の「灯し火の喩え話」について。〉

    風呂あがりに「♪ハイホー、ハイホー♪」と7人の小人の歌をうたっていたら、奥方様に「どうかしちゃった?」とおでこごっつんこされたみくらさんさんかです。ハイホーではなく、”Hojotoho! Heiaha!”にすれば良かったな、と反省しつつ、それでは、と今日の話に移ることにして、── 新約聖書を読んでいると、心のどこかにずっと残り続けている一節、というのが幾つもあります。正確に覚えているとかではなく、福音書でイエスはあんな喩え話をしていたな、パウロ書簡に信仰と義の話があった、公同書簡に正しいことを為すがゆえに苦しむてふ文言があった、黙示録に大淫婦が裁かれるエピソードがあった、なんてレヴェルですが、そんな具合にずっと心の片隅にあるか、深い底へ沈んでいたのが、なにかの折にすーっ、と表面に浮かびあがってくる一節や挿話があります。新約聖書を読んだことのある人であれば、誰しも同じような経験を持..

  • 第3578日目 〈Better Days, for My Mother, My Wife, My Daughter.〉

    正当な理由と正当とは言い難い権利を行使して、明日から年末年始の休みに突入する。不動産会社勤務時代には及ばないけれど、それでも世間よりは数日早い休み始めである。ただ今年は正月三が日明けまで仕事とは完全に無縁でいられるのが、不動産会社時代といちばん異なる点か。 世間と較べれば1週間程早く休みに突入するわけだけれど、クリスマスも大晦日も正月も、大掃除も年始の仕度もなにもかも、母と奥方様と、そうして初めてクリスマスと正月を経験する娘と、迎えられるのが嬉しい。「昨日の続きとしての今日」以外の何物でもない祭日と催日を過ごしてきたけれど、ずっと宙ぶらりんの付き合いであった奥方様を正式に妻として迎えた昨年からは、やはり祭日と催日の意味合いはそれまでとは異なってきた。そうして入籍からちょうど10ヶ月後に産声をあげてわれらの所へ来てくれた子どものいる今年は、その祭日と催日の意味合いも、だいぶ世間並みにな..

  • 第3577日目 〈トイレ読書への疑問、ひとまず疑問氷解す。〉

    昨日のエッセイには省いた記述があった。山村修(狐)『遅読のすすめ』にある一節だったが、記憶にあるものと実際のそれが異なり、そのまま引用等してもエッセイには馴染まぬと判断、省いたのだ。 件の一節を調べるため、正味5分程、手前に積み重なる文庫の山を切り崩し、『遅読のすすめ』を取り出した。結果は上述した通り。 が、そのまま棚に戻してふたたび文庫の山で閉ざすのも気が引ける。為、そのまま今日の数10分を、それを読むのに費やした──すると、偶然開いたページに、時々意識に上っては消えていった疑問の答えが書かれていたのである。 トイレ読書についてつれづれ想い巡らすときは決まって、籠もるたびにカントを読み続けて数年後に完読した人物のあったことを思う。そうして、それは誰であったか、本当にカントであったか、と小首を傾げ、誰の何という本で読んだか思い出せぬことに溜め息する。 答えは期待していない..

  • 第3576日目 〈蘇峰「赤穂義士篇」メモ、お披露目手筈のこと。〉

    昭和天皇の侍従長を務めた入江相政氏の随筆にある。谷崎潤一郎が文化勲章を受賞した際のことだ。式後、会食の席での志賀直哉と吉田茂の会話が契機となり、中央公論社が『細雪』を昭和天皇に献上した。ご多忙中でも陛下がすこしずつ読み進めている様子が、栞の位置で分かった。──と(記憶で書いているので、事実関係に誤りがあったらご寛恕の程願う)。 『近世日本国民史』「赤穂義士篇」をゆっくりと(否、のんべんだらりと)読み進めているのは、何度もここで話題とし、一部の読者諸兄には耳タコ状態であろうとお詫び申し上げる。正直な話、読まぬ日が何日も、何週間も続くと、「もう読むの止めようかな」と思うこと、無きにしも非ずで、幾度斯く思うたやら。 しかし、──途中で抛つ程ツマラヌ代物を読んでいるわけでも、引用されている史料や蘇峰の漢文調の文章に辟易したり理解読解に悩まされているわけでも無し。 前者については赤穂義..

  • 第3575日目 〈明日の骨子。〉

    まず以て詫びを。然る後に功無しを告げる。悔いてしあらむ事を低頭して述べ、復活に向けて自ずから準備したる事皆々無駄となりしを涙声で云ふ。 明日の御方の御求め、署名に非ず提案なりし事を畏ミ畏ミお祈り致し居り候。而してその祈り叶はざる際は斬首を請ひ願ひ出る者也。 ex;ミッドウェー海戦に於けるアメリカ海軍の諜報戦。◆

  • 第3574日目 〈一筆啓上、過去に仕事した人たちへの言葉。〉

    久しくお会いしておりませんが、ご健勝と存じます。先達ての宴席での拙事、ご依頼を承けて下記の如く改めてお話申しあげます。宮様に於かれましてはお胸内にお仕舞いくだされば幸甚と存じます。 その席では湿っぽい話となりました。然れど重ねて申しあげます通り、あれは拙の偽らざる本心となります。 知る方はもはやこの世に僅かの数となりましたが、せめてと思うは新電力での一年を共にしてなかはらと一緒に仕事をした各々が選んだ道で幸せになり、また選んだ夢で大成してほしい、と心底より願う者であります。 一緒に仕事した各々には此方の気持など伝わりますまい。誤解と偏見と思込と嘲笑と愚蔑の外にかれらが何を思い抱き、心に残しましょうぞ。 斯様に有りと雖も致し方無しと思う我確かに裡に在り、否めぬが誠の所と云わざるを得ませぬ。致し方なし。払拭の手立て幾許ぞ有りと申せども講じれば却って泥沼、更なる誹謗を招くのみと..

  • 第3573日目 〈なかなか読み終えぬ書物に寄せる悲歌。〉

    果たして我はいつ、蘇峰を読み終わるや。 嘆息である。 なぜかうも赤穂義士に拘泥するや。 咨。 まぁ、そんなこというても赤穂義士の物語、史伝、映画も講談も面白いですよね。 うん、これはまさしく古き良き日本人の魂の古里。◆

  • 第3572日目 〈読書用の手帳を買おう。〉

    つらつらと「今年読んだ本のなかでベストといえるのは、なんだったかなぁ」と考えこんで、気附けばモレスキンに著者名と書名を列記していました。 まだ2週間以上も残っているのにこんな作業を始める自分ですが、ぼんやり正月以後の読書を振り返り、帰宅しては部屋の本また本を眺めて、はて? と思う。 ──おれは今年、どの本を読んだんだ? 由々しき事態の発生であります。もはや自分が今年、どの本を読んだのか覚えていないなんて!? 咨、元より貧弱と心得てはいたが、斯くも記憶力が減退していようとは……。 という冗談はさておき、顧みても今年読んだか昨年読んだか、すぐに思い出せぬは事実なり。むろんすべての本に対してそうなのではなく、一部の本についてのみなので、誤解なさらぬようお願い申しあげます。 この現象、昨年末あたりから読み続けている遠藤周作と藤沢周平に顕著だったのですが、帰宅して抜き書きノート..

  • 第3571日目 〈年末が近くなると、SKE48〈パレオはエメラルド〉が聴きたくなる。〉

    捜し物はなんですか? 見附けにくいものですか? と或るブツを捜索中の脳内で、斉藤由貴の名曲のフレーズがエンドレスで再生されていました。捜し物はCDです。見附けにくいといえば見附けにくいです。だって……本だらけで、どこにCDがあるのかさえ分からんからさ。 いや、ホント、どこにあるんやろ。──と、自分で自分にツッコんだ途端、発見できました。あった、あった。懐かしいな、このジャケット。そうそう、劇場版を持っていんだっけ。なんだか年末になると聴きたくなるんですよねぇ。たぶん、年末恒例のあの番組の刷込効果でしょう。 SKE48〈パレオはエメラルド〉ですが、この時期になるとふとした弾みでエンドレス再生される。困ったものです。この事態を平和裡に解決するためには、聴くしかない。気が済むまで、拒絶反応が出るまで。……そういえば、それゆゑに50回くらい聴き返したっけ。いや、マジで。 紅白歌合戦に..

  • 第3570日目 〈Twitterを使うと使うまいと。〉

    1週間程前から試験的に、Twitterの更新通知をしないようにしています。何年も通知を流すように設定していたので、試験運用とはいえアクセス数に支障が出ないか、いま以上に閲覧者数が減ったりしないか、など不安でした。 が、ここ1週間の、1日に於けるアクセス数や最新記事の閲読数を検めてみたところ、さしたる変化の見受けられないことが判明。意外でもあり、ショックでもありました。ならばここ数年のTwitter利用はなんであったのか、と。 顧みればブログ開設から数年は、Twitterの更新通知を利用していなかった。敢えていうなら原点回帰、かもしれません(そんなご大層なことでもないか)。──Twitterからの新たな読者は殆ど固定せず、従来の読者諸兄についてはTwitterでの更新通知なぞまるで関係なかった。 為、今後しばらくの間、Twitterの更新通知の利用は控えて、試験運用を継続するこ..

  • 第3569日目 〈今日12月14日は、赤穂義士討ち入りの日です。〉

    細かな暦の問題はさておくにしても今日、12月14日は赤穂義士の吉良邸討ち入り日。それにあわせて『近世日本国民史』の再読を始めたわけでは、ない。というよりも、すっかり意識の外だった。過去に読んだ章のメモを書いていて、ああそうか明日か、と思い至った程。 しかしですね、最後まで忠を尽くして最期に切腹して果てた四十七士を世間はとかく讃美し、討ち入り決行の直前までの間に脱盟した者らに不忠の輩と世間が白い眼を向けるてふ風潮には、なんだかなぁ……、と考えこんでしまいます。 忠を尽くした者らは本懐達成で満足であったろう。が、脱盟組にも言い分はある筈だ。むろん、臆病風に吹かれて逃げ出した者もあれば、義の板挟みになって煩悶した末背反を決めた者もあっただろう。事情は人それぞれ、それを本懐達成の満足に酔い痴れて自分たちと行を共にしなかった衆を、不忠だの臆病だのと罵る権利があろう筈はない。 徳富蘇峰『..

  • 第3568日目 〈歴史書を読む楽しみが復活した。〉

    読書感想文こそまだ書いていないが『恋愛名歌集』を読了したことで、ようやく途中で終わっていた本の続きに取り掛かれる。外出の際はリュックに入れたりお伴にしていたのが、いつしかずっと机の上へ置きっぱなしになり、ちら、と目をそちらへやるたび胸のどこかがチクリと痛むのを感じていた1冊。 事情や動機がどうあれ、通勤時に読む本が、タイミングよく無くなったのは、大仰にいえば慶賀である。だってこれで心おきなく、読むのを途中で止めていた歴史書に戻れるんだから。正直にいうとこの2ヶ月ばかり、その本を開いたことはただの1度もない。 為、すんなりと本のなかの世界に戻ってゆけるか、すこぶる不安でならなかった。けれども──行きの電車のなか、昼休憩の際、進むページはわずかだけれど、赤穂義士の討ち入り事後の記録へ没頭できたのだ。吉良邸周辺の屋敷や援助者たちの動向が史料を通じて、殺伐としたオフィスの一角に、人の揺ら..

  • 第3567日目 〈有隣堂ランドマークプラザ店のこと。〉

    書棚の整理をしているとなつかしい本や雑誌に再会すること多く、その度手が止まってしばし懐旧の想いに浸りながらページを繰ってしまうのは、「畜本家あるある」かもしれません。 今日も今日とて雑誌やムックなど大判書籍を詰めこんだ棚を点検していたら、1994(平成6)年7月発行の雑誌『Executive』が挟まっているのを見附けた。薄手の雑誌のせいであまり自己主張することなくひっそりとそこに在り続けた。巻頭のワイド特集は「本の大冒険」。 塀のなかの読書を振り返る安部譲二や書評家井家上隆幸の読書術、猪狩春男や内藤陳のオススメ本などの記事が埋まるが、或る意味で出色なのは冒頭、石垣島を舞台にした荒俣宏の「耽・溺・読・書 本を10冊ぶら下げて野生の島・石垣へ」だ。 なぜ? 取りあげられるのは南洋の航海記やフィールドワークのレポート、海生生物の本など荒俣らしいセレクトで、その意味ではさして目新しい..

  • 第3566日目 〈安息日にすることのお知らせ。〉

    なんだか突然やる気が萎んでしまったのであります。 萩原朔太郎『恋愛名歌集』と相前後して伊藤昌哉『自民党戦国史』上下を読了、奥方様が娘を連れて昨夜から実家へ帰省中なのを良いことに終日録り溜めた映画を観て、橘外男のホラー小説集『蒲団』を縁側で日向ぼっこしながら読み耽るという、久々の贅沢な時間を過ごしていたらすっかり精神が弛緩しきってしまい、ブログになにを書くということも考えられぬまま夜を迎え、1時間ばかり考えあぐねて端緒になるものさえ見附からなかったので、この際久しぶりの安息日を設けることを決め、いまこんなお知らせの文章を認めているのであります。 明日からは(たぶん)これまで通りに更新してゆきますので、どうぞ宜しくお願い致します。 だけど、娘も奥方様もいないとわが家はこんなに淋しくて、満たされぬ空気に覆われるのか……。◆

  • 第3565日目 〈もうすぐ読み終わります。やっと読み終わります。──朔太郎『恋愛名歌集』のこと。〉

    断続的に読み進めてきた萩原朔太郎『恋愛名歌集』もようやく読了のメドが立った。ようやく? とかいうな。そう、ようやく、なのだ。読もうと思うても読まない日の方が多かったからなぁ。これだから在宅勤務って奴は……。怨み言はさておき。 残すは「新古今和歌集」から選歌して朔太郎が評言を付したパートのみ。これを明日明後日(今日と明日、ですか)で読み、かつメモも作成しなくてはならぬ。(昨今のわたくしには)かなりの強行スケジュールとなるが、仕方ない、怠惰のツケが回ってきたに過ぎない話。 それにしても、良かった、と思うのは、著者の希望を素直に汲んで、序言・解題一般のあとは選歌のパートをすっ飛ばして、総論に進んだこと。これを先に読んでほしい、とはけっして根拠なき著者の願いではなかった。 朔太郎の『古今集』、六代歌集、『新古今集』への態度は総論を読んでおかないと、はっきりとは摑めない。八代集から選ん..

  • 第3564日目 〈この3週間で、こんなCDを買ったり聴いたりした──たとえば、フリッチャイの《第九》など。〉

    けっして調子づいたわけではない。そんな風にしてハメを外したら、あとで手痛いシッペ返しが来るのがわかっているから。 この前、すこしずつ日々の生活のなかに音楽を聴く時間が戻ってきたことへの感謝を、ここに綴った。ノー・イヤフォン、ノー・ライフな点に違いはないが、聴く時間がほんのちょっとずつ延びてきていることと、反動のように襲ってくる耳鳴りが耐え難い程大きくなってそれが幾日も続くことは減少を一途をたどっていることが、違いといえばいえようか。 それが証拠に、というわけではないけれど、この3週間で購入したCD(いずれもDisc Unionにて)は5枚に及ぶ。──すくないな。往時の1/10だ。その代わり、購入した1枚、1枚にじっくり耳を傾け、何度も繰り返して聴くようになった。なんだか原点回帰した気分です。 10日程前か、YouTubeでフリッチャイ=ベルリン・フィル他の《第九》第4楽章を聴..

  • 第3563日目 〈鬼も許してくれる時期になったので、来年の話をしてみます。〉

    炬燵に潜ってミカンを食べるこそ至福の時期、到来。娘の笑顔と奥方様のしあわせと母の安寧をそばに見ながら、こうしてブログを書いているのも至福ではありますが、こちらはミカンや炬燵とちがって通年のことだから。 さて、それはともかく。 来年の話をしても鬼が笑わぬ時期にもなったので、ちょっとしてみたいと思います。けっして話題が尽きて苦し紛れの文章じゃあ、ありません(きりっ)。 自筆原稿のままながら近世文学にまつわるエッセイが3〜4編、発表済みの小説の続編が2編(完成済み。短編と掌編)、それぞれあるので、2023年中にお披露目したく考えています。もっとも小説は私的事情により今月のうちに分載を始めるかも。その可能性がある、ということです。 近世怪談翻訳帖は既に先日お話しした内容で変更はありません。秋成や庭鐘の小説の現代語訳は……第3549日目を読み返してみましたが、お話していなかったよう..

  • 第3562日目 〈ジョン・クゥアン『ホワイトハウスを祈りの家に変えた大統領リンカーン』を読みました。〉

    エイブラハム・リンカーンを作ったのは、信仰と読書、母の愛情であった。ジョン・クゥアン『ホワイトハウスを祈りの家に変えた大統領リンカーン』(吉田英里子・訳 小牧者出版 2010/02)を読むと、そう強く感ぜられることである。 合衆国大統領は就任式の際、誰でもかならず聖書に手を置いて宣誓し、自ら選んだ聖書の文言を基にした就任演説を行ってきた(トランプでさえ!)。初代大統領ワシントンから現在の第46代大統領バイデンまで、1人の例外なく。 歴代大統領のうちでも特に信仰が篤く、どんな場合でも祈りを欠かすことなく神に畏れ仕えた大統領に、第16代大統領リンカーンがいる。 リンカーンの在任中に勃発した大きな出来事といえば、奴隷制度存続の是非を巡って国が二分された南北戦争を措いて他にない。それはリンカーンの就任からたった1カ月後のことだった。 南北戦争は、奴隷制度によって大きな利益を得て..

  • 第3561日目 〈過去のニュースを一定の期間置いて(寝かせて)新聞を読み返す/スクラップする。〉

    新聞記事をスクラップしていると、だんだん自分が気になる分野の傾向が見えてくる。それと同種の発言を著書のなかでしていたのは、さて、池上彰であったか、松林薫であったか、それともまったく別か。 エビデンスはこの際不問とするにしても、スクラップを続けていると自分がふだん気にかけている情報がどのようなものか判別がついてくる、というのは至言であると思います。 初めのうちはちょっとでも気になる記事が載っていると、バッサバッサと切り抜いてゆくが、「続けてゆく」とはいい換えればその分、スクラップするための時間と労力を要すということ。それを毎日でなくても定期的に、そうね、1週間に1度、なんて風にやってご覧。面倒臭くなって、スクラップ自体を止めてしまうか(勿体ない!)、立ち止まって自分の興味や嗜好を冷静に顧みて、スクラップという作業と並行して記事の吟味を始めて徹底するか、いずれかになるのではないか、と..

  • 第3560日目 〈黄金の1カ月を使って、みくらさんさんかはなにを読んだか?〉

    黄金の1カ月をどれだけ満喫できたか、と訊かれると、甚だ心許ない返答をせざるを得ぬ。怠けて過ごしたわけでは、ない。普段より読書に徹する時間は多かった、と記憶する。 もっとも家のこと、家族のこと、仕事のこと、諸々やりながらの読書ゆゑ、本人だけがそう思うだけで、俯瞰すればけっしてそんなことはなかったかもしれないけれど。 顧みるとこの間の読書は、大きく3つの柱を持っていたように思う。 1つは、萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みながら、モレスキンにメモをして。 2つは、聖書及びそれにまつわる諸書を、ふしぎと敬虔な気持になりながら。 3つは、上に含まれない雑書の類を読み散らして、部屋の片隅に積みあげて。 ──2つ目の柱はその成果の一斑として、『ハイデルベルク信仰問答』の拙い読書感想文に発展した。昨日までは寝る前の時間、ジョン・クゥアン『ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカー..

  • 第3559日目 〈【実話怪談】アパートの隣人。〉

    付き合いのある不動産会社の人から聞いた話である。 管理しているアパートの住人Nさんから或る日、こんな話が出たそうだ。Nさんはそのアパートが新築のときに入居した、20代後半のSEである。 日頃からふしぎな出来事とはまるで縁がなく、そうした事象に遭遇したことさえいちどもなかった。学生時代、事故物件に2年程住まったことがあるが、その間いちども心霊現象の類を経験したことがないという。 そんなNさんが件のアパートで暮らし始めて3年が経った、或る秋の夜である。 時刻は、おあつらえ向きに丑三つ刻だった。 Nさんは目を覚ました。便意を催したのである。秋、というても冬の気配が日一日と強く感じられるようになっていた頃だ。トイレには行きたい。でも、あたたかい布団から出るのはなかなか勇気が要った。 が──もはや限界だった。Nさんは思い切って布団から出、足の裏にフローリングの冷たさを感じな..

  • 第3558日目 〈『万葉集』へのアプローチ──マロニエ通りの学校に於ける個人史の”if”。〉3/3

    斯様にマロニエ通りの学校で『万葉集』を中心に講じた加藤守雄だが、その正式な後任が阿部先生だった。そうしてその点にこそ、阿部先生に講義で『万葉集』を取りあげることを考えさせ、断念させた理由が隠されているのではないか。 阿部先生は『万葉集』を文学として読もうとしていた。あくまで「鑑賞」を旨とする講義を考えていた。即ち、前任者加藤とは全く別の──或る意味では本来の──アプローチを採るつもりだった。『古事記』の講義でもそうだったが、先生は奈良朝文学に塗りこめられた当時の日本人の習俗に、あまり研究者的意味での関心はお持ちでなかった様子だ。必要なレヴェルで民俗学の領域に属する内容を説明することはあるが、それを出発点に柳田國男や宮本常一、芳賀日出男、折口などなど先人の如くそのルーツや類縁を辿ったお話をされることはなかった、と記憶する。先人、には当然加藤も含まれる。 マロニエ通りの学校の国文科は..

  • 第3557日目 〈『万葉集』へのアプローチ──マロニエ通りの学校に於ける個人史の”if”。〉2/3

    その加藤守雄はマロニエ通りの学校で、何年にもわたって『万葉集』を講じた。但しその講義は文学としての『万葉集』というよりは、民俗学の方面からのアプローチがメインだったようだ。『加藤守雄著作集』を企図する以前に、その学問を知りたい、その文章を読みたい、の一念から一夏三田の図書館に籠もって論文やエッセイの掲載誌をコピーしまくり読みまくり、秋から師走に掛けてはマロニエ通りの学校、國學院大學折口博士記念古代研究所では資料の借覧とコピーをいただき、知る人の話を伺うこともできた。 そうして手許に集まった加藤の文章の1つに、マロニエ通りの学校の履修要項がある、これはたしか、事務の中村さんの手を患わせたのではなかったか。これを読んでいると、上代文学の時間は『万葉集』を講読し、ゼミでは民俗学を主体にしていたようである。試みに、1983年度の履修要項から加藤が担当した3つの講義内容を引いてみよう。曰く──..

  • 第3556日目 〈『万葉集』へのアプローチ──マロニエ通りの学校に於ける個人史の”if”。〉1/3

    『恋愛名歌集』を読みながら自分と『万葉集』の相性の悪さを嘆いた。ここに選ばれてある好きな短歌をきっかけに、幾らかなりとも改善の兆しが芽生えれば良いな、と希望した。 それはやがて軌道を変えて、1つの仮定に、個人史の ”if” へ至った──学生時代、『万葉集』の講義を履修することができていれば未来は、即ち〈現在〉はどのようになっていたろうか、という個人史の ”if” 。それも三田ではなく、マロニエ通りの学校で。 入学した年、日本文学演習・奈良朝の講義は年間を通して休講だった。担当の阿部先生が体調不良のためである。 前年度のうちに先生側からその旨連絡があったにもかかわらず。代理を立てることなく年間休講になった。にわかには信じがたい話だけれど、単純に代打が見附からず、やむなく……というところだったのだろう。そのあたりの事情を先生ご本人から伺ったことはない。事務の中村さんや本多先生、主..

  • 第3555日目 〈ただいま(がんばって)作業中!〉

    昨日、『恋愛名歌集』を読みながら自分と『万葉集』の相性の悪さを嘆いた。ここに選ばれてある好きな短歌をきっかけに、幾らかなりとも改善の兆しが芽生えれば良いな、と希望した。 その流れで今日、個人史の “if” を考えた。“if” とは、もし自分が学生時代、『古事記』ではなく『万葉集』を習っていたら、自分は果たしてそれを好きになっていたか、八代集と同じように自分の肥やしにできたか、である。 現在は第二稿の作業を進めているが、この段階で大きな欠陥を発見。講師の担当講義を誤って記憶し、それに基づいて論を展開、結論づけたのである。これは失態だった。第一稿は手持ち資料一切なし、記憶頼みでいつものスターバックスで書いていたからなぁ……と言い訳。イケナイ、イケナイ。記憶でものを書いちゃあ駄目だよ。 予定では本日、ここに「個人史の “if”」をお披露目する予定でしたが斯様な次第で現在大規模改稿、..

  • 第3554日目 〈『万葉集』との相性の悪さが、この短歌で解消したら嬉しい。〉

    2日のブランクのあとでふたたび萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読み始めています。各集選歌のパートとなった途端に糸が切れたようになって2日の間、手を伸ばすことがなかったのだけれど病院への往復のお伴に、と再度リュックに詰めてお出掛け。 各集選歌のパート、そのトップバッターは当然『万葉集』である。 奈良時代に成立した日本最古の歌集である。本書の執筆にあたって朔太郎が拠り所とした『万葉集』が、いったいどこの出版社から出たものなのかは未詳である。全集を繙くなどすれば解決するのかな。 朔太郎は本書総論「『万葉集』について」のなかで、現代人の感性にいちばん近いであろう古典歌集というた(P179)。同じ文章の別の箇所ではこんな風に述べる。曰く、── 今日現代の吾人読者は、他のあらゆる歌集にまさって、「万葉集」に最高の興味を感ずるのである。……「万葉集」の方に魅力を感じ、肉感的に親しく惹き付..

  • 第3553日目 〈トイレ読書のお伴は?〉

    時々ふと、あれは誰だったかな、と考える。 その人物は自宅のトイレでカントの『純粋理性批判』を、何年も費やしてとうとう最後まで読んでしまった、という(『実践理性批判』だったかもしれないが)。驚きである。あのカントの代表的著作を、まさかトイレで読み通した人がいるとは!? 気になりだしてから2年か3年になるが、未だそれが誰だったのか、なにで読んだのか、全く思い出せない。可能性のありそうな本を開いても、すべて空振りに終わっている。見落としているのか、探す本を間違えているのか、定かではない。 とまれ、トイレでカントを、何年も掛けて読了した、というのが大事なのである。 いやぁ、カントというのがまた良い。遠大な内容ながら或る程度こま切れで読めて、そうしてがっつり取り組む価値あり、読んだことを周囲に自慢もできる書物。こんなことを思い立ち、継続し、継続させられる強固な意思と、家族からも..

  • 第3552日目 〈義務と責任を果たしながら、1冊でも多くの読了本を!〉

    津野海太郎『最後の読書』(新潮文庫 2021/09)を読了。──今秋購った本を片っ端から読み倒してゆく企ての、何冊目かの読了本だ、たぶん次に読みあがるのはキリスト教信仰の面からリンカーンの人生を辿ったジョン・クゥアン『ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン』になるだろう。 ここまでは順調な歩みである(と思いたい)。が、まだ何冊も、読まれる時の来るのを待つ本がある。……25冊ぐらい? 流し読み、興味ある部分のみ拾い読み、ゆっくり読む、すこしく精しく読む、を対象に応じて使い分け、あと2週間で何冊の本を「読了」として片附けられるか。 もはやむかしのわたくしではない。のんびりと、自由気儘に暮らして、会社員としての職務を無難にこなしていさえすれば良しという時代は、とっくに過ぎている。義務と責任を負う立場になったのだ。ひねもす読書に耽ることのできる日なんて、1年に何日もあればじゅうぶ..

  • 第3551日目 〈大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』を読みました。〉

    残り3ページをなにに使うか迷っていた抜き書きノート、2冊目が先程終わった。新しく読んだ本からの抜き書きではなく、6年前の刊行時に読んで爾来何度となく読み返してきた大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』(東京創元社 2016/12)から、読解力を中心とした抜き書きになっていた。 読解力を養い向上させるには昔からいう、読書百遍義自から見(あらは)る、にすべてが込められており、本を読み馴染んだ人なら誰しも何度か経験あるだろう繰り返し読み耽る行為が、読解力を養う土台になる。流し読みや速読に馴れた、それが常態となった人は意識してか無意識に読み飛ばしなどして折角の読書という行為を、量を消化するだけのものにしてしまっている。 著者は翻訳家なので上記読解力の文章も翻訳に絡めての話になっているが、読解力の優れた人になるためには、頭のなかに蓄えられた正誤、判別不能の情報を精査して知識に昇華させる必要が、まずある。..

  • 第3550日目 〈新聞記事をスクラップしていて、前言撤回を決めたこと。〉

    約1週間分の新聞スクラップをしていたら、いつもの時間を疾うに過ぎてしまっていました。いや、お恥ずかしい限り。ただのスクラップだったら2時間以上も掛けないけれど、この約1週間、わが家は色々ありましたので落ち着いて新聞を読む時間もなかったのですよ、ゆえに……と言い訳しておいて、では本日の。 以前はカッターマットを敷き、カッターと定規を使って綺麗に当該記事を切り抜いていたのが近頃はすっかり横着になって、というよりも積もれば時間の短縮になると気附いてからは、1メートルの物差し(むかし懐かしの竹の物差しですよ)をあてて威勢よく切り取る(破り取る?)ことが専らとなり、お陰で同じ時間を費やしてもスクラップできる新聞の量が格段に増えました。もっとも、スクラップできる新聞の量が格段に増えることは同時に、台紙に貼りつける記事の数も増えることを意味します。 しかしそんな風に時間の短縮化を図っても、なか..

  • 第3549日目 〈近世怪談翻訳帖の作品選びをしながら。〉

    急に寒くなった。幸いと祝日である。家中に留守にできぬ障りありひねもす蟄居して、ぼんやりと朝から、空いている時間は読書に耽るてふ贅沢三昧の今日を過ごした。溜まりに溜まった未読本を消化するつもりだったのが、気附けば積みあげた岩波文庫黄帯の山を崩してカビの生えた文学にすっかり遊んでおったことである。 とはいえこれはけっして目的なき読書ではない。近世怪談翻訳帖の作品探しを兼ねている。高田衛編・校注『江戸怪談集』上巻を巻頭から読み進めて、結局『宿直草』は終わらせられなかったけれど、そのなかに幾篇かの下心そそられるハナシのあったことが収穫だ。 『宿直草』は「とのいぐさ」と読む。延宝5(1677)年開版。荻田安静編著。未だ全編に拝すの機会を得ぬが、岩波文庫所収の各編に目を通してみると、最後に荻田の感想や道義的解説が付されるハナシが散見する。これは後代の怪談集に於いても踏襲されるパターンなので、..

  • 第3548日目 〈ただいま、音楽。〉

    病気が完癒したわけではない。未だ後遺症(?)はある。が、これを感謝したく思わずしてどうしようか。 この3週間ぐらいのことかしら。流す程度ではあるが、iTunesやiPodに取りこんだ音楽を、聴いている。自殺行為に等しいゆえイヤフォンではなく、iMacに繋いだスピーカーもしくはBluetooth接続した別のスピーカーから。 耳鳴りが耐え難い程大きいときもあれば、殆ど意識せずに過ごせる日もある。馴れのせい、あるやもしれぬ。否、無関係ではあるまい。為、音楽を聴くことのできる日もある。そうでない日もある。然れどもう諦めていた音楽を再び聴けるようになったことを、わたくしは喜ぶ。新しい主治医をまるで役に立たぬと切り棄てて自己療養にこれ努めた結果だ。ハレルヤ。 が、流石に好んで耳を傾けるジャンルには変化が生じた。クラシックは元より愛好すれどオーケストラは無意識に遠ざけている。以前にも増して..

  • 第3547日目 〈大いなる幸せに恵まれた人となり、喜びの声をあげよう。〉

    昨日、本ブログも終活を始めたよん♪ と書いた。それへ追記した稿は既にお披露目済みと思うのですべてはそちらへ譲り、今日はそこから派生したお話をば。 〈終わりの始まり〉はもうとっくに幕を上げているのかもしれない。ひょっとするとそれは錯覚で、まだ先のことなのかもしれぬ。「しかし人生は一々の事件にたいして覚悟ができているかどうかを、あらかじめわれわれに聞きあわせてはいない」(※)のだ──わざわざ、♪ジャジャジャジャ、ジャーン♪ って扉を叩いて知らせてくれやしないよね。 ただそのような時来たる意識することで、却って書いておきたい、書いておくべきテーマはなにか、明らかになったところがある。それに従って今後は筆を執ってゆこう、というのだ──勿論、毎回毎回じゃあないけれど。 わたくしだけが娘に、父の知ることを伝えられる。ずっと以前、本ブログの記事一々は毎日着実に増えてゆくわが墓誌である、と書..

  • 第3546日目 〈終わりの日が来る前に、挨拶を一言。〉

    熟慮の末、本ブログもそろそろ終活を始めることにしました。 ティクルスの計画はすべてこれを放棄。新聞に関するエッセイは、まとめてお披露目を予定するも全編上がりのメドが立たぬため、永遠破棄に決めました。集めた資料は処分し、執筆の過程で作成したメモ(PC内アプリケーションにて作成も含む)と08月に完成していたエッセイはdock内のゴミ箱へ。さよなら。 とはいえ、いつまで続けるか、概ねの目算はできているとはいうものの、こんな性格ですからいつ翻意するか不明ではありますが……。いつか本ブログに終わる日が来ることも、それに備えて終活せねばならぬことも、否定できぬ事実ではありましょう。 最終日の作品は既に今世紀初頭に書きあがっており、それを当該日に初お披露目致します。流用という名の手抜きではなく、それが掉尾を飾るに相応しい〈別れの言葉〉に相応しいからであります。このような内容の詩を書く程に、..

  • 第3545日目 〈詩歌集は人生の友である。〉

    『恋愛名歌集』を読みながら、ふと或る疑問が脳裏をよぎりました。萩原朔太郎の詩集、まだ持っていたかな? 岩波文庫と新潮文庫の歌集、詩集は意識的に集めるようにしてかなりの数が集まっていたけれど、火事やら引越やら、スペース確保や換金目的やらで随分と手放してしまった。 或るとき、必要になって岩波文庫の中原中也詩集を捜したが、どこにも見当たらなかった。諦めて翌日、新刊書店で購入したてふ経験もあったので、中也と同じく学生時代に読んだ朔太郎詩集はどうだったけな、と不安になったのです。──結果? いや、それが無かったんですよ。『郷愁の詩人 与謝蕪村』と『猫町 他二篇』はあるのにね。 検めると結構な数を処分していた事実が、今更ながら発覚。詩歌集に限らず、かれらの随筆集や評論集のあることも。与謝野晶子の評論集や三好達治、斎藤茂吉の随筆集が、どこにもない。有るのに無いのではなく、無いものは無い、なので..

  • 第3544日目 〈慰めのカテキズム、『ハイデルベルク信仰問答』を読みました。〉

    『ハイデルベルク信仰問答』は良い本だ。非キリスト者であっても、しん、と胸打たれる瞬間が幾らもあるのだ。殊真夜中、人も草木も寝静まった一刻にこれを読んでいると、たまらなく切なくなり、異教徒ながらその〈慰め〉の恩恵にすがりたく思う。 『ハイデルベルク信仰問答』はカテキズムの代表的書物で、多くの言語に翻訳されて用いられている。キリスト教関係の書物では、聖書と『キリストにならう』に次いで読まれているのは、内容が優れていることの証しだろう。 「カテキズム」は「教理問答」と訳される。キリスト教の教理を平易な言葉で記した、信仰伝授の入門教育の書物を、今日では一般的に指す。 宗教改革の頃に成立したこの信仰問答だが、世に出て間もない頃から幾多の苦難に直面した。その度『ハイデルベルク信仰問答』が非難と策謀を退けてきたのは、これを護る側にもこの信仰問答自体にも強くて深い信仰が備わっており、慈しみと..

  • 第3543日目 〈萩原朔太郎の痛罵が心地よい1冊──『恋愛名歌集』を読んでいます。〉

    萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読んでいる。若き頃は短歌の実作を試みた、詩史に名を残す詩人が44歳のときに書き下ろしで発表した、万葉から新古今集までを対象に、書名通り恋歌を中心に据えてコメントを付し、また総論として歌風の変遷や特徴など簡潔明瞭に述べた1冊である。昭和6(1931)年05月、第一書房から刊行された。 朔太郎は冒頭「解題一般」で、巻末にまとめられる総論を読んでから、各集選歌のパートを読んでほしい、と読者に向けている。 素直なわたくしは作者のお願いに従い、昨日からそのようにしている。こちらも万葉集から新古今集まではみっちりと学び、独りし読書に励んで9つの歌集を1首の洩れもなく飛ばすことなく完読した者だ。ゆえに朔太郎が万葉集と八代集に対してどのような歌を選び、そのような評価を下しているか、とても興味深いのだが……、 ……興味深いのだが、実際に読んでみるとこれがまた手厳しく、..

  • 第3542日目 〈黄金の1ヶ月、来たる。〉

    もはや死に体の岸田内閣がかつて夢見た〈黄金の3年〉とは異なり、〈黄金の1ヶ月〉がわが身に訪れること、これは既に確定事項であり、実はもう始まっている。 いったんは着任したものの管理者不在を主たる理由として、正式赴任が1ヶ月先延ばしになったのだ。わたくしはこれを満喫する。購入した本の整理は当然として、家のこと、家族のこと、他諸々諸事雑事を、脇目も振らずに片附けてゆくつもりだ。時々バッテリー切れで半日ばかり糸が切れたように呆けて過ごす可能性は極めて濃厚なれど、そんな一刻がなくてはやっていられぬ。 着手したのは新聞記事のスクラップ。視界の外には未整理の新聞が山を成しているが、先の目処はついているので1週間もあればすっかり片附くはず。……はず、というのがミソで、悩ましい不安材料なのだけれど、まぁ、なんとかなるだろう(と思う。と思う、ってのもミソで以下略)。 現在は買いこんだクラシックや..

  • 第3541日目 〈必要な本(聖書)は、だいたい揃ったかなぁ、という話。〉

    まさに表題通りのお話でして。 折に触れて、その気になったとき、まァ1年に1冊程度ではありますが、現在日本語で読めて、通常に流通している各種聖書を購入してきました。そう、ポツリ、ポツリ、とね。 「塵も積もれば」なんとやらといいますが、今年の秋、これだけ揃えてあれば当座の用は為すだろう、というぐらいには聖書各訳を手許に置くことができました。これまで口語訳とバルバロ訳は架蔵していなかったけれど、昨日神田の本屋さんで購いまして、「うむ、だいたいこれでよろしかろう」と独り言ちているわけです。 とはいえ酔っ払って帰宅深更となり、いつも通りに出社しているので、訳文の吟味などできていないのですが、購入直前にパラパラ店先で目繰っていて、文章に生硬な箇所や不自然な日本語の混ざっていない、そうして全体的にやわらかな印象を、口語訳にもバルバロ訳にも抱いたことは報告しておきたく思います。ただやはり馴染..

  • 第3540日目 〈バルバロ訳トマス・ア・ケンピス『キリストにならう』を読みました。〉

    トマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』は講談社学術文庫版で持っています。『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』が正式な書名で、訳者は呉茂一と永野藤夫(2019/12)。 岩波文庫にも『キリストにならいて』は収められて(大沢章・呉茂一訳 1960/05)、長く読み継がれていまも現役の書目ですが、活字の大きさと訳文の好み、今道友信の解説(序文)の密度、この3点を以て東京オアゾにある丸善丸の内本店にて講談社学術文庫版を購入したのです。 あれはもう3年程前でしょうか。田舎の墓仕舞いのことで親戚と陰湿なバトルを繰り広げて、心身共に疲弊しきっていた時分でしたから。セネカを買ったのも同じ時だったと記憶します。 ずっとそちらで読んできましたが、つい昨日(一昨日ですか)ぶらりと入ったブックオフでバルバロ訳『キリストにならう』を見附けて、三好達治と津野の文庫と一緒に買ってきた。酔いも..

  • 第3539日目 〈旧約聖書〈前夜〉、再始動の狼煙。〉

    けっして岩波書店刊旧約聖書・新約聖書註解書を購うた為のみではあるまいが、昨日(一昨日ですか)「エステル記」〈前夜〉の第一稿を書くことができた。先達ての文化の日に中途半端になった稿をベースにしたとはいえ、殆ど参考資料を手許に置くことなく集中して約2時間程でとりあえずの第一稿を纏めることができたのは、幸先の良い〈前夜〉執筆再起動の兆しと考えたい。 このあと推敲してお披露目できるレヴェルのものになったら、続けて「ヨブ記」「詩篇」にとりかかり、絵に描いた餅で終わるやも知れぬが今年中に柱となる部分だけでも書いておきたい。まァ、それに安心してまた1年近く執筆を放棄する可能性も皆無ではないけれど……なんというてもこの「エステル記」が、Pagesにメモを認めてから1年と数日越しに書かれていますからね。前例はある、それゆえに己を戒めつつ適度にゆるめつつ、〈前夜〉執筆を先に進めましょう、という次第。 ..

  • 第3538日目 〈年子の捉え方は色々だけれど。〉

    奥方様の希望には添わねばならぬ。2人目を作る、ということである。 年子になるとはいうけれど、長い目で見た場合メリットの方がデメリットを遙かに上回ると確認。出費が一度に重なることについてはパパ了承済み。体力的精神的にきついかもしれぬとは奥方様了承済み。授乳時期が重なる点については奥方様、重々承知の上のこと。 であれば、母のためにも、娘のためにも、頑張らねばならん。既にご懐妊している可能性、否定はできぬけれど。 赤ちゃん返りが少なくなるとか、姉が妹もしくは弟と一緒に遊ぶとか、そちらメリットについてわれらはウェイトを置く。幸いと幼稚園は目の前である。学年が一緒になる可能性は否定できないが、それはそれで良しと考える。何事もポジティヴに、自分に都合の良いように考えよう。 年子育児はデメリットよりもメリットに目を向ける。ネガティヴ思考はいっさい切り離す。世人が労苦と思うことを楽しみに..

  • 第3537日目 〈秋の古本狂詩曲[結語];本棚にすべての本を並べたい。〉

    シリーズが一段落して気が抜けてしまいました。それにしても、ぎょうさん買いこんだものや。自分、アホちゃうか。討ち死にじゃあっ! と内心叫んで理性を抑えこみ、散財した結果がいま、わたくしの前で新たなる山脈を築く。 奥方様が、あなたの部屋にはいるのイヤだ、と可愛らしくお冠なのも頷ける。正直なところを告白すれば、獣道を歩くのはわたくしも怖いのだ。縫うようにして歩く、ってこういうことをいうんだろうな。 が、わたくしはまるで後悔していない。先日購うた本の雑誌編集部『絶景本棚』正続(2018/02,2020/08 更なる続刊予定もあるだろう)を覗いてみると、部屋のなかに本棚が何棹も林立して、その間に、人の身長よりも高いかほぼ変わらぬぐらいに山積みとなった本の山が奥から手前まで幾つも幾つも列なり、ピサの斜塔よろしく傾斜している写真がページをどれだけ目繰っても続くのだ。咨、これに較べればわたくしの..

  • 第3536日目2/2 〈週一更新の件、最新報。〉

    まるでどこかの国の政権与党、内閣のようで申し訳ないのですが、本日午前02時に更新した「第3536日目 〈家族と過ごすために、自分のために、しばらく週一更新に変更します。〉」での発言を一時的に撤回致します。 というのもやや状況が変わり、あと何日かはこれまで通りの毎日定時更新を続けられる見込みが立ったからです。明日午前02時からお披露目の第3537日目からいったい、あと何日更新をこれまで通り続けてゆけるか、わかりません。 しかし、こうして良くも悪くも前言を一時撤回し、先延ばしにすることができました。遅かれ早かれ週一更新に切り替わるのは決定事項なので、「一時撤回、先延ばし」というのです。 まだしばらくの間、どうぞ宜しくお願い致します。◆

  • 第3536日目 〈家族と過ごすために、自分のために、しばらく週一更新に変更します。〉

    標題通りのお知らせになります。 当面本ブログは毎週火曜日、午前02時更新に変更します。 アクセス数を中心とする過去3ヶ月の推移を検討、熟慮の結果、毎日定時更新ではなく週一ペースで更新することに変更しても支障なし、と判断致しました。 家族と過ごす時間を大切にし、自分自身を守ることを優先するために、必要な判断になります。もう時間は余り残されていないのだ。 みくらさんさんかを直接知る人にも間接的に知る人にも、まるで知らぬという人にも、何卒ご寛恕願いたく存じます。 それでは失礼致します。◆

  • 第3535日目 〈秋の古本狂詩曲[総括篇];告白療法の実施と、理解ある配偶者を持つということ。〉

    熟慮と衝動が渾然としたわが秋の古本祭りは、ここにつつがなく終了する。注文した本は概ね届き、すべて開梱されて部屋へ運ばれ、廊下の一隅に積まれた。これをどう読み、どう仕舞うか、いよいよ現実的に考えねばならなくなった時期の訪れである。仕事がなければこのまま年末年始まで、読書三昧の日々を送れるのに。 さて、〈秋の古本狂詩曲〉と戯れに題した本シリーズも、本編5編、番外編1編、総括編1編を以て本日完結する。今回の総括編は、いやあまり期待しないでくれ、ただの購入した本のリストに過ぎぬわけだから。しかも、これまで話題にした古本は省くのだから(無理でした)。 顧みればそれは今年の夏、「日本の古書店」で徳富蘇峰『近世日本国民史』全巻揃いを見附けたことから始まった。本編全100巻を指して「全巻揃い」というのではない。時事通信社から戦後に復刊、刊行された『近世日本国民史』は第100巻で完結後、平泉の手に..

  • 第3534日目 〈秋の古本狂詩曲[番外編];『奢灞都館 刊行全書籍目録』をお奨めします。〉

    『奢灞都館 刊行全書籍目録 コンプリート・コレクション』(エディション・イレーヌ 2022/10)と題された、夢のような本が届いた。1972年に初めて世に出た奢灞都館の刊行物、ジョルジュ・バタイユ『死者』に始まって、最後の刊行物となる2003年07月のアルフォンス・イノウエ銅版画集『ベル・フィーユ』まで全122点(同一書目の限定版・特装版などを含む)を、その過半に書影を付けて1巻の書とした、まこと珍重・握玩に値する目録である。 ページを開くとゆったりとした版面に、美麗な書影が数点ずつ載る。わたくしはこれまで生きてきて、斯くもうっとりとした気分にさせられる書籍目録にお目にかかったことは、久しくない。しかもここに載るすべてが1人の人物の所蔵になるというのだから、羨ましく思うやら妬ましく思うやら、複雑な心境である。 というのも、まだ生田先生ご存命の頃に奢灞都館の出版物に触れてその造本の..

  • 第3533日目 〈秋の古本狂詩曲[終];『丸山薫詩集』の入手、そうして更なる──。〉

    0 今日もやっぱり長くなる。 長いものはアクセス数が劇的に落ちる傾向あるこの4カ月であるが、どうやら読者層の変化が7月中旬から生じていると思しい。が、アクセス数稼ぎでエッセイなど書いたり、ブログを続けているわけではないから、そんな現実には目もくれずにこれからも、書きたいことを、書きたいように書いてゆくことにした。 今日もやっぱり長くなる。読む人も減少する。そんなことは気にしない。定家卿の言葉である。「世上乱逆追悼耳に満と雖も之を注さず。紅旗征絨は吾が事に非ず」 1 5回目の今日で「秋の古本狂詩曲」は終わりにする”つもり”。神田古本まつりの開催にあわせて購入ボタンをクリックしまくって注文した古本が、2冊を除いて概ね手元に届いたからである。 ならば書くべきはむしろこれからではないか、と思うが、明日からチトそうもゆかなくなるのでね、終わりと銘打ってみたのだ。S1最終エピ..

  • 第3532日目 〈秋の古本狂詩曲;素敵な活字中毒者たちによる、素敵な読書への讃歌。〉

    昨日の『折口信夫対話』と同じように、古書店の通販目録を眺めているとなつかしい本を見附けると、矢も楯もたまらず注文を出してしまう。特に珍しい本ではない。大量生産の文庫本だ。古書店とて見向きもしないような類の。でも〈なつかしさ〉とは却ってそうした本の方に多いように思う。 一昨日の昼に届いた椎名誠選・日本ペンクラブ編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983/09)はまさにそんな〈なつかしい〉文庫なのだった。 文筆に携わる諸家による、書物に関する随筆、回想、評論、小説が全21編。収録作家でいちばん古いのは内田魯庵、他は夢野久作や植草甚一などわずかを除いて山口瞳や井上ひさし、開高健など出版当時の現役作家が並ぶ。アクの強い演技、文体で知られる殿山泰司のエッセイもある。 わたくしがこの文庫を初めて手にした高校生時分は、『素敵な活字中毒者』のような読書にまつわる文章を集めたアンソロジーが幾..

  • 第3531日目 〈秋の古本狂詩曲;池田彌三郎他『折口信夫対話』の旧蔵者を妄想して。〉

    〈狂詩曲〉は続く。お楽しみは、終わらない。 ぼんやりと古書店のサイトを眺めていたら、なつかしい本を見附けた。学生時代とそれに続く数年間、憑かれたように購い、読み、時に然るべき人物に会って種々聞き取りした、折口信夫の本である。書題を『折口信夫対話』全3冊という。角川選書、1975年01月及び1978年08月刊。 たしか端本で持っていたと思うが、捜してみてもどこにもない。折口信夫や折口学の本はただの1冊も手放したことはないのに、どうして架蔵するうちにはないのだろう。端本ということもあって、やっぱり処分したのかなあ。だとすると、あのころわたくしが持っていた(と記憶する)端本は、その後どんなルートを辿って、どんな人がいま所蔵しているのかな。資源ゴミとして廃棄された、という想像はしないこととする。 話が遠回りしたけれど、古書店のサイトで見附けた『折口信夫対話』全3冊は刹那の躊躇いもなく..

  • 第3530日目 〈秋の古本狂詩曲;岩波書店版『旧約聖書』と『新約聖書』を使って。〉

    あまり状態に期待していない東京都下の古本屋から、岩波書店版『旧約聖書』『新約聖書』全巻揃を売りに出していると知ったのは、蝉の鳴き声に悩まされて不眠症になりかけていた頃だ。 なかなか決心がつかなかった。買ってもどこに置くんだ? 最早自宅内にそれだけのスペースを捻出できる余裕はない。書庫としてアパートの1室を借りるなりマンションの1室を買うなりするにしても、自宅周辺に空室・売住戸はなく。 何だ彼だで2カ月が過ぎた。世は読書週間に突入した。神田古本祭りも開催された。誰も買う様子はない。が、油断はできない。明日買うつもりの古本が翌る日には売れてしまっていた、なんて経験、webサイトでも実店舗でも何度となく経験してきた。──この値段で旧新約聖書註解書が全冊揃で出る、なんてこの先、果たして有りや無しや。 結論を述べれば、わたくしは遂に耐えられなくなり、購入ボタンをクリックして、支払い手続..

  • 第3529日目 〈秋の古本狂詩曲;徳富蘇峰『近世日本国民史』が届いた。〉

    スターバックスでコーヒーを飲みながら考えるのは、一昨日昨日と到着した古本のことである。 奥方様から、本に関してはお小遣いの縛りから解放する旨あらかじめ宣告されているとはいえ、それでも調子に乗ることなく慎ましく、慎ましく、爪先に火を灯すように買うていたのだが、咨、今年の秋は無理だった! 春先から目を着けていたものがどんどん売れてゆくのを目の当たりにして、本命が誰かにかっさらわれる恐怖に焦りを感じて、遂に先月末の夜中、ポチリ、ポチリ、ポチリしてしまったのである──いつかわが手に買われるべき書物たちだったのだ、わたくしはたまたま此度それらをお迎えするに過ぎぬ、と心のなかで言い訳しながら。 その結果が、一昨日昨日と五月雨式に到着した古本たちなのである。計126冊。内訳;山田朝一『荷風書誌』、池田彌三郎・岡野弘彦・加藤守雄・角川源義編『折口信夫対話』全3巻、旧約聖書翻訳委員会『旧約聖書』全..

  • 第3528日目 〈生ける屍、休みを宣言する。〉

    二日酔いである。しゃっくりも出ている。そんな訳だから、今日はお休みをいただこうと思っている。どこまで読者諸兄に甘えるか、と叱責のお声が遠くから聞こえてくる。が、いまは本当に、苦しいのである。なにをするにも気力が追いつかず、病院への往復にもふらふら歩いて駅まで行き、電車のなかでは生ける屍のように、ぼうっ、としていた。 なので今日は大事を取って、なんにも書かないでお休みしようというのである。本当は昨日に続いて旧約聖書のことでも書こうかと企んでいたのだが、ちょっと無理らしい。 そういえば旧約聖書といえば、わたくしは、ようやっと岩波書店から出ていた旧新約聖書の註解書全20巻を手に入れることができた。勿論古本である。今日、届いた。起きていてもなにをする気にもなれないから、仕方ない、今日は古本の点検に勤しもう。そうして漫然と、状態確認を兼ねて中身に目を通すこととする。 休むといいつつ、こ..

  • 第3527日目 〈「ヨブ記」再読へ向けて。〉

    思いつくことがなにもないので、聖書を開いて、目に留まった一節から話を展開させてみようと思う。上手くいったら喝采の程を。滑ったりしたならば……読者諸兄の優しさに甘えたい。 伴侶のように常にそばにあった新共同訳聖書を、適当なところで開いたら、「ヨブ記」第36章であった。引用する節に下線が引かれている。曰く、「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、/力を尽くしても、それは役に立たない」と。第19節である。前後関係がわからずとも、この文言の意味するところは薄々わかる。 わたくしは、これを、「苦労するなかで得た様々な経験や知恵、教訓は、苦労したからこそ人生に役立てられるものとなり、苦労なくして歳月を過ごしてきた人の経験や知恵、教訓は、その前では塵芥に等しい」と解釈した。塵芥に等しい、とは言葉が過ぎようか。ならば、こういい換えよう、「同じ出来事を体験していても、そこから得られる様々な知恵や教訓..

  • 第3526日目 〈父が娘に願うこと。〉

    あなたには、ひとたび結ばれた人との縁を大切にしてほしい、と願います。 関わり合った人すべてと交友関係を結び、維持しなさい、というのではありません。人間関係の見直しと整理というのは、大人になるにつれて必要になりますから。 父が望むのは、大切な人との縁を自ら失うような軽挙は避けてほしい、そのためにも芯の部分で正直に、誠実であったほしい、ということです。 あなたが成長してゆく途中で、このことをいつか話そう。◆ 青々たる春の柳、家園に種ることなかれ。交りは軽薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹に耐めや。軽薄の人は交りやすくして亦速なり。楊柳いくたび春に染れども、軽薄の人は絶て訪ふ日なし。 上田秋成『雨月物語』「菊花の約」より 赦されることの少ない者は、愛することも少ない。 「ルカによる福音書」第7章第47節 愛は忍耐強い。愛は情け深い。..

  • 第3525日目 〈推測1つと報告1つ。〉

    ○推測 Twitter →(発端) 或る日突然、自分のツイートに「センシティブな内容が含まれている可能性があるため、このツイートに警告を表示しています」なるメッセージ、否、Twitterからの警告が付くようになった。 →(結論) 特になんの結果連絡もないまま、今月10月中旬、センシティブ警告は解除され、通常のツイートのみ表示されるようになった。 →(経緯) 本年04月25日、件のメッセージが読了ツイートに付された。直ちに、「いつも流している読了本のツイートが、どうしてセンシティブな内容になるのか理解し難い。(改行)この写真、この文章のどこに『センシティブな内容』があり、この写真、この文章のどこが『センシティブな内容』として引っ掛かることになり警告が発せられたのか、詳しくお知らせいただきたい。」と異議申し立てを行ったのが最初。 なお、異議申し立てを送信..

  • 第3524日目 〈美人薄命 ──その医師去りしあと。〉

    いまこれを書くため倩往時を振り返っているが、どうしてもその人の姓を思い出すことができないでいる。短時間ながらかつては週1,月1ペースで顔を合わせていた人。多からずとも少なからずの恩を抱いている人。にもかかわらず──である。 思えば兆候はあったのかもしれぬ。7月、普段と違って医服に非ず、喪服の如し。9月、診察で赴けば体調不良とて欠勤で、その週のローテーション表に名前はなく。10月、理由は定かならねど退職されており、担当患者は皆々該科の副部長に診ていただくことに。最後にお見掛けしたのはなぜか、地元の区役所であった。 咨、記憶力が良いとは哀しい出来事を、淋しい気持を、いつまでも忘れられずにいる、ということなのだね。難をいえば、これが仕事に一向活かされぬことか。まぁ、それはさておき。 あの方なかりせば、涙腺の問題の発見、適切なる治療、視野の回復はあり得なかった。むろん、他の医師でも同..

  • 第3523日目 〈赤川次郎に学びたい、タイトルの付け方。〉

    なんという本に収められた、なんという題のエッセイか、覚えていないが、赤川次郎のそれである。 なかなか魅力的で、思わず興味を惹かれるタイトルの本が並ぶ赤川作品だが、実は作者は、自作にタイトルを付けるのが大の苦手、と白状する。小説・エッセイ、問わずにすべての作品のタイトルを自身で考えているのか、流石に知るところではないが、タイトル付けが苦手と知って意外の感に打たれたのは、数10年経つ現在でもよく覚えていることだ。 同じエッセイだったか、別のエッセイだったか、こちらもはっきりしないが、赤川はノートに、思い着いたタイトルを書きつけていた由。なかには〈懐かしの名画〉シリーズに結実する名作映画のタイトルや、クラシックの名曲に想を得たり、それをもじったタイトルもあったろう。「暴力教室」や「ト短調の子守唄」、「監獄のバラ」などが思い浮かぶ。 そうして──白状するまでもなく、わたくしもタイトル..

  • 第3522日目 〈蘇峰『近世日本国民史』の凄さを肌で感じる。〉

    著者蘇峰をして「近世日本伝記」といわしめた空前の大著、『近世日本国民史』をいま読み進めている。並行している本が他意に幾つもあるので進展をなかなか報告できないのが玉に瑕、か。 残念ながら架蔵するのは、朝鮮総連に忖度したか秀吉の朝鮮出兵の巻を欠くなど元版全100巻を半分のみ刊行して終わった講談社学術文庫版であって、読書中のそれは元禄時代は赤穂義士の一巻というのは既に幾度となくお話したことだけれど、実を申せばもう一巻、4冊より成る「開国日本」にも別に目を通している。生まれも育ちも開国の地、故郷の歴史を知りたいと思うたら気になる一巻、市区編纂史誌、郷土史研究会刊行物に次いで手を伸ばすべきと思うがかの「開国日本」なのだ。 「開国日本」は全4冊といささか大部なれど、そろそろ聞こえぬフリを通すも難しくなってきた外国からの声、開国迫る声の大きくなってきた頃、即ちペリー浦賀沖に来航すの以前の朝廷・..

  • 第3521日目 〈読む順番、は大切である ──遠藤周作を例にして。〉

    その邂逅は不幸であったかもしれない。出会いそれ自体ではなく、順番のことだ。 先日わたくしはここで遠藤周作『聖書のなかの女性たち』を読了し、ノートを始めた旨書いた。遠藤の著作を過去に読んだとは、記憶をどれだけほじくり返しても出てこない。近代文学の講義で読まされたかもしれないが、記憶から失せているとあっては読むことも読まされることもなかったのだろう。然るに此度の『イエスの生涯』と『キリストの誕生』、『聖書のなかの女性たち』の3冊が〈はじめての遠藤周作〉になるというて良い。 順番を不幸というたのは他でもない、遠藤周作のあまりの悪文ゆえにである。悪文、とは言い過ぎか。雑、神経なし、なる言葉の方がより的確だ。されど文庫で3行にわたるワンセンテンスの文章に句点なし、それも意図しての文章に非ず、ただ頭に思い浮かんだことを書き流して推敲もせず読みやすさへの配慮なんて浮かびもしなかったであろう文章..

  • 第3520日目 〈雨が降ってきた。〉

    2022年10月26日01時20分頃か、夜寒し、雨が降ってきた。すこぶる強い降りの雨。 ゴミ収集日ではないから良いけれど、朝から買い物なのだよなぁ。やれやれ。 寒いね、まったく本当に。寒いね、もう秋は終わって冬に突入か。人肌恋しくなります。◆

  • 第3519日目 〈読書抜き書きノートと、自分が心から好きだといえる分野、について。〉

    昨日の続きというか、付け足しのような話だ。 引用とコメントから成る抜き書きノートは、今日から遠藤周作『聖書のなかの女性たち』。新約聖書の記述を踏まえて、そこから話題が紡がれてゆくエッセイでもあるため、福音書の当該箇所を読んだ後で『聖書のなかの女性たち』から引用する箇所を書き写すようにしないと、置いてきぼりにあった気分に陥ること、一度や二度のことではない。コメントを付す際も同じだ。話が明後日の方向へ行かぬよう、水際対策を取る必要があるから。 とはいえ、このノートだけで福音書の当該箇所がどう書かれているか、わかるようにしておきたい。為、後日の自分への便宜を図れるよう遠藤引用箇所を書き写す前に、福音書の当該章節も併せて写すことにした。聖書本文を書き写すのはお手のものだ。聖書読書ノートブログだった頃、何万字から成る文章を、ブログ原稿に書き写しておったか……。気分は中世ヨーロッパの写字生で..

  • 第3518日目 〈新しいノートと新しい本を物色する。〉

    未だ感想文を書いていないと、抜き書きノートを作成中に思い出した遠藤周作『キリストの誕生』(新潮文庫 1982/12改版, 2011/02)です。「近日公開」でお茶を濁させてください。 この抜き書きノートについては昨年あたり、本ブログで話題にした記憶がある。いまはようやっと2冊目が終わろうとしているところ。元日に書き始めて、10月もなかばのいま時点で残り12ページとはペースが遅い気もするが、読んだ本すべてについて抜き書きを行っているわけではないし、そんなことをするつもりも(まったく)ないから、こんなものだろう。うん。 引用とコメント、所感を書きつけるノートも上述のように終わりに近附いてきた。最初のノートもそうだったが、もう1冊読んだ本の引用とコメントが残りのページで収まるかな、と不安になってくる。前回は藤沢周平『一茶』でそんな不安が片隅にあった。最後の紙が3分の2ばかし余った..

  • 第3517日目 〈仕切り直しを前にして、ブログ主が本音と願望を吐露する回。〉

    そろそろ読書も執筆も本道に戻ろうかと思う、と書いた。その気持に偽りは粒程もない。本道とはなにか。わたくしの場合は読書感想文と日々の雑記と聖書ネタということになる。行き詰まりを感じて時事ネタや報道の一コマをモティーフに、幅を広げようとして頑張ってどうにか達成できた(と自負)。 時事ネタや報道の一コマを取り扱ったエッセイを書くのは、楽しかった。「えっ!?」と驚かれるかもしれないが、充実感もあったのである。元からそうした方面のウォッチングは続けてきたし(新聞やテレヴィのニュース番組、時事番組には10代の終わりから接してきたイ)、年に数回程度とはいえそんなエッセイも書いて本ブログでお披露目してきている。 まァ、ここ数ヶ月の間、草したエッセイがお披露目され続けたのは、自分に書ける幅を広げることに加えて、これまで興味を持って読み追いしてきた「社会の出来事」を取りあげたエッセイを書けるようにす..

  • 第3516日目 〈『近世日本国民史』と『イエス・キリスト』の話。〉

    今日は断想、フラグメントである。 徳富蘇峰『近世日本国民史』は講談社学術文庫版で、刊行点数の内だいたい半分強は架蔵していると思う。未だ元版が入手できぬため、こちらでどうにか渇きを癒やしている。秀吉の朝鮮出兵の巻だけが未文庫化と聞いた。それ以外は概ね揃っている様子だが、精確なところは、日頃の怠惰が祟って調べがついていない。 講談社学術文庫版で読書や調べ事はじゅうぶん賄えるので(わたくしの場合は)特に不満を抱く点もないのだが、敢えて1つだけ述べれば、それは出典の未記載にある。 文庫であれ元版であれ事情は同じだろうが、蘇峰の本文に同時代の史料、後世の信措くに値する資料が引かれているのは、既に本ブログの過去該当記事で触れた通りで、江湖に知られるところだ。が、蘇峰は時に、というかほぼ7割程度の確率で、引用する史資料の作者や出典を記さずに済ますところがある。これは、不便だ。 第8..

  • 第3515日目 〈約2カ月ぶりに読む蘇峰『近世日本国民史〜赤穂義士篇』。〉

    『近世日本国民史』〜「赤穂義士篇」を読み終わらずにいる。以前と違って毎日、或いはほぼ毎日の半強制的読書時間がなくなったので、こんな風に読む間隔が開いてきているのだ。なお半強制的読書時間、とは、通勤や通院の往復の電車であったり、昼休憩時や退勤後のスタバでのそれを指す。……在宅なんて殊読書時間の捻出に関する限り、まったく以て良いことなんてなに一つないですよ。 そんなボヤキはさておき、蘇峰『近世日本国民史』の話。不思議なことにどれだけ時間が相手の読書再開であっても、蘇峰のこの本はすんなりとその文章に馴染め、かれの開陳する歴史の世界へ入ってゆける。これはなかなか見事な技術ではないか。偏に蘇峰の本に、〈読ませる力〉と〈歴史のうねりを再現する技術〉が備わっている証拠だ。 読ませる力、とは即ち文章力である。誰かがいってた。歴史を語る者が文章の力で読ませられなくてどうするのか、と。うん、確かそん..

  • 第3514日目 〈反省すべきは買いすぎた本のことだけではなくて。〉

    昨日の続きのような話。 あまりに広範囲に渡ってしまい、収拾がつかなくなってきている読書の幅を狭める必要が生じたことを、はっきり悟った。為、昨日のお話をさせていただいた。 それは購書/読書のみならず原稿書きにまで波及している。当たり前だ。 この数ヶ月、新聞など報道をタネにした原稿を時折書いていたのは、自分に書ける話題の幅を広げるため、そのエクササイズ。概ね訃報やその人の業績、社会的出来事、政治にまつわるあれこれが中心になった。 なにを、どう書いて良いのやら、迷いながら、書き倦ねながらの原稿執筆であった。悪戦苦闘の痕跡をどの程度留めているか、それは読者諸兄の判断に委ねることになる。が、執筆した側としては読むに耐えるレヴェルのものをお披露目できた、と自負したい。 が、それもそろそろ一旦小休止、自分が好きなことについてのエトセトラを書くことに戻ろうと思う。しばらくはそちらに専..

  • 第3513日目 〈あれも、これも……は止めよう。〉

    本のこと。あまりに沢山の本を、必要あってとはいえ買いこんだことを後悔している。いちどに消化できようはずもない量が溜まってしまい、床から生えた山を眺めては溜め息を吐いている。 先日、さっさとブログ他用の原稿を書いてしまって、さっさと不要な本は売り払おう、と決めた。その旨ここにも書いた記憶がある。それに関わる話だ。 キャパシティを越える、とはきっと、こんな状態を指すのだろう。政治家の伝記/自伝や国家論の類は青色吐息でどうにか、予定した分は読み切った。最初のうちこそ丁寧に読んでいたが、段々と流し読みになった──内容は、細かいところについては自信がないが大体覚えている。大まかな流れは抑えられた、という方が良いか。 そうしてそこで、へたばった。次に手を着ける予定の本の群れにはいっこう手が伸びず、道草喰ってそちらの読書を愉しんでいる始末。 こんなことでは駄目だ、と、昔の自分ならいうだ..

ブログリーダー」を活用して、みくら さんさんかさんをフォローしませんか?

ハンドル名
みくら さんさんかさん
ブログタイトル
Let's be Friends,
フォロー
Let's be Friends,

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用