信長は秀吉を重宝しておったが、あれはどうにも虫の好かぬ男であった。だいたい、人の容姿をとやかく申す割には、身の程を弁えず市殿に懸想していたのも、気色の悪い話…
長編推理小説です。 犯人を想像しながらゆっくり読んで頂ければ嬉しいです。
人間関係が複雑に絡み合って誰が犯人か分からない・・正直作者もまだ決めていない??? お楽しみ頂ければ幸いです。
顕如は、石山合戦が始まるずっと前から、信長と表裏の抗争を続けていた。それはおよそ20年にも及ぶ。あの男はしつこく、そして恐ろしい。これまでは信長も倒さねばな…
同年、天正7年(1579年)、安土城が完成した。信長は城下に楽市・楽座を設け、税を課さず、城内のどこにでも腰を下ろして商いができる許可を与えた。楽座の設置に…
これで落とせると、光秀殿は思ったようだが、秀治はそう簡単には屈してくれなかった。水上城の波多野宗長・宗貞父子も、本家である八上城を強力に援けた。外援を断った…
信長が対上杉に気を取られていたとき、大和の信貴山城(やまと・しぎさんじょう)にいた松永久秀が、またしても信長に反旗を翻した。なんと懲りない男よ。あっちについ…
村重が謀反を起こす1年前の天正5年(1577年)、越後の上杉謙信は信長と一戦を交えるべく、虎視眈々と機を窺っていた。謙信にとって、「甲斐の虎」と謳われた好敵…
村重の例に限らず、長い戦が続けば、裏切ったり裏切られたりは世の常。実際、信長も相手方からの裏切りによって、この戦いを優位に進めた部分もある。根来衆の大将・杉…
信長は即座に討伐軍を送り、村重の居城である大坂の有岡城を徹底包囲した。説得に向かった黒田官兵衛は捕らえられ、土牢に閉じ込められてしまった(後に秀吉が救出)。…
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信長は秀吉を重宝しておったが、あれはどうにも虫の好かぬ男であった。だいたい、人の容姿をとやかく申す割には、身の程を弁えず市殿に懸想していたのも、気色の悪い話…
一方、石山合戦が繰り広げられていた天正5年(1577年)10月、秀吉は播磨を平定しつつあった。この頃、播磨の有力武将であった黒田官兵衛が秀吉のもとを訪れたそ…
顕如は、石山合戦が始まるずっと前から、信長と表裏の抗争を続けていた。それはおよそ20年にも及ぶ。あの男はしつこく、そして恐ろしい。これまでは信長も倒さねばな…
同年、天正7年(1579年)、安土城が完成した。信長は城下に楽市・楽座を設け、税を課さず、城内のどこにでも腰を下ろして商いができる許可を与えた。楽座の設置に…
これで落とせると、光秀殿は思ったようだが、秀治はそう簡単には屈してくれなかった。水上城の波多野宗長・宗貞父子も、本家である八上城を強力に援けた。外援を断った…
信長が対上杉に気を取られていたとき、大和の信貴山城(やまと・しぎさんじょう)にいた松永久秀が、またしても信長に反旗を翻した。なんと懲りない男よ。あっちについ…
村重が謀反を起こす1年前の天正5年(1577年)、越後の上杉謙信は信長と一戦を交えるべく、虎視眈々と機を窺っていた。謙信にとって、「甲斐の虎」と謳われた好敵…
村重の例に限らず、長い戦が続けば、裏切ったり裏切られたりは世の常。実際、信長も相手方からの裏切りによって、この戦いを優位に進めた部分もある。根来衆の大将・杉…
信長は即座に討伐軍を送り、村重の居城である大坂の有岡城を徹底包囲した。説得に向かった黒田官兵衛は捕らえられ、土牢に閉じ込められてしまった(後に秀吉が救出)。…
さらに翌5年(1577年)2月には、紀伊の畠山貞政が雑賀門徒(さいかもんと)と根来(ねごろ)の衆徒と一緒に本願寺に呼応して挙兵した。雑賀門徒とは、紀伊に拠点…
信長は私の言葉に得心がいったのか、ふむふむと頷いておった。こういう時の信長はとても穏やかだ。そして私は、こうして信長と政策を練ることが何より好きだった。きっと…
同年11月28日、信長は安土築城を決定し、長男・信忠を後継者として公表した。家督を譲って岐阜城を出ると、新しい城が完成するまでの間、佐久間信盛の屋敷に移り住…
やって来た光秀と信長は天守閣の最上層で顔を合わせた。「日向、どうだ、この眺めは」「結構にございます。されど殿はもっと高い所をお探しで?」「おう!よう分かった…
十五.目の上のたん瘤(石山本願寺) 天正3年(1575年)10月13日、信長は北国の一向一揆を討ち、岐阜に戻った。そして改めて京都へ上った。この時の信…
そのような言葉を交わしていた時に武田軍が陣太鼓を打ち、攻撃してくる音が響いてきた。信長の考えが的中したという事である。秀吉は信長の先を見越す才知に改めて恐れ入…
「勝頼がわしの倅だったらいずれは家督を譲って隠居してもいいと思うほどにな」「それはそれは」「しかし残念な事にあやつはわしの敵だ。敵は打たねばなるまい」「さよう…
しかし、ここでまた信長の狂気が発動した。城を明け渡した長島本城の軍勢が退去し始めると、信長は約束をいとも簡単に反故にし、彼らを攻撃した。弓矢、槍、銃による一…
皆様、こんにちは。いつも私のブログにご訪問いただき、つたない小説をご拝読頂きましてありがとうございます。こちらで小説を書き始めて、はや15年近く経ちました。当…
髑髏となってしまえば、もはや誰もが同じに見える。だが、信長には長政だけは生前の顔に見えているのかもしれぬ。私は、この席に市殿がいないことに心から安堵した。愛…
十四.長篠の合戦 浅井との戦いの後、藤吉郎は長政が領していた湖北三郡を与えられた。この時、藤吉郎は木下藤吉郎から羽柴秀吉と名を改めた。そして、この地…
「その出で立ちは、いかなる所存で?」「これか?これが一番動きやすい。着る物などただの上辺だ、それで人の中身が分かるわけでもあるまい。と言うよりそんな見掛けに左…
(はあ?)「ふざけたことをぬかすな!」こんな小童(こわっぱ)が殿であるはずがない。大方盗みに入った小悪党か何かであろう。よりにもよって殿の名を語るとは不届き千…
こんな美しい妹御のいる殿の元に嫁いだのかと思うと、我が身が縮こまる思いがした。このような女性を見ていたのでは城中の者たちが私を見て内心笑うのも分かる気がする…
まげは上天茶筅(しょうてんちゃせん・上を向いた引っつめの髪に括りあげたもの)に結い、胸ははだけたまま、袴の代わりに腰には縄帯をして火打袋を下げ4尺ばかりの太刀…
その後、私は光秀様に会う機会もないまま、挙式前日の天文18年2月23日(1549年3月22日)、数百荷の嫁入り道具を連ねて鷺山城の表門を出た。媒酌人である母…
そんな私の秘めたる思いを父はきっと気付いている。二人目の夫が父に毒殺されたとしたら、それは卑怯なやり口、武士道はどこに、などと言う輩もいるかもしれない。しか…
とまあ、ここまでが私が生まれるまでの父と祖父の国盗りの話である。この後、頼芸もとどのつまり美濃から追い払われることになるのではあるが、それはまたおいおい話の流…
深芳野様を貰い受けて十月(とつき)が経つ前、大栄2年(1527年)7月8日に深芳野様は男の子を生んだ。これが後の斎藤義龍である。時を満たさず生まれてきたから…
父は祖父が生きている間から、頼芸の側室であった深芳野(みよしの)様に懸想をしていた。当時、深芳野様は美濃一の美女と謳われていた人である。頼芸の側室として初め…
父が美濃に行った前年辺りから守護代土岐家にはまたしても後継者争いが起きていた。土岐正房の嫡男政頼と次男頼芸の対立である。この時、守護代斎藤利良(さいとうよし…
祖父は私の父である息子に自分の後を継がせるつもり、というか自分が成し遂げられなかったら、そのあと、息子が我が意思を継いでくれればと願っていたのだ。その為には…
(やがては一国一城の主(あるじ)に!)それが祖父の思いだ。そうして祖父は毎年春になると美濃路へ下った。槍で一文銭を貫く芸は、油売りの行商に役立った。白い頭巾を…
祖父は二十歳の時に還俗して元の姓の松浪庄五郎と名乗って、奈良屋の婿養子となった。祖父は女房殿に自分の思いを話した。「わしはもっともっと高みを目指している。た…
父は若い頃、油売りをしていたという通説が後世に伝えられているがこれは間違っている。油売りをしていたのは父ではなく祖父の松浪庄五郎である。祖父は元々武士の家の…
「信秀めが平手政秀を使いに寄越してせがれの嫁にと申し出てきよった。和睦ではなくいきなり縁者になろうって言うんだ。これを断ってはわしも心の狭い大将と思われかねな…
一.蝮(まむし) 「お前の輿入れ先が決まった」「は?」 天文18年(1549年)、正月が明けた早々、父は私にそう言った。当年とって15歳の私はすでに2度も父…
蝶の舞 前置き 世の移り変わりとは何とも早く、何ともあっという間なのだろう。2024年となった今の世は私が生きていた頃とは考えられぬ世と様変わりし…
皆様、明けましておめでとうございます。更新の回数がすっかり減ったにも関わらずいつもご拝読いただきましてありがとうございます。 今年はもうすこし数多く更新できる…
血相を変えて家にやってきた女を見て、涼香は夫に他にも女がいたのかと思った。瑠璃の事を夫の別の浮気相手が家に乗り込んで来たと思ったのか、顔を見るなり瑠璃を罵った…