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中国語気まぐれブログ https://blog.goo.ne.jp/inghosono/

中国語を通じ、中国の文化、歴史、生活などをお伝えしたいと思います。内容は筆者の気まぐれ、興味を持った内容を取り上げていきます。

日頃中国語に接する中で、気になったこと、表現力アップに役立ちそうな内容を紹介していきます。

いながさとし
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2010/06/24

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  • 北京史(十三) 第五章 元代の大都(1)

    元大都城復元図第一節大都の建設大都の建設燕京等の場所で尚書省の統治が行われる中都の陥落後、ジンギスカンは直ちに腹心の汪古児(オングル)らを派遣し、勝手に収奪を行い、大量の金銀や金銭を荷造りして積み込み、持ち去った。戦火の下で幸運にも生存した中都の居住民は、孤立した城の中に久しく閉じ込められた後、食糧が無くなり、城中では人が人を食うような惨状まで出現した。蒙古に投降した漢人の将軍、王檝(おうしゅう)の要求により、蒙古の統治者は軍士(下士官)に兵糧を与え、城に入って転売するのを許可し、これにより飢餓の脅威を解決した。当時、城中に蓄積した貨物は、交易するところが無く、遂には銀を飼葉桶、金を酒かめに換え、大なるは千両にもなった。王檝の提案を実行したので、「士は金銭、織物を得て、民は食糧を獲た。」王檝はまた官吏を盧...北京史(十三)第五章元代の大都(1)

  • 北京史(十二) 第四章 遼宋金時代の北京(4)

    瓊華島第二節金代の中都社会経済(続き)農村の経済概況都の郊外の土地は、政府、貴族、官僚と大地主の手で掌握されていた。漢人の名門の大地主の中で、韓、劉、馬、趙の四つの姓が、遼以来幽燕地区の大金持ちであった。官田と放牧地は国家が直接管理する土地であり、中都路の放牧地は全部で6万35百顷(1顷は6.667ヘクタール)余りに達した。貴族が賜ったり略奪したりすることで大量の土地を占有し、都城内の170家の宗室の占有地が3,683顷に達した。一般に猛安(女真語で「千戸」の意味)、謀克(同「百戸」)の民戸が内地に移り住んで後、政府が各戸に土地を賜い、そこを耕作させ、平時の口糧とさせた。貞元の遷都(1153年。金の海陵王、完顔亮の中都への遷都)に伴い、上都で元々太祖阿骨打、遼王宗干、秦王宗翰に属していた猛安(三者は合併し...北京史(十二)第四章遼宋金時代の北京(4)

  • 北京史(十一) 第四章 遼宋金時代の北京(3)

    金の海陵王、完顔亮の北京(中都大興府)遷都第二節金代の中都金初の南京金初の対南京統治1127年(金太宗天会五年)、金軍は北宋の滅亡後、徽宗、欽宗の二帝、后妃(皇后と妃)、皇子、公主、及び宗室の貴戚(皇帝の親族)三千人余りを捕虜とし、並びに汴京(開封)の宣和殿、太清楼、龍図閣の図書書籍、珍宝、文物を全て北に持ち去った。その中には、有名な天文儀、岐陽(岐山の南)石鼓、九経(儒家経典)石刻、宋仁宗の篆書の針灸経石刻、定武(今の河北省定県)蘭亭石刻(『蘭亭序』の真跡)など珍しい文物が含まれていた。これらの文物は少数が途中で散逸した以外は、後に燕京に保管された。この他、金人はまた多くの工匠(職人)、俳優や芸人を捕虜にし、彼らは大多数が燕京に置かれ、「各人で生計を立て、有力な者は店を出し、無力な者は売り物を脇に挟んで...北京史(十一)第四章遼宋金時代の北京(3)

  • 北京史(十) 第四章 遼宋金時代の北京(2)

    薊県独楽寺観音閣第一節遼代の南京と北宋の燕山府遼代の南京(続き)寺院の建築遼の南京の建築物は、有名で考証できるものとして、南城に于越王廨(かい)、また永平館、旧称碣石館(けっせきかん)があり、何れも官僚や使者が宴会や集会をした場所であった。西城の上には、涼殿(りょうでん)が建てられていた。仏教が盛んであったので、城の内外には廟宇が方々に望めた。金初の洪皓は、城内で規模の比較的大きな廟宇が三十六ヶ所あった、と言った。憫忠寺(びんちゅうじ。今の法源寺)の高閣は、天に届き空に入るほど高く、俗に「憫忠の高閣、天を去ること一握(の距離)」と称した。開泰寺は魏王耶律韓寧が建立し、銀で鋳造した仏像で著名であった。「殿宇楼観は雄壮、全燕に冠する。」この他、更に延寿寺、延洪寺、三学寺、仙露寺、昊天寺などがあった。当時、遼の...北京史(十)第四章遼宋金時代の北京(2)

  • 北京史(九) 第四章 遼宋金時代の北京(1)

    燕雲十六州の契丹(遼)への割譲第一節遼代の南京と北宋の燕山府遼代の南京燕雲十六州の割譲西暦936年、後晋の石敬瑭が身売りし契丹を頼り、契丹の支持を頼みに、後唐に代わり帝を称した。媚びを売り謝礼をし、彼は恥知らずにも契丹の主を父皇帝と称し、歳幣を貢納し、今日の河北、山西両省北部の燕、雲等十六州の地を契丹に割譲した。(平州等の地は先に手放していた。)これより、契丹は、華北大平原に勢力を伸ばした。中原地区は直接、契丹の軍事の脅威の下にあることが露見した。幽州の背後は燕山を枕に、西は太行山脈に依り、東は渤海に臨み、地勢的にたいへん重要な場所であり、歴史的に中原王朝の東北方面の要衝であった。ここは北側を古長城と楡関(山海関)、松亭関、古北口、居庸関、紫禁関など五関の天険に依り、沃野千里の華北大平原を力強く守り、北方...北京史(九)第四章遼宋金時代の北京(1)

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