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簾満月のバスの助手席 https://sudareshuji.hatenablog.com/

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 守口一里塚(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    長かった淀川の堤防道を離れ、大庭の町に入ってきた。水道局浄水場の間を抜け、「八雲北公園」の前を右折、突き当りの「正迎寺」の前で道なりに左折する。 余り広くもない町中の道を行き、200m程先で阪神高速道路守口線の高架下をくぐり、「八雲小」「八雲公園」前の細道を抜けて行く。 やがて国道155号交差点に出て、右折し暫く国道を歩き「守口東高校」を左に見て先の信号を右手に入る。これが旧道らしく、その先でS字形に行く道は、「北斗町」信号で国道を横断し、渡って細い道へと入り200m余りで国道1号線の「浜町」交差点に出る。 交差点の手前右側にポケットパークがあり、植栽の中に守口一里塚の案内板と石碑が建っていた…

  • 鳥飼大橋と舟渡し(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    淀川堤防上の長い長い一本道も、目の前の鳥飼大橋を潜ればようやく終わりが見えてくる。大阪府守口市大日町と摂津市鳥飼西の間に架かる橋で淀川の橋としては比較的早い昭和22(1947)年に木橋が完成した。 その後掛け替えが行なわれ、永代橋として生まれ変わるのは、昭和29(1954)年11月の事で、当初は有料橋であった。 嘗てこの辺りでの淀川横断は、「鳥養(鳥飼)の渡し」と呼ばれる渡し舟であった。対岸の摂津市鳥飼、藤森神社の近くには、「漫鳥飼の渡し跡」があるらしいが、こちら岸ではこの渡しを「仁和寺(にわじ)の渡し」と呼んでいたらしい。 慶長年間、大坂冬の陣を前に家臣とともに大阪城を退き茨木城に入った片桐…

  • 堤防の道は長かった (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    茨田(まんだ)堤の碑を見て、そのまま堤防道を南西方向に進むと、遠くに見えていた枚方新橋が、漸くのこと近づいてきた。出口集落を抜けて堤防道に上がってからここまで2㎞程を歩いている。 橋は府道19号茨木寝屋川線の寝屋川市太間町と高槻市柱本の間に架かっている。これまで枚方大橋と鳥飼大橋の間には橋が無かったことから、昭和48(1973)年9月に架けられた橋らしくその下を潜り更に先に進む。 ガイドマップによると橋から少し行って石段を下りた堤防下に、「茨田樋之跡」の石碑があるらしい。淀川から農業用水、生活用水を引き込んだ水門のようなもので、明治38(1906)年に完成した。 枚方から毛馬まで八ヶ所有るらし…

  • 茨田(まんだ) 堤の碑 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    光善寺を後に、趣のある古民家等が散見される細い旧道を抜けていく。集落の中で南から西向きに進路を変え、幹線用水路を越えると、堤防下に軒を揃える出口6丁目を通りそのまま淀川の堤防道へと上がっていく。 その道は車輌乗り入れは禁止で、自転車・歩行者専用道らしく、散歩やサイクリングを楽しむ人々が頻りに行交っている。 堤防の下は広大な河川敷に拡がる「淀川河川公園」で、先には淀川が悠然と流れ下っている筈だが、ここからは望むことは出来ない。公園は出入り自由かと思ったが、使用時間が決められているらしく、所々にゲートが設けられている。 土手の上を暫く行くと、左側に茨田(まんだ) 堤碑が建っていた。説明板によると、…

  • 出口御坊・光善寺 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「伊加賀小学校」と工場に囲まれた道を抜けると、ふれあい公園を左に見る道は随分と狭くなった。そんな道を200m程行くと右手奥の「光善寺」に続く参道があった。出口御坊 淵埋山(えんまいざん)・光善寺は、浄土真宗本願寺八世・蓮如上人により開基とされる由緒あるお寺だ。 出口地区は蓮如上人が建立した御坊を中心にして発達した寺内町で、上人はここを拠点に近畿一円に教化活動を展開し、三年後には山城に創建した山城本願寺に移った。ところが上人が死ぬと、その後寺は戦国乱世に巻き込まれ一時衰退する。慶長年間(1596~)にようやく再興されることになり、今日残るのは江戸時代の伽藍という。 山門は切妻造・本瓦葺の四脚門で…

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